64・通常業務と総刺繍の罠
朝会で報告にあった『一人でトイレに行きたい』という患者の処置と清拭を終えた私は、その騎士様とまずお話をすることにした。
医療の基本であるインフォームドコンセント(医療従事者からの十分な説明と患者による同意)を守るためである。
実は前世では、手術の術式により差はあるものの、術後の早期離床は様々な観点から強く推奨されている。 それを知っていて進めなかったのは、いざというときに対処できない事と、自分が医師ではなく判断が難しかったこと、そして前世の記憶にはない『魔障』がどのように作用をするかがわからなかったからだ。
医療院で初めての重症患者の離床という事で、私は自分の知識の範囲の中の事を噛み砕きながら、『失われてしまった腕の話』から始まり、『無い腕のために、全体の体のバランスが崩れている事』『大量の出血を伴う大きな怪我と魔障からの回復中であり、いまだ万全の体調ではない事。』『体力も筋力が落ち、自分で思うよりもずっと体が弱っている事』『そのために眩暈やふらつきなどをおこしやすく、転倒しやすい事』を説明した。
それでも、もう恥ずかしいから自分一人でトイレに行きたい、足が大丈夫だから何とかなる。 と強く希望されたため、まず、ベッドから立ち上がって体感していただくことにした。
「ゆっくり立ってください。 急に立ち上がる事で眩暈が起こりやすくなりますから。」
「大丈夫だ。 傷口が痛いだけで体は何ともない。」
私の手を振り払うかのようにして、彼は仰臥位から一気にぐっと体を起こしベッドの端に足を下ろすと、一度も休憩を入れることなく、そのままの勢いで立ち上がってしまった。
「ほら、何ともないだろう、心配しす……っえ?」
ぐいっと立ち上がった彼は、自慢げにそこまで言い、急に瞬きを繰り返した。
「おまちください、あぶな……っ!」
「……え? うわ……っ!」
そのまま前へ崩れ落ちるようにひざを折り、隣のベッドに向け、前のめりに倒れ込む。
「わわっ……大丈夫かっ?!」
そんな彼を床や隣のベッドにぶつからないよう、しっかりと後ろから支えてくれたのは、後方支援をお願いしていたミクロスで、よろめく彼の体を両手でしっかりと保持すると、慎重にゆっくりとベッドの端に座らせ、そのままの流れで床へ横たえた。
「……すみま、せん……」
「吐き気や気持ち悪さは?」
「……すこ、し。 いや、大丈夫、です。」
「御無理は行けませんわ。」
「……出来ると、思ったのに……。」
残った方の手で顔を覆いながら、悔しそうに唇を噛みそう言った騎士様に、私は静かに首を振った。
「気にしないでください、それが当たり前なんです。 星が散るような眩暈がしませんでしたか? 脳貧血と言って、急に立ち上がると全身の血液が下に下がってしまい、一時的に脳への酸素の供給が減って眩暈をおこすのです。 早く自分でやりたいと思う気持ちはわかります。 ですが、体は急には回復しません。 ですから無理は禁物なのです。 トイレへ行くのはもう少し先にして、まず最初にベッドの端に座る練習を始めましょう。 それに慣れてきたら、その姿勢で食事をとる練習を。 それに慣れ、食事が最後まで食べられるようになったら、まずは昼間だけ私たちとトイレへ。 そして、それに慣れたら夜もトイレに行く練習を続け、最終的には一人で行くようにしましょう。 新たに怪我をしたり、再び体調を崩すようなことがあってはいけません。 段階を踏みながら徐々に慣らしていきませんか?」
穏やかに、語り掛けるようにそう説明すると、ギリッと、歯が軋む音が少し聞こえた後、ひとつ、大きなため息と共に。
「わかりました、そうします……。」
と、彼は呟き、頭からシーツを被ってしまわれた。
私は周りにいた看護班の皆に『しばらくはそっとしておくように。』と本人へ聞こえないように指示を出し静観することにした。
彼が今、心の中に抱えている感情は決して私達にはわからないし、どうしようもないのだ。
