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第二話 アサガオは正直者

 ――どんな目撃者の言葉にも、必ず主観的な色合いがつくもので、そこに現実生活での証拠集めの難しさがある。その点推理小説は現実を無視している。目撃者がその事実を告げるにしても、現実離れのした正確さで、しかも作者が選んだ表現を用いている。――

  ロナルド・A・ノックス『陸橋殺人事件』より(宇野利泰訳、創元推理文庫『陸橋殺人事件』より引用)




【登場人物】

 剣宮一彩つるぎみや ひいろ…………大学生

 四ツ野翔よつの しょう…………大学生

 利根川葵とねがわ あおい…………捜査一課刑事

 岸谷学きしや まなぶ…………捜査一課刑事


 三ノ木全実みつのぎ まさみ…………陸の母親。パートタイマー

 三ノ木丞哉みつのぎ じょうや…………全美の息子。小学一年生

 馬田慎太郎まだ しんたろう…………保険会社社員

 コウ…………中華料理屋店員

 橋本陸はしもと りく…………馬田の上階の住人。ガス会社社員

 


 「翔くん、きみには驚かされるばかりだよ」

 八月最終週。太陽が厳しく照り付ける日暮通りを歩きながら、絶世の美少年・剣宮一彩が呆れ顔でそう言った。

 「まさかきみが、その程度の知識でコーヒーを淹れていたとはね」一彩が白く細い手で髪をかき上げ、首を振る。

 彼と同居してから毎日、俺が淹れるコーヒーには厳しいダメ出しがされてきた。もう文句は言わせまいと、出不精の彼を強引に連れ出して豆選びに付き合わせたのだが、俺があまりにもコーヒー豆の事を知らな過ぎたため、一彩はガッカリしてしまったのだ。

 「きみには豆の事から勉強して貰わないといけないね。……それにしても、暑いな」

 一彩はシャツの襟元を摘まみ、パタパタと風を送った。くっきり浮き出た鎖骨がその隙間から覗く。

 「こんなに暑いなら、家で推理小説を読んでいる方が良かったよ」

 「……なあ一彩。お前って、コーヒーと推理小説以外には何も興味無いのかよ?」

 「そうだねえ……。じゃあ例えばきみは、何に興味があるんだい?」

 例えば。改めてそう聞かれると困る。俺は前を歩くワンピースの女性を目に留めた。

 「そうだな……。『彼女が欲しい!』とか」

 「ぼくは興味無いね。ホームズは『恋愛は理性とは相容れない』と言っていたよ」

 「そ、そっか。……でもほら。前を歩いてるあの人なんてメチャクチャ美人だぜ。俺だったら声を掛けたくなっちゃうけどな」

 「きみは、恋人を亡くしたばかりじゃなかったかい? ……それによく見てみなよ。彼女は子連れだ」

 一彩の言う通り、スカートの陰から、小学校低学年くらいの男の子がひょっこり現れた。その男の子は彼女にべったりくっついて歩いている。

 しかし結局、一彩はこの女性に声を掛けることになった。その男の子の口から、驚くべき言葉が放たれたからだ。

 「本当だってば、お母さん! 本当に、人が突き落とされたんだよ! あれは殺人事件だよ!」

 俺たちが声を掛けたのは、三ノ木全実さんという名前の女性だった。歳は恐らく三十代前半。息子さんの名前は丞哉くんで、小学一年生だという。

 「一彩はこれでも、殺人事件を幾つも解決したことがある名探偵なんですよ!」

 全実さんは急に二人の男に話しかけられて戸惑っていたが、「名探偵」という言葉を聞いた丞哉くんがはしゃぎ出したため、渋々事のあらましを説明する羽目になった。

 「……二日前、向かいのマンションで投身自殺があったのよ」

 日暮通りを真っ直ぐ歩く事三十分。全実さんに案内されたのは、十二階建ての綺麗なマンションの前だった。彼女が指さした地面には、赤黒い染みが出来ている。

 「その日は朝からパートに出掛けていたんだけど、夕飯前に帰ったら、ご近所さんから『人が亡くなった』って聞いて。丞哉にそれを話したら、『人が突き落とされるのをベランダから見た』って騒ぎ出して……」

