第一話 純潔のスミレ(後編)
【登場人物】
剣宮一彩…………大学生
四ツ野翔…………大学生
犬飼昴…………大学教授、考古学者
利根川葵…………捜査一課刑事
岸谷学…………捜査一課刑事
野間田元平…………鑑識課員
カフェのマスター…………カフェ「グールド」のマスター
江城茉莉…………小前田の姪
菅沼麗美…………使用人
小前田範人…………推理作家
金子忠…………小前田の担当編集者
モグ…………茉莉の飼い猫
麗美さんの遺体を発見してから三十分ほど経ち、館の外で救急車とパトカーのサイレンが鳴り響く。インターホンのチャイムに応じた茉莉さんが玄関扉の横の機械を操作すると、門が開くあの轟音がした。
「またお前たちなのか!」玄関扉からワッと入って来た救急隊員の後ろから、聞き覚えのある声がする。
岸谷学刑事が、厭味ったらしい口調で俺たちに声をかけた。その後ろには利根川葵刑事が腕組みをして立っている。いずれも「緑川家殺人事件」の時に知り合った捜査一課の刑事で、岸谷刑事は長身痩躯の男性。利根川刑事は巻き髪の小柄な女性刑事だ。
「じゃあ一彩くん、翔くん。これまでの経緯をざっと教えて頂戴」
利根川刑事から説明を求められた俺たちは、殺害予告のことから、遺体を発見までのことを詳らかに話した。その後ろで、麗美さんの遺体が担架で運ばれていった。
「……なるほど。貴方たちは小前田さんが狙われると思っていたけど、実際の標的はその使用人・菅沼麗美さんだったのね」
「はい、恐らく」利根川刑事の解釈に、一彩が同意する。それに異を唱えたのは、部下である岸谷刑事だった。
「でも利根川さん。こうは考えられないスか? 小前田さんを狙った犯人が館に忍び込み、標的を探してうろついているところに菅沼麗美さんが鉢合わせしてしまい、顔を見られた犯人に口封じで殺された……。犯人は遺体を隠した後で小前田さんを狙おうとしたが、書斎の前に一彩くんと翔くんが張り込んでいるのを見て、標的の殺害を諦めた……」
「いえ岸谷刑事、それは考えにくいですよ。麗美さんを口封じで殺害したのなら、ぼくたちのことだって躊躇なく襲うでしょう」一彩が顎に手を当てて俯く。
「それに、次の点が引っかかっているんです。まず一つ目は、殺害予告を出してまで麗美さんを殺したかった理由。二つ目は、凶器にコレクションルームのナイフが使われたこと。犯人が外部の人間だとしたら、いつ、その凶器を手に入れたのか? そして三つ目。これが特に不思議なのですが……」そこで一彩は顔を上げた。俺はもちろん、利根川刑事と岸谷刑事も一彩の次の言葉を待ち望んでいる。
「犯人がどうやって館に侵入したのか。玄関と勝手口の扉には鍵がかかっていて、館じゅうの窓は鎧戸が閉じられていました。さらに、館は高い鉄柵で囲まれています。そこを通るには門を開ける必要があるのですが、カードキーが必要ですし、音の問題もあります」
「音の問題?」
「はい。あの門は開閉時にとてつもなく大きな音がするんです。昨日、ぼくたちがここに来た時も、金子さんが夕食後に帰られた時も、館の中からも門の音が聞こえました。ですが、昨夜は一晩中、門の音はしませんでした。そうだよね、翔くん」
同意を求められた俺は、昨夜のことを思い出した。眠気に見舞われた瞬間もあったが、一晩中一彩と話していたため、最後まで眠りに落ちることはなかった。だから、門の音がしなかったことは確実だ。(今は警察や救急隊員が頻繁に出入りするため、門を開けっ放しの設定にしてあるらしい)
「そうなると、犯人は内部の人間だと考えるのが自然ね」利根川刑事が目を見開いた。
「しかしそうすると、四つ目の問題が出てきます。四つ目、それは遺体がワインセラーで見つかったことです」
一彩はそう言うと、ワインセラーの入口の指紋認証機の近くまで二人の刑事を誘導した。
「この指紋認証機を開けられるのは、麗美さんと小前田さんのみです。それ以外の人は開けられません。小前田さんは、昨夜ぼくたちが部屋の前で寝ずの番をしていたため、書斎を抜け出していないことは確かです。つまり、唯一ここを自由に開けられる人物に犯行は不可能ということになります」
「でも一彩くん。例えば、犯人が麗美さんをワインセラーまで呼び出し、適当な口実で開けさせてから中で殺害に及んだって可能性も……」利根川刑事が口を挟んだ。
「いえ、それも不可能なんです。小前田さんを除けば、犯行が可能なのは茉莉さんと、夕食後に中座した金子さんのみです。茉莉さんは車椅子のため階段が降りれず、ワインセラーの中の箱に遺体を詰めることは不可能です。そして夕食後に館を離れた金子さんは、夜中のうちにこっそり戻ってくれば犯行が可能ですが……」
「そうか、それなら門の音がしたはず!」
「そう。よって、小前田さん、茉莉さん、金子さんには犯行が不可能なんです」
一彩の言葉は、俺や二人の刑事に衝撃をもたらした。ワインセラー内の箱に詰められた遺体。犯人は外部から侵入していない。かといって、内部の人間には犯行が不可能……。犯人は一体誰で、どうやって麗美さんを殺害したんだ? それに、麗美さんを殺害した理由は?
