62・恋愛突入思考、鎮火!
「結局、何がしたかったのかしら、旦那様は。」
眼鏡と髪のやり取り後、なんとなくそのままお互い無言となり、お互いの窓をただしかめっ面で見つめながら静かに屋敷に到着したのはつい1時間前。
お屋敷についたころには、空はもうすっかり夕焼け色に染まっていた。
侍従が扉を開けたところで、何故か旦那様の手を借りて馬車を降りた私は、そのままの流れでエスコートを続け本宅に誘導されているのに気が付いた。
(ん? 道がおかしくない? なんで本館に向かっているの?)
嵌められたとはいえ、無事に辺境伯夫人としての仕事も終えた今、何故本館に行かなければならないのか分からなかった私は、当然のように私をエスコートしている旦那様の手を離し、その場で足を止めた。
足を止め、手を離した私に『どうしたのだ?』 と素っ頓狂(言い過ぎ)な顔をした旦那様に、しっかりと美しいカーテシーを取った私は、『本日は領地視察にお連れ頂き大変感謝しております。 私、慣れない視察で大変に疲れておりますので、本日はここで失礼いたします。 旦那様、皆様、今日一日、お付き合いくださりありがとうございました。』と言って離れに向かって踵を返したのだ。
その間、私の行動をなぜか全力で止めようとする家令や侍女長、侍従侍女たちの手を振り切るのがちょっと大変だったが、『そもそも私は離れが住居でしょう?』などと突き放し、私の愛する離れ屋敷へ逃げ帰った。
離れ勤務の侍女やメイド達に迎えられた時には、私は別の意味で疲労困憊だった。
「おかえりなさいませ、奥様。 ……随分とお疲れのようですが、晩餐と入浴は……。」
「後にするわ……ちょっとだけ一人にしてもらえるかしら? 本当に疲れたのよ……。」
心配げに声をかけてくれる侍女に息も絶え絶えに私はそう伝えると、さっさと寝室に引きこもった。
「意味わからない、意味わからない、意味わからない……っ!」
寝室に入り、歩きざま靴を脱ぎ、帽子と鞄を放ってベッドに飛び込む。
じたばたと、飛び込んだベッドの上で手足をバタバタさせてそう叫んでから、あー! と、一度大きく手足を布団にたたきつけて、息を全部全部吐き出したところで、今日お天道様に干したであろうシーツの良い香りを吸い込み、ようやくほっと一息ついた。
市井の酒場兼宿屋で働いていた時に、大きなシーツを気持ちよく洗うのがどれだけ大変かよくわかっているから素直に感心し、顔を埋めてしまう。
「ああぁぁぁ、ふわふわサラサラでいい香り……辺境伯家のランドリーメイドさん達は、本当にいいお仕事していらっしゃるわ……。」
全身の力を抜いて、溜息をつく。
たくさん歩いたし、たくさん頭を使ったし、たくさん気も使った。 本当に疲れたのだ。
久しぶりの自室の、一人で過ごすという居心地の良さ、ふかふかベッドのありがたさを堪能する。
「本当に疲れたわ。 あぁ、でも明日からまた仕事だからお風呂と……ご飯を……面倒くさいわね……。」
ふわふわの枕に頭を突っ込みながら、起きたくない、でも起きないとという葛藤にじたばたしていると、遠慮がちに叩かれた扉を叩く音がした。
「ど~うぞ~。」
(自堕落とお別れのきっかけが来たわ。)
身支度の世話をするために侍女が来たのだろうと、間延びした返事をすると、扉が開き、誰かが入ってきた音がした。
「失礼いたします、奥様。 そろそろ入浴のお支度を……って、まぁ、なんてお行儀の悪い!」
「アルジ!」
聞きなれた声にガバっと顔を上げて扉の方を見ると、侍女のお仕着せに身を包んだアルジがあっけにとられた顔でこちらを見ている。
「どうなさったのですか。 お化粧に外出用のワンピースのままベッドに横になるなどと……メイドにシーツを変えるよう伝えなきゃいけませんね。 とりあえず、お疲れのようなのでハーブティをお持ちしましたので、此方へどうぞ。」
冷静にそう言われたので、のそのそとベッドから起き上がり窓近くのテーブルについた私は、蜂蜜がたっぷり入ったハーブティに口を付ける。
「美味しいわ……。」
「それはよろしゅうございました。 では、飲み終わられましたらまずは入浴を。 シーツはその間に替えてもらっておきますね。 食事も今日はあっさりしたものにしてもらっておりますので、しっかりお疲れを取ってくださいませ。」
「ありがとう、アルジ。 それにしても、今日はどうしてついてきてくれなかったの! それに、その恰好。 お休みではないの?」
「それについては本当に申し訳ございません。 夜勤明けで戻ったところ侍女長に捕まりまして事の子細を聞かれ、あのようなことに……。 お休みは、奥様が戻って来られるまではしっかりお休みいただきましたので、ご安心くださいませ。」
てきぱきと、化粧したまま寝転がってしまったために汚してしまったシーツを剥ぎ、ベッドの下に脱ぎ散らかした靴や、ベッドの上に放ってしまっていた帽子や鞄を片付け始めたアルジが笑ってそう言うのに対し、私はハーブティを飲み干しながらむっとした。
「……お休みの事はわかったけれど、私はやっぱりアルジと行きたかったわ。 屋台の焼いた肉串も食べたかったし、お菓子も売ってたのよ?」
