第三十章 災禍#2
「私はいつになったらここから自由になれるの?」(私の世界はもうこの小さな小さな部屋とここから見える景色だけになってしまった。私はここにきてどれくらいたったのだろうか?たぶん、私が思ったよりも長い間ここにいるのだろう。そして、そんな今をいまだに受け入れられない私がいるのだろう。そう、だから私は今と向き合うことをずっと拒み続けてきたんだ。今を知ろうとするような心の余裕は私の心には無かったんだ。そして未だ、私の心はこの病室に来てからずっと途方に暮れたままだ。現状維持の私。相変わらず、私の足は動かない。そして私がこのことを意識するたびにあの悪夢が、脳に焼き付いた惨劇が繰り返されてしまった。その記憶には、痛みには、慣れというものは存在しなかった。私の体を突き刺したナイフの感触、開いた傷口の周囲を流れる暖かな気持ち悪さ、そして、その痛みはこんなにも痛烈で真に迫っているものだというのに、私の脚に、私の記憶の中にあったあの傷の姿は見る影もない。しかし、脚が動かないという現実は私に突き付けていた。あの記憶が持つ妙な説得力、脚が動かない理由、そう、あの夢は、私が夢だと考えているこの脳裏に焼き付いたこの記憶は、本当にあったことなんだということを。そう、私の足をぐちゃぐちゃにした悪魔はいたんだ。あの悪魔は私の脚を私の左腕を実際にズタズタにしたんだ。そして私は、そのことを忘れて今まで生きていたんだ。そう、私はもう死んでいるんだ。ずっと前に、私はこの悪魔によって全身をズタズタに引き裂かれてそして今の今までそのことを忘れて生きていたんだ。だけど、この記憶はこの記憶のあること自体が遅効性の毒だったんだ。その毒に暴露されていた私に刻み付けられたこれは運命だったんだよ。私はこの忘れていた記憶の後を追って死ぬんだ。この脚の感覚をこの刻み付けられた痛みの感覚をこの身をもって味わい続けた私がその運命の足音を聞き逃すわけがないんだ。
だけど、今は?私はまだ生きている。足は動かない。左手も動かない。身体の神経系は痛みを一切感じない形にがんじがらめにぐちゃぐちゃにされている。だけど、私の心臓はいまだこの身に今をその鼓動をもって刻み続けている。私はその鼓動にかけがえのないものを抱いていた。私の記憶で何度も繰り返された死はいつもこの身に静寂を告げた。その静寂は残酷な沈黙だった。その沈黙は私を無視し、私を否定し、私を拒絶した。だけど、私はそのことに異議を唱えることはできなかった。むしろ、その沈黙は私が死ぬのを待っていたようだった。私の心が止められて今まで生きてきた私は初めて死というものを理解した。死は生の反対なんかじゃなかった。死は生の延長線上だったんだ。私の心が刻み続けてきた生という名の時間は死んだことによって沈黙を告げて、初めて私はその沈黙を前にした時、私はそこにあったものに気づいた。そこには私が呑み込めない感覚があった。その感覚は今まで感じたことのない強烈な疎外感だった。私はその疎外感に苦しくなり、その苦しさが私を追い詰めていった。そしてその苦しさが私の首を絞めた時、私はその正体に気づいた。その正体は時間だった。私が生きているとき、私がその夢を見る前に感じていた時間に対する固定観念は幻想的な絶対者だった。だけど、私が死んでやってきたその感覚は時間に置いてけぼりにされた感覚だったんだ。その感覚を知った時、私の抱いてた時間に対するイメージは砕け散った。私が死んでも時間は進み続けるんだ。そんな当たり前のことに気づかされてしまった。そして私の心が刻んでいたものは時間じゃなかった。それは私の経験、私の思い出、私の記憶だった。そこにいつもあった時間という足掛かりに私は縋っていただけだったんだ。それから、私は時間というものに対して気持ち悪さのようなものを抱くようになっていった。その気持ち悪さはあまりにも身近だった時間に対してあまりにも無知だった私に対する失望だったのだろうか、それとも私の時間に対して持っていたイメージを裏切った時間への憤りだったのだろうか。しかし、私にこの悪夢がフラッシュバックするたびに、私の抱いたこの気持ち悪さは大きくなっていった。その気持ち悪さが私を追い詰めていった。そして、私は意識せざるを得なくなる。私たちが近づいている、絶望の象徴、死へと。嫌だ、死にたくない。でも、私のこの記憶は、この感じた死はメタファーでも何でもない死そのものだった。死を前にした私はそのおぞましい気持ち悪さに抗うことなんて出来ないと感じてしまった。そんな気持ちを抱えたまま生きていくことなんて...できない。私はあの感覚を受け入れざるを得ない。私はこの気持ち悪さを否定できるほど、あの悪魔を殺せるほど強くないのだから。その諦観された生の前に現れたのは二つの選択肢だった。その選択は今を生きるか、今から逃避し続けて今を殺すか。私は前者を選択した。私には夢があった。その夢を叶えるために私は、今まで生きてきたんだ。そうだ、私はまだ生きているんだ。そうだ、私はここで死ぬわけにはいかない。この今を記憶の奴隷へと貶めるわけにはいかない。私はこの夢を叶えるために、今を、そしてこの残された生を諦めるわけにはいかないんだッ!私は最期の力を振り絞り、一世一代の賭けに出た。)