 その説明の間中、丞哉くんは「本当だよ!」「嘘じゃないよ!」と繰り返しながら、俺たちの間を飛び跳ねていた。

 「……もし宜しければ、ベランダを見せて頂けないですか?」

 しばらく顎に手を当てて考えていた一彩は、全実さんにそう提案した。


 俺たちはウォンウォンと音がするエレベーターに乗り、「803」と表札が出ている部屋の前に来た。事件があったマンションに比べると、こちらはやや年季が入っている。

 全実さんが玄関の鍵を開けるなり、丞哉くんが凄い勢いで中に飛び込んだ。

 「あそこだよ! あそこから見たんだ!」丞哉くんに続き、俺たちも大きな窓を開けてベランダに出る。

 確かに、ベランダからは向かいのマンションがよく見える。室外機と窓枠の間には、ベランダ用のサンダルと、夏休みの宿題であろうアサガオの鉢植えが置かれていた。俺はサンダルの右足を、一彩は左足を履いて、片足を浮かせながら柵にもたれかかり、外を見まわした。子供の目線だと、目の高さに柵が当たる。下を覗くと、さっきまで俺たちが囲んでいた例の赤黒い染みが見えた。

 「……それで? 人が突き落とされたっていうのは、どの部屋だい?」

 一彩の質問に、丞哉くんは迷い無く腕を伸ばして、向かいのマンションの角の部屋を指さした。

 「いち、にぃ、さん、し……十階の部屋だな」俺は人差し指を使って、下から当該の部屋の階数を数えた。

 「そう。十階だったよ。その時、僕も数えたから」

 「事件を目撃した経緯を話してくれるかな?」

 首を傾げた丞哉くんに「経緯」という言葉の意味を説明してやると、彼は生き生きと話し始めた。

 「事件を見たのは昨日の昨日だよ。お母さんが出掛けた後、アサガオの観察日記を書こうと思って――あ、夏休みの宿題だよ――それで、ベランダに出たんだ。そうしたらあの部屋のベランダに男の人が二人いて、ケンカしてるみたいで……。少しして、一人が突き落とされたんだよ!」

 俺は足元のアサガオを見た。夏休みも終わりが近い事もあり、アサガオはすっかり成長しきっている。青いプラスチックの鉢には、「みつぎ じょうや」と印字されたネームシールが貼られていた。

 「突き落とした人の顔は見たかい?」

 「ううん。柵のせいでよく見えなかった」

 「見たのは何時頃か分かる?」

 「十時半ぐらいかな」

 「ねえ丞哉くん、確認だけど。君が見たのは、確かに十階だったんだね?」

 「そうだよ。アサガオの花の高さを測ってて、そのまま顔をずらしたら向こうのマンションのベランダに人がいたから、間違いないよ!」

 一彩と丞哉くんは、横に並んでベランダの柵に顔を近づけた。一彩が興味を持ってくれたのがよほど嬉しいのか、丞哉くんは柵の隙間から鼻を突き出して、外のアレコレを説明している。俺はというと、外の暑さに我慢が出来なくなったので、一足先に冷房の効いた室内へ逃げ込む事にした。

 「……折角来て貰ったのに悪いんだけど、丞哉の言っている事は多分嘘なのよ」ダイニングでグラスに氷を入れていた全実さんが、俺に言った。

 「嘘って……?」

 「あの子、嘘ばっかりつくから困ってて」そう言った全実さんは、溜め息と一緒に愚痴を吐くように話し始めた。

 「ウチ、母子家庭でね。周りの友達と違ってウチには父親がいない事が、あの子のコンプレックスみたいで。学校で『お父さんと出掛けた』『お父さんと遊んだ』って言いふらしてたらしいの。それ以来、嘘をつくのがあの子の癖になっちゃって。そのせいで、友達からも避けられてるみたいなのよ」

