第27章 海 そして...
俺は自転車でこの下り坂を駆け降りる。タイヤが地面をこする音が、自転車に乗っていることへの充足感を高め、頬に当たる風が自転車の気持ちよさを生みだし、その気持ちよさで高揚していた心が俺の視線を頭上へと向けさせた。そこには群青の青空が広がっていた。きれいな青一色の空。頭上には雲一つなくそこで日輪が輝いていた。ああ、今日はなんていい日なのだろう。俺のその声が聞こえたのだろうか、どこかでセミが笑っていた。
自転車を止め、砂浜に横になる。俺の顔に照りつく暑さ。その暑さは眩しさを伴って俺の心を照らす。こんなにいい天気だというのにこの砂浜には誰もいなかった。その砂浜の姿に寄り添うように波はゆったりと行ったり来たりを繰り返す。今日の海は波が静かだった。砂浜の上でこの日差しを堪能し、単調でそれでいて飽きない海の営みを眺めていた。俺の足に触れるのは生ぬるい海水。その海水は日差しに焦がれていく俺を落ち着かせた。
地平線の先へ頭上に輝いていた日輪は沈む。俺はその姿を見てなぜか寂しさを覚えていた。
チリン...
俺の背後でそんな音がした。振り向いた先には俺の自転車があった。その自転車は砂浜の上で横たわっていた。その姿はまるで死体の様だった。その姿を見た俺の心に湧き上がってきたのは寂しさだった。
俺は気づく。この寂しさは、あの夕日を見た時に湧き上がってきた気持ちと同じだってことに。どうして、こんな寂しさが湧き上がってしまうのだろう?たぶん理由なんてないんだろう。この寂しさは、この夕日から漂う神秘のようなものが見せた哀愁のありさまなんだろう。
俺は持ってきていたカメラでその自転車を撮った。そしてその写真を見た。そこには寂しげな自転車の横顔があった。その写真から目を離して、俺は自転車に向き直った。そこには自転車に乗っている一人の少女の姿があった。
波の打ち立てる音がする。ここを橙の輝きが包み込み、哀愁の香りが俺と彼女との間に漂った。俺はその少女の姿をどこかで見たことのあるような気がしていた。「ねえ...」俺が彼女に話しかけた。その時、大きな波が立った。
ザァ~...
俺は唐突なその波に意識を向けた。時間にしてほんの一瞬の出来事だった。だけど、俺が目の前の自転車へと向き直ったときにはもうその少女の姿はなかった。俺は戸惑う。彼女はどこへ消えてしまったのだろう。自転車はずっとそのままの姿でそこにいた。変わらないそのままの姿で。だけど、自転車が纏っていた雰囲気はもう大きく異なってしまっていた。その雰囲気を感じ取った俺は、俺がその自転車に求めていたものがわかった。わかってしまった...
俺は自転車に物足りなさを感じていたんだ。自転車はただの道具でしかなかった。俺はずっと自転車を見ていなかった。自転車に乗った時の気持ちを見ていたんだ。頬に当たる風が伝える気持ちよさと疾走感。景色の変化が教えてくれる自転車の動き、その実感。だけど対照的にこの自転車の止まっている様にはそんな姿は見る影もなく、自転車はそこにいるだけだった。俺が自転車に乗っているときはまるで体の一部であるかのように感じてしまうほどに、自転車との距離が近かったはずなのに。そうだ、俺はその自転車の距離を自転車そのものを見ていたと解釈して無意識に思い上がっていたんだ。だから、この哀愁は思いがった俺が自転車を他者のように思い込んでいた俺が今を直視した結果なんだろうな...
自転車が纏っていたのは寂しさでなく淋しさだった。そのことに気づいてしまった俺は感じとる雰囲気が変化していることに気づいた。落ち着いていたはずの空気は、作為的な沈黙へと成り果てた。俺の気持ち、そう俺の心の鼓動に寄り添っていたはずの波は、執拗に追い立てるノイズに成り果てた。そして俺を照らしていた希望の象徴であった夕日は、永遠の終わりを告げようとしている。そう、地平線の彼方へ、その姿をくらまして..
「嫌だ。そんなの、嫌だ。希望のないまま生きるなんて、希望が失われた世界で生きるなんて、希望がない世界で死ぬなんてそんなのは嫌だッ!」俺は持っていたカメラでその希望を切り取った。その瞬間、あたりを包み込んだのは暗闇だった。
俺は砂浜に横になって空を見上げていた。空は雲一つない快晴だった。星々が煌めいていた。ザァッ、ザァッ。波の音がその星の輝くさまを賑やかしていた。
星の輝きはずっと変わらないないでそこにあり続けた。「どうしたら、そうやって何もない暗闇の中で、あなたは、あなた達は、生き続けることができるの?」どこかでそんな声がしたような気がした。もちろん、そんな問いかけに返す言葉なんてなかった。
俺はカメラを見る。そこで今も輝いている日輪の姿があった。その姿を見た俺の心湧き上がってきたのは安堵。「俺の希望は”今”ここにある。他でもない、今ここに...」俺の意識はこの写真の中で輝く日輪に夢中になってもう星の輝きなどへの関心は無くなってしまっていた。
そんな彼の横に立って見下ろしているのは一人の少女。彼はいまだその少女に気づいていない。その少女は告げる。「あなたは逃げた。そしてあなたは記憶の中にある想像へと希望を貶めてまで生き続けるのね。残念だよ。あなたは知らないみたいだから...”今”から逃げたものに待ち受ける運命、その残酷さに...」
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