水で洗えど変わりはしない
人には性質がある。
博士、犯罪者、医師、官僚、などといったいわゆる社会の「属性」ではなく、性質だ。
この赤茶けた電車のシートに座っているちんちくりんの男とてそれは例外ではない。当然ながら。
さて話を進めるにあたってこの男にも「性質」を与えてやらなければならない。さて、どうしたものか。
どうしても人は第一印象で他人を定義してしまう。どうもこの男の印象は、どよりとした、形容しがたい「もよもよ」がある。
「ぬめり男」、でどうだろうか。駄目かね?
実はこの男、まだ共学の高校の学生。つまり、高校生である。鈍重な動きからは想像できない。物語はぬめり男が電車に乗っているところから始まる。
目の前にはいつものおっさん。横にはブラウスが似合わない女性。窓には電柱、電柱である。
大抵の小説はここらで同級生の女子などに話かけられ、会話が進んでゆくのだろうがこの男は違う。正真正銘、この男は童貞であった。性交渉のないこととかその様な下劣な意味ではない。女子との親密な接点のない、きらびやかな、いや、てらてら光る童貞であった。
そうこうしている内に電車はまるで何もない駅に着く。ぬめり男はバックを肩からずり上げずり上げ、学校へ、のそのそと進んで行く。
ぬめり男はいじめに遭ったわけでもなかったし、遭っているわけでもない。学校には不満もないし、話し相手もいる。成績も並だ。ましてや不良行為をすることが脳裏をよぎることもない。
ただ、ぬめり男は触れ合いを求めていた。無論、女子とである。贅沢な男である。全く。
「おい」
この贅沢な男に何やら話かけている男は、里見という、これまた連れ合いがいない小坊主である。
「おい、また黒板とにらめっこかよ。飽きねぇなぁ。それ。お前。」
もっぱらぬめり男は誰も話しかけてこない時は黒板を出来るだけ背筋よく見るようにしていた。傍から見ると痛い男だが、ぬめり男はこれは自分を良く見せる最適の方法だと信じて疑わなかった。
「なんだよ。里見。彼女でもできたの?」ぬめり男が言う。
「まだに決まってんだろ!」
「やっぱりお前のお眼鏡にかなう女子はもうこの学校にいないのかもな。」
「…きつい皮肉だなオイ…」
里見は理想の高い男だった。しかし、決してチャラチャラした俗な男ではない。童貞根性のすわっている、剛の者だ。だから彼女が出来ないのであるが。
「あーあ、俺らって将来どうなるんだろうな。なぁ、里見?」
「また出たよ。それ。俺達は案外幸せもんかもしれねぇぜ?異性のしがらみが無い青春。素晴らしいじゃん。」
「強がってんじゃねぇよ。」
「太宰治だって、チャーチルだって、女関係で死んでるんだぜ?幸せもんだよ。実際。」
「太宰も、チャーチルも、女がらみで死んでるんじゃないよ!」
この会話に横ヤリを入れてきたのは河本。クラスで唯一、彼らに話しかけたりしてくれる女子だ。
「おう、訂正ありがとさん。」
「訂正っていうか、デタラメ言い過ぎ。もうちょっと自分の言葉に責任持たないとモテないよ!」
「…お…ん…」
話しかけられても応えることが出来ない。それが彼らだ。しかも彼女は特別彼らのことを気に掛けているわけでもない。クラス全員に愛想がいい。
彼女が少し勝ち誇ったようにスタスタと彼らの前を通り過ぎた後、里見は言った。
「なぁ、品定めのくだりの話、河本に聞かれてないよな?」
「知らねぇよ。」
「あいつ、彼氏いるのかな…」
ぬめり男は少し呆れた。
実のところ、ぬめり男はもよもよしていた。
「もやもや」などどいう明文化されたような概念ではなく、「もよもよ」が正しい。ぬめり男はスッキリしたかったのだ。異性と触れ合うことで自分の今の状況を清算したかったのだ。奇特な奴もいたもんである。
