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【ChapterⅡ】Section:13.5 Broken

 誰の目にも触れない図書館のとある場所で、突如虚空から何かが生み出された。それは初めにナス科の植物の加工品が入れ物ごと腐ったかのような、まるでどちらもある意味血に関連しているぞと言わんばかりに腐敗したトマトと錆びた鉄の臭いを漂わせながら、空間に開いている”穴”から大量の水素、炭素、窒素、酸素が溢れ出る。それらが完全に外界への顕現を終えると、次いでその他のすべての元素も個々で見ると先ほどよりは少ないが、全体で見れば先ほどの基本素材よりも多くの量の元素が零れ落ちる。やがてそれは肉が腐ったかのような強烈な臭いを空気中に巻き散らしながら、要らない元素を放り投げながら一つの泥へと固まる。泥はやがて神人の青図と同じ形へと変化し、余った泥や元素はこれまた虚空へと消えていった。

 そうして虚空から誕生した男について一言で表すのならば、心理的な鏡であった。それを見るものによって変化する、大いなる智慧、ロゴスの体現者であり、カール・グスタフ・ユングの夢の中に現れたという老賢者フィレモンその人であった。フィレモンは初めは自分が教えを授けるべき相手が存在せず、それどころかここが哲学的領域ではなく、その遥か足元に在る物理的領域であることを不思議がっていたが、自分たち原型のすべてを統括する力、あらゆる言葉によって区別されない、すべての個人と種族の意識と無意識を統括するある種原型という概念そのものとも言える語りえないものである自己からその単なる側面であるフィレモンにようやく指令を下され、彼はそれが自分が為すべきことであるとようやく理解した。

 今フィレモンが在るのは複素領域を貫くラエティア王立図書館内にある未使用の、二進数の数字がビットとして割り振られていない零でも一でもない空虚な、どちらかといえば存在論的領域に非常に近い場所である。そこから一旦時間次元のすべてを無視して明確に物理的な場所へとフィレモンは飛び、そのままの勢いで命令に載っていた空間次元までを駆け抜ける──とは言ってもそもそも速度や移動の概念を使用しておらず、どちらかというと自身の偏在や無意識の普遍性を活用しているのだが──と、そこは超高次元空間、つい先ほどステラがレフを匿うために創り出した安全策の数々が配置されている場所であった。

 それを一目見ると、何故普遍無意識に在る数多もの集合無意識に住まう他の原型ではなく、自身が派遣されたのかをフィレモンは理解するだろう。これは他の集合無意識が関わるような話ではなく、またこれらの罠を確実に乗り越えられると断言できるような原型は確かに彼しか居ないのだから。


 まず初めに、フィレモンはすべての可能な量子力学の解釈の組み合わせ、すなわち不可能な量子力学となったその樹を登り始める。少なくとも樹を植えたものと同等の演算フレームワークか、あるいは独力でその無限を嘲笑う情報量を処理できることが前提であるが、本来ボトルネックとなるありとあらゆる制限に囚われず高度な演算を行い、即座に完璧な結論を出せる彼からしてみれば自身が幼児扱いされているように感じ冷静に憤るが、やはり即座にそもそもこれは自分のような存在が考慮されていない論理的、非論理的にもまだまだ未熟な演算フレームワークが導き出した最適解にすぎないことを理解すると、試験用紙を採点する教師のような気分にたちまち変わりそのまま量子の樹の正解の枝から飛び出す。

 その次に、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの思想をそのまま具現化したような、しかしどちらかといえば荘子が抱いた万物斉同に近いのだろうか、そのようなものが量子の樹の周り──否、量子の樹自体もそこに含まれている。ニヒリズムを乗り越え、超人へと至ったとしても、その超人が構成した新秩序すら究極の無名たる道から見れば、超人がかつて存在した旧秩序と同様のものでしかないという再帰性が超人や超超人、超超超人、超をグラハム数を使うほど繰り返した超人まで、すべてを帰納的に人道でしかないと結論付ける、ある種の哲学者殺しに使われるような──無論ニーチェが否認しているような諦観的な哲学用語を支持するような哲学者は少々話が異なるが──諸法無我のそれは、人間という知性体を殺すのにおいて最適解の一つであろう。