 全実さんはベランダに目をやり、柵に手を掛ける丞哉くんを見た。その隣には同じポーズをした一彩がいる。二人の様子はまるで、歳の離れた兄弟のようだった。

 「だから、今回の事もきっと嘘よ。パートで忙しい私に、構って欲しいだけなんだわ」

 全実さんは頭を抱えた。黒く長い髪を掻き上げると、左目の泣きぼくろが目に入った。

 俺が慰めの言葉を掛けようと口を開いた時、無邪気な兄弟がダイニングに駆け込んで来た。二人共満足げな様子だ。

 「丞哉、あんまり一彩くんを困らせちゃダメよ」

 「困らせてなんかないもん! ね、一彩お兄ちゃん」

 頬を膨らませる丞哉くんに、一彩はニコッと微笑んで答えた。

 「そんな事言って。今回も、どうせ嘘なんでしょ」

 「嘘じゃないよ!」

 「全実さん。陸くんは、『嘘じゃない』と言っていますよ」

 一彩がそう言うも、全実さんは「でも……」と眉を顰めたままだった。

 母親からまるで信じて貰えていない事を察知した丞哉くんは、拗ねてリビングの方に行ってしまった。

 「……丞哉くんが嘘をついているという根拠が、何かあるんですか?」

 「亡くなった人は、丞哉が言っている十階じゃなくて、九階に住んでる人だったのよ。だから丞哉は、私から人が落ちた話を聞いて、適当にでっち上げたのかと思ってるの」

 「でも、丞哉くんが言う通り、亡くなった人が十階から落ちたのかもしれませんよ? 上の階の人とトラブルになったとか……」俺がそう言うも、全実さんは首を振った。

 「落ちる直前に、その人が九階の自分の部屋に入るのを目撃した人がいるのよ」

 「その目撃者も、マンションの住人ですか?」

 「いいえ、出前の人らしいわ。近くの中華料理屋さんの」

 「でも、その中華料理屋さんの方が見間違えたって可能性も……」

 「それだけじゃないのよ。丞哉は『アサガオの花の高さを測ってて、そのまま顔をずらしたらそのベランダが見えた』って言ってたでしょ?」

 「はい」

 「私も気になって、後で丞哉の観察日記に書いてある高さに目を合わせてみたの。そうしたら、そこから見えたのは十一階だったのよ。でも、何度確認しても『十階だった』って言い張るし……。あの子、デタラメを言って私を困らせてるのよ」

 それを聞いた一彩は顎に手を当てて考え込んだ後、席を立ち上がった。

 「……よし。翔くん、まずはその中華料理屋を当たってみようか」

 「お、おう」

 「丞哉くんの見間違いなのか、それとも嘘なのか……。確かめてみよう!」

 一彩がアイスコーヒーに一切口を付けなかったのを見た全実さんは、「コーヒー、嫌いだった?」と尋ねた。しかし一彩が「ぼくは特別なコーヒーしか飲まないことにしているんです」と言ったため、全実さんは呆気に取られて口をポカンと開けた。