河本の事が気にならない訳ではないが、里見のように年中想い人がコロコロ変わるのはどうかと思っていた。だから、ぬめり男は自分が、「この人が、好きだ。」と思える相手にしか想いを寄せないようにしていた。一丁前に。
実際、河本は目がクリクリしていて、ポニーテールが可愛いこともある、だが、たかが目と髪如きで河本を「好き」になるにはまだ早い、とぬめり男は考えていた。
しかしそこは所詮ぬめり男、誰かを好きになる勇気もなく、プラプラと日がな一日を過ごしていた。
ある日、文化祭の委員決めという、彼らにとってはさして重要ではない時間があった。
どうせクラスの「イケテル」グループが騒ぎ立てている間に終わるだろうと高をくくっていた彼らは甘かった。意外なことに女子も男子も、男子も女子も、立候補者が一人もいない。
クラスにしばしの喧騒が訪れた後、停滞したムードがクラスに漂い始めたとき、河本がポニーテールをくりくり弄くりながら、言った。
「誰もやらないなら、あたし、やるよ?」
まさに救世主である。大抵このような英雄はクラスにおいて一時の賞賛を浴びるものだ。御多分に漏れず、彼女も皆から賞賛を浴びた。
だが、肝心なことがもう一つだけある。「男子、どうすんの?」
クラスのルーム長が言った。また、喧騒。
「あたし、ペアはあいつでいいよ。てか、あいつがいい。」
河本はとんでもないものを指していた。他でも無い、ぬめり男その人である。
ぬめり男は混乱した。クラスは沸き返った。様々なヤジが飛び交う。
「別に理由なんてどうでもいいじゃん。席が近かっただけだよ。しかも今日早く帰りたいし。」
河本はケロリと応えた。ぬめり男はその胆力に驚嘆した。羨ましい、と思った。
数日が経ち、本格的に文化祭の準備が始まった。
河本からはあれからぬめり男に何のアプローチも無いままだった。
ぬめり男は「もよもよ」を消す淡い期待を捨てかけていた。
ところがその日の放課後である。
「ねぇ、今、いい?」
ローファーをパカパカさせながら河本は下駄箱に寄りかかっていた。
「お…うん…だけど里見待たせてるから…あんまり時間は…」
「ちょっとでいいよ。ちょっち。」
ぬめり男はのっそりと動き、河本に言われるがまま、もったりと教室へ向かった。しかし、心中は決して穏やかでは無かった。ご察しの通り。
教室に着くなり、河本は言った。
「今年の文化祭は絶対に成功させるから!あんたにもこのあたしの意気込み、伝えたかった。」
「ん…そう…わかった。がんばるから。俺。」
「ん!その意気や良し!ガンバってくれたまえ!」
河本はおどけて胸を張って言った。ぬめり男には、なんだかその仕草に、今まで感じたことのない可愛らしさを覚えた。
それから、文化祭の準備が終わった後は二人きりで下校路を共にすることが増えた。ぬめり男は河本の帰る方向や乗る電車が自分と一緒だという事を、この時始めて知った。
ぬめり男は口下手な口と余り普段使わない脳をフル稼働させて河本と喋った。
ぬめり男は河本について沢山知った。家に母方の祖母がいる事、兄弟がいる事、中学の頃はあまり人と喋らない性格だった事、プレステ2は持っていないがアタリジャガーは持っている事などなど。ぬめり男にしては有意義な時間だった。そんな有意義な時間の流れの中で、里見はある日唐突にこんな話をした。
「おい、最近、噂になってるぜ。」
「何が。」
「お前さんと河本だよ。隠しきれてねぇかんな。実際。」
「隠すもなにも、なんもねぇって。」
「信憑性ゼロ!あのな、一応忠告しとくけど、河本って結構あれで人気あるんだぜ?お前、気を付けないと、太宰治とかチャーチルみたいになるよ?」
関係ない、とぬめり男は思った。まだ、始まってすらいないんだ。女子と喋って、何が悪い?