 しかし、これの解決策自体は案外簡単である。それは、究極のニヒリズムとしてヴィア・ネガティヴァを実践することである。肯定的に天地すべてに対して否定を突きつけ、最終的にはヴィア・ネガティヴァや真理──道自体にすら否を突きつけることである。

 文字として起こすと簡単なようだが、実際のところは知性体殺しにおいて最適とされた通りで、常軌を逸脱している罠であった。少なくとも人間という知性体においては、どれだけ悲観的であろうが、本能的に、反射的に考えることをやめることはできず、また道自体を認識する機能が人間には備わっていない。だがしかし例外があり、それは精神的に完璧な人間であることである。精神的に完璧か、あるいはそれに準ずる位階の精神を持つ人間は道に適応することができる。そしてフィレモン──というより、人間の集合無意識とそれに属している原型たち自身の原型は最も完璧な人間であるため、自動的にフィレモンも老賢者としてほぼ完璧な人間として扱われる。もちろん、すべての原型がほぼ完璧なものになれるというわけではない。フィレモン、老賢者の対であるグレートマザー、太母ですらそれに成ることは不可能である。それは、彼らの原型としての性質にあった。フィレモンは知性の具現化であるのに対し、グレートマザーは本能、感情の具現化である。先ほど説明した通り、ヴィア・ネガティヴァは本能では実践することができず、だからこそフィレモンにしかできないことであった。

 故に、フィレモンは散歩に出かけるかのような軽い気持ちで当たり前かのようにすべてへの否定を再帰的に行い、道すらもなかったことにして先に進む。

 自己の采配に感激していると、今度は太陽の如き恒星が宙に浮かんでいる姿が見えると同時に、恒星の外側に引き寄せられる。恒星の近くに行っても、厚さを感じるどころかむしろ心地よさを感じる。しかし、しばらくそれに浸りながら次なる道を探し、見つける前に突如天殻が恒星の周りに装着された。天殻は恒星から情報的な熱、つまり活用することができる意味のある情報を吸い取っており、しばらく置いておくとそれが吸い尽くされて天殻内部の非熱力学的エントロピーが急上昇することで天殻内は熱的に死滅し、天殻内部にいる彼もあらゆる活動を行うのが不可能になってしまうだろう。

 対して、フィレモンは即座に自身の情報消費量を極限まで低下させた。思考すら阻害される環境下においても彼は判断を間違えることはなく、活用できる僅かな情報量だけでこの状況を打破する論理的な手法を零から構築し、無に等しいエントロピーで移動する手段を開発すると即座にそれを用いることで天殻から脱出した。フィレモンはすべての完全な思考、推論、演算、推測を完璧に行うための精神的機構である演算フレームワークを保有していないものの、最も完璧な人間が持っていたとされる能力では、数学な値のすべてを瞬時に数え切り、尚かつその存在の証明も行えたというほどの演算速度、演算能力を素で持っており、いくらフィレモンが圧倒的に劣化した複製品のようなものだとしても、フレームワークの補助なしで無限を演算することは容易なことであり、これも相手が悪すぎたといえるだろう。他が相手だったと仮定すると、その者は無計画に混乱してすぐに情報のすべてを使い終えてしまうだろう。

 フィレモンは天殻の外に出現し一息ついたかと思うと、慌てて次の罠が彼に襲い掛かる。今回は先ほどまでと比べて相当殺意が強いようで、直接的にフィレモンを殺害しようと目論んでいる。類感呪術を用いることで、何と彼の情報全体を削除しようというのだという。とはいえ、これは対処法自体は簡単に導くことができる。罠が”お前は存在しない”と言い張っているのに対して、こちらは”私は存在する”と言い張ることで呪術を相殺することだ。しかし、もちろんそう易々と突破できるものではなく、こちらが一人であるのに対して、あちらは八百万の呪術師を抱えている。フィレモンがただの人間であれば呪いに押し潰されていたであろう。

