第三十章 災禍#3
僕は学校の帰り道を”一人で”歩いていた。町は一層冷え込んでいた。空を黒く分厚い雲が覆いつくし、その雲から冷たい冷たい雪が風に連れ立って降りてきた。その雪には言いようのない寂しさのようなものが纏わりついていた。僕がその雪に抱いたその感覚に応えるように、その雪は町の至るところにまとわりついて町の纏っていた活気のようなものを洗い流していった。その光景をおぞましいものだと感じてしまった僕は、まるでここから逃げるようにこの帰り道を歩くこの足を急かして家へと急いだのだった。
学校の帰り道の途中には大通りがあった。この大通りはこの町の中で一番交通量の多い道路だった。僕の家はこの道路の向こう側にあった。そう、僕は家に帰るために、この道に架けられた歩道橋を渡らなければならなかった。僕はこの歩道橋の階段を登った。階段にはうっすらと氷が張っていた。僕は足元を見ながら、その氷に足元を掬われてしまわないように注意して一段一段登っていった。僕はこの階段を登り終え、前へと向き直り、この道路の上をいつものように横断しようとした。しかし、僕の頭とは裏腹にこの足が動くことはなかった。そこには彼女がいた。
彼女は話し始めた。「遅かったね。」僕は目の前の光景を呑み込むことができない。「私はあなたを待っていたんだよ。港。」彼女は歩道橋から見えるこの街並みを眺めていた。「覚えてる?私がこの景色が好きだって話した時のことを...」忘れるわけがない。あの時の彼女の儚げな横顔は僕の心に焼き付いていた。「あの時私は、本当は見つけていたんだ...私が探していたものを。」雪の勢いが増していく。それがこの歩道橋の上を覆いつくした。その雪がこの町を覆い隠し、この時の僕の瞳には目の前の彼女しか映らなかった。「だけど、違ったんだ。私が探していたそれは、ついに見つけた、見つけてしまったそれは、私にとって見るに堪えない気持ちの悪いものだったんだ。だけど、私は信じられなかった、いや信じたくなかったんだ。だから、あなたの不器用な慰めに縋ってしまったんだ。そんなものはただの裏切りにすぎないなんてことは私が一番よく知っていたはずなのに...」彼女の声は震えていた。まるでその声は何かを懺悔するかの様だった。どうして?どうしてあなたが謝るの?謝りたいのは僕の方なのに...
「覚えてる?私たちが水族館に行った時のことを...」僕はわからなかった。水族館?彼女とは水族館なんて言った覚えはない。「私は水族館の中で気づいてしまったんだ。このままじゃいけないんだって。私はこのまま逃げ続けることなんて出来ないんだってことに。」どこかでガラスのようなものが割れた音がした。「あなたは私の生きる希望だったわ。だけど、あなたにうつる私自身の醜悪な姿を見た時、私の心をいつもその罪塗れの垢黒いダガーナイフが貫いたのッ!あなたは生きていた、あなたは今を生きていたわ。だけど、私は今本当に私を生きているの?そう、私はもう死んでいるのよ。ずっとそこから、その私の屍から目を逸らしていたにすぎなかったのッ!ついに見つけた私の本来の姿、自業自得のその末路、私は見るに堪えない、罪の象徴によってめった刺しに突き付けられ晒されたこの顔面を、今までずっと滲みのようにあなたへと刻み付けていたんだッ、そしてその滲みをこれからもずっとあなたに刻み付けていけばこの私はいつかあなたにとっての絶望の象徴へと姿を変えてしまうんだ。」僕の記憶の中で彼女はずっと笑っていた。その笑顔に僕は救われていた。逆に僕は不思議だった。どうして、彼女は僕をずっと見ているのか、どうして僕にこんな笑顔を見せているのか、わからなかった。だけど、僕はそのことを言い出せなかった。そんなことを聞いてしまったら、そんな野暮なことを聞いてしまったら、この関係が崩れ去ってしまう、そんな予感がしてしまったから。だけど、今目の前にいる彼女を見ているとそんな予感はただの嘘、僕にとって都合のいい妄想なんだってことに気づいてしまう。そうか、僕は逃げていたんだ。彼女へと踏み込むことが怖くて僕は逃げ続けていたんだ。彼女は怖いくらいこの僕に歩み寄っていたというのに。僕はその歩み寄りに一歩踏み出すことができないかったんだ。それが彼女を、そして巡り巡って自分自身の首を絞めることになるなんてことは明らかなことだったのに...(彼女は僕に救いを、僕は彼女に理想をあてはめていたんだ。そのすれ違いがこの末路だったんだ。)
