第十九章 使者ーA
身体が揺れている。僕はこの揺れで目が覚める。(ここはどこなんだろうか?)僕はあたりを見渡す。どうやらここはバスの車内のようだ。僕以外には一人のおばあさんと一組の男女が乗っていた。その男女は二人掛けの椅子に座って何かを話している。そして少し低い一人用の椅子に腰かけたおばあさんは窓の外を見ていた。その様に言いようのない何かを感じた僕はつられて窓の外に意識を向けた。
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カノジョは束縛された僕にゆっくりとにじり寄ってくる。カノジョの手にはダガーナイフが握られていた。それは街灯の灯りに照らされてその刃を黒光りさせている。カノジョは口笛を吹きながら、ナイフを上下に揺らし、微笑みながら僕へと向かってくる。僕はもがく。しかし、僕の両手を縛るこの茨のような鎖はもがけばもがくほど僕の体に食い込んでいく。僕の権能もうまく発動することができない。ゆっくりと僕を侵食する激痛が僕の意識を揺らす。「油断しちゃだめだよ。傍観者君!私たちはあなたを殺しに来たのだから。」
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そこには広がっていたのは”運命”が世界を覆いつくすための情景。本能のままに貪り喰らうそれは本来の形。取り繕っていたプログラムからの”開放”それが導くすべてがそこにあった。「なんだよ、これはッ!」僕はその光景をただ眺めていることしかできなかった。もう僕はこの光景に絶望してしまったから。「本当にこれで終わり?私たちには運命しかないの?」目の前にいた婆が僕を見て問いかける。僕は投げやりに答える。「あぁ、そうだよ!これが運命!これが終わり!」その言葉を聞いて彼女は笑う。「若いね。お前さんは…私もそうやって諦めることができればよかったのかもね…」僕は彼女の眼を見る。彼女の瞳は黒く澄み渡った漆黒が織りなす深淵、そしてその深淵を照らしつくさんとする炎が大きく燃えていた。どうしてだろう。僕はその炎をどこかで見たことがある、そんな気がしていた。「でも、あんたはこれでいいの?ほんとに諦めているのならどうしてこのバスに乗っているの?」「いやになったんだ。」「えっ?」「いやになったんだよ!この今に!そうさ、僕は諦めたんだ。だから逃げた!だからここにいるんだ。」「違うよ。これはこの状況は、この現実は、あなたのせいよ。あなたがそうやってずっと無責任のままでいたから…」「どうして、そんなことが言えるんだ!どうして僕のせいなんだ!僕が何をしたっていうんだよ!」頭の中で反復する記憶、それはまるで僕を突きつける刃物の様で…。気づけば僕は彼女の首を掴んでいた。「生は死へと至る過程、私たちは決められた贖罪への道を今までずっと歩き続けてきた。そう、私たちはそれでよかった。かつての私たちはその運命を選択し、その選択を忘れることで幸せを創り出すことが許されていた。だけど、できてしまった。脈々と受け継いできた今を蔑ろにし貶めるための機械が…時間は無価値へと成り果てた。私たちにあった幸せを見つけるための力は霧散し、現実逃避へと誘った。絶望は無くなった。だけど希望も夢も失われた。そして現実逃避の先で私たちが見たのは恐ろしい運命だった。そして私とあなたが出会ってしまった。思えばそれが始まりだった。そして私たちは”今”に、そして”運命”に対してあまりにも無知だった。だからのうのうと生きていたんだ。すべてから目を逸らし続けて。そう、今までやってきたように…わかったでしょう?この運命は、末路は、死は、抗うことのできない今そのものだってことに!もう、あなたはわかっているはずだ!」「黙れ!」「もう、逃げることはできないってことに!」彼女の言葉が僕の首筋に突き刺さる。僕は彼女から腕を離してしまった。僕は思いがけず後ずさる。「そう、あなたはこの私からも逃げるんだな。