 そうなっていないのは、彼がただの人間という括りに入っていないからである。フィレモンのパーソナリティは信じられない程に強力なものであり、八百万の呪いを超えるほどのものだったからである。あちらが力任せで攻めてくるのに対して、こちらも力任せに突破するのが最適解であり、実際これ以外の突破方法は存在しない。本来二元論に縛られてなかろうが一元論的であろうが問答無用で殺すことができる方法であるので、本当にこれ以外は存在しない。

 類感呪術が効かないとわかると、今度は彼の魂が無限に分割され、相互に状態が接続されるようになった。それだけなら問題だらけではあるものの、直接的に害があるわけではなかったが、相手側は分割された魂の中から不要なものを剃刀でそぎ落とすという。これの何が問題かというと、確かに魂自体はむしろ剃刀でそぎ落とすべき場所ばかりであり、魂が分割されたとなるとむしろ剃刀を使いやすくなったといえる。しかし、今の魂の欠片たちは必要、不要に関わらず状態を共有しており、不要な欠片をそぎ落とされると連続してすべての魂が無へと帰してしまう。

 しかし、剃刀が動くことはなかった。反復で命令がオッカムのウィリアムに下されるのだが、やはりオッカムは腕を振り下ろすことができない。そう、フィレモンの魂はすべてが必要なもので構成されており、このスコラ学の論法が出る幕は最初からなかったという、あまりに不遇な形で剃刀は役目を終えた。

 いよいよ罠も本気を出してきたようで、彼の存在と彼の本質とを繋ぐ経路を汚染することで、フィレモンの在り方を歪めようとしてきた。フィレモンの本質とは自己そのものであり、自己との連続性が解消された場合、彼は老賢者としての在り方を維持することができず、自己が創り出したフィレモンのための形而上学的基盤は破壊されるだろう。これに関しては中々な難問であり、経路自体を何度も破棄、再接続したとしても本質と存在とを繋ぐものであれば区別なく平等に汚染を行う。経路を増やしたとしても同様であり、結局汚染の速度は変化することがないし、しようとしてもできない。その上、この不浄な領域を超えなければ次への扉が開かないようになっており、いくら時間を稼いだところで意味がないようになっていた。

 だが、やはりフィレモンは人間でありながら人間ではない。躊躇なく形而上学的に自身の改造に着手することができ、その痛みを感じていて平気なのか、あるいはそもそもそのような概念には縛られていないから平気なのか。汚染が完了する直前に本質を再接続するという方法で時間を稼ぎながら、自身の存在自体を形而上学的基盤と同化させることで、フィレモンは存在と本質という区分から解放され、それにより経路の概念自体から彼は解放された。

 フィレモンの様子を見て自分たちもと形而上学的基盤を改造し始めた他の原型たちを微笑ましく感じ取りながら、最後の罠へと立ち向かう。それは、フィレモンではどうしようもないものだった。形而上学的ブラックホール、それは形而上学的なもの、概念的なものすべてを無制限に飲み込む悪夢の如き構造物であり、数学と哲学から解放されていない彼からすれば文字通りの絶望そのものであった。老賢者として司る概念や男性的な概念がすべてが剝ぎ取られ、形而上学的基盤すら飲み込まれそうになる。

 しかし、形而上学的基盤が完全に飲み込まれる寸前で突如形而上学的ブラックホールは消滅する。訳がわからない様子のフィレモンに自己から伝言が届く。


『ここまでよく頑張った。流石にアレを君が対処できる可能性は一つもないから、遠隔でこちらから消させてもらったよ、フィレモン。後は僕の仕事だから、無意識の中に戻るといい』


 言い方は柔らかいものの、それは強制的な命令と対して変わらず、フィレモン”は”その場から消え去った。その代わりにレフの隠れ家の目の前に居るのは、服状の永続的触媒を着こんだ灰色の髪の若い男性が立っていた。