 玄関に向かって歩き出した俺たちがふとリビングに視線をやると、丞哉くんはソファーにだらしなく座り、スマホを横持ちにしてゲームに夢中だった。

 「こら丞哉! 今日の宿題やったの? アサガオの観察日記、毎朝書くって約束したでしょ!」

 「分かってるよー。ちゃんと毎朝書いてるってば」

 丞哉くんはスマホをソファーに投げ置いた。画面にはトランプが表示されている。ペイシェンスのゲームをやっていたようだ。

 スマホの代わりに、丞哉くんは足元に落ちていた冊子を取り上げた。それと同時に、一彩が開いたページを覗き込んだ。

 「それが観察日記かい?」

 「うん、そうだよ。毎朝書いてるんだ。お母さんと約束したから。約束守れば、ゲーム買ってくれるって」

 「事件を見た日も?」

 「うん」

 「……なるほどね」

 一彩は含みのある言い方で納得した。気になった俺も観察日記を覗き込むと、色鉛筆の乱雑な線で描かれたアサガオが目に飛び込んで来た。


 「……嘘をついている様には見えなかったよなぁ、丞哉くん」

 件の中華料理屋に向かう炎天下の道中、俺は隣を歩く一彩に話しかけた。

 しかし一彩は返事をせず、俯いて顎に手を当てながら、ブツブツ独り言を言っている。

 「俺には、本当の事を言ってる様に聞こえたな。……やっぱり丞哉くんの言う通り、亡くなった人は十階から人と揉み合って落ちたんだよ」

 俺たちが丁度中華料理屋の前に到着した時、店の引き戸を開けて出て来た男が「いや、そいつは違うな」と言った。

 その男とは、警視庁捜査一課の刑事・岸谷学刑事だった。後ろには、彼の上司である利根川葵刑事もいる。

 岸谷刑事は右手で「中華料理 密道」と書かれた暖簾を押し上げ、俺たちの傍に近付いて来た。

 「岸谷刑事と利根川刑事! ……今、『そいつは違う』って言いました?」

 俺の質問に、二人の刑事が頷く。説明をし始めたのは利根川刑事の方だった。

 「亡くなったのは馬田慎太郎さんと言って、保険会社に勤めるサラリーマンなんだけど。彼が住む901号室の玄関には、鍵とチェーンロックがしっかり掛けられていたのよ」

 「つまり、誰かが馬田さんを自室のベランダから突き落として殺害して逃げる事は、不可能って訳だ。勿論、馬田さんには合鍵を渡すような間柄の人もいなかった」

 岸谷刑事のドヤ顔にカチンと来た俺は、「じゃあやっぱり、本当は十階から突き落とされたんですよ」と応酬した。

 「それも違うな。たった今再確認して来たんだが、この店の出前が、馬田さんが落ちる直前に901号室に入る所を目撃してるんだ」

 「一彩くん、翔くん。二人がどうしてこの件を調べてるのかは分からないけど、馬田さんは間違いなく自殺よ。靴を履いていなかったし、部屋には鍵を掛けていたし」と利根川刑事。

 「その馬田さんという人には、自殺する理由があったんですか?」一彩が聞く。

 「務めている会社がかなりのブラックみたいで、馬田さんは肉体的にも、精神的にも疲弊していたみたい。亡くなった日も朝帰りで、転落した時もスーツを着たままだったから」

 二人の刑事が車に乗り込むと同時に、俺たちは店の中に足を踏み入れた。リノリウムの床は油でテカテカしている。

 一彩が厨房で暇そうに頬杖をついている店員に話しかけると、数分後に、厨房の奥の部屋から小柄で色黒の中年男性がひょっこり顔を出した。

 「私、さっき刑事さんに話したばかりネ」

 この中国人の男性こそ、馬田さんが亡くなる直前に、彼が部屋に入るのを目撃した人物だった。名前はコウさんというらしい。

 「お手数をお掛けして申し訳ありません。でも、もう一度お聞かせ下さい」一彩の丁寧な口調に、コウさんはしかめ面を緩めた。

 「分かったヨ。でも私、日本来たばかり。日本語あまり上手くない。許してネ」

 そう言うとコウさんは、グラスに注がれた茶色い飲み物を二つ用意してくれた。遠慮なく口を付けたが、意外な味にビックリした。どうやら、コーヒーと紅茶を混ぜた飲み物のようだ。一彩はそれを察していたのか、口を付けなかった。

 「……あの日、エレベーター壊れてた。だから、階段上って出前届けに行った。階数間違えてナインフロアで通路に出た。そしたら、男の人、手前の部屋に入っていったネ。すぐに階段室に戻ったら、大きい音した。出前届け終わってマンション出たら、その男の人が死んでて、周りに人がたくさん集まってたネ」

