第22章 二人目#1
※この章には交響曲第五番<運命>の作者独自の拙い解釈があります。
「記憶、それは原罪としてもたらされた感情という名の渦に巻き込まれた時間。」
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彼女が歩道橋の上から飛び降りた。その顔に微笑みを浮かべて。彼女の死は彼の目の前で広がった。まるで、彼の道を隠すように。彼は目の前に転がり込んできたその彼女に目の前が真っ白になった。
(どうして、目の前に、なんで、飛び降り、首が...、血が...、気持ち悪い、人って死ぬんだ、こんなおぞましく死ねるんだ、俺もこうやって死ぬのかな、燃えていく体も傍から見ればこんなにもおぞましいんだろうな、嫌だ、死にたくなんかない、だけど死なない人なんていない、例外なく死ぬ、嫌だ、死にたくない、こんな姿になりたくない...、
どうして、どうして微笑んでいるの?、痛くなかったの?恐ろしくなかったの?恥ずかしくなかったの?後悔はなかったの?)俺の問いかけにカノジョは微笑みを浮かべるばかりだった。
どうしてだろう?その微笑みを俺は美しいと感じてしまっていた。彼女はロングヘアーで透明度の高い色白の肌、そして漆黒に澄んでいた瞳。その姿を俺は信じられなかった。彼女の瞳と彼女の存在のようなものとの乖離があまりにも大きくて、それでいてその乖離がある種の神秘感として調和を成していたから。
そして彼女は綺麗な服を着ていた。上は白色のブラウス、その上から黒に近い紺色のジレを羽織り、そして黒のギャザースカートを着ていた。俺の目を引いたのは首元に巻かれていた真っ白のスカーフだった。そのスカーフには白いユリの刺繍があしらわれていた。そのスカーフは彼女の肌の一部の様だった。彼女の白のブラウスとはまた違う白。そう、ブラウスの色を作為的な白だと呼称するならば、このスカーフは神秘性を纏い、その神秘性がスカーフ自体を白色たらしめているかのような、超自然的な白だった。そう、あえて呼称するならばその色は”純白”というべきなのだろう。白色の光は様々な波長の光が重なり合って生まれるものだ。だけど、この白は、この色は混じりけのない白の光だった。だけど、そのスカーフはその貶められようとしていた。目の前で広がる、死の姿、絶望の香り、その死に対する畏怖のようなものがあたりに満ちていく。そしてその畏怖がその神秘性を殺した。それはそのスカーフに閉じ込められていた希望の開放そのものだった。血が流れた。その血は目の前の彼女が生きていた証拠だったものだ。
(赤黒い...、その血は何かが違う、俺が今まで見てきた赤い液体、血だと感じていたものはこんなにもおぞましいものじゃなかった、血にはもっと艶やかな赤だったはずだ、もっと血は明るい色だったはずだ、こんなにも暗くて、こんなにもアカいなんて...、嫌だ、俺の体を、心に流れている血も、これが本来の姿なのだとしたら、この彼女の選択、このおぞましい運命の象徴しているこの血は、まるで本来の姿へと俺を導いているようだ、そう感じてしまった、気持ち悪い、この身体を這いずる生き物が...、嫌だ。俺は生きなければならない。死にたくなんかないッ!俺に流れている血をすべて取り出して、この血に変えてしまいたい!、俺たちが生きているって感じることができる、そう、信じることができる、この艶やかで情熱の宿っているこの血へと変えてしまいたいッ!)その時、自転車が話し出した。「オーダー”承認”Anarchy状態移行。」その瞬間彼の目の前が光で包まれた。
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俺が目を開けるとそこは知らない森だった。草木は生い茂り、その鬱蒼とした空気があたりを淀ませていた。どうして、俺はここにいるんだろう。俺は思い出そうとした。確か、自転車に乗って坂を登っていた俺はいきなり頭上から信じられない”何か”が落ちてきた。