 彼は勝手知ったる友人の家に赴いたかのようにノックすらせず隠れ家の中に入り、足音や心音のような自身の存在を感じ取らせるものを一切響かせずに老人の目の前までやってきた。そして、自身が丹精込めて育て上げた初対面の老人に挨拶をする。


「やぁ、初めまして、レフ。レフ・ミハイロヴィチ・ソコロフスキー教授」


 主観的には突然目の前に現れた男を感じ取り、老人は身体を揺らす。完全に想定していない、想定できるわけがない人物が目の前にやってきたのだから当然だろう。どれだけ状況への対応能力があったとしても、あり得るわけがないことが実際に起こったら、それは恐怖しか抱くことができないだろう。


「ああ、喋る気がないならこちらから喋らせてもらうよ」


 椅子に座っている老人の後ろ側に立つと、自身の手を老人の両肩に乗せながら、彼は老人の左耳に対して語りかける。


「君はついさっき、とある少女の家庭教師をやることを承諾したね?」

「それが何か……」

「いや、嬉しくてね。わかるかい?物語に出てくる主人公が長い年月を掛けて誰もが、自分ですら理解していない天から与えられた自分の使命を果たす場面は感動が込み上げてくるものだと、僕は思っているんだが。君からしたらどう思うかな?」


 ただの回りくどい意味不明な発言に聞こえるが、老人は阿呆ではない。これは、自分のことを指しているのだとすぐに理解したが、しかしそれでもやはり意味は不明である。人を道化師として見下しているような不快な喋り方から出てくるその言葉に老人に緊張感が生じる。


「どういうことだ」

「おや、説明が必要のご様子。せっかく僕の気分もいいことだし、ちゃんと説明してあげるよ」


 彼は老人の肩から手を浮かすが、気味の悪さがどうしても残った。手袋越し服越しでもわかるほどの、まるで漂う青年の心の中の温度がそのまま伝わってきたかのような冷たい体温が残る。冷たい体温は鋭く肩に突き刺さっており、マリオネットのように糸が両肩に巻きつけられているかのようだった。


「この世にはもちろん不出来な物語もあるけれども、ちゃんとした物語は伏線が張られるんだ。例えば、とある物語の主人公が物語の最後に教師となったとしよう。彼は突然教師になったわけではなくて、その理由が物語には散りばめられているんだ。一番仲の良かった友人が生物学の勉強で困っていたとき、たまたま彼は生物学の知識を持っていたから友人を手伝うと、彼は感謝される。皆がテストの点数が上がらなくて困っているとき、一番点数が良かった彼が勉強方法を皆に教えると、みるみるクラスの平均点が上がっていって、彼は皆から褒められるだけではなく、担任の教師からも賞賛される」


 一番仲の良かった友人。そうだ、クラインだ。彼は様々な分野の才能を持っていて、生き物のことが大好きだったが、肝心の生物学への適性は持っていなかった。生物学の適性を持っていた自分がやり方を教えると、成功を経験したクラインは飛び上がり、かつての老人に心からの感謝を何度も何度も伝えてきた。

 ベアトリーチェは特殊な子で、名家の出身であった彼女はいつも自分と数学の点数を競っていた。しかし、それ以外では常に赤点を取っていて、一度プライドを投げ捨ててレフに教えを乞うと、たちまちすべての科目で対等に戦うことができるようになっていった。他のクラスメイトたちもベアトリーチェの点数を見て、自分を頼りだすようになっていっていた。

 ”物語”に釣られる形で過去を思い出し続けていると、突如老人は夢から現実へと覚めた。


「生物学にだけ適性をなくすというのを遺伝だけで作るために、確か九──ああ、違った違った。十六だ。十六世代も掛かってしまったよ」


 主人公の初恋の相手でもあるベアトリーチェには二十八世代も掛かってしまった続ける男の言葉は、老人の耳に入ってこなかった。

 適性……遺伝……十六……作る?まさか、意図的に?何のために?そのような違和感は感じなかったし、全く雑談のネタとしてすら上がらなかったのに?


