第28章 真新しいビル そして 上り道
その建物は高層ビルだった。私はこの建物を傍から眺めていた。この建物は外壁がボロボロで今にも崩れてしまいそうだった。この建物の窓はすべて割れていて、出入り口には立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。この建物の外壁には10ミリほどの円形の穴が何か所かあけられていた。そのコンクリート壁にあけられた穴に私は嫌な感覚を抱いた。その嫌な感覚には生々しい予感めいたリアリティのようなものがあった。私はその穴から目を逸らした。
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「私は最近、妙な既視感に執着きまとわれているんだよ。」彼はそうやって笑う。「既視感?」そうやって訊ねると彼はゆっくりと話し始めた。「最近、なんでもない些細な事に対して、一度体験したことがあるかのように感じることがあるんだ。例えば、自転車に乗っていた時の話なんだけどね。」彼は語り始めた。「自転車っていつも新鮮なんだよ。景色だとか、自転車そのものが変わっているということじゃないんだけど、例えば自転車に乗っているときの息を吸う感覚や、風の当たる感覚などが絶え間なく変化していっているんだ。私はその絶え間ない変化を味わうのが好きで好きでたまらないのよ。だけど、」「だけど...?」「最近、その新鮮な感覚が台無しになる瞬間があるんだ。」「台無し...?」「そう、その瞬間はいつも急にやって来るんだ。」
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私は必死に上り坂を漕いでいた。ペダルを踏みこむ脚は重い。「ギアを下げたってこの坂はどうしようもないな...」私はこの坂の中腹でこの自転車を降りた。そして自転車を押して歩く。彼の目線は下を向き、彼の額からは汗が垂れる。しばらくたって、自転車を押さえていたこの腕にかかる力が軽くなって、脚にかかる重い感覚がちいさくなった。私は前を見た。すると、そこには広大な青空があった。そして私の視線、その眼下には群青の青空を今にも吞み込んでしまいそうな瑠璃色の大海原が広がっていた。私は坂の頂上、そう崖の上からこの景色を眺めていた。「嗚呼、なんていい景色、なんていい潮風。」私はこの感動で胸がいっぱいになっていた。その時だった。すべてが台無しになったのは。
私が茫然とこの景色を眺めていると、視界の片隅に蠢く何かがあった。私はなんだろうとそれを見ようと意識を向ける。その瞬間、私の目の中に何かが入り込んできた。「うわッ!」私は思わず目を閉じてしまう。そしてその何かが入ってきたような感触のある右目に触れた。その目に入り込んできた何かは私の瞼の裏で動いているようだった。その時、この何かの蠢きが示した私の心の動きに対して私は既視感のようなものを感じ取ってしまう。「どうして、この痛み、この気持ち悪さが、ここで...?」
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私はある悪夢に苦しめられていた。その悪夢で私は殺されていた。その夢で出てくる”銃”によって。初めてその銃が現れたのは写真を撮ったあの日の夜だった。私が歩いていると、私の目の前から誰かが歩いてくる。私はその人影に目を向けた。それは私の友達だった。私はいつものように彼に気さくな挨拶をする。「やあ!」「やあ。」その時、私は気づく。彼の手に握られた何か。それは銃だった。私が彼の持つそれに戸惑っていると彼はその銃口を私に向けた。「えッ...」
辺りに響く銃声、その音は何度も何度も周囲に散らばった。今にも崩れてしまいそうな私を目の前にして彼は笑う。「さよなら。かつての親友ッ!」
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私は思い出した。あの刻み付けられた痛み、散らばる感触、その気持ち悪さを。その瞬間、私の目の感覚が消失した。私はこの感覚を知っていた。そう、この感覚はあの銃に私の瞳が撃ち抜かれたあの感触だ。その感触を合図に身体に刻み付けられた気持ち悪さの幻肢痛が再生される。右足、左足、両腕、そして最後に額。私はこの額に銃弾が撃ち込まれるまでは意識を保ち続けてしまう。そのことを彼は知っているのだろうか。彼はいつもあの言葉を額へと撃ち込む前に笑いながら告げる。「さよなら...」
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息をのんで話の続きを待つ僕。しかし、目の前にいる彼は黙ってしまう。彼は視線は何もない空間を漂っており、まるで彼の心はここには無いような感じだった。「それで......?」僕が彼に話の続きを促すと、彼はハッとしたような顔を浮かべる。「えっと、どこまで話したっけ?」彼は右手で頭を掻きながら首をひねり、僕の顔を覗き込んできた。彼の顔には取り繕った笑顔のようなものが浮かんでいるように見えた。僕は彼のそんな顔を見て彼の話の続きを促すのをやめることにした。
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私はこの廃棄されたかのようなこの道路を行ったり来たりしていた。しかし、堂々巡りでこの荒廃したビル、その前へと戻ってきてしまう。私はこの説明のつかない状況に疲れ果てて、この建物の横に自転車を止めて休んでいた。その時、どこかで断末魔が響いた。私は戸惑い、周囲を見渡す。その声はどうやらこの建物の中から響いてくるようだった。その声は今にも破裂してしまいそうで、その響きには苦しみと傷心が吹き込まれていた。私はその絶叫に引き寄せられるようにその建物へと誘われてしまった。もうこの時にはこの出入り口に私の行く手を阻むものはなにもなかった。
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