第十九章 傍観者-A
僕はその車を意味もなく眺めていた。その車は凄まじい速度で駆け抜けていく。まるで何かから逃げるように。その勢いにあてられた僕に言いようのない不安が芽生えた。そんな気がして苦しくなっていく。その苦しさが僕の視線を青空へと向かわせた。そこには雲一つない快晴が広がっていた。その空を見て僕は僕を取り戻せたような気がした。
バスに乗って駅前へと向かう。駅前には行きつけのカフェがあった。今日はそこで過ごすと決めていたから。バスは僕を乗せてこの田舎道をゆったりと走る。バスの中は暖かかった。バスの一番後ろの長椅子に座っていた僕はそこからバスの車内をただ眺めていた。バスにはおばあちゃんが一人、若い男女が二人乗っていた。おばあちゃんは窓から外の景色を呆然と眺めていた。彼女に釣られて僕も窓の外の景色を見る。そこには何もない雪原が広がっていた。僕はその景色に言いようのない寂しさを覚えた。そのおばあちゃんは停車ボタンを押した。それにつられて僕は彼女の方を見る。彼女の瞳には涙が…。僕は茫然と彼女がこのバスから出ていく様を眺めていた。
バスはゆったりと田舎道を進む。僕の心の中にはあの寂しさが残っていた。心なしかバスの中が寒くなったような気がした。バスの中は僕以外に若い男女が乗っていた。彼らは同じ長椅子に掛けて何かを話していた。「私たち、このままでいられるのかな?」彼は押し黙ってしまう。「どうして何も言わないの?」そう言った彼女に彼は切り出した。「あのさ、もう別れないか?」その言葉を聞いた彼女は青ざめる。「どうして…そんなこと言うの?」彼はゆっくりと口を開き言葉を紡ぐ。「あのさ、僕たちが初めて出会ったとき、僕たちは話すこともできなかったよね。僕もあなたも遠くからただ眺めていることしかできなかった。でも、図書館で話せたことがきっかけで仲良くなって、こうして今まで付き合ってきた。」彼女はその言葉をゆっくりと飲み込む。「あなたと付き合えてからの今までは本当に楽しかった。あなたと過ごしたかけがえのない日々が今でも僕の心に焼き付いて離れない。いつかの歩道橋の上であなたが言った言葉は今でも忘れることができないよ。そう、たぶん僕もあなたを探していたんだ。」彼女は彼を真っすぐ見ている。「だけどさ。僕は気づいてしまったんだ。あれから何も変わっていないことに。図書館で出会ったあの日、僕は怖かったんだ。かつてのあなたのように。だけど…その時、僕はあなたの中の僕を見つけたんだ。だから、僕はその僕に話すようにあなたに話しかけてしまった。」彼は目線を彼女から逸らす。「僕はそれからあなたと過ごす中で共通の趣味や話題を見つけたよね。一緒の本を読んだり、サイクリングしたり…本当に楽しかったよ。だけど、そのときの僕は心の何処かで安堵していたんだ。」彼の言葉は続く。「僕はあなたの中にある僕を逃がしたくなかったんだ。だから僕は共通の話題を見つけることにあんなにも拘って、そしてあなたを蔑ろにしたんだ。」彼の声は悲しみを纏う。「僕はあなたと向き合うことから逃げていたんだ。怖かったから。そう、僕はあなたと向き合いたくないまま付き合っていたんだ。」彼の言葉を聞いて彼女は苦しそうな顔をする。「たぶん、僕たちはもうこのままではいられないよ。僕はあの水族館の中であなたの中にあった僕を見失ってしまったんだ。もう、僕はあなたと付き合うことはできないよ。もう僕はあなたと対等じゃないんだ。あなたはずっと僕にとっての救いだった。だけど僕は初めからずっとあなたを裏切っていたんだ。」彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。「僕はあなたと違ったんだ。そんな当たり前のことに今更気づいてしまったんだ。」ずっと黙っていた彼女が口を開く。「私はあなたと知り合えてとてもうれしかった。初めてあなたと出会ったとき私はあそこから飛び降りるつもりだったの。だけどあなたの存在が私を思いとどまらせてくれた。」彼女の言葉に彼は驚いたように見えた。「それから私はあなたを見つめるうちにあなたのことを知りたいと思うようになったの。だけど私はあなたと対等じゃないって思っていたわ。私はあなたに負い目のようなものを感じていたの。私は一度死を選んだから。」彼は動揺していた。「図書館であなたが話しかけてくれて私、とても嬉しかった。まるであなたに生きて良いって言われたような気がしたの。そう、あなたは私の生きる希望だったわ。あなたはいつも私を気にかけてくれたし、私にいろいろなことを教えてくれた。好きな小説や好きな景色。そう、私はあなたに今までずっと救われていたの。」彼女は瞳に涙を浮かべながら彼に笑いかける。「だから、今度は私があなたの救いになりたい。どんな形でもいい。あなたにとっての救いに‼」彼女の言葉を聞いて彼は黙り込む。そして「ごめん。」彼は両手で彼女の首を絞め、床に叩きつけた。彼女の顔は苦しそうだったがその顔には微笑みがいまだ残っていた。「ごめん。ごめんなさい。これしか思いつかなかった。」彼は床に倒した彼女を見てそう呟いた。彼の眼には涙が浮かんでいた。彼は呻き声を出しながらカバンから包丁を取り出した。そしてその包丁の刃を彼自身に向けた。その時、彼女がいきなり立ち上がった。そして彼から包丁を奪い、それを彼女自身に刺す。何度も何度も。彼はそれを呆然と眺めていた。彼の顔を見た僕は気づく。その顔はとても晴れやかだった。まるでこの空のように。「ありがとう。」彼はそう呟くとこのバスを降りた。バスは田舎道をゆっくりと走っている。僕を乗せて。外は快晴のはずなのに雪が降っていた。僕はそれを見て懐かしさを感じていた。
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