 コウさんは、前置きの割にはスラスラした日本語で説明してくれた。説明が終わると、照れ臭そうに頬を掻いた。

 一彩にお礼を言われたコウさんは、誇らしげに口元を緩めて、前掛けで手を拭うと厨房の奥に消えて行った。折角用意してくれたからと思い、俺は不思議な味の飲み物を一気に飲み干した。

 「今の人も、嘘を言ってる様には見えなかったな。やっぱり丞哉くんの見間違いだったのかな?」

 店を出ると、再び太陽が容赦なく体を焦がす。一彩は俺の質問に答えず、ただニヤッと笑ってこう言った。

 「翔くん。馬田さんを殺害した犯人が誰か分かったよ」


 「この前お話した通り、転落死した人は顔も知らないんですよ。知ってる事を話せと言われてもねぇ……」

 俺たちは利根川刑事・岸谷刑事と共に1001 号室の前にいた。

 玄関扉を手で抑えながら、住人である橋本陸さんが受け答えする。職業はガス会社の役員だそうだ。

 「ですが、向かいのマンションに住む子供が、十階のベランダで揉み合う人影を見たと証言していまして……」利根川刑事が足を一歩玄関の中に踏み入れた。シューズボックスの横にある大きなゴルフバッグのせいで、細身の利根川刑事ですら狭そうだ。

 「子供? ははは、だったら見間違いですよ。死んだ人がこの部屋に来た事なんか無いんだから」

 橋本さんはイライラした様子で「もういいですか」と言い、ドアを閉めようとした。その時、刑事の後ろに構えていた一彩が口を開いた。

 「『犯人は、物語の初期の段階から登場している人物であらねばならぬ』」

 「は?」

 「ロナルド・A・ノックスが定めた『探偵小説十戒』の一つ目の項目ですよ。『ノックスの十戒』という通称は有名ですね」

 「何なんだ、この少年は?」橋本さんが露骨に怒気を含んだ声で言った。

 「ですが、この事件がもしも探偵小説だとしたら、この項目からは外れてしまいますね。解決編になった今、ようやく犯人が登場したのですから」

 「はぁ? 俺が犯人だって言いたいのか?」

 「ええ。貴方が、馬田慎太郎さんをこの部屋のベランダから突き落としたんですね?」

 「バカ言うな。それを見たっていうのは子供なんだろ? だったら見間違いか、嘘をついているんだ」

 「いいえ。その子は見間違いもしていませんし、一つも嘘もついていません。ただ目撃した事をありのまま証言したのです」

 「だったら、出前の人が見たのは何だっの? 落ちる直前、馬田さんが901号室に入るのを見たって、間違いなく言っていたわ」利根川刑事が一彩に聞く。

 「コウさんは『901号室に入った』とは言っていませんでした。こう言っていたのです。『ナインフロアで手前の部屋に入るのを見た』とね」

 「同じじゃないのか?」俺が口を挟むと、一彩は首を振った。

 「違うんだよ。中国では日本と同じ様に階を数えるんだけど、香港だと数え方が異なるんだ。イギリス式の数え方なんだけどね、一階をグランドフロアとし、そこから二階をファーストフロア、三階をセカンドフロア……と数えるから、日本とは一階分ズレるんだ。コウさんはエレベーターでなく、階段で上がったから階数を勘違いしたんだね」

 「ってことは、あの出前の人は、十階の部屋に入る馬田さんを目撃したのね」

 「ええ。コウさんは『手前の部屋』と言っていました。そして向かいのマンションで目撃した子も、この部屋だと証言しています。つまり、この1001号室こそが犯行現場です」

 「……証拠は? 何か証拠があって言ってるのか!」橋本さんは突然大声を出した。日焼けした顔には青筋がくっきりと浮かんでいる。

 「靴です」

 「靴?」

 「ええ。馬田さんは落ちた時、靴を履いていませんでした。ですが、この部屋を訪ねてベランダから落ちたのなら、この部屋の玄関で靴を脱いだはず。当然、馬田さんが落ちた後は靴が残りますよね。貴方は、その靴をどうにかして隠さなければならなかった」