(自分で自分に折り合いをつける時間が必要だわ。)
怪我が落ち着いても食事をとれなかった騎士様たちを思い出す。
食事を受け付けなかった彼らは、このままでは衰弱してしまうかもしれないという状態であった。 しかし、両親、又は妻子などから、家へ連れて帰りたいと相談を受け、怪我の手当てに通院するという約束のもと、自宅に帰す事となった。
帰ってからも2日ほどは食事が喉を通らなかったと言うが、それでも、家族と散歩に出、休み、共に食卓を囲むことで、自ら食事をとり始め、皆、出仕を再開、又は再開を予定していると聞いた。
もっと寝込んだり苦しむかと思っていたが、前世とここは元々死生観が違うのだから当然か、とも思う。
この世界では、前世で暮らしている時よりも、ずっと戦や魔物の出現、風土病などと隣り合わせで、命の危険や死の存在がとても近いところにある。 そしてそれらの脅威から身を守るのは、まずは自分自身であるという最低ラインの生存活動への生理的欲求が働き、生きる方へと意識を向けさせるのだろう。
(何とかの生理的欲求、ね。 習った習った。 でも所詮は机上のものだと思っていたけれどまさにその通り……。 しかし、実際的な感覚や、その脅威の回復の姿は、こっちで肉親に辛酸をなめさせられていたネオンとしての経験や記憶の方が役に立つわね……。)
前世の記憶を取り戻す前の自分もそうだった。 早くから自分で働き、稼ぎ、危険から身を守らねばならなかった。 前世での自分なら社会保障上守られていたかもしれないが、此方にはそれがないに等しい。
前世の安全神話など、この世界では何の役にも立たない。
(あぁ、でもせめて辺境伯領の子供にくらいは、諸外国や日本人同士でも『平和ボケ』とまで言われるほどの安心感を与えてあげたいわねぇ。)
なんとなくやりきれない気持ちにため息をつきながら、私は皆に声をかけると、朝、報告を受けていた改築されたばかりの厨房へ顔を出した。 そこではすでに昼食を作り始めており、余りの変貌と皆の手際の良さにびっくりさせられた。その後は、親方に作ってもらったレンガ造りの焼却炉の確認(これに関しては前世の焼却炉よりとてもよくできていてびっくりした)を終え、医療院の執務室に戻って、私のお休みの間に溜まった書類や仕事の確認を始めた。
「これがほぼ完成品の病衣と仕事着ね。」
テーブルの上にたたまれていたそれを手に取る。
「まずは病衣……柔らかい綿で、上着の紐の位置もあっているわ。 腰はゴムがないからひもで縛るタイプで……大きさは、男性用の3サイズ……うん、いいんじゃないかしら。」
前世の病院でも使っていたし、医療ドラマでもよく見る軽症者向けの『作務衣』の様な上下の病衣と、上着の丈をひざ下あたりまで伸ばしてもらった重傷者用の『浴衣タイプ』の2種類だが、布の柔らかさも、通気性も程よく、いい感じだ。
「もう少し皺になりにくい生地があればなおよかったんだけど、まぁそこはしょうがないわね。 さて、お任せした色は、南方辺境伯騎士団の旗の色を薄くした空の水色ね、いい感じだわ。 紐自体も紐付けも頑丈で扱いやすい……完璧だわ。 じゃあ次は私達の仕事着……こちらの問題はやはり伸縮性よねぇ。」
裁縫士の方々にお願いし、手に入りうる全ての生地を見せてもらったが、伸縮性のあるニット、スエット、スキニーの様な素材はこの世界に存在しなかった。 ポリエステルなどの合成繊維がなさそうだもんなぁと妙に納得しつつ、無いものはしょうがないのでそこはあきらめ、それでも着心地良く、不自由なく仕事できるよう、動きやすさを追求させた。
何度も言うが、ここは南方辺境伯騎士団である。 国の中でも温暖な気候が有名だ。 その中で気持ちよく仕事が出来るよう、通気性の良い頑丈な糸と、吸汗性と肌触りの良い綿の糸の両方を使った生地があったため、それを使用した。