俺が考えていると、岸谷刑事がニタニタ笑いながら言った。「もう一つ可能性があるじゃないか。お前たちのどちらかが犯人である可能性だよ」
「だから、俺たちは一晩中話し合ってたから、お互いにアリバイを証明してるんですよ!」俺は憤慨したが、岸谷刑事は「だったら二人で協力したんだ」と、譲らない。
「では、小前田さんに確認してみてください。昨夜の犯行時刻、書斎の扉の前でぼくたちが話している声が聞こえたはずですから」一彩がそう言うと、岸谷刑事はうーんと唸った。
「とにかく岸谷くん。他に館に入る方法がないか、探してみるわよ」
二人の刑事が行ってしまった後も、俺たちはワインセラーの扉の前に残って考え事を続けていた。扉は、警察と救急が小前田さんに頼んで、開けっ放しの状態にしてある。
「なあ一彩、これって……」
「不可能犯罪だね」そう呟く一彩の声は、どこかアンニュイだった。
「どうしたんだよ? 推理小説マニアのお前なら食いつくと思ったのに。まるで興味がなさそうじゃないか」
「小説と現実は違うよ、翔くん」
一彩は呟くと、よろよろとした足取りで近くの壁にもたれかかった。
「でもお前、犬飼教授に殺害予告を見せられた時、目の色を変えてただろ」
「いや、あれは何としてでも小前田さんの命を守らなければ、という使命感に滾っていただけだよ。でも、事件は起きてしまった。絶対に小前田さんを死なせないという約束は守れたけど、麗美さんが死んでしまった。……ねえ翔くん。ぼくは腹立たしいんだ。事件を防げなかったことが。尊い命が奪われてしまったことが……。きみはぼくのことを『名探偵』だと思っていたみたいだけど、だとしたら教えてくれないか……。『名探偵』が存在することで誰かが命を落としてしまう。ぼくが存在する意味とは何なんだい……?」
こうも力を落とした様子の一彩は初めて見た。普段は尊大な口調の美少年が、顔に青ざめた影を作っている。
……俺は一彩の問いへの答えを知っている。しかし、それを伝えるべきか迷っている。何故ならその答えは、一彩には酷なものかもしれないのだ。だが俺は、目の前で生きる意味を失っている一彩を見捨てられなかった。彼は、恋人を亡くして生きる意味を無くしたあの時の俺自身のようだったから。
「お前が、――『名探偵』が――存在する意味があるとすれば、それは『事件を解決する』ことなんじゃないか」一彩をぐっと見つめる。俺の瞳の中の美青年は、もたれかかっていた頭を僅かに上げた。
「『事件を解決する』……?」
「そうだよ。……確かに、小説の中の名探偵は、自分の知的好奇心を満たすために謎を求めるヤツらも多いと思う。でも、お前は違うだろ? お前には事件を解決する力がある。お前は探偵なんだ。その素質がある。俺に助手としての素質があるように。だから、解決しよう。亡くなった麗美さんのために、遺された茉莉さんたちのために。そしてこの国に、殺人犯が野放しになることがないように。法で正しく裁かれるために」
柄にもなく長広舌を振るってしまった。きょとんした顔で話を聞いていた一彩が、口を大きく開けて笑い出す。
「ははは! 翔くん、やっぱりきみは凄いなあ!」
「……え?」
「きみの言う通りだね。とにかく、ぼくが本当に名探偵たり得るかどうかを確かめるためにも、この事件を解決するために動いてみようか」青ざめていた彼の顔は、晴れやかなものに変わっていた。
「じゃあ翔くん! さっそく『捜査』を始めよう!」
「お、おう……」さっきまでの落ち込みっぷりとのギャップに驚きつつ、俺は一彩に笑顔が戻ったことが嬉しかった。やっぱり一彩には、自信過剰な態度が似合う。
俺たちは冷たい階段を下りて、ワインセラーの中に入った。一彩は遺体があった近くにいる、青いユニフォームの男性を捕まえて話しかけた。
「野間田さん! お久しぶりです」
「お、おう……! 君たちか」
この野間田元平という鑑識課員もまた、以前の事件で知り合った人物だった。ごま塩の頭を短く刈り込んだ、典型的な中年男性だ。
野間田さんを説得して聞き出した麗美さんの死亡推定時刻は、一時から三時の間。殺害予告の時間と一致している。
「ナイフからは指紋が出ましたか?」
一彩の質問に首を振って答えた野間田さんは、麗美さんのスマホをチャック付きポリ袋の中に入れた。
「あ、そのスマホ……。着信履歴は調べましたか? もしかしたら、誰かが夜中に麗美さんを呼び出して、ワインセラーを開けさせたかもしれないので」
「調べたけど……。ここ数日の間に着信はなかったよ」
一彩に感謝の言葉を述べられた野間田さんは、鑑識作業に戻って行った。一彩が再び顎に手を当てて考え込む。その仕草はまさに、小説に出てくる名探偵そのものだ。おまけに彼の美貌は作品によく映える。
俺たちが応接間の方に歩き出すと、玄関扉が大きな音を立てて開いた。飛び込んできたのは、慌てた様子の金子さんだ。
俺たちの姿を認めた金子さんが駆け寄ってくる。
「一彩くん、翔くん! 麗美さんが亡くなったって本当かい!」
「はい。ぼくたちがいながら、守りきれませんでした」
「でもどうして麗美さんが……。私はてっきり、小前田先生が狙われているんだとばかり思ったんだが」
「ぼくたちも同じですよ。すっかり犯人に踊らされました」一彩が拳を強く握る。
「ところで金子さん。この後、貴方は警察の聴取を受けることになると思うのですが、その前にぼくたちからも質問させて下さい」
「あ、ああ。いいけど……」金子さんはハンカチで額の汗を拭った。
「念の為お聞きするだけですが、昨夜の一時から三時までの間、どこで何をされてたんですか?」
「今日の朝までに仕上げなきゃならないページがあったんで、スフィンクス社に泊まり込んで仕事をしていたよ。ただ、その時間だったら丁度、仮眠室にいた頃かな」
「証明してくれる人は?」
「うーん、いないかな……」
金子さんが務めているスフィンクス社は、俺たちのアパートがある日暮通り沿いにある。俺たちのアパートからこの館までは片道一時間ほどだったので、金子さんが車を使えば犯行は充分に可能だ。……もちろん、門の音の問題がなければ。
「ちなみに金子さんは、どれほどの頻度でここに来ていたんですか?」
「最初は月に一回ペースだったんだけど、最近は週一回くらい来ていたよ」
「随分頻繁に来ていたんですね」
「まあ……。小前田先生には、色々と雑用を押し付けられていたからね」金子さんが苦々しげに呟く。