 「その靴がこの家のどこかにあるって言うのかよ! なら探してみろよ! そんなもんねーからよ!」

 「いえ、ぼくが貴方の立場なら、そんな証拠品はとっくに処分しているでしょう。外出時に目立たないように。……そう、例えば、このゴルフバッグなんかに入れて」

 一彩が大きなゴルフバッグに視線を向けると、橋本さんの顔色は見る見る内に蒼白になった。

 「靴は捨てたとしても、警察犬が嗅げば分かるでしょう。馬田さんの靴がこの中に入っていた事がね」

 その一言がチェックメイトであることは、橋本さんの表情で一目瞭然だった。


 「でも一彩。コウさんが香港出身だって、どうして分かったんだ?」

 後日、俺たちはマンションの近くにある小さな公園のベンチに座っていた。遠くでは、丞哉くんがブランコを立ち漕ぎしている。

 「お店でコウさんが出してくれたあの飲み物さ。紅茶とコーヒーを混ぜたあれは『鴛鴦茶』と言ってね。香港でポピュラーな飲み物なんだよ」

 「なるほどな。……とにかく、丞哉くんが嘘をついてた訳じゃなくて良かったよ」

 「そうね。刑事さんも、丞哉の目撃証言のお陰で犯人を捕まえられたって言ってたし。まさかあの子の言ってた事が全部本当だったなんて」俺たちの隣で、日傘を差した全実さんが言った。涼しげなブラウスの裾が微かに揺れる。

 ブランコの方を眺めている俺たちに、一彩が咳ばらいをした。

 「いいえ、全実さん。丞哉くんはやはり、嘘をついていたのです」その言葉に、全実さんは目を丸くした。

 「どういうこと?」

 「全実さん、貴方は丞哉くんと約束したそうですね。『アサガオの観察日記を毎朝書く』と。しかし実は丞哉くんは、あの日の朝、事件を見たショックで観察日記を書くのを忘れてしまいました。ですから、丞哉くんは全実さんが帰宅する直前――つまり、その日の夜――に慌てて書いたのです。その短時間でアサガオが成長していたため、後で全実さんが日記の高さと照らし合わせた時に、目線が十階ではなく十一階の高さになったという訳です」

 「でも一彩。橋本さんに言ってなかったか? 丞哉くんは『一つも嘘をついていません』って……。あ、もしかして」

 「そうだよ。あの時、嘘をついたのはぼくだ。『嘘をついていなかった』という嘘をついたんだ。そう言わないと、丞哉くんの証言に説得力が無くなってしまうからね」一彩が悪戯っぽく微笑んだ。

 「結局、丞哉は嘘をついてたのね。しかもゲーム欲しさで。後で注意しなきゃ」

 「まあまあ。今回は事件を目撃して、やむを得ない状況だった訳ですし……」俺が全実さんを宥めると、彼女は首を横に振った。

 「ダメよ。嘘をつく癖は子供の時に治して置かないと。大きくなって、困るのは本人なんだから。今も、友達から『嘘つき』呼ばわりされているみたいだし……」

 ふとブランコの方を見ると、丞哉くんの周りに、同じくらいの年齢の子供が三人集まっていた。内一人の、サッカーボールを抱えた少年が丞哉くんに一歩近づく。

 「おい、お前、事件を見たんだって?」

 「う、うん……」

 「すげーな! お前が見たお陰で、犯人捕まったんだろ? 俺たちにもその話、聞かせてくれよ!」

 丞哉くんと少年たちは、公園の中央に向かって走っていった。日傘の下で、全実さんが微笑むのが見えた。

 少年たちの姿が日光の下に消えると、一彩は大きく伸びをしてこう言った。

 「さて翔くん! 甘い物が食べたくなったな! 『グールド』に寄って、ティラミスとコーヒーを堪能しようじゃないか!」






※ロナルド・A・ノックス編『探偵小説十戒』(宇野利泰・深町眞理子訳、晶文社)から、文中のセリフを引用させて頂きました。

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