track2-7. 夏鳥は弾丸を噛む -The Summer Bird Bites the Bullet-
「――夏野さん、ですよね」
その控えめな声に、夏野は些か毒気を抜かれる。
「……ごめん、どこかで逢った?」
「俺、1-Bの春原です。俺と一緒にバンド、やってくれるんですね」
「いや、まだやるなんて言ってないけど――君、鬼崎さんのファンじゃないの?」
「いえ、俺はあなたのファンです」
春原と名乗った青年は、きっぱりと断言した。
「……いや、俺のファンって、何で――」
「大丈夫」
春原は夏野の疑問に答えずに続ける。
「あなたは絶対に俺の隣で歌うことになります。だって、俺はそのためにここに来たんだから」
その眼差しがあまりにもまっすぐで、夏野は返す言葉を見付けられなかった。
その間にも春原は背負っていたケースから自身のギターを取り出す。
深い青色のエレキギターを軽く爪弾きながら、春原は話し始めた。
「折角スタジオにいるんだから何か歌いませんか? そう――」
そして、彼はちらとギターから夏野に視線を移す。
「『俺、知っている曲なら何でも弾けるよ』」
その言葉には、確かに聞き覚えがあった。
そして記憶の中の台詞に思い当たり、夏野はまじまじと春原を見つめ直す。
あの黒いニット帽の下に、まさかこんな明るい茶髪が隠されているとは思わなかった。
「――もしかして、昨日の……?」
「やっと気付いてくれた? 俺、あそこでボーカルやってくれそうな人探してたんです。それで、ようやくあなたを見付けて――しかも同じ学校なんて、運命じゃない?」
春原の語り口調は淡々としていたが、その端々に高揚の色が感じられる。
しまった、調子に乗るんじゃなかった――そう後悔してもあとの祭りだ。
夏野は口を尖らせ、せめてもの抵抗を試みる。
「俺は歌うつもりないよ。今日だってあの人に無理矢理連れてこられただけだし」
「そんなこと言わずにやりましょうよ。昨日だって、夏野さんすごく楽しそうだったし。何やります? 折角だから、昨日中途半端に終わっちゃった――」
「――『Bite the Bullet』?」
夏野の言葉に、春原がわかってるじゃんという顔で頷く。
確かに夏野の中でも、昨日最後まであの曲をやりきれなかったのは心残りだった。
それもあって、昨晩から何度も何度もリピートしてはこの曲を聴いていたのだ。
それでもまだ夏野の中には葛藤がある。
果たして今の自分にあの曲が歌えるのか――正直なところ、自信がない。
弱気な自分を見せたくなくて、夏野は春原に「あの曲好きなの?」と言葉を重ねた。
「好きですよ。メロディーもいいし、ギターの手数も多いから弾いてて楽しい。でも――」
「……でも?」
サビのメロディーラインを爪弾きながら、春原が答える。
「一番好きなのは、歌詞かな」
「俺も」
思わず夏野の口から零れた言葉に、春原が少し口角を上げた。
「――だったら、わかるでしょ?」
『やるしかない』
春原が立ち上がり、スタジオ内のアンプと自分のギターをシールドケーブルでつなぐ。
アンプの電源を入れた瞬間室内に音が充満し、夏野の全身が粟立った。
春原がギターを軽く鳴らしながら音量調節をしている間、夏野の心臓は拍動の速度を上げていき――つられて呼吸も速くなって夏野は胸を強く押さえる。
肩で息をしていたところギターを提げた春原が振り返り、夏野の異変にその目を見開いた。
「――どうしたんですか」
「……大丈夫、何でもない」
夏野は必死で息を落ち着かせようと試みる。
頭の中には佑の冷めた表情とあの日感じた絶望がよみがえっていた。
まだあの時の記憶にこんなにも支配されていたなんて――我ながら情けない。
「大丈夫って、そんな」
ゆっくり呼吸することを心がけながら、夏野は春原を見る。
表情はあまり変わらないものの、春原は目に見えて狼狽していた。
昨日今日の振舞いで図太い男だと思っていたが、意外と繊細なやつなのかも知れない。
まぁ、変わり者には違いない。
こんな俺のファンで、そして――俺の隣でギターを弾くためにここまで来たなんて。
そう考えている内に少し気分が軽くなって、夏野は小さく笑った。
「……夏野さん?」
「わかったよ」
幾許かの平静を取り戻し、夏野は春原に告げる。
「――弾いてくれ、ギター」
――きっと、こんなチャンスは二度と来ない。
夏野の言葉に、春原は無言のままそのギターで応えた。
何度も何度も、夏野が繰り返し聴いてきたそのメロディーで。
夏野は目を閉じその旋律を追う。
どこまでも続く暗闇の中に少しだけ波音が立って――自身を包む感覚に、夏野は一人小さく微笑んだ。
――あぁ、久し振りだな。
息を吸い、イントロの末に出した第一声は、自然に喉から世界へと放たれていく。
昨日の悪戦苦闘は何だったのか、思った以上に楽に声が出て夏野は内心驚き――そして、一人納得した。
心地良いんだ、春原のギターが。
この音が、俺に好きに歌って良いんだと全力で教えてくれる。
夏野は幾年振りかに歌声を響かせた。
己のすべてを解き放つように。
果ては世界を切り裂くように。
――曲が、終わった。
夏野は目を開く。
その瞳に映った春原は、呆然としたようにこちらを見ていた。
一瞬ひやりと不安が背中を走るが――それは、彼が次に見せた表情でかき消える。
「――やっぱり、あなたは本物だ」
その時、夏野は初めて春原の笑顔を見た気がした。
このスタジオを訪れた時、鋭い眼差しで夏野を射抜いていた彼はその顔を穏やかな優しさで染めている。
それはまるで、いつまでも夏野の元を訪れなかった春のように。
言いようのない感動に胸を詰まらせ、それでも夏野が春原に声をかけようとしたその時――ガチャリと背後のドアが開く音がした。
「あ? 誰かいるのか?」
低い声が鼓膜を震わせる。
二人が振り返ると、そこには背が高くがっしりとした体躯の男が立っていた。
肩まで伸びた黒髪を鬱陶しそうにかき上げ、彼は二人をギロリと睨み付ける。
それはまるで、伸びゆく若芽へと襲いかかる冬のように。
「見ねぇ顔だな――誰だ、お前ら」
――弾丸を恐れたその鳥は
歌うことを忘れてしまった
それでも、春は訪れる
ただ、彼の囀りを待ちながら
track2. 夏鳥は弾丸を噛む -The Summer Bird Bites the Bullet-