「それほどよく来られていたなら、この館には詳しいですよね?」
「いや、応接間と自分のゲストルームと、食堂ぐらいしか入ってないから。……あ、あとは小前田先生の書斎か」
「書斎にもよく入るんですか?」
「書きかけの原稿を、書斎で読ませて貰ってるんだ。周りに資料があるから、書斎にいた方が便利で」
「小前田さんはあんな性格なのに、書斎に人を入れるのは嫌じゃないんですね」俺は意外だと思った。
「いや、私も最初は書斎に入れるのを渋られたよ。でも、その方が効率的だってなって……。まあ、私以外の人には原稿を見られたくなかったみたいでね。麗美さんですら、書斎に入れたことが無いと言ってたよ」
「そうですか。その麗美さんについては、何か知っていることがありますか? 小前田さんや茉莉さんとトラブルになっていたとか」
「いや、分からないな……。あまり話したこともないし、彼女、無口だったから」
金子さんがワイシャツの胸ポケットに挿した扇子を広げ、パタパタと顔を扇ぐ。すると、奥の部屋にいた利根川刑事と岸谷刑事が、金子さんを見つけて駆け寄ってきた。
「金子忠さんですよね。私たちにもお話を聞かせてください」
金子さんは二人の刑事に連れられ、応接間に入った。それと入れ替わるように、応接間からモグを抱えた茉莉さんが出てくる。今の今まで、彼女が聴取を受けていたようだ。茉莉さんは俺たちに気が付くと顔を上げ、気丈な表情を見せた。
「ああ、一彩さん、翔さん。大変なことになってしまって――」茉莉さんの目に涙が滲む。
「茉莉さん、ごめんなさい。俺たちがついていながら……」
「いえ、お二人のせいではありません。私だって、あの殺害予告は叔父に宛てられたものだとばかり思い込んでいましたから。でも、どうして麗美さんが……」
「そのことなのですが、麗美さんが殺される理由に心当たりはありませんか?」と一彩
「いえ、まったく……。彼女は滅多に外出しませんでしたから。他に親しい人がいたとも聞いた事がありませんし。まあ、麗美さんでなく、叔父を恨んでいた人はたくさんいたみたいですけど」
「……というと?」
「実は、叔父への殺害予告はこれまで何通か届いたことがあるんです。ですが、これまでは全てただの悪戯でした。叔父は、人気が出た作中の登場人物を惨たらしい殺され方で退場させることがしばしばあったもので、読者から反感を買いやすかったみたいです」
(なのでぼくは、貴方の作品が嫌いなのです。作品を彩るために命を蔑ろにしているような気がして)
俺は書斎での一彩の言葉を思い出した。
「確かに、小前田さんにはアンチも多いようですね。……話を戻しましょう。麗美さんはいつからここで働いていたのですか?」
「二、三年ほど前からです。前に雇っていた使用人が、叔父の性格に我慢が出来なくなって辞めて、急遽雇われたんです」
「なるほど。あの殺害予告の手紙を初めて見た時、麗美さんはどんな様子でしたか?」
「とても驚いてました。ただ、麗美さんも叔父への手紙だと思い込んでいたようですが……」そこで茉莉さんは目を伏せた。生前の彼女の姿を瞼に投影しているかのようだった。
金子さん、茉莉さんの順番で話を聞いた俺たちは、重要人物の最後の一人・小前田さんを探した。キッチンを覗く俺たちの後ろから、例の嗄れ声が聞こえる。コーヒー中毒の小前田さんが禁断症状を抑えに来たのだ。
「約束通り、俺のことは死なせずに守ったが、麗美は殺されちまったな」小前田さんは皮肉を言いながら、棚の上からコーヒーフィルターが収納されたホルダーを取り、カウンターの上に置いた。
「小前田さん、貴方にも聞きたいことが……」
「後にしてくれ。今はコーヒーを飲んで落ち着きたいんだ」
小前田さんが冷蔵庫からペットボトルを取り出した。ラベルには「軟水」と表示されている。それをポットに注いだ時、キッチンに茉莉さんが飛び込んできた。
「叔父様、刑事さんが書斎に……」
茉莉さんの言葉を聞いた小前田さんは手を止め、血相を変えてキッチンから飛び出した。ドタドタと階段を駆け上がる音がし、二階から小前田さんの怒号が聞こえる。俺たちも後に続いて二階に上がると、書斎の前で小前田さんと岸谷刑事が言い合っていた。
「あなたの使用人が殺されたんですよ? 協力して頂かないと……」
「協力なら他にいくらでもする。だがこの部屋を荒らすことは、いくら警察でも許さない」
「荒らすんじゃなくて、怪しい物がないか調べていただけなんですがねえ!」
「怪しい物など何もないと言っているだろう!」
小前田さん氏は岸谷刑事を無理やり書斎の外に出そうとした。そんな二人の間に、一彩がするするっと細身を滑らせる。
「では小前田さん。警察の代わりに、翔くんとぼくが調べるというのはどうでしょう」
「お前らだってダメだ。書斎には大事な物や書類がたくさんあるんだ」
「でも、昨夜は小前田さん自ら入れて下さったじゃないですか。昨夜は良くて、今はダメな理由があるんですか?」
「いや、それは……」
「いいですよね? 小前田さん」
一彩は大きな瞳で小前田さんをじっと見つめた。屈託のない、猫のような瞳だ。これほどの美貌の持ち主に見つめられて、平気でいられる人間はそう多くないと思う。
「……お前たち二人とも、部屋の中の物には絶対手を触れるなよ」
「はい」
「絶対だぞ」
「はい。安心してください、ぼくは嘘をつきませんから」
一彩と俺だけが書斎を調べることに、岸谷刑事が猛烈に反発したが、効果はなかった。一彩と俺と小前田さんが書斎の中に入り、扉の前で岸谷刑事がそれを見ることになった。犬飼教授が言っていた、「小前田氏は警察嫌い」という言葉を思い出す。
部屋の中は昨晩とまったく同じだった。机の上は資料などで溢れているし、至るところに付箋が貼られている。
一つだけ、昨晩と違う点があった。岸谷刑事が調べるために、鎧窓が開けられているのだ。この館に来て、初めて窓が開いた場面を見たことになる。太陽の光が注がれた室内の物が、白く輝いている。
「……特に変な物はありませんね」約束通り、俺たちは物には触らず、後ろ手を組んで部屋の中をうろついた。
「昨夜も気になったのですが、小前田さん。これは何でしょう」
一彩が指さしたそれは、机の下に置かれた箱だった。ところどころが錆びている、赤い鉄製の箱だ。
「ああ、工具箱だよ。椅子の調子が悪くて直そうと思っていたんだが、すっかり忘れていた」