彼女は歩道橋の柵の上に立つ。雪があたりを覆いつくし彼女の姿を覆い隠した。彼女は歩道橋の下を呆然と眺めていた。その姿を見て私は嫌な既視感を抱いていた。そう、まさに僕が彼女と初めて出会ったあの時と同じ。「そう、これがすべてのリセット。今を生きることのできない私はもうすべてを間違えてしまったの。そう、これは私にとっての最初で最期の希望なんだ...私でも可笑しいと思うよ。初めに抱いた絶望が最期に抱いた希望と同じだなんてね。今まで、意味のない幸せに付き合ってくれてありがとう。叶うなら、私は今を生きてみたかったよ。なんてね、死人には口が無いんだった。」僕の既視感が見たのはかつての彼女、その姿が見せた光景はこの僕を絶望へと突き落とした。「ねえ。あなたは今を生きてよ。生き続けてよ、逃げ続けてよ、諦めないで、私みたいにならないでッ!あなたは、私じゃない。そう、あなたは今を生きることができるのだからッ!」彼女は涙を浮かべていたが、その顔には微笑みがあった。
彼女が歩道橋から飛び降りる。僕をその言葉でめった刺しにして。「どうしてそんなことを言うの?」彼女は歩道橋の下を垢黒い液体で染め上げていった。「ねえ、なんか言ってよ。どうしてそうやって黙っているの?」あたりに響く叫び、あたりが賑やかになっていった。彼女は僕の問いかけを無視し、その場で横たわったままだ。「どうして、そうやって黙っていられるのッ!」ついに見つけた僕はその問いかけに無言を返した。「どうして、どうしてそんなことができるんだッ!」僕は叫んでいた。その瞬間、僕の頭の中でガラスの割れたような音がした。その破裂音は僕の頭の中にあった彼女の微笑みをぐちゃぐちゃにしていった。その滲んで遺されたその笑みを見て僕は確信してしまった。そうか、僕が彼女を殺したんだ。彼女の心を僕がめった刺しにして彼女が叫んでいた苦しみは、僕が首を絞めていたから声にならなかったんだ。そして僕は彼女を今この歩道橋の上から叩きつけて...この瞬間、僕を殴りつけたのはこの救いようのない現実という今の姿だった。「うわぁぁぁぁぁぁぁ」彼女との今までの記憶が走馬灯のように駆け巡り、それが僕の首を絞めていく。この不可視の苦しみに耐えられない僕はこの己自身の腕でこの首を絞め始めた。まるでこの苦しみを拒絶するかのように、誤魔化すかのように。そして、その苦しみが、本当の苦しみが記憶を侵食していった。そして、僕の持っていた記憶がこの苦しみに上書きされていった。
私は眠い瞼をこすりながら学校への道を行く。私は寝坊してしまっていた。「せっかく今日のテストのために三週間前から本気出したっていうのに。」私はそんな独り言を喋っていた。私が学校に着くと先生が校門を閉めようとしていた。僕は言い訳をするがどういうわけかうまくいかない。どうして?前はあんなにも簡単に先生を言いくるめていたというのに。テストは全然ダメだった。これも全部寝坊したのが悪いんだ。私はそんな自業自得な悪態をつきながら家へと帰り始める。私は家へと帰る途中で歩道橋へと差し掛かる。私はここから見える景色が好きだった。私はこの歩道橋に対して言葉では言い表すことのできない底知れなさを感じていた。私はこの歩道橋の柵のぎりぎりに立って下を覗き込む。そこには底知れない奈落があった。そう、それは私が探していたものだった。「今を生きてよ。」私は背後を振り向いた。そこには誰もいなかった。私はその奈落へと向き直る。そこには一人の少女がいた。彼女は笑みを浮かべていた。その笑みを見た瞬間湧き上がってきたのは既視感だった。私の頭を駆け巡るノイズ。死んでいる音、死んだ声。聞いたことのある声。嫌だ。もう聞きたくない。楽になってしまいたい...「いつまで私の真似をしているの?」「うるさいッ!黙れッ!」私は耳を押さえその場でうずくまる。しかし、その声は私の頭の中で絶望をささやき続けていた。
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私が意識を取り戻すと、そこに広がっていたのは血の海だった。俺は状況を呑み込めないで戸惑ってしまう。「どうして?」そう、私は考えを手放してしまった。この部屋は、天井が、壁が、床がアカ黒い液体で染め上げられていた。壁はいたるところが鋭利な何かしらでめった刺しにされていた。その色はおぞましく、その傷のあり様は生々しく気持ちの悪い姿だった。その傷を眺めていると既視感が...嫌だ。私の瞳が揺れる。私はその壁から、天井から、床から瞳を逸らした。そして、私が逸らした先には横たわる人の姿があった。私は職業柄、考える前に私の足はその倒れている人へと駆け出していた。「大丈夫ですか?」しかし、私はその死体を見た瞬間、医者としての矜持を失ってしまうほど戸惑い、驚いてしまった。それは遺体だった。そう、信じられない遺体だった。その遺体を、その姿を、その顔を、その歪み壊したはずの笑顔を見た瞬間、握りつぶしたかつての記憶が巻き戻り始めた。「どうして?」その死体はかつて死んだ、かつて歩道橋の上から飛び降りて死んだはずの彼女、僕の幼馴染”跡野預御”だった。彼女の姿はあの時と同じままだった。ただ、彼女の遺体はかつて死んだように朽ち果てていた。その朽ち果てている様が私にこの現実を強く意識させていった。
続く
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