「あら、でも奥様、旦那様と辺境伯領でも一番のレストランに行かれたと伺っておりますが?」
「行ったわよ? えぇ、えぇ。 確かにお美味しかったんでしょうけれど、旦那様のお顔を見ながら食べても食べた気がしないわ……。」
「さようでございましたか。」
はぁ、とため息をついた私に、アルジは笑いながらそう答えると、片付けるために鞄を開けて、あら、と一つの革張りのケースを取りだした。
「奥様、此方は?」
私の方に来てそのケースを見せてくれたアルジに、私はしまった! とケースを受け取って蓋を開ける。
「あぁ、壊れてなかった、良かった……。」
ほっとした私に、アルジが首をかしげる。
「メガネと指輪、でございますか? 美しい細工物でございますね。 奥様、このようなものお持ちでしたか?」
「あぁ、たしかに、綺麗な細工ね。」
着けていた時には気が付かなかったが、眼鏡の蔓の部分や指輪の石の周囲の細工など、女性的で美しい繊細な彫刻がされている。
「これはね、髪の毛と目の色を変えるための魔道具なのよ。 ほら、私の色は派手で目立つでしょう? 街で辺境伯夫人だとバレないようにと、旦那様からいただいたの。 なんでも前辺境伯夫人が使っていらっしゃったものだとか。 大切な物なのに忘れて鞄ごと投げてしまったわ。 本当に、壊れていなくてよかった。」
形見を壊したとかありえないわ! と思いながら、蓋を閉めて立ち上がり、ベッド隣のサイドチェストに入れてアルジの方を見ると、何故か目をキラキラさせて私の方を見ている。
「どうしたの? アルジ。」
「もしかして、あの旦那様から、奥様への初めての贈り物ですか?」
(……ん? 贈り物?)
首を傾げた私は、私の方を期待してみている侍女に首を振った。
「違うわ、気分的には貸与していただいていると思っているだけよ。」
「しかし、奥様にくださったのでしょう? あの旦那様が!」
(何かしら、ものすごく嫌な予感がするわ。)
アルジのこの表情を……いえ、正確には、女性たちのこの表情を、私はよく知っている。
(恋愛話、好きよねぇ……。)
はぁとため息をついて、私は訂正していく。
「これは、街を歩くときにばれないようにとお借りしたものよ。 お返しするときについ、私の髪の色が嫌いだと言ったら、確かに目立つから苦労もするだろうが嫌ってやるな、と言われてそのままくださっただけ。 アルジが期待しているような話ではないのよ?」
かなり端折って話をしたはずだが、アルジの目はますますキラキラと輝いて、私にもっと話を聞かせてほしい、と顔が言っている。
「旦那様が奥様に贈り物だなんて! しかもそれが前辺境伯夫人の大切な物ですよ? 代々受け継ぐ大切なものを奥様に……素敵ですわ、奥様。」
「素敵じゃないわ、アルジ、現実を見て。」
このままでは確実に侍女メイドの噂になってしまう。 火消しは大事だ。
目をキラキラさせてそう言っているアルジに噂の火種の気配を察し、私はアルジの肩をがしっと掴んだ。
「いい、アルジ。 私と旦那様は絶対にそう言う事はないのよ。 貴女は詳しくは聞いていないかもしれないけれど、私は旦那様に結婚式の初夜で『愛なき白い結婚』を厳しめに言い渡され契約書も交わしているの。 それ以降数か月顔も合わせたことがなく、家令や侍女長や隊長たちの策略の下、3度目に顔を合わせた時にはあの罵倒合戦を繰り広げているのよ? そして今日も、家令や侍女長の策略にはまって外出しただけ。 本当は貴女と町歩きの予定だったでしょう? たしかに事業的に大変実入りの良い話し合いが出来たとは思うけれど、それ以外は何もなかったわ。」
そう言われたアルジは、大きな瞳でクル……クル……と天井を見上げ……はっとした顔をして私を見た。
「確かに、何かあるわけがありませんでしたね。 どちらかと言えば奥様の事を大変に見下していらっしゃる物言いをなさっていました……あれは私も悔しくてたまりませんでしたっ! そう考えれば何もありえませんね!」
と、力強くうなずいてくれたため、私もしっかりと頷き返す。
「ともかく、医療班と慈善事業はいい方に進みそうよ。 疲れたけれど、視察に行ってよかったわ。」
「それはようございました。 ではそろそろ、湯に入ってくださいませ。」
「えぇ、そうするわ。」
(アルジが、噂好きの侍女やメイド達の大好物的『運命の恋』最高! とかいう思考にならなくてよかったわ。)
火種の鎮火に安心すれば、どっと疲れがぶり返してきたので、私はアルジに言われるまま浴室へ向かった。その後しっかり侍女達に隅々まで磨かれ、料理長が腕を振るった消化の良い夕食をたっぷりといただき、何ならちょっといいお酒も飲んでほろ酔い気分のまま、綺麗に替えられたシーツに埋もれて最高の眠りについたのだった。
だからまさか、本館で眼鏡が足りませんがどうかされましたか? という家令の問いに、何も省くことなく忠実に説明した旦那様がいて、別のところから噂が発火していたことなんて、これっぽっちも思っていなかったのである。
えぇ、これっぽっちもね。
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