そう言うと、小前田さんは頼んでもいないのに工具箱を開けて中身を見せてくれた。カナヅチ、ペンチ、ドライバーなどなど、なんの変哲もないラインナップだ。一彩は首を伸ばして箱の中を覗き込んだ。
俺たちは室内をうろついて隈なく調べたが、他に怪しいものは無さそうだった。膨大な資料や本の隙間に何か隠されている可能性もあるが、物に触れない約束をしたため、手が出せない。
退室しようと扉に近づくと、一彩が俺の腕を掴み、耳打ちした。「翔くん、お願いがあるんだけど……」
俺にだけ聞こえたそのお願いは、あまりにも理解し難い内容で、思わず声が漏れそうになる。
「お前、何言って……。そんなことしても意味無いってことは、俺たちが一番よく知ってるだろ?」
「いいから、お願いだよ翔くん。きみにしか出来ないんだ」
一彩は上目遣いで俺をまじまじと見つめた。この男は、自分の美貌が武器になることを分かっているのだろうか。
「わ、わかったよ……」
これ以上一彩に見つめられると、凡人の俺の脳はキャパオーバーになりそうだったので、渋々彼のお願いを承知した。
俺は踵を返して部屋の奥に進むと、開け放たれている窓の前で立ち止まった。困惑する小前田さんと岸谷刑事の声が聞こえる。彼らを無視して、呼吸を整える。俺は鎧窓に手をかけ、勢いよく窓にぶら下がった。
「お、おい! 何をしている!」
俺の体は二階ぶんの高さに宙ぶらりんになった。足は地面の遥か上で八の字を描いている。
俺は一彩に言われた通り、片方の手を窓から離し、向かい側のユリノキの枝に伸ばした。しかし、どう頑張っても枝には届きそうもなかった。腕を伸ばしても、一、二メートルほど足りない。そのことが分かると、思い切りよく体を曲げて飛び上がり、そのまま宙返りして、室内の安定した床に着地した。
「人間の身体能力とは思えないな。お前、前世はオランウータンか何かだったのか?」扉の前で見ていた岸谷刑事が、感心と呆れが混じった褒め言葉をくれる。
「誰が『森のバター』ですか!」
「翔くん、それだとアボカドだよ。オランウータンは『森の人』」
「あ、そうだっけ?」
そんな馬鹿馬鹿しいやり取りをしている俺に、小前田さんが歩み寄る。彼の顔が目の前に現れたと思うと、俺は胸倉を掴まれていた。
「お前どういうつもりだ! 中の物には触れるなと言っただろう!」
「すみません小前田さん。ですが落ち着いてよく見てください」凄まじい剣幕の小前田さんを制した一彩が、外に向かって開いた窓を指さす。
「貴方は先ほど『部屋の中の物には絶対触るな』とおっしゃいました。ですがあの窓は、どう見ても『部屋の外』にあります」
一彩は屈託のない笑顔で「ね?」と付け足した。
……どう考えても屁理屈だ。しかし、一彩には感情的になっても無駄だと気付いたらしく、小前田さんは大きな舌打ちをして俺から手を離した。
「とにかく、ここには何も無いことが分かっただろ。そろそろ一人にさせてくれ」
小前田さんは俺たちを書斎の外に出し、扉を閉めて鍵をかけてしまった。
書斎の外で待機していた岸谷刑事は厭味ったらしい笑みを浮かべている。
「……お前たちもあの窓が怪しいと思ったんだな。小前田さんが夜中のうちに窓から木に移って、一階から館に入り、ワインセラーで菅沼麗美さんを殺したと。小前田さんは勝手口の鍵を持っていたようだし。でも、書斎の窓から木へは、どう頑張っても飛び移れないみたいだな」岸谷刑事は一彩の肩をポンと叩いた。一彩は否定も肯定もせず、微かに口元を歪めた。
岸谷刑事が下の階に下りていくと、一彩が歪んだ口を開いた。
「翔くん。ぼくたちはもっと単純に、事件全体を見て考えるべきなのかもしれない。……オーギュスト・デュパンは『モルグ街の殺人』の時にこう言った。『真理はかならずしも、井戸の底にあるわけじゃない』と。『深さがあるのは、ぼくたちが真理とか知識とかを探す谷間のほうなんで、それをみつけることができる山頂には、深さなんてない』とね。」
「お、おーぎゅすと……?」
「オーギュスト・デュパン。エドガー・アラン・ポーが生み出した名探偵さ。彼が初めて登場する『モルグ街の殺人』は、世界最初の推理小説だと言われているんだ」
「で? そのデュパンのセリフが何だって?」
「だから、事件をもっと全体的に見るのが大事なんだよ。そもそもどうして小前田さんは、犬飼教授を呼んだのか……」
「そりゃー、知り合いだったからじゃ」
「でも、人嫌いの小前田さんが人を呼ぶというのが腑に落ちなくてね……」
一彩は考え込んだ後、スマホを取り出して犬飼教授に電話をかけた。
「ああ、犬飼教授。一つお聞きしたいのですが」
『ん、何だ? っつか、小前田さんは無事なのか?』
「それについてはまた今度、研究室にお邪魔した時に詳しくお話しますよ。それよりも……教授は小前田さんと親しかったんですか?」
『親しかった、とは言えないな。パーティーで知り合って、連絡先を交換しただけだよ。それが急に、例の手紙についての相談の連絡が来たんで、ビックリしたんだ』
犬飼教授にお礼を言って電話を切った一彩は、何かを確信したような表情を浮かべていた。
「翔くんの言った通りだ」
「……え、何が?」
「ぼくは『探偵』だったんだ!」
「そ、そうだな」一彩の言うことがさっぱり分からず、俺は適当な相槌を打った。目の前にいる美少年は、子供のような無邪気な笑顔を浮かべている。
二人で階下に戻ると、応接間にいる茉莉さんと金子さんがぐったりしていた。俺たちや警察にあれこれ聞かれ、すっかり疲れてしまった様子だ。
「あ、俺、コーヒーでも淹れてきましょうか?」
「やめときなよ翔くん。きみの淹れるコーヒーは美味しくないんだ」茉莉さんを励まそうとした俺の提案は、一彩の空気の読めなさにぶった切られた。
そんな俺を見かねて、茉莉さんがぱんっと手を叩く。
「それでしたら翔さん。スミレ紅茶にしましょう。気分が落ち着きますよ」
「い、いいですね……」俺は苦笑した。これでは逆に、茉莉さんに励まされた形だ。格好悪い。
俺たちはキッチンに入り、茉莉さんが紅茶が淹れる様子を見守った。茉莉さんのために、通常の高さのカウンターの横に低いカウンターが備わっていて、そこには紅茶を淹れる一式が揃っている。一彩はカウンターの上に置かれたままのコーヒーフィルターホルダーを見つめていた。
応接間に戻り、俺たちはスミレ紅茶を味わった。香水とはまた違うタイプのスミレの香りが、鼻の穴から入って脳にまで行き渡るようだった。茉莉さんの言う通り、昂っていた気分がじんわりと落ち着いていく。