私は彼女が口を開いたことに驚いた。彼女は頑なに沈黙を貫いていたから。そして、彼女の告げたその言葉に戸惑った。彼女はいつ死んでもおかしくない状況だったから。彼女がこの病室に運ばれたときにはすでに彼女の両足は動くことができなくなっていた。私がその両足の状態を見た時、その不自然さに息をのんだ。その足には適度な筋肉と丈夫な骨があった。それは今までその足が使われていたことの証だった。だけど、この足の状態を見た時に私はその証を思わず疑ってしまった。彼女の足の神経は大きく断裂して彼女の足の内部でバラバラになっていた。しかし、その神経断裂にあるはずの外傷等はなく、そのことはとても不自然だった。そして彼女の様子も不自然だった。私が彼女に脚の様子を伝えた時、彼女は怯えもせず、驚きもせず、どこか納得したような顔でただ頷くばかりだった。私はその彼女の様子にも少しの底知れなさを感じていた。
それから三日が経過してからだった。彼女の左腕が動かなくなったのは。朝、私が彼女に問診をした際に彼女の腕が不自然に宙に浮いたようになっていた。彼女はその腕を右腕でつかんで俯いていた。私はその姿を見た瞬間に嫌な予感のようなものを感じ取った。そして、検査の結果、その予感は最悪な結果として現れた。彼女の左腕が彼女の脚と同様な状態になっていた。私は頭を抱える。どうして脚から腕に飛び火した?彼女は安静にしていたというのに?彼女の様子は相変わらず、どこか納得したように、どこか諦めたように何も言わないで頷くばかりだった。
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彼女は、ずっと今まで喋らなかった彼女が口を開いた。彼女は言った。「私はいつここから出れるの?」私はその言葉に言い淀む。彼女の症状は今までにないもので絶対安静が言い渡されていた。「どうなさいました...」「だから、いつになったら私はここから、この監獄から出ていくことができるのッ!」どうして?彼女はずっと落ち着いていたのに。そう、怖いくらいに落ち着いていたというのに。彼女の唐突な変わり様に私は驚いてしまった。「落ち着いてください。」私の静止を聞かないで彼女はベットの上で暴れ始めた。彼女が依然の病院で話していたという幻覚を見ているのだろうか?わからないがこのままじゃ大変なことになる。私はナースコールを強く引っ張って助けを呼びながら、彼女を落ち着かせようと宥めていた。しかし、彼女の動かないはずの左腕はあまりにも強い力で私を吹き飛ばした。私は壁に叩きつけられた。私は壁に叩きつけられた衝撃で意識を失った。
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「じゃあ契約してよ。対価は記憶。」「契約?」「そう、大いなる代償が伴う選択のことだよ。」目の前にいる右手にナイフを携えた男は悪趣味な笑みを浮かべていた。「大いなる代償?」「そう、それは大いなる賭けともいえるな。」「大いなる賭け?」「そうだ、お前は今立っているんだ。運命の分岐路になぁ!」その男の背後には二股に分かれた道があった。その道は地平線の彼方までそれぞれの方向へと続いていた。「あなたは今、問われているんだよ。覚悟をッ!その覚悟は言い換えれば、この選択を代償を払ったお前自身を受け入れて、その契約が導いた運命とともに心中する、そんな覚悟だッ!」彼は持っていたナイフを自身に突き刺した。彼の首筋からアカ黒い液体が噴き出した。その液体を見た瞬間、私はすべてを思い出した。脚が左腕が動かない。立っていた私は地面に倒れ込む。私は地面に打ち付けた顔を前へと向ける。その目線の先には死んだように横たわる男、流れ出る液体、そして漆黒のナイフ。私は身体を這わせてそのナイフへと近づいていった。「もし、卑怯者でないのならこのナイフを引き抜いてその覚悟を見せろッ!」その言葉が合図だった。私の心に湧き上がったのはこの契約、取り返しのつかない選択を前にした緊張だった。しかし、その緊張は私の心を恐怖で支配しなかった。そうだ、私は自由なんだ。私の心を埋め尽くした緊張は蛮勇という名の刺激的なスリルへと昇華した。そのスリルが創り出した心の踊り場にあてられた私はこの高揚した気持ちの勢いのままに私の右腕でそのナイフを握りしめ、思いっきり引き抜いた。目の前の男の首筋からほとばしる液体。それが私の道を艶やかに染め上げていく。その様を見て笑っていたのは私。その艶やかな液体が私の目の前にあった道を消し去った。その様は綺麗だった。ずっと見ていたいと、そう思ってしまうほどに。
続く
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