73・邪魔もの襲来と、閉じ込めた思い出。
「ネオン様、起きていらっしゃいますか?」
「えぇ、大丈夫よ。」
カーテンが開く音で目は覚めていたのだが、ベッドに近づく前にそう声をかけてくれた侍女に返事をして、私は体を起こした。
しっかり体を伸ばしベッドから降りると、置かれている洗面用の薔薇を浮かべた水で顔を洗い、侍女が手を出してくる前に自分で寝間着を脱ぎ捨てると、用意されていた綺麗に洗濯されたシャツとトラウザーズを手に取る。
(毎朝毎朝、ボタンとの戦いよね。)
と考えながら、ブラウスの小さなボタンを一生懸命嵌めてゆきトラウザースを穿いて鏡台の前に座ると、一人の侍女が髪を整え始めてくれ、もう一人が一一紐を編み上げないといけないショートブーツを履かせてくれる。
(全体的に、ファスナーがあればすっごい楽なのにね……作れないかしら……。)
そう考えながら髪を編み込みアップにしてもらうと、ハーブを漬け込んで作った化粧水でスキンケアだけ行い、化粧はどうせ落ちてしまうからといつも通りに拒否して食堂へ向かった。
(今日はアルジがいないのね。 お休みかしら?)
首をかしげながら、食堂の扉を開けて中に入ると、そこには家令が立っていた。
「おはようございます、奥様。」
「あら、あなたがこちらにいるなんて珍しいのね。 旦那様の方はよろしいの?」
きっちり腰を折ってそう頭を下げた彼に、私は席につきながら声をかける。 すると彼はいつも通りの表情で私に何かを差し出した。
「本日は遠方への視察とのことで、早朝に出発なさっておいででございますのでご心配には及びません。」
「そう。」
目の前に並べられた果物のサラダとパンとオムレツ、それから果実水と紅茶を持ってきてくれたメイドにお礼を言いながら、私は溜息をついてそちらを見る。
「で、何の用事かしら? こちらには用はないはずだけれど。」
「昨日、侍女長に伺いました件について、使用人の教育がなっていなかったことへのお詫びに参りました。」
「そう。 では聞きました。」
きっと、私に対して言いたいことはそれだけではないだろう。 含みのある言い方が鼻につく。
私は彼から視線を食事の並んだテーブルに戻すと、お行儀悪く、紅茶には蜂蜜とミルクをたっぷり入れ一気に飲み干し、カップをソーサーに戻して告げた。
「どうぞ、貴方はお屋敷に戻って結構よ。」
「奥様、一言宜しいでしょうか。」
しかし彼は頭を下げ、発言の許可を求める。
「いいえ。 昨日のメイド達の噂の件でしたら、謝罪は侍女長から受けていますし、必要ありません。」
「その件もそうでございますが、辺境伯家を預かる家令として、奥様にお願いがございます。」
「あら、それは何かしら?」
カトラリーを手に取った私は、ざくり、と、果物を行儀悪くフォークで刺すと、視線だけを家令にうつした。
「辺境伯家を預かる家令は、これから執務に出かけなければならないという忙しい朝の食事の時間に、約束なく夫人の元に現れて、意見をするのが正しい姿なのかしら? そもそも私はお飾りの妻で、辺境伯家を仕切る女主人ではありませんよ? その事については、貴方もよく知っている事柄だと思うけれど? 違ったかしら?」
「無礼は承知のうえでございます。 私は、辺境伯家の繁栄を願っております。 ですからどうか、奥様には母屋に戻っていただき、旦那様とお話をし、辺境伯夫妻として……。」