そこに、利根川刑事が入ってきた。
「茉莉さん。麗美さんの部屋を調べさせて頂いてもよろしいですか」
「あ、はい。部屋の場所は一階の――」
茉莉さんが説明し終えると、一彩は残っていた紅茶を飲み干し、利根川刑事の後ろにくっついた。
「ぼくも一緒に調べます」
麗美さんの部屋は綺麗に整頓されていて、彼女の几帳面さを物語っていた。内装はシンプルで、極端に物が少ない。
部屋の中を調べる利根川刑事と岸谷刑事に混ざって、一彩もちゃっかり室内を物色し始める。一彩は二十冊前後の本が入った本棚に目を留めた。
「一彩、本棚がどうかしたのか?」
「いや、この一冊だけ書店のブックカバーがしてあるのが気になって」
一彩はそう言って、その本を手に取る。しばらく眺めた後、おもむろにカバーを外し始めた。
「これは!」
ブックカバーの裏には、ボールペンで文章が書かれていた。恐らく、麗美さんの自筆だ。
――私は汚れてしまった 愛しい人を裏切った――
一彩が驚いた声を聞いて駆け寄った利根川刑事が、カバーを覗き込む。
「『愛しい人』って、麗美さんには恋人がいたの?」
「でも茉莉さんは、『麗美さんは滅多に外出しなかった』って言ってました。とても恋人がいたとは……」俺は利根川刑事に言った。
「となると、小前田さんか金子さんが怪しいわね。あの二人と関係を持っていたなら、館から出ずに密会出来るわ」
新発見に盛り上がる二人の刑事にブックカバーを渡した一彩は、麗美さんの部屋から出た。
「……なあ一彩、あの文はどういう意味なんだろう?」
俺が問いかけると、一彩は顎に手を当てて考え込んだ。次第にその口元が吊り上がっていく。
「……『ぼくたちが今やっているような捜査では、〈どういうことが起ったか〉じゃなくて、〈今まで起ったことのない、どういうことが起ったか〉が問題にならなくちゃならない』」一彩が芝居がかった口調で話す。
「……また何かのセリフか?」
「うん。これも『モルグ街の殺人』のセリフさ。翔くん、この事件は不幸な偶然が重なった悲劇だったんだ」
「不幸な偶然?」
「誰が麗美さんの命を奪ったのか。それが今分かったよ」
応接間に六人の人間が集まった。一彩と俺、茉莉さん、金子さん、利根川刑事と岸谷刑事だ。書斎に籠る小前田さんにも声をかけたが、頑なに出てこようとしなかったので、彼を同席させるのは諦めることにした。
扉に背を向けて陣取った一彩と俺に対し、残りの四人は弧を描く形で並んでいる。一彩が小さく咳払いをした。
「それでは今から、この事件で計画されたトリックを明かしていく訳ですが……」
事件の真相が明かされようという段になり、一同は固唾を飲んで一彩を見守った。室内には何とも言えぬ緊張感が漂っている。
「その前に、事件を整理してみたいと思います。この事件には極めて不可解な特徴がありました。館にいた全員が、何らかの理由により犯行が不可能であることが証明されているのです。……まず茉莉さん」
一彩に名前を呼ばれた茉莉さんは、ビクッと肩を揺らした。
「貴方は車椅子のため、麗美さんの遺体があったワインセラーまで下りることが出来ません。また、ワインセラーの扉を開けることも出来ません。よって犯行は不可能です。……そして、金子さん。貴方もワインセラーを開けられませんし、夕食後に車で門を出た後、門は開きませんでした。今朝になるまでこの館に戻ってきていないということです。貴方にも犯行は無理でしょう」
一彩はここまで言うと、小さく咳払いをした。
「そしてぼくたちも犯人ではありません。ぼくは一晩中、書斎の扉の前で翔くんと話していましたから。ね、翔くん」
一彩に話を振られた俺は、戸惑いながらも、彼が言っていることが真実であることを確認して頷いた。
「ぼくは、書斎から小前田さんが出ていくところを見ていません。翔くん、きみもそうだよね?」
「ああ。小前田さんは書斎から出てこなかった。間違いないよ」
「よって、小前田さんにも犯行は不可能。一見そのように思われますが……」
一彩は応接間にいる全員の顔を見渡した。誰もが彼に注目している。
「小前田さんは、見張られた書斎から脱出し、麗美さんを殺害するトリックを思い付いていたのです!」
俺たち以外の四人はどよめき、互いの顔を見合わせた。
「謎を解く鍵は全て、小前田さんの書斎にありました。小前田さんは何故、頼まれてもいないのにわざわざ工具箱を開けて見せたのか……。あれは、『ここには怪しい物は入っていません』と印象づけるためだったのではないでしょうか」
「じゃあやっぱり、あの中に何かを隠していたんだな?」と岸谷刑事。
「いいえ、中は工具だけだと思います。ですが、それこそが重要だったのです」
そういうと一彩は、応接間の窓に歩みよった。
「この館の窓は、どれも二メートルほどの高さがありますよね。工具を使ってそれを取り外し、窓からユリノキの枝に引っかければ……橋となります」
「馬鹿な! 小前田先生は、窓の上を歩いて木に移ったっていうのか? いくらなんでも無理が……」金子さんが反発する。
「無理じゃないと思います!」俺は口を挟んだ。「書斎で木に飛び移れるか実験した時、俺が鎧窓からぶら下がっても、窓はビクともしませんでした。だから、俺と同じくらいの身長で俺より細身な小前田さんなら、窓を橋にしてその上を歩くぐらい出来ると思います!」
ナイスアシストだよ、とでも言いたげに、一彩がニッコリ笑った。俺と交替する形で一彩が発言を続ける。
「ぼくと翔くんが見張る書斎の扉を通ることなく、小前田さんはこっそり外に出ます。そして鍵を使って一階の勝手口から中に入り、麗美さんを殺害するという計画です。これなら、疑いの目から逃れることが出来ます」
「でも、それは一彩さんと翔さんが叔父を見張ることになったからで……」と茉莉さん。
「ええ。だから小前田さんは、あの殺害予告の手紙を作ったのです。自分が狙われていると思わせておいて麗美さんを殺害し、自分は疑いの目から逃れるために」
「あの手紙は自作自演だったのか!」
一彩と俺を覗く一同が、驚きの声を上げる。
「人嫌いの小前田さんが外部から人を呼ぶには、相応の理由が必要ですからね。そしてアリバイを証言させるため、自分を守ろうと一晩中見張っていてくれる人……いわば、推理小説における主人公、『探偵役』としてぼくが選ばれた訳です」
(ぼくは『探偵』だったんだ!)