この傍観者がぁ!」その刹那、彼女を中心に空間がうねり渦を成す。それは感情を伴って僕の心へ入り込んできた。それは殺意だった。(僕の目の前で彼女は笑って見せる。「そう、あなたは裏切るんだ!この私を。今までずっとあなたのために生きてきたのに!」彼女の手には包丁が握られていた。僕はただ見ていることしかできない。そんな僕に彼女は近づき、その包丁を突き立てる。何度も、何度も…(僕は走る。彼女は歩道橋の上から、下を食い入るように覗き込んでいた。「やめろッ!」僕は彼女の左腕を掴む。しかし、彼女は持っていた包丁でその左腕をめった刺しにした。彼女が落ちる。僕はその様をただ眺めていることしかできなかった。(僕はこのバスで目を覚ます、そして気づく。いや、気づかされる。かつてここで起きた惨劇を…「ねえ。あなたは今までもこれからもそうやって生き続けるのでしょう…私はあなたの救いになりたかった。だけど、あなたはそうやってすべてを拒絶するのね。」彼女は僕の首を絞める。僕はその様をただ眺めていることしかできなかった。(何度も何度も彼女を、僕を、めった刺しにする包丁、いつも見ていることしかできない僕、張り裂けそうな声の彼女))))
僕の意識は記憶の海を漂う。そこは虚無と僕だけの世界だった。僕が出す声は音にならず、僕の存在は存在できない者に黙殺される。僕はただ茫然と眺めていた。どうしてだろう。苦しくなってくる。僕はこの空間では自分を保ち続けることができると確信していたのに…その時、どこからか声がした。「じゃあ選択してよ。対価は記憶。」その声は僕の左耳から聞こえてくるようだった。「記憶。」「そうだ、それさえ渡してくれればお前の目の前に差し迫った運命から逃避し、これからの後悔から目を背け、これまでの後悔を正当化するための覚悟をくれてやるよ。」その声は地響きの様だった。その声には言いようのない焦燥がにじみ出ているように感じた。その瞬間、僕は思い出す。僕の形を!「嫌だ!」「どうして?」その声は訊ねる。「ようやく僕はすべて思い出せたんだ。彼が見せてくれた希望を!どうして忘れてしまったんだろうな…。記憶、それは僕自身なんだよ。そうだ、だから彼女は見せてくれたんだ。記憶しか存在できないこの海の中で!」「遅い、あまりにも遅すぎる。もう、末路はすぐそこまで来ているというのにお前には何ができるというんだ!」「違うよ。」僕はその言葉を否定する。「なぜなら、僕は今、ここにいる。ここで生きている。たとえ、死んでしまう運命がすぐそばまで近づいていたとしても、それが何も成せないという証明にはならない!遅いことなんてないんだ、今があれば!そうだ、僕はまだ死ぬわけにはいかない!やらなければならないことがまだあるんだ!」僕は持っていたアセイミーナイフで左耳を切り落とし、そのナイフを頭上へと掲げた。
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私は彼へナイフを突き刺す。しかし、ナイフはなぜか彼に突き刺さらない。「どうして?どうして拒絶するの?」その時、沈黙を貫いていた彼が動き出した。彼は右手に持っていたナイフでその茨の鎖を切り落とした。私は大きく後ずさる。彼は見たことのない光で彼自身を覆いつくしていた。それはまごうことのない光、侵されることのない光。「どうして、どうしてお前がその光を纏える!」私は思わず叫んでいた。それはまさに原初の神の…。彼は言う。「僕はやめただけだ。傍観者でいることを。僕たちは忘れていただけだ。死を。そう、これはお前にとって、諦めているようにみえるかもしれない。だけど、これは俺にとって命を投げ出してもいいと思えた最初で最期の覚悟だ!」「そうか、”友のために命を捨てるか!”そうか、お前だったのか、メッセンジャーは!」
第19章 完
第20章へ続く
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