track2-1. 夏鳥は弾丸を噛む -The Summer Bird Bites the Bullet-
――弾丸を恐れたその鳥は
歌うことを忘れてしまった
track2. 夏鳥は弾丸を噛む -The Summer Bird Bites the Bullet-
そこにはただ、海が在った。
あれは小学生の頃、音楽のテストの日――今思えば、人前で歌うのは初めてだった。
自分の順番が近付くにつれ、緊張が高まっていく。
少しでも落ち着こうとした俺が目を閉じると――瞼の裏には一面の海が広がっていた。
波一つなくどこまでも広がるその青に見惚れていると、遠くからピアノの音が聴こえてくる。
俺はその澄んだ空間の中で、呼吸をするように歌い始めた。
初めはそれこそ吐息のように。
俺の歌に呼応して、水面がりんと鳴る。
その微かな響きは、俺に確かな勇気をくれた――このまま歌ってもいいのだと。
俺は大きく息を吸い、持てる声を響かせる。
果ては世界を切り裂くように。
歌い終わって目を開くと、視界をクラスメートたちの驚いた表情が埋め尽くしている。
一刻後、控えめな拍手音は一気に膨れ上がって俺を包んだ。
間違いなく、それが俺の一番古い記憶だ。
それ以前の生活など何もなかったかのように。
あの時確かに、俺は世界とつながった――そんな気がした。
――そして、その数年後に迎えた『あの日』以来、俺は世界につながる術を喪ったままでいる。
***
「なっちゃん、今日皆でカラオケ行くんだって」
幼馴染みの亜季が笑顔で話しかけてくる。
夏野は丁度帰り支度を始めたところだ。
ノートを鞄に入れながら「へー」と気のない相槌を打った。
「ねぇ、なっちゃんも一緒に行こうよ。久し振りだしさ」
「おっ、夏野も行ける?」
「行こう行こう、夏野って何歌うの?」
亜季の言葉に呼応するように、背後からクラスメートの声が次々と上がった。
手を止めて亜季の顔を見ると、彼女はにこにこと優しく微笑んだままだ。
その笑顔を自分の『嘘』で曇らせるのが忍びなくて、夏野は一瞬躊躇しつつも口を開いた。
「――ごめん、今日俺用事あるんだ」
予想通り、亜季の表情が少し曇る。
夏野は罪悪感を覚えながら席を立った。
「そっか……残念。また明日ね、なっちゃん」
「うん、また明日」
えー帰っちゃうのーと次々に上がる非難の声を作り笑いでいなし、夏野はそのまま教室を去る。
立ち止まらず歩き続け校門を出たところで、ようやくほっと息を吐いた。
高校2年生になって、早2週間が経っていた。
夏野が通う高校は髪型や服装をはじめとして自由な校風が売りの私立だ。
生徒数はそこまで多くなく、2年生になりクラス替えが行われても顔見知りが一定数いる。
それでも親交を深めるため、クラスメートたちは放課後にこぞって交流を図っているようだ。
とりわけ亜季は端正な顔立ちと長くきめ細やかなストレートヘアが人目を引き、男女問わずよく声をかけられている。
その度亜季は夏野を誘うので、予定が合えば一緒に付き合いもするが――正直、カラオケだけは行く気になれなかった。
用事があると言った手前そのまま家に帰るのも気が咎め、夏野は行きつけの中古CDショップに立ち寄る。
高校生の懐事情などたかが知れているが、夏野が好むレトロな洋楽ロックは手軽な値段で手に入れることができた。
「あ」
アルファベット順に並べられたCDの海に宝物を発見し、思わず声が洩れる。
中学生の頃夢中で聴いたロックバンドのライブ盤――ネットの口コミも上々の名盤でありながら、なかなか出逢えずにいたアルバムがそこに鎮座していた。
もやもやと沈んでいた気持ちが少しだけ上を向く。
CDを買って店を出ると、夏野は駅に向かう途中にある公園のベンチに座った。
ポータブルプレイヤーに早速買ったばかりのCDを入れる。
亜季には何度もMDにしないのか訊かれたものだが、夏野は音楽をCDで聴くのが好きだった。
「CDの方が買ってすぐに聴けるからいいんだよ。なんだか音も綺麗な気がするし」
「そうなの?」
CDとMDの音質の差など、実のところわからない。
それでも大好きな音楽を聴く上で、夏野はそのポリシーを大切にしている。
プレイボタンを押してイヤホンから音が流れ出すと、夏野は目を閉じ、一人音の世界へと沈み込んでいった。
収録された観客の歓声がさざ波のように広がり、ボーカルが口上を喋り出す。
最後の台詞にギターの雄叫びがかぶさり、ドラムとベースが畳みかけた瞬間――夏野は微笑んでいた。
こうして目を閉じながらライブアルバムを聴いていると、実際にそのライブ会場にいるような気分になれる。
2枚組でおよそ2時間半――せめて1枚だけでもここで聴いていこう。
そして70分が経過し夏野が音楽の旅から戻ると、空は少しずつ日暮れてきている。
そろそろ帰ろうとイヤホンを外した瞬間、突如として耳にギターの音が飛び込んできた。
――瞬間、胸が高鳴る。
その音は、夏野の身体の奥底に眠る芯を確かに揺らした。
思わず音の発信源に目を向けると、そこにはギターを弾く黒いニット帽の男がいる。
この公園にストリートミュージシャンがいたのか――初めて見るその彼にどうしようもなく惹き付けられたのは、その存在が物珍しかったからだけではない。
彼が奏でるその曲が、夏野にとってたまらなく懐かしいものだったからだ。
とてもアコースティックギターで弾くようなシロモノではないが、確かに彼はその曲を弾いていて――その音に誘われるように、夏野はいつしか自分の記憶の中へ潜り込んでいく。