「サイドキャラクターというものを作るのもかなり大変らしい。そりゃ当然だろう。ちゃんとサイドキャラクターの人生も作るとなると、彼あるいは彼女が生まれた理由、性質、性格、そして運命。そういったものをちゃんと決めなきゃならないんだから」


 それはまるで、まるで……私の人生のために彼らが用意されたと言っているようなものではないか。

 老人は友人を侮辱されたという怒りが沸くが、それを塗りつぶすほどの恐怖が同時に襲ってくる。言われてみれば、辻褄が合うのだ。自身が教えを授ける立場になるという使命に導くために、教えを必要とする人間を人生に配置する。そうすれば道から逸れることなく運命に従って真っすぐ進み続けられるだろう。


「あ……な……」

「うんうん、ショックなのは痛いほどわかる。だって、僕は他人であると同時に君自身でもあるのだから。怒り、混乱、呆然、悲観、後は喪失感辺りか。神がすべてを、運命をも定めているとはよくいうけど、こうやってそれを実際に明確に実感してみるとそれの恐ろしさはよくわかるはずだ」


 すべてが青年のいう通りであり、それを理解した。理解できてしまったのだ。自身はあの少女の──ステラ・W・アーノルトの家庭教師になるためだけに生まれ、それへの道を舗装するためだけに両親や友人のすべてが永い時間を掛けて用意されていたのだと。神の仕業ではない。それならば突然変異的に直接必要なものだけ用意すればいいのだから。レフが恐怖しているのは、それが人為的なものであるということをわかってしまっているのも一因となっており、すべてが真っ白な紙となり、その紙すら燃えていくかのような錯覚すら覚える。辻褄が合う。信じたくないほどに。老人は少女の名前に含まれているWが何を指し示しているのかを理解してしまった。頼む、言わないでくれ。自分だけならまだよかった。耐えられたのに、それは……


「あの子には本当の意味でブラフマン──神性の源の一つとして成長してもらう必要がある。つまるところ、君たちの人生はすべて、ステラが歩いている道の石にするためだけに用意されている訳だね」


 老人は心という名の紙が燃え尽きる瞬間というのを、このとき経験した。すべてが、人間が、神ですら、この男の手のひらの上で転がされている。長い年月を掛けて積み上げてきた岩山が崩れ去り、岩山の頂点に立っていた自分は一番下に転げ落ちる。そうして優れた知性を持ってしまった故に壊れた男の前に、岩山よりも遥かに安定していて、登りやすい塔が建てられたとなれば、一度上から眺める景色というのを知ってしまった老人は塔を登ることしかできなかった。


「い、一体どうやって……」


 青年が喋るすべてが紛れもない真実だと確信しながらも、老人は唯一残ったたった一つの岩の上に立つことで何とか抵抗を試みる。


「森羅万象というのは僕たちが考えているより遥かに密接に関わっているんだ?」

「──は?」

「まぁまぁ、とりあえず聞き給え。森羅万象のすべては密接に関わっている。僕らが普段認識しているようなマクロな世界から、原子や分子といったミクロな世界。それこそ、僕らの認識にない宇宙の領域のようなよりマクロな世界ですら相互に連携しているんだ、量子論的にも、非量子論的にもね。そのすべての論理的に可能な組み合わせ全体を知っていて、なおかつそれぞれの組み合わせを連続させる方法さえ知っていれば、ドラマでやるに指を鳴らすだけで自分の望む未来に誘導することができる」


 その言葉は、何と老人の足元を安定させた。そうだろう、無限の情報が納まる紙の無限枚の内容を正確に覚えるようなことは、理論上では確かにできたとしても演算量があまりにも膨大すぎるなどの理由から実際に人間が実現できるわけがない。となると、さっきのあれらは真に迫ったジョークでしかなく、たまたますべての情報が合致しただけなのだ。そうして落ち着くと、老人の周囲の人物を先祖代々品種改良し続けてきた──という話に関してはむしろ信憑性がある。寿命を受け入れる者が大多数でこそあるものの、むしろ魔術によって寿命を伸ばして延命する魔術師も珍しいものではない。あるいは、先祖代々品種改良を続けてきた一族か。