あれ?俺は思い出せなくなっていた。その落ちてきた信じられない”何か”を。その”何か”は、俺の心をめった刺しにした”何か”は、忘れたくても忘れられない”何か”だったはずだ。俺は何度も、何度も頭の中でその記憶を繰り返す。坂で自転車を漕いでいる俺、歩道橋に差し掛かる、そこから落ちてくる”何か”、ここまで思い出した俺はじっとりとした気持ち悪さを感じていた。なぜなら俺はその”何か”以外の記憶を明瞭に思いだすことができていたから。逆に、その落ちてくる何かは俺の記憶に致命的な空白を創り出していた。その空白には白で埋められていた。その白は現実に存在してはいけない色だった。そう、その色は純白だった。記憶にも、イメージにもなかったはずの色だ。俺は俺の記憶の中で初めてこの色を見て新鮮な気持ちを抱いた。だけど同時にその抱いた新鮮な気持ちに気持ち悪さを覚えた。俺にとって記憶というものはもっと身近で安心できるものだったはずだ。今までの経験してきたことの積み重ねの結晶が記憶だったはずだ。今まで経験したことに対してどう思ったか、どう思っていたのかを考え続けた結果が記憶だったはずだ。そう、記憶それぞれに抱いたこの感情は、今の俺自身の存在を肯定してくれる”アイデンティティ”のようなものだったはずだ。そう、それは誰のものでもない、俺の、俺だけのものだったはずだッ!だけど、この記憶に現れたこの未知の記憶、この純白の空白はまるで誰かの記憶のように思えてしまった。そしてそんな感覚がおぞましくてしょうがない。そして、その空白にあった本来の俺の記憶はどこへ消えてしまったのだろうか?わからない。だけど、俺はその記憶、失われた記憶本来の形を思い出すことは叶わずとも、その記憶に対して抱いていた過去の感情は滲みのように俺の心に刻みつけられていた。
その記憶は衝撃、戸惑いとやるせなさ、神秘と畏怖、おぞましさと気持ち悪さ、そして覚悟。その衝撃は俺の首筋に刺さるナイフの様だった。その戸惑いとやるせなさは俺の首筋を絞める手の様だった。その神秘と畏怖は割れた硝子の中で笑っていた俺を見ているかの様だった。そのおぞましさと気持ち悪さはかつての友達と誤解して互いに傷つけあったときのあの傷痕の様だった。そしてその覚悟は...
俺が周囲を見渡すとすぐ横に俺が乗っていた自転車があった。そしてその森には一本道があった。その道は遠くが一点に見えるほどに長かった。俺は自転車に乗ってその道を進み始めた。その道は平坦だったから、自転車がとても乗りやすかった。この自転車は速度を上げていき、気づいたときにはもう森を抜けていた。
森を抜けた先には一人の女性がいた。その女は大体30代くらいの年齢に見えた。その女性は右手に何かを持っていた。それは一本のナイフだった。そして彼女はそのダガーナイフを力強く握りしめて振り下ろしていた。その姿には、憎しみと後悔があった。俺はそのナイフの先を見た。そこには、横たわる死体があった。その死体は全身の原型が無くなってしまうほどにめった刺しにされていた。そしてそれの刺傷は遠くから見てもわかるほどに腐敗していた。そう、その死体は明らかに死んでいた。だけど、その死体は右手に何かを力強く握りしめていた。それはCD?のようなものだった。
俺はその女性にゆっくりと近づいた。その女性は近づいてもこちらに気づかないでその凶器を振り下ろし続ける。俺はその様子(振り下ろす様)を呆然と見ていた。
俺はその死体の握りしめているそのCDを手に取った。俺がCDを持つとその死体の手はだらんと力を失った。そのCDは交響曲第五番<運命>。俺は珍しいと感じていた。ベートーヴェン交響曲のCDは大体交響曲第六番<田園>などと一緒に収録されているから、交響曲第五番単体のCDは珍しいと感じていた。俺はそのCD のケースを開けて中を見る。そこには真っ白のCDがあった。そのCD にはマジックで<運命>と書かれていた。
ダダダダーン。
その音色が告げるのは運命の始まり。運命は唐突で理不尽なものだ。この音色は運命に気づいてしまった人の心に湧き上がってきた衝撃、その一つの形なのかもしれない。<運命>。第一楽章ではのうのうと生きていた人々の前に運命が現れる。彼らは衝撃を受け、戸惑う。互いに話し合ったり、信じようとしなかったりしている。第二楽章では、その運命を受け入れる人々の姿が描かれる。ここで大切なことは彼らはその選択に納得しているということだ。そう、彼らは今を生きることを何よりも尊重することを決めたのだ。第三楽章では、運命にあらがう姿が描かれる。迫りくる運命、それに対する人の抵抗。初めは直接対決、そして次第にゆっくりと水面下の闘いへと舞台が移ってゆく。第四楽章。決戦ー運命ー。彼らは運命に持ちうるすべてをぶつけ、運命はそれに応える。そんな激しい闘争の中で、運命と彼らを隔てるものは何もないほどに近づいていた。そして、運命に近づきすぎた彼らの中で芽生えたのは覚悟だった。それは、運命を受け入れて前に進むための覚悟だ。もう運命なんて怖くない。この時の彼らは互いにその同一の覚悟で結びつき、いわば一丸となっていた。そして彼らは前へ、そう未来へと歩みを進めるのだった。
続く
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