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タイム・スパイラル  作者: やあやあやあ


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第29章 その正体は湯気 そして 先の見えない逃避

私は逃げていた。そしてカーブに差し掛かった。そのカーブはあまりにも急なカーブだった。このカーブの先を私はここから見ることはできなかった。だけど、私にはもうこのスピードを落とす真似はできなかった。自転車はこの一本道、この下り坂を疾走し続けていた。私はこのカーブを曲がり始めた。

~~~

俺は目の前の男の苦しむさまを、首を絞めて呻くさまをただ眺めていた。その男は地面に倒れ、そこで力なく横たわった。動かなくなったその男の姿が見せた沈黙の生々しさ、その生々しい気持ち悪さが俺の感じていた今に対しての非現実的幻想の可能性を消し去った。そう、ここで俺はようやくこの現実を呑み込むことができたのだった。

~~~

カーブを曲がった先には森があった。その森は木々が鬱蒼とした陰気な雰囲気の森だった。私はその森が嫌いだった。まるで、私のこれからを暗示しているみたいな感覚がした。そう、そこにあったのは不吉な予感だった。

カーブを曲がった先には町が広がっていた。俺はその町が嫌いだった。その町には何かが欠けていた。俺にとって必要不可欠な何かが。

~~~

カーブを曲がった先には砂漠が広がっていた。その砂漠は公園の砂場の様だった。熱くなく、ただ、たくさんの砂がそこに積み重なっていただけだった。まるで死んでいるかのように。そう、そこにあったのは死体の山だった。

町の中で俺は一つの建物を見つけた。それは書店だった。俺はその書店に意気揚々と入っていく。かつてのように。そこには本が無造作に積まれて山を成していた。俺はこの光景が嫌いだった。この光景が、その本を貶めている姿が、誰かの生きてきた証を貶めている姿が、巡り巡ってこの俺自身を貶めているかのように感じられてしまったから。

~~~

カーブを曲がった先には崖があった。私はその崖の下を覗いた。その崖の下には何もない空間が広がっていた。そう、そこには底の見えない奈落が広がっていた。私は崖が嫌いだった。崖の上に立っていると、私は無意識のうちに景色を見下して、優越感に浸ってしまうかのような感覚を抱いてしまうから。だから、私はこの崖の下が見えない、この崖がとても好きだった。もし、今を生きなくてもいいのならここから飛び降りてしまいたいと思ってしまうほどに。

本には誰かの一生、誰かの一部を文字という形で閉じ込めることができてしまう。俺はそんな本が好きだった。その本を読んで初めて俺は俺が生きていると自分自身を省みることができた。そうだ、その感覚を味わうために俺は本を読んでいたんだ。だけど、その行為は同時にあまりにもむごく傲慢な物だと感じてしまうこともあった。本はずっとそこにいた。その身に何者にも侵されることのない自己を宿して。なのにそれを消費する俺は俺自身の自己を、心を、生きているその時々で都合のいいように変化させて振舞っている。そう、そんな卑怯者が本を読んでいるその時だけ、本に到底及ぶことのないあまりにも不安定な自己を、完成されたこの自己に照らし合わせた時の生じた差異を見て語るだなんてあまりにも都合のいい、まさに傲慢だと感じてしまったから。俺は本を読んだときにその本への感じ方が以前読んだ時よりも違った感覚になるのが好きだった。だけど、その感覚を感じてしまう自分自身を省みた時に湧き出てきたのはこの俺自身に対する嫌悪感だった。

~~~

カーブを曲がった先には雪原が広がっていた。雪が降り積もった様を見ていると言いようのない寂しさが湧き上がり、私の胸の内を鷲掴みにして締め付けた。私は自転車を降りて雪原の上を歩き出した。雪を踏みしめる子気味の良い感覚が心地いい。私がその心地よさに意識を向けているときに、気持ちの悪い音が聞こえてきた。その音は背後からの足音だった。私は振り向いた。しかし、そこには誰もいなかった。だけど、私の後ろ、今まで私が歩いてきた道には足跡があった。そのついてくる足跡を見た瞬間、私はこの寂しさの正体に気づいてしまった。「だけど、お前はその覚悟を持っていなかったんだ。そう、お前は過去を見ているばかりで、過去に縛られるばかりで、お前は今からずっと逃げ続けているんだッ!」足跡が告げたこの言葉が私の首を絞めた。

俺の心は病院にいた。「急患です。」看護師の呼び出しに待ってましたと現れたのは一人の男だった。彼の名は港と言った。「こんにちは。私の名は港と言います。あなたの担当医としてこれから治療させていただきます。よろしくお願いします。」なんて誠実な医師なのだろう。俺が今まで見てきた医者の中で一番彼が礼儀正しいと俺は思った。

~~~

カーブを曲がった先には海が広がっていた。その海はゆったりとした雰囲気を纏っていた。そう、その姿は今の私とはあまりにもかけ離れてしまっていた。「どうして、私のこの姿が不自然だっていうのッ!」海はそこでただ波をたてるばかりだった。その海の地平線の向こうで夕日が沈んでいく。その光景を見た私にかつての絶望が呼び起こされる。