「契約を忘れたのかしら? 貴方が口にしていることは、貴方の大事な旦那様と、お飾りを言い渡された私の契約に支障をきたすものではなくて? 私は、表立っては辺境伯夫人として求められることはやっているつもりよ? それ以外は一切自由と言われたはずです。 契約者は旦那様と私。 貴方達に何か言われるようなことは一切ないわ。」
果物を刺したままのカトラリーをそのままお皿の上に置き、果実水だけを飲み干した私は椅子から立ち上がると侍女の持ってきてくれた隊服に袖を通した。
「契約にある事、そして、辺境伯夫人として始めた医療院と孤児院慈善事業に関しては、私は約束を守ります。 しかし、それ以外は、契約以上の事も以下の事も、決して行いません。 契約に関することは旦那様が私に言うべきことであり、貴方ではありません。 お飾りの妻は契約に基づいたものです。」
はぁ、とため息をついて私は食堂を出る。
「奥様、しかし旦那様は……っ!」
「朝食をいただく気もうせてしまったわ、もったいない。 厨房には、食事を無駄にしてしまってごめんなさいと謝っておいてちょうだい。」
まだ何かを言おうとする家令の言葉を遮り、そばにいた侍女へそう伝えると、肩越しにちらっと家令を流し見た。
「小娘だと思って何度も策略にお願いが通ると思っているのかしら? 勘違いも甚だしいわね。 教育する側がこれだから、辺境伯家の侍女メイドがあのような問題を起こすのではないかしら。 まず己の身を律することから始めなさい。 いいかしら? これ以上、お飾りの妻である私への過干渉、策略を行えば、旦那様側の契約不履行で、契約破棄を願い出ます。 心得ておきなさい。」
「……かしこまりました……。」
そう言った彼を振り返ることなく、わざとカツッ! と大きく踵で音を鳴らし、私は食堂を出、馬車に向かう。
従者が用意してくれた馬車に乗り込むと、鞄などと一緒に侍女が手籠を渡してくれた。
「ネオン様、此方を。 朝ごはん抜きではお仕事中にひもじい思いをされてしまいます。 どうぞ移動中にお食べください。」
籠にかけられたナプキンをそっと剥ぐと、中にはサンドイッチと焼き菓子が入っていた。
「行ってらっしゃいませ。」
「ありがとう、行ってきます。」
侍女とメイドに見送られて、馬車は走り出した。
(そういえば、やっぱり最後までアルジを見なかったわね。)
もぐもぐとサンドイッチを食べながら私は思案し、それから家令の顔を思い出して顔をしかめてその思考をよそにやる。
(あ~、朝から嫌な思いをしたわ!)
馬車の中だし、と、公爵令嬢的振る舞いではなく、市井で暮らしていた時のように、がしっとサンドイッチを掴んで口一杯に頬張る。
ガシガシガシと噛み砕き、飲み下し、果実水を瓶のまま飲んで、一息つく。
(何が言いたいかまるわかりなのよ。 どうせ旦那様と和解しろ、仲良くしろ、良い夫婦関係を築け、とかなんでしょう? そのつもりだったわよ、嫁ぐまではね! それを最初に拒否したのは旦那様だっていうの!)
がしっと焼き菓子を掴んで口の中に放り込む。
甘い甘い焼き菓子を口の中で噛み砕いて、果実水と一緒に飲み干す。
(そもそも、本当ならこんな結婚したくなかったのよ! あの青い血のくそ狸めっ!)
