track4-5. 秋の少女は英雄を待つ -The Autumn Girl's Waiting for the Hero-
そんな坂本が夏野に視線を向けた瞬間――その圧がふっと緩む。
「――何だ、君か」
「先生、この前教えてもらった『LIPS』のライブ盤聴きました。俺『You Stole My Love』が好きかな」
夏野が笑顔でそう話すと、坂本が「そうか」と小さく笑みを浮かべる。
初めて見る坂本の笑顔――亜季は驚きのあまりまじまじと見つめてしまう。
「私はやはりオープニングの『Hollywood Rock City』だな。あのアルバムの収録バージョンは歴代最高テイクだと思っている」
そのまま亜季にはよくわからない話を坂本が熱く語り続ける。
夏野もそれに楽しそうに乗っていたが、ふと「それはそうと先生、お願いしていた件どうなりました?」と切り返した。
そこで坂本も我に返る。
「あぁ、そうだったな。二人ともついてきなさい」
咳払いをして亜季に振り向いた坂本の表情は、いつもの冷静な仮面を纏っていた。
――そして、坂本が夏野と亜季を連れてやって来たのは……
「……音楽室?」
そう、音楽室だった。
「さすが、話付けてくれたんですね」
「当然だ。但し6月公演前の昼休みだけだからな。そのあとは吹奏楽部が文化祭に向けて練習で使い始める」
亜季が夏野に促されて部屋の奥の方に進むと、キーボードが置いてある。
スタジオで使用しているシンセサイザーに比べると音数は少ないが、ベース音も出せるようだ。
これならスタジオ練習以外の日にも本番に近い練習をすることができる――亜季は思わず夏野の顔を見た。
「なっちゃん、ありがとう……!」
そして坂本にも礼を言おうと振り返ると、既に坂本の姿はない。
もう物理室に戻ったのだろうか。
「坂本先生と仲良しなんだね」
「ん? あぁ、先生LIPSっていうバンドの大ファンで、こう言っちゃなんだけど音楽友達みたいな感じなんだ。プライベートでベースも弾くんだって。普段のイメージと全然違うよな」
夏野の屈託のない笑みを見て、亜季は胸が熱くなるのを感じた。
――そう、夏野は小さい頃からいつも人に囲まれていた。
一見近寄り難い春原や威圧感のある冬島、そして付け入る隙のなさそうな坂本も、夏野にはどこか心を許している。
そんな夏野の特性を、一番長く彼を見てきた亜季は誰よりもわかっていた。
夏野は確実に、自分を取り戻していっている――その事実が亜季を奮い立たせた。
昼休みの残り時間はあと15分。
少しでも練習をしようと、亜季はキーボードの前に立ち楽譜を広げた。
翌週のバンド練習では、亜季は全体のテンポに合わせほとんど弾けるようになっていた。
「高梨さん、かなりシンセに慣れてきましたね」
春原が褒めてくれたのは素直に嬉しかったが、まだ十分ではない。
明らかに自分以外のピースは完璧で、それについていくのがやっとだ。
少しでも気を抜くと途端に崩れてしまう。
バンド練習以外にも亜季は自宅で、そして昼休みの音楽室で懸命に練習した。
気付けば公演前のバンド練習は残すところあと1回となっていた。
今日も亜季は昼食を早々に食べ終え、音楽室で練習に励んでいる――すると
「おーおー、怖ぇ顔」
いきなり響いた声にはっと顔を上げると、音楽室の入口に冬島が立っていた。
「冬島さん……?」
冬島はずかずかと室内を横切り、壁の近くに置かれていた小太鼓をスタンドごと持ち上げる。
そのままパイプ椅子と小太鼓を抱えてキーボードの前にそれらをセットし、座った。
亜季はそれを見ていることしかできない。
「……あの?」
冬島が顔を上げて亜季を見た。
「――高梨、だっけ?」
「はい」
「おまえさ、あんまり他の奴と一緒に演奏したことないだろ」
――図星だ。
言外に責められているような気がして、亜季は小さく俯く。
視界の外から冬島がため息を吐く声が聞こえた。
「勿論間違えないで演奏するのは大事だ。でもな、それよりセッションで大事なのは『呼吸』だと俺は思ってる。で、俺と高梨はバンドのリズム隊だから、俺と高梨の呼吸が合わないと上手くいかない」
そこで冬島の言葉が途切れる。
少し間が開いて、亜季が視線を上げた瞬間――思いがけない台詞が彼の口から飛び出した。
「――だから、俺と付き合おう」
「……え」
思わず冬島の顔を見つめる。
彼の顔は大真面目で、亜季は呆気に取られたままそれ以上言葉が出なかった。
「――というのは、冗談で、つまり」
その表情を変えずに冬島が続ける。
「呼吸を合わせるためには、そんな難しいカオしてちゃあ駄目だ。もっと楽しそうにやんな――ほら、こんな風に」
冬島が目の前の小太鼓をリズミカルに叩く。
しかしその表情は真顔のまま、まるでこちらを睨み付けるようで――言葉と行動のギャップに、亜季は思わず吹き出した。
「こんな風にって……全然楽しそうじゃないんですけど」
「あ? 誰がどう見ても楽しそうだろうが。おまえどんな目ん玉してんだ」
冬島の小太鼓が小気味よくリズムを刻む。
「ピアノでもメトロノーム使ってテンポの練習するだろ。俺がこのバンドのテンポを決める。だから――困ったらとりあえず俺の音を追え。わかったな」
そこまで一息に言うと、冬島は小太鼓とパイプ椅子を元の位置に戻して、出て行った。
――まるで嵐のようだ。
まともに話したのは初対面の時以来だが、あんな冗談を言うひとだとは思わなかった。
「――楽しそうに、かぁ」
少し肩の荷が下りた気がする。
冬島が去っていった扉の方を見て、亜季は思わず微笑んだ。




