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51・見送る。

今回のお話の前半に、死後の処置(自宅でも行える範囲の行為)の描写があります

みたくない方はブラウザーを閉じるか、前ページにお戻りください。


********



「奥様、用意が出来ました。」


「ありがとう。 じゃあ、皆は他の患者の清拭や処置をお願いね。」


「……はい。」


 熱めのお湯が張られた桶と手布を受け取った私は、衝立の中に入ると湯につけた手布をしっかり絞り、ゆっくりと目の前で眠る騎士様のお顔を拭き始めた。


 目ヤニのついた目の周りを綺麗にし、鼻の周囲で浮いた油を拭きとり、口の端に固まった泡を拭って、頬や額の汗も綺麗に拭き取ると、今度は大きめの手布をしっかり濡らして固く絞り、後頭部を持ち上げて濡れた手布で頭全体をくるんで、地肌からもみ込むようにしてくすんだ灰色の髪の毛を拭いた。


 少しして頭を包んだ手布を取れば、抜けた髪の毛と共に、じっとりと髪を汚していた油気も取れて、少しぼさつきはしているが、綺麗になったように見える。


(上から、下に。 次は体……。)


 体を覆っていたシーツをゆっくり剥ぎとり、体中の傷口を覆っていたガーゼと包