閑話「前世の世界で見る夢は〜夜明け前のパン〜」
※引き続き前世のエピソード
※アンナの兄上(アレクサンドル国王陛下)が戦で傷を負い、いずれ近いうちに王座を明け渡す旨をアンナにだけ伝えていた頃。アンナが女王に即位するほんの少し前
※城で働くパン職人さんの視点となります
夜明け前。もう間もなく空も白んで、遠くがほの明るくなってくるだろうかという頃合い。
空がこのくらいの色合いになると、丹精こめて作ったパンが焼き上がる。
かまどに薪をくべ、火の勢いを調整し、小麦粉をこねたものを焼きはじめたのは、真夜中だった。
ふんわりといい香りが漂いはじめた。この香りに鼻をくすぐられると、粉まみれになってしまったエプロンもスカートも誇らしく思える。
そろそろ焼けてきただろうが塩梅を見なければと道具を手に取ろうとしたとき、扉がノックされた。
誰だろうか。こんな時刻に、こんなところへ。
焼き上がったパンは、厨房を取り仕切っている者にこちらが持っていく手筈になっているため、他の召使いがここに来ることはあまりない。
訝しく思いつつも、どうぞと声をかけた。
すると、扉からひょこっと顔を出したのはーー。
「王女殿下っ!?」
あまりのことに、短く声を上げてしまった。
遠くからだけれど、そのご尊顔は拝見したことがあった。あれはたしか、建国記念の式典のときだったか。
遠目にも、王族の方々の美しさには圧倒された。
中でもこの王女殿下は、まだあどけなくかわいらしさも残っており、これからもっと美しくなることは想像に難くなかった。
そんな王女殿下が、どうしてこんなところへ。
しかも、こんな時刻に。伴もつけずに。
「お仕事中に失礼。忙しかったかしら?」
オリーブグリーンの瞳が、こちらを伺ってくる。
いいえとか、そのようなとか、言葉にならない言葉をあわてて口にする。
するとその瞬間、部屋に入られたときの威厳と品格が一瞬にして鳴りをひそめ、その場にぱあっと花が咲いた。
「よかった!あのね、お願いがあって…。ちょっと早いのだけれど、パンをひとつもらえないかなって」
日が昇ってしまえば、すぐに朝食だが。
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか。
王女殿下は恥ずかしそうに眉毛を下げて、話し始めた。
「実はね…オイルランプをありったけつけて、兄上に薦められた書物を読み漁っていたの。読んでも読んでも終わらなくて、気がついたらこんな時刻になっていて、そしたら…お腹がすいちゃって…」
国王陛下が戦からご帰還されて以降、床に臥しているらしいという噂は聞いた。あまり思わしくないのではという話も小耳に挟んだが、積極的に聞く気にはなれない話だった。
しかし、王女殿下がこのように夜通し勉学に励まれておられるというところをみると…ひょっとするのかもしれない…と良くない想像が頭をよぎる。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、王女殿下はおどけて明るくおっしゃった。
「だからお願い!みんなには内緒で…!パンを分けてもらえないかしら?」
なんて無邪気なお願いだろうか。
まだ年若く、美しい女性ではあるが少女の名残りがあるような、親しみやすくあどけない表情で笑顔を見せる。
この可憐な女性の華奢な両肩にのしかかっているものの大きさと重さを考えると、きゅっと胸が締めつけられた。
私は急いで道具を掴み、窯の中からパンを引き抜き、色よく焼けているものを3つほど選んで木綿の布にくるんだ。
「焼きたてでとても熱いので、お気をつけくださいませ」
そう言って、細く美しい手に、そっと渡した。
「わぁ、本当ね!布でくるんでもぽかぽかしてる!」
ふふっとうれしそうに笑ってくれた。
ふと、オリーブグリーンの瞳が、包んでいない残りのパンを見て静止する。足りなかっただろうか、包み直すべきか。
「このパンの形…。あなただったのね!日によって形が違うから、焼いてくれる人が違うのかしらと思っていたのだけれど。私、この形のパンが一番好きなの!」
このときの私は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたと思う。
「いつもありがとう。私、あなたの焼いてくれるパンが一番好きよ。これも、大事に食べるわね」
そう言って、木綿にくるまったパンをやさしく抱きしめて、花がほころぶように微笑まれた。オリーブグリーンの瞳が輝いている。
ああ、過ぎし日に拝顔したときより、やはり美しくおなりだ。
ぼうっとしそうになった自分を叱咤し「光栄の至りに存じます」と無作法ながらも伝えることができた。
王女殿下は、ありがとうともう一度告げてから扉へと進まれた。
窓の外では、遠くの空がだんだんとほの明るくなりはじめている。
夜明けが、すぐそこまで来ているようだった。