書斎の前で一彩が言ったことを、俺は思い出した。
「そうだとすると、動機は……。あのブックカバーの文からして、痴情の縺れか?」「ブックカバーの文?」岸谷刑事の言葉に茉莉さんが反応した。
「麗美さんの部屋にあったブックカバーに、意味深な文章が残されていたんですよ。『私は汚れてしまった 愛しい人を裏切った』とね」
それを聞いた茉莉さんはハッと息を飲み込んだ。
「とにかく利根川さん。今の一彩の推理をぶつけてみましょう」「そうね。揺さぶりをかければ何かボロを出すかもしれないし」岸谷刑事と利根川刑事は応接間を離れていった。
てっきり俺は一彩もついていくのかと思ったが、彼は二人の刑事を見送った。
「さて、ぼくたちは今から『真実』を話すとしましょうか」
振り返った一彩の口元には笑みが浮かんでいる。
「いいですね? 茉莉さん」
一彩がスイッチを押し、シャンデリアに明かりが点る。俺たちは大きな観音開きの扉を片方ずつ支えて開け、茉莉さんを食堂の中に通した。
「茉莉さん。ぼくは嘘がつけません。なので、ぼくが辿り着いた真実を貴方に話さずにはいられないのです」
「……真実、ですか?」
「貴方は、小前田さんによる麗美さん殺害計画を知っていましたね? 知っておきながら、それが実行されるのを待った」
一彩のその言葉で、食堂内の時間が一瞬止まったような気がした。一彩は茉莉さんに視線をぶつける。
「ど、どういうことだよ。茉莉さんが知っていたって……」動揺する俺を意に介さず、一彩は茉莉さんに対して話を続けた。
「茉莉さん、貴方は言ってましたよね。小前田さんに殺害計画が届いたのは今回が初めてではなかったと。ですが、貴方は今回に限って非常に怖がり、ぼくたち――最初は犬飼教授の予定でしたが――が呼ばれることになった。それは、小前田さんの計画に必要な、書斎を見張る人員が欲しかったからではないですか?」
俺は初めて茉莉さんに会った時のことを思い返した。
(私があまりにも怯えるものだから……)
恐怖で強張った表情とは裏腹に、手はモグを撫で続けていた。あの言葉は演技だったのか……。
「貴方は今朝、麗美さんの姿が見えないことにひどく狼狽えていました。ですが、麗美さんのスマホに電話をかけなかった。麗美さんのスマホにはここ数日間、着信がありませんでした。貴方は、麗美さんが応答出来ないことを知っていたのではありませんか」
茉莉さんは否定せず、ただ黙って閉じた窓を見つめている。
「でも、何で? 茉莉さんには、麗美さんを恨む理由なんて何もありませんよね?」俺は茉莉さんに問いかけた。しかし、それに答えたのは一彩だった。
「茉莉さん。貴方は麗美さんの裏切りが許せなかった。だから小前田さんの計画を利用して亡き者にしようと考えたんですよね」
一彩の追求に物怖じしなかった茉莉さんが、初めて肩をピクリと動かした。
「貴方と麗美さんは恋人同士だったのではないですか? ブックカバーの裏に書いてあった『愛しい人』とは、貴方のことだった」
「……え?」俺は素っ頓狂な声を出してしまった。茉莉さんと麗美さんが恋人同士……。俄かには信じ難い。しかし一彩の指摘が事実であることは、茉莉さんの蒼白な顔が如実に物語っていた。
「スミレは聖母マリアに捧げる花です。『大切な人からの贈り物』だというスミレの香水やイヤリングは、マリアに似た名前を持つ貴方に因んだ、麗美さんからの贈り物なんですよね? そして麗美さんが首から下げていた十字架のネックレスは、聖母マリアに祈る時に用いる『ロザリオ』をイメージした、貴方からの贈り物だった」
茉莉さんは無言のままイヤリングを触った。
「……ですが、貴方は麗美さんに裏切られた。麗美さんは、小前田さんと関係を持ったのです。……麗美さんはこう書いていました。『私は汚れてしまった 愛しい人を裏切った』。ただの浮気だとしても妙な書き方です。ですが、こう解釈すれば納得できます。麗美さんは恋人と清い関係を続けていたが、別の人と関係を持ち、体を汚してしまった、と……」
「……ええ、その通りです」茉莉さんが重い口を開いた。その唇は微かに震えている。
「麗美さんと私は深く愛し合っていました。ですが叔父により、純潔を誓い合った私たちの関係は壊れてしまった。誓いを破った麗美さんのことも、叔父のことも許せなかった」茉莉さんは声を震わせた。その白い頬を涙が静かに伝う。
「……だから貴方は、小前田さんが計画通りに麗美さんを殺害した後、彼をも殺害しようと計画したんですね。貴方がキッチンのコーヒーフィルターに毒を仕込んだことは分かっています」
一彩の衝撃的な言葉は、またもや食堂の時を止めた。茉莉さんが「どうしてそれを!」と声を張り上げた。
「先ほど、翔くんがコーヒーを淹れると言った時に、貴方はスミレ紅茶を勧めましたよね。それが気になってコーヒーフィルターホルダーを調べてみたところ、一番手前のフィルターが一度取り出された形跡がありました。小前田さんがコーヒーを淹れるためにキッチンに来た時、貴方が飛び込んで来て、刑事が書斎に入ろうとしていることを伝えました。小前田さんがキッチンを抜けた隙に、毒を仕込んだんですよね。コーヒーフィルターホルダーは普段棚の上にあるため、小前田さんが棚から下ろしたタイミングでないと、車椅子の貴方には手が届きませんから。……今、鑑識の野間田さんに頼んで調べて貰っています」
茉莉さんは目を逸らした。それは彼女の敗北を意味している。その時、食堂の扉がゆっくり開いた。俺たちが一斉に振り向くと、急に注目を集めてたじろぐ野間田さんの姿があった。
「あ、一彩くん。頼まれていた件、調べ終わったよ。君の言う通り、毒物が検出された」野間田さんはチャック付きポリ袋を俺たちの前に掲げた。中にはコーヒーフィルターが入っている。
一彩は野間田さんにお礼を言い、再び茉莉さんの方を向いた。「小前田さんがこれでコーヒーを淹れる前に、回収しておいたんです。小前田さんが貴方に呼ばれて書斎に戻る前と後で、コーヒーフィルターホルダーの位置が動いていたことが気になりましてね。……さあ、残りの毒が入った容器を渡してください」
茉莉さんは大きく肩を下げて溜め息をつくと、ポケットから香水のビンを取り出し、一彩に手渡した。一彩はビンを掲げて中の液体を凝視すると、それを野間田さんに渡した。ビンのキャップについたスミレの飾りがキラッと光る。
野間田さんが食堂から出ていき、扉が完全に閉まったのを確認した一彩が、茉莉さんに向き直った。
「……やはり、小前田さんが死亡したのを確認した後、貴方自身も命を絶とうとしたのですね」
麗美さんの死を望み、小前田さんを殺そうとし、最後は自殺しようとしていた……。この可憐な茉莉さんが、そんな恐ろしいことを考えていたなんて……。