文化祭前日、二人でクラスに残り、飾り付けをしていた時のことだ。
「なんか、ホントごめんね。」
「うえ?」
「あたしが勝手に指名してさ、指名…してさ…迷惑だった?」
「おおん!?全然大丈夫!」
彼女はまるで鈴のようにカラカラ笑った。
「そんなうろたえなくてもいいってば!ああ、心配して損した!」
「いやあ、クフッ。」
ぬめり男はやはり愛想笑いしか出来ない。
「ねぇ、あたし、周りくどいの嫌いだから、三言で済ますよ?」
「ふぇ?」
「おねがい、あたしと、付き合って。」
呆然。唖然。この様な言葉を挙げれば枚挙に暇がない。駄目だ。太宰でもチャーチルでもプチャーチンでも、助けに来てくれ。
「で、どうなの?」
「あ、えっと、お…お受けします。」
ぬめり男はもう自分でも何を言っているか分からなかった。
「ハハハ、あんた、嫁入りするんじゃないんだから…」
この告白の後の彼女は、ぬめり男にとっては後光が差しているようにさえ感じられた。ぬめり男はやっと「もよもよ」を無くすスタートラインまで立てたのだ。と、彼自身は感じていた。
それから時は流れ、里見の話になる。里見は例の何もない駅のホームに彼女が佇んでいるのを見た。
里見はどうしても気になることがあったのだろう、普段の彼なら絶対にあり得ない事をした。彼女に話しかけたのだ。
「ちょっといいかな?」
「何?」
里見は勇気を腹の底から振り絞って、聞いた。
「…最近、あいつと別れたよね?」
「うん。それが?」
「…なんで?」
「疲れた。」
「え?」
「まわりが、うるさく言うんだよ。釣り合ってないだの、訳が分からないだの。あいつを弁護するの、疲れた。」
「弁護って…」
里見は少々頭に来た。
「そもそも何であいつと付き合たんだよ…ですか?」
「慈善よ。」
全くの予想外の答えに里見の思考は止まった。と同時に冷静にもなった。
「慈善で人とは付き合えないっしょ…」
里見は一人言のように呟いた。
「いや、最初は慈善だったよ。だけど段々、あたし、弱い立場の人の事が好きになってきたんだ。こういうのなんて言うの?性癖かな?どんな性癖かね?」
彼女も誰に喋るでもなく、中空に言葉を投げかけた。彼女はその後、確かに里見に向けて言葉を継いだ。
「あたし、いじめられてたんだ。中学んとき。」
彼女はバックを弄ったり、ポニーテールを弄ったり、落ち着きなく言った。その都合の良くない思い出を振り払うように。
「その時、なんかいじめっ子たちに殺意みたいのを覚えたのはあるんだけど、それと同時に弱い物への憐れみ?ってもんが出来たんだ。」
彼女は首を振った。
「何言ってんだろうね。痛い子だね。あたし。これじゃあいつが弱いみたいじゃん。あいつに失礼だ。」
彼女は陽に映える自分のエナメルバッグを肩までずり上げずり上げしながら、言った。
「そう…だね。あいつは強いから。大丈夫。」
なにが大丈夫なんだ?と思いながら里見は言った。
「弱い物を愛でるって、いけないことかな?人間って、窮地に立たされると、弱いものを虐げ始める人もいると思うけど、あたしみたいに弱いものにすごく親しみ?が生まれる人も少なくないと思うんだよね…ヤダ!これ超痛い!これはオフレコでお願いね!」
彼女はあの日のようにおどけて言った。もっとも、里見はあの日の事を知らない訳だが。
「そうだね…ありがと!」
里見は帰りの電車の中で、窓の外に流れる電柱を見ながら、密かに友のことを気にかけていた。
一方その頃、ぬめり男は彼女の事を考えていた。しかし、彼はそれほど傷を負っていなかった。1が0になっただけだからである。おそらく。彼はもよもよから逃れたい一心で、彼のベッドに横たわっていた。彼女の事を考えた時、ベッドの下の秘密の本の事を思い出したが、彼の自制心はそれを許さなかった。
やはり、人には振り払えぬイメージやオーラの様なものが在るのだろう。時としてそれは呪縛のように彼らを縛る。
ぬめり男は、ベッドの下を少し見てしまった事を恥じながら、水で顔を洗った。