上着の方は、前世のスクラブを思い出し、首回りは窮屈さを感じないVネック、袖は水仕事の際にいちいち袖まくりをするのは面倒くさいため5分丈とした。 比較的温暖な気候で、雪が降る事はない(らしい)南方辺境伯騎士団だからこそ、長袖でも半袖でもない、この丈がいいだろうとなったのだ。 ここが北方だったら、間違いなく私は伸縮性のある生地作りから始め、保温性の高いあったかインナーを作り、作業着を半袖にしただろう。
下に穿くパンツは、前世で言うところの少しゆったりしたカーゴパンツで、腰回りは病衣と同じく紐にした。 上下とも辺境伯騎士団の旗色である濃紺だ。 サイズは男性用で5種類……騎士様だけにマッチョ……いえ、筋肉質の人が多いので、曲げ伸ばしする部分にはタックを大目に入れ、関節の曲げ伸ばしに支障がないよう緩めの作りにしてもらっている。
あ、ちなみに女性は私だけなので、私の分だけは別に細身に作ってもらった。
「うん。 もう、完璧じゃないかしら? Vネックで、五分丈、頭からかぶって左肩で大きなボタンを2つ。 汚れても目立たず、何度もしっかり洗える素材と厚み……よし、名称も作業着じゃなくて『スクラブ』にしましょう。 あ、そうそう、物資班の皆様のためには一段階淡い色の物も作ってもらって、職種別のお揃い……にぃ!?」
その最高の出来に、ご機嫌の私は、スクラブの肩を持ち、しわを伸ばすようにパンパン、としたところで何か背中に見慣れぬ『なにか』が見えた気がして背中側を大きく広げ……絶句した。
「なによ、これ……。」
そこには背中の部分一杯に、それはそれは丁寧に施された紋章が、手の込んだ総刺繍で作りこまれ、燦然と輝いていたのだ。
「えええぇぇぇぇ……。 なにこれ、ありえないんだけど……。」
「失礼します、通りすがりですが、どうかなさいましたか? 隊長。」
相変わらず扉をあけっぱなしの私の執務室の前の廊下を、ちょうど通りかかったらしい物資班の班員が立ち止まって声をかけてくれたため、私はそれを見せた。
「あぁ、ごめんなさいね。 実はこれを見て、今、吃驚していたところで……。」
「あぁ! それは、我が南方辺境伯騎士団のエンブレムですよ。 かっこいいですね! 燦然と輝くエンブレムを背中に背負って働くなんて素敵です!」
「いや、ないから!」
つい、前世の口調が出てしまい、目をまん丸くさせた班員に気が付き、いけないいけないと慌てて口を押さえながらコホン、と一つ咳払いをして、気を取り直しながら私は彼に微笑んだ。
「えぇと、教えてくれてありがとう。 そう、これは南方辺境伯騎士団の紋章なのね。 しかしこれでは、刺繍糸で背中がごわごわして、ちょっと働き辛いかもしれないわ。」
「しかし、すべての騎士の隊服の胸のところにも刺繍は入っておりますよ。 北方、西方辺境伯騎士団と共に行動するときに目印代わりにもなりますし、何より騎士団の誇りですから。」
「な、なるほど……刺繍は当たり前なのね……。 ならこのまま背中で、大きさを小さくして首の下あたりに入れるか、左の肩口に小さく入れてもらうようにしましょう……これはちょっと大きすぎるわ(悪目立ちの意味で)……」
「それも素敵ですね! しかしかっこいい制服になりそうで、我らも嬉しいです。」
「そうね。 紋章の事、教えてくれてありがとう。 仕事に戻ってくれて大丈夫よ。」
「はい、失礼します!」
と、いい笑顔のまま腰を折ってお辞儀をした彼が去ってから、私はもう一度、背中一杯の総刺繍の紋章を見た。
銀色の大きな盾の中央は、背景は4分割の赤と黒、ど真ん中には大きく咆哮する金獅子の横顔。 で、盾の後ろでは剣が3本クロスし、それらを銀色の獅子が立ち上がって支える……とか……
(これに前世の世界的教会シンボルとか、薔薇の花や蔓が絡んでたらガッツリ厨二病よ……要改善!)
綺麗に折り畳みそれらをしっかり抱き込むと、一階に降り、第1騎士隊長と第9騎士隊長に会いに本部へ行ってきますね、と皆に声をかけて外に出た。