「……全て、お見通しだったんですね」茉莉さんが悲しげに微笑む。
「いえ、一つだけ分からないことがあるんです。小前田さんの計画はどうやって知ったんですか?」
「ある時、応接間のソファーに原稿が置きっ放しになっていたんです。叔父の手書きでした。叔父は私に原稿を読まれるのを極端に嫌がっていたので、逆に興味が湧いてまい、手に取って慄然としました。そこには今回の計画と、叔父が麗美さんを妊娠させたこと、その事実を隠滅するために彼女の殺害を企てたことが書いてありました」
茉莉さんが車椅子を動かし、俺たちに背を向けた。その肩が大きく震え出す。
「だから、二つの意味で麗美さんを奪った叔父を殺したかったんです! 彼女の純潔を奪い、命を奪ったあの人を!」
恋人を見殺しにし、恋人を奪った人物を殺し、最後は自分の命を絶つ。茉莉さんがどんなに思い詰めていたか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
振り向いた茉莉さんの目は赤く腫れている。そんな彼女に、一彩は優しくこう言った。
「茉莉さん。小前田さんは麗美さんを殺していませんよ」
その瞬間、茉莉さんの震えがピタリと止まった。一彩が言っている意味が飲み込めないらしく、その目に動揺が走る。
「ど、どういうことですか? だって一彩さん、さっき言ってたじゃないですか。叔父が麗美さんを殺したって……」
「いえ、ぼくは一度も『小前田さんが麗美さんを殺した』とは言っていませんよ。『小前田さんが麗美さんの殺害を計画した』とは言いましたけどね」一彩が不敵に微笑む。確かにその通りだった。嘘がつけない一彩は、あくまでも真実だけを口にしていた。たった一つだけを除いては。
「……ですが、ぼくは貴方に一つだけ嘘をつきました」一彩が「嘘」という言葉に力を込める。
「先ほど、応接間で推理を披露した時です。『ぼくは一晩中、書斎の扉の前で翔くんと話していました』、と言いましたよね。これは嘘ではありません。事実です。ですが、その後に言った『ぼくと翔くんが見張る書斎の扉を通ることなく、小前田さんはこっそり外に出ます』というのが、嘘なんです」
「え……?」
「実は翔くんとぼくは書斎を見張るために、二手に分かれたんです。ぼくは扉の前に。翔くんは……一晩中、庭のユリノキの下にいました。そうだよね、翔くん?」
俺は一彩の言葉を裏付けるように、深く頷いた。
「そしてぼくは翔くんに電話をかけました。眠気を紛らわせて見張りに徹するために。ぼくが扉の前で翔くんと話していたのは、『電話で』だったんです。さて翔くん。小前田さんは書斎の窓から出てきたかい?」
「いいや。さっきも言ったけど、小前田さんは書斎から出てこなかった。窓から一瞬も目を離していないけど、間違いないよ」
「つまり、『窓から木を伝って外に出る』という小前田さんの計画は、失敗に終わったのです」
茉莉さんはまだ理解出来ていないようだった。
「ぼくたちが初めて小前田さんに会った時、彼は『お前らか、庭で騒いでいたのは』と言っていました。つまり、書斎からは窓を開けなくても外の音が聞こえるということです。翔くんが木に登った時、二階の窓は確かに閉まっていましたから。……ということは、小前田さんはあの晩、庭から翔くんの声がずっとしていたために、窓を開けることが出来なかったんです」
「嘘……。だとしたら、誰が麗美さんを殺したんですか!」茉莉さんが声を荒らげる。一彩は対照的に冷静だった。
「小前田さんに犯行は不可能。貴方は車椅子なのでワインセラーに下りられません。金子さんは朝になるまで館に戻ってきませんでした。ぼくたちは一晩中通話していたため、お互いがアリバイ証人です。……ということは、麗美さんの命を奪えたのは一人しかいません」
深く息を吸い込んだ美少年は、その顔を悲しく曇らせた。
「麗美さん自身です」
「う、嘘……!」唖然とした茉莉さんの目は大きく見開かれている。
俺だって信じられない。信じたくない。しかし、一彩の口から語られると、真実であるように思えてならない。
「……でも一彩。麗美さんはどうして箱の中で自殺したんだ?」俺は心に浮かんだ疑問を口にした。
「殺人だと思わせるためさ。麗美さんは箱の中に入ると、太腿にナイフを挟んだ。そして胸を押し当てたんだ。こうすれば、柄に指紋を残さずに自分を刺せる。それに、殺害予告の日に死ねば誰も自殺だとは思わない。茉莉さんとの関係を最後まで隠そうとしたんだろうね」
麗美さんが自殺だとしたら、彼女の遺体を発見した時の小前田さんのひどい狼狽ぶりも頷ける。自分が殺そうとして殺せなかった人物が、遺体となって発見されたのだから。
「でも、どうして麗美さんは自殺を……」茉莉さんが一彩に問いかけた。潤んだ瞳の前で栗色の巻き髪が揺れる。
「これはぼくの想像ですが……。麗美さんは、小前田さんに体を許したことをずっと後悔していたのではないでしょうか。真に愛する人を裏切ってしまったこと、その人との清い誓いを破ってしまったことを。彼女の遺体にあった涙の跡がその証拠です」
「そんな……」
茉莉さんは声を上げて泣き出した。広い食堂に、嗚咽がこだまする。
……不幸な偶然が重なった悲劇。一彩の言う通りだと思った。一彩と俺が書斎を見張ったため、麗美さんは小前田さんに殺されなかった。しかし、麗美さんは自ら命を絶ってしまった。俺はやり切れず、泣き叫ぶ茉莉さんの奥に広がる、長いテーブルに視線をやる。一輪挿しに生けられたスミレが小刻みに揺れていた。
少しして、タイミングを窺っていた利根川刑事と岸谷刑事が中に入ってきた。幾分か落ち着きを取り戻した茉莉さんは、二人の刑事に連れていかれる間際、一彩にこう言った。
「……でも一彩さん。貴方はとんだ大嘘つきですね」涙を拭いながら、茉莉さんが悔しそうに言う。一彩は「すみません」と言って頭を下げた。
「貴方の思い通りに事が進んでいると思わせないと、真実を話してくれないと思ったので。嘘をつきました」
「……嘘をつかないんじゃ、無かったんですか?」
茉莉さんのこの問いに一彩は優しく微笑み、俺の肩に手を置いた。
「翔くんのお陰ですよ。彼は初めて会った時、『嘘をついてはいけない』という父の言葉に苦しめられていたぼくを、救ってくれたんです。『俺といる時だけは、嘘をついてもいいから』って。……だからぼくは、翔くんといる時なら一つだけ嘘をついてもいいと、自分を許せたんです」
一彩に見つめられて、急に照れ臭さが押し寄せてくる。そんな俺たちを見て、茉莉さんが穏やかな笑みを浮かべた。
「そうですか。一彩さんには、大切な人がいるんですね。……でも私には、もういない。生きる意味なんてもうないの。せめて私だけでも死なせて欲しかった」そう言うと茉莉さんは俯き、静かに涙を流した。