俺はその医者に話し出した。どうしてこんなことになってしまったのかを。「俺は自転車に乗っていました。そう、懸賞で当たった自転車に意気揚々に乗り込んでいました。その時の俺の心にはよこしまな気持ちがありました。その気持ちは自転車が当たったことに対しての多幸感とその幸せをひがむ誰かの幻影に対して湧き上がってきたシャーデンフロイデでした。そうだ、この時の俺は酔っていたのです。この気持ちに。己自身の気持ちの悪い心、俺が嫌悪感を抱いていたはずの心を、好きな自転車で上書きして。」その話を聞いていた医者は訊ねる。「すると、あなたがあんなに楽しそうに下り坂を駆け降りたあの姿は嘘だったのですか?」

~~~

カーブを曲がった先はあの温泉宿だった。どうして戻ってきてしまったんだ!

相変わらずこの空間は天井、壁、床が純然たる白色に覆われていた。その壁には傷一つなかった。そしてこの部屋にはドアや窓の類は存在しなかった。俺が露天風呂からこの空間に侵入した時のドアは気づかぬうちに消失していた。俺は壁に触れる。俺の手のひらに何かぬめッとした感触を覚えた。どうやら、この壁には何か液体のようなものが上から塗られているようだ。俺はこの部屋の壁を叩いてみた。しかし、この壁はびくともしない。俺は悟った。この空間は完全なる密室。出口など存在しないということに。

~~~

「それ、あの有名な天肴翔の”出会いと裏切りの螺旋”じゃん。好きなの?」「黙れッ!」私は彼の首を強く握りしめた。彼が私の手の中で苦しんでいく。彼の顔面に投影された彼の深層心理、その表現という名の感情がこの手が生み出した苦しさに上書きされていった。「どうして笑っているの?」私に問いかける誰かの声があたりに響いた。

「俺はずっと過去を生きていたんだ。だけど、私に突き付けられた過去は、その過去が指し示した今は、俺にとって気持ちの悪いものだった。俺は俺が嫌いだった。だけど同時に、俺は俺が嫌いという事実だけでこの俺を今までずっと繋ぎとめていたんだ。私は今までずっともがき苦しみ続けていた。それはある種の強迫観念だった。その強迫観念のために、今を生きるために、今までを過去を否定して未来を、そこにあるはずの希望を、そこに見出していた理想を、この今の現実の救いだと信じ続けていたんだ。だけど、そんな私には意味なんてなかった。そんな生き方はすべてから逃げるそんな生き方はあまりにも不自然で傲慢でどうしようもなくて、堂々巡りの渦に成り果ててしまったんだ。」「そう、私にとって自転車はただの道具だった。逃げるための道具でしかなかったんだ。私にとってすべてはどうでもよかったんだ。今から逃げることが出来さえすれば。そう、私は私にうつるすべてに意味を見出していたが、同時にそのすべてに意味なんてなかった。私の生き方はこの渦の中に取り込まれ、同じ運命を繰り返し続けた。だけど、馬鹿な私は気づくことなんて出来ないで逃げ続けてしまった。そして、この場所、約束の場所、この袋小路へと誘われてしまったんだ。」運命のメタファーが告げるのはすべての終わり、私の内面にあったはずの生に対する気持ち悪さが浄化されて(死んで)いく。「俺は同一視していたんだ。自身に対するこの卑怯者と感じてしまうこの感覚を無意識に本に、すべてに。だけど、そんなのは無駄だった。俺が感じていた気持ち悪さは俺が俺という存在を、自己そのものを、あまりにも信じることができなかったこの心そのものだった。他人を見ても、本を読んでも感じるのは俺じゃないってことだった。そう、それが気持ち悪さの正体だった。そうだ、俺は俺の無意識下の普通という名の大衆的なコミュニティを想像して、そこに自らを加えすべてを知っているかのようにふるまっていただけなんだ。そう、俺はそのコミュニティの束縛、想像的不自由に囚われていただけなんだ。そして、俺はそのコミュニティに甘んじてしまって俺自身からずっと逃げ続けていたんだ。」「今から逃げた私が手にしたのは手にしていたはずの夢、その残骸だった。もう、私の頭の中にはその夢を思い出すことすらできない。そうだ、私が私自身を結果的に貶めてしまったんだ。」「俺自身から逃げ続けた俺が見たのは俺の屍その山だった。もう、俺は俺の名前を思い出すことができない。そう、俺はもうずっと前には死んでしまっていたんだ。死んでもなお惨めったらしく運命から逃げ続けて...本当に馬鹿みたいだ。」

目の前で男が死んだ。彼の死体は腐食が進んでいた。その姿を見て私は悟った。これから始まる運命、すべての終わり、その始まりを...

第29章 完

第30章に続く

おまけ

参峰町で引き起こされた連続失踪・殺人事件。ある日、一つの遺体が見つかった。その遺体の状態はあまりにもひどかった。その遺体には鋭利な何かによってつけられた刺傷があった。その刺傷は首筋を狙って何度も何度も振り下ろされていた。その遺体は銃創があり、額には風穴が開けられていた。そして、その遺体の瞳は抉られていた。そして、その遺体は身元不明の遺体だった。そう、その遺体には私たちが必ず持っている大切なものを持っていなかった...

読んでくださってありがとうございます。

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