そう、本当ならまだ酒場兼宿屋で看板娘として働いているつもりだった。
こんな窮屈な生活をするつもりなんてさらさらなかったし、考えたこともなかった。
ふと、馬車の窓の外を見た。
木々が並び、護衛の騎士が斜め前と斜め後ろに位置し、並走しているのが見える。
ゆらりと揺れたのは、この時期に咲く白い花。
「あれは……」
通り過ぎてしまった花を窓越しに目で追った。
この辺りに自生する花だろうか。
(最初にもらった花と一緒だったな……。)
ふと、王都で働いていた酒場兼宿屋や、お別れも言えなかった人達を思い出し、心が沈み落ちるのを感じて目を伏せ窓から離れる。
忘れるよう、思い出さないように閉じ込めていた気持ちは、こんな小さなきっかけで、あふれるように思い出される。
8歳で市井に放り出され10年間。 貧乏暇なしとはよく言った物で、本当によく働いていた。
それでもそんな生活の中で、私は淡い恋をしていたのだ。
(お別れ、したかったな……。)
叔父と交わした契約書にサインした時に、全部断ち切り捨てたはずの過去。
『……やる。』
15歳。 いつも通り、せっせと掃除していた私に、たくさんの花が一つの塊になったような、珍しい白い花を突き出したのは、2.3か月に一度、私が働いていた宿屋にやってくる人で、いろんな品物を国から国へ街から街へと運ぶ遊牧商隊の一人で、魔物や夜盗などから守るための護衛剣士だった。
『……え? あの、お客様……?』
『珍しいだろう? アナベルという花だそうだ。 移動中に見つけて、お前の為に取って来た。』
突然何が起こったのか理解できず、持っていた雑巾を落としてしまったその手に、白い花の枝を握らせてくれた彼は、困ったように笑った。
『いつも難しい顔だが、せっかく……可愛いん、だからっ……俺にはもう少し、笑ってくれ。』
最初は勢いよかったものの、徐々に小さくなっていったその言葉に、私は火が付いてしまったんじゃないかと思うくらい、顔が熱くなって悲鳴を上げてしまった。
親父さんとおかみさんがものすごい形相で慌てて走ってきて……彼から話を聞くと、大笑いしながら、私に花を握らせてくれた。
『あんたの事が、ずっと気になってたんだってさ。』
そう耳元で囁いて、おかみさんは頭を撫でてくれた。
花をくれた背の高いその人は、剣士のわりに細身で物腰は柔らかく、遠く異国の血が混じっている証という褐色の肌に、長い真っ白の髪を編み込んだ三つ編みを高い位置で結い上げ、夏の日の鮮やかな空の様な青い瞳が綺麗だった。
最初に真白いアナベルの花を貰ってからは、宿に来れば必ず赴いた道中で見つけたという花をくれた。
時には異国の珍しい菓子だったり、小さな装飾品をくれることもあった。
私が、渡せるものがなくてごめんなさい、と謝ったら、そんなものはいらない、ただいつも笑って迎えてくれと言われた。
汚していた髪も顔も、可愛らしいと撫でてくれた。
輸送隊が来るのを心待ちにしながら仕事をしていたし、彼らが出発するときはいつも悲しくて泣いていた。
親父さんもおかみさんも、嬉しそうに彼が無事で帰って来たね、とか、次も会えるよ安心しな、と私を励ましてくれていた。
(……そう、だったわ。 あの日も……)
あの日も、先行隊の知らせがあり、夜には輸送隊が到着するはずだった。
公爵家の当主が気持ち悪い笑顔で私を迎えに来なければ、私は彼を出迎え、花を貰って微笑んでいるはずだった。
気持ちがどんどん重くなる。
(あの日に捨てたはずなのに、こんなの、思い出すんじゃなかったわ。 ジョゼフのせいね! 朝から気分を悪くしたんだから!)
ふん! と息を吐いて外を見ると、すでに辺境伯騎士団の砦が見えてきていた。
「あぁ、着いちゃうわ。」
慌てて籠に残るサンドイッチとお菓子の残りを食べ終わると、果実水でのどを潤し、ナフキンで手を拭いて気を引き締めた。
(契約上、辺境伯夫人であり続ける間は、あの人たちには会う事は二度とない。 そもそも汚していない姿すら見せられなかった関係性の上の生活だったもの。 えぇ、大丈夫。 家族のためには未練はないわ!)
淡い淡い、手が触れ合うだけの、宝物のような初恋を知らないままに政略結婚させられなくてよかった! と、思い出しそうになった名前をぎゅっと心の奥底に押し込んで、私は深呼吸して気持ちを切り替えた。