「それは絶対にだめです。ぼくはもう、誰一人として死なせたくないですから」一彩が強い口調で断言する。
岸谷刑事が食堂の扉を開き、利根川刑事が茉莉さんを外に促した。ホイールを動かす彼女に、俺は駆け寄った。
「茉莉さん! ……俺も、同棲していた彼女を自殺で亡くしました。生きる意味を失ったと思いました。でも、そこから一彩に出会えた。俺にもう一度生きる意味が与えられた気がしたんです。名探偵の『助手』として。……だから貴方も、もう一度生きる意味に出会えます。きっと」
俺の後に続いて、一彩も駆け寄る。
「ぼくたちは必ず貴方に会いに行きますよ。だから、生きていてくださいね。約束ですよ?」
俺たちの言葉に、茉莉さんは笑った。二人の刑事と茉莉さんが行ってしまうと、食堂の扉は物々しい音を立てて閉まった。静寂に包まれた食堂で、一彩と俺はしばらく何も言えなかった。
後日、俺たちはスフィンクス社を訪ねていた。
俺たちのアパート・島田荘を出て真っ直ぐ日暮通り沿いに進むと、十五分ほどでそのビルに辿り着ける。しかしその十五分の間に、俺は背中に汗をびっしょりかいてしまった。厳しい八月の暑さにヘトヘトになった俺の喉を、金子さんが出してくれたアイスコーヒーが潤してくれる。
「未だに信じられないよ、あの茉莉さんが……。小前田先生のことも、社として大きな問題になっていて。犯罪を犯さなかったものの、実行に移す寸前だった訳だからね……。ついこの前、会議で小前田先生との契約を打ち切ることが決まったんだ」
ワガママを言った一彩のために、アイスコーヒーと麦茶を取り替えてきた金子さんは、席に着くなりそう言った。グラスの中の氷がカランと音を立てる。金子さんは懐から扇子を取り出し、パタパタと動かし始めた。
「ウチでは殺人事件が登場する推理小説をたくさん扱っているけど……。小説と現実は違うからね」
苦笑する金子さんに、一彩は笑みを浮かべた。
「ですが、人の命は小説の中でも尊ばれるべきだと思います。それが、ぼくの好きな推理小説の条件です」麦茶に口をつけた一彩が言う。金子さんは「そうか」と頷くと、俺たちの顔を交互に見つめた。
「……ところで、今日はどういった要件かな? もう話すことはないと思うけど……」
一彩はストローで吸い上げた麦茶を飲み込むと、右手の指を二本立てて、金子さんに向けた。
「気になる点が、二つあるんです。まず一つは、茉莉さんが毒をどうやって手に入れたか」
「それなら、こないだ事情聴取で警察に行った時に、利根川という刑事が教えてくれたよ。小前田先生が作品の参考のために買っていたものを茉莉さんが利用した、と」
「それはぼくも聞きました。ですが問題は、小前田さんは毒を茉莉さんの手が届く場所に保管しないだろう、ということなんです」
「はぁ、まあ確かに……。で、もう一つの気になる点は?」
「茉莉さんが読んだ、殺害計画が書かれた原稿です。そんな物を、小前田さんが応接間に置きっ放しにしておくとは考えにくい。小前田さんは、貴方以外の人物に原稿を読まれることを嫌ったそうじゃないですか。となると、誰かが、応接間に置いたと考えるのが自然です」
「誰かって?」
「これはあくまでぼくの想像ですが……。金子さん、貴方ではないですか?」
扇子を動かす金子さんの右手がピタッと止まる。太い腕に嵌めた銀の時計がキラッと光った。
「私が? ははは、どうして」
「小前田さんの書斎に入れるのは、本人を除けば貴方一人です。偶然見つけた殺害計画書を読み、毒の存在を知り、利用しようと思ったのではないでしょうか」
「利用?」
「貴方は、茉莉さんと麗美さんが恋人同士だということに気付いていましたよね。食堂で茉莉さんが『大切な人からの贈り物』だと口にした時の貴方の反応が気になっていたんです」
俺は、金子さんが茉莉さんの言葉を遮るように咳払いをしたことを思い出した。
「……貴方は、小前田さんが麗美さんを殺そうとしていることを気付かせ、茉莉さんに小前田さんへの殺意を芽生えさせたのではないですか」
「……確かに、先生には散々こき使われてきたからね。憎んではいたよ。でも、今の一彩くんの説明には証拠がないよね?」金子さんは扇子を再び動かした。度の強い眼鏡のレンズがキラッと反射する。
「そうですね。証拠はありません。ただ、もしぼくの推理が本当だとしたら……」一彩は椅子から立ち上がった。麦茶はまだ半分以上残っている。
「本当だとしたら?」金子さんが一彩を睨みつける。一彩は肩をすくめ、蔑むような、憐れむような目で金子さんを見つめ返した。
「懺悔することですね。聖母マリアは全てを見ていますから」
「しかし、嫌な気持ちになる事件だったな」
スフィンクス社からの帰り道、八月の厳しい暑さに耐え切れず、俺たちは馴染みの喫茶店「グールド」で涼んでいた。店内に流れるクラシック曲とエアコンの風が、汗まみれの体をみるみる冷ましていく。さっきアイスコーヒーを飲んだため、ここでは紅茶とシフォンケーキを注文した。
「翔くん、嫌な気持ちにならない事件なんて、この世には無いよ」一彩が大好物のティラミスを頬張る。それもそうだ、と俺は内心で納得し、シフォンケーキにフォークを入れた。
「それにしても一彩。ここのコーヒーは飲めるんだな」
ティラミスの皿の横には、ケーキセットのドリンクであるホットコーヒーが置いてあった。白いカップから仄かに湯気が立ち上っている。
「グールドのコーヒーは特別だからね。それに翔くん。きみが淹れたコーヒーだけだと、ぼくは一生不味いコーヒーしか飲めないかもしれないじゃないか」
「辛辣だな……」
「いや、ごめんね翔くん。ぼくは、翔くんが淹れたコーヒーが一番好きだよ。だって、ぼくの『助手』であると共に、かけがえのない『親友』であるきみが淹れてくれたコーヒーだから」
「お、おう。……っていうか、俺は『助手』ではある訳ね」
「決めたんだ。ぼくは『名探偵』になるよ。これからも、事件を解決する。自分の知的好奇心のためじゃなく、誰かのために」一彩がカップをソーサーに置いた。その美しい顔面には、煌めきが纏わっていた。
これからも事件を解決する……。それは、これからも彼の周りで事件が起きることを意味する。しかし、それ故『名探偵』は存在する。『名探偵』は事件を呼ぶのではなく、解決するために存在するのだ。
俺はこれからも事件が起き、それを解決する一彩の姿を思い浮かべた。それは妄想ではなく、確信だった。何故なら、一彩がそう言ったからだ。
――剣宮一彩は、嘘がつけない。
※エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』より(丸谷才一訳、中公文庫『ポー名作集』収録)から、文中のセリフを引用させて頂きました。