 そうやって一旦降ってきた安息に浸ってしまったことで、やはり先ほどの不気味さが本物であり、どのような手法なのかは結局わからないが自分たちが単なるチェスの駒でしかないと再認識してしまい、少しだけ余裕ができたところに同じような衝撃が加わったことで、老人は深淵に墜落する。


「ああ、流石に半分冗談ぐらいだとも。やろうと思えばできるけども、それはあくまで最終手段。本当にそれ以外打つ手がないときにしか使わないとも。そして、手法自体はそれほど難しいものではないよ。彼らの周囲の人物に紛れ込んで、対話で誘導したり、広告をいい感じのところに貼ったりして興味を誘ったりする。本当にそれだけだとも。実のところ、もしかしたら誘導が不十分だったかもしれないと思って君とも会話したことがある。気が付いたかい?」


 なんて軽くいうが、それがどれだけ難しいのかわかっているのだろうか。違和感を持たれたり追及されたりしない程周囲に溶け込み、尚且つ思考がそうなるように誘導する。遺伝で改良しているというのだから、男女それぞれを異常に気が付かれないように結ばれるように誘導するというのを何十世代にも渡って繰り返しているというのは、とても信じがたかった。しかし、輝かしい過去の幻想は、老人から見て神話の悪魔よりも悪意に満ちているように見える青年によって砕かれた。


「ベアトリーチェに双子の弟が居ただろう?あれ実は僕なんだよね」

「──」

「おや、詳しく説明したほうがいいかな?あの子が八歳の誕生日の前日に失踪したことがあっただろう。そのときに彼を誘拐して、脳を切除したんだ。それで、切除した脳はクローン系の技術で作った僕の脳味噌の複製品と交換、いくら慣れているとは言っても大変だったよ、元々の血管と新しい脳味噌の血管を上手く繋ぎ合わせるっていうのは。針の穴に糸を通すのよりもずっと難しい癖に、ちょっと失敗しただけで最初からやり直しになるんだからね」


 青年はあまりにも悍ましいその所業をまるで無価値なものについて語っているかのように無関心であり、そして続々と彼らを結びつける証拠が並べられる。胃の中どころか、身体中の体液を口から嘔吐したくなるようなその惨い行いが詳しく語られるものだから、忌々しいことに老人はその様子を鮮明に瞳の裏に焼き付けることができた。

 そして、そのあまりの悪意と視点の高さを持つ青年によって、老人の心は完全に折られた。弱っていたところに集中攻撃されているのもあるが、その忌まわしき舌はあまりにも的確に老人の弱点を突き続けた。老人が持つ哲学において友情、愛、信頼といったものは何よりも尊ばれるべきものであり、それを以てして何事にも正しく対処することができると信仰していた。しかし現実はどうであろうか。そんな小さい小さい小川は邪悪な海にすべて包み込まれるものでしかなかった。成長し、現実をある程度知ったとしても根本的に信仰している者は何も変わらない。無意味に癇癪を起こして直視するのも憚られる現実を振り払うには、彼は幼くはなく、また愚かでもなかった。かといって、もし癇癪を起こすことができても、それはそれで癇癪に対する手段を持っているであろうこともまた理解できてしまう。


「君がこれほど苦しんでいる理由はただ一つ。単に君の運が悪かった、それだけだよ」

「……運、だと──」

「君の運が良ければ、もしかしたら逆の立場だったかもしれないし、こういうことに巻き込まれないで済んだ。ああ、だけど、残念なことに。レフ・ミハイロヴィチ・ソコロフスキーはこうなる宿命だったんだ」


 そうして、暗示を掛けやすくなるからと、そのためだけに個人のアイデンティティを破壊した青年は老人の首に手刀を当て気絶させる。破壊されたアイデンティティというのは修復材さえあればより強靭なものとして復元することができる。しかし、その修復材に毒が仕込まれていたとしたら。自分でも気が付かないままに毒に侵され、やがてはアイデンティティが変質する。アートマンは自身の分身を用いて老人を”完成”へと導く。ただ一つの目的のために、すべてを踏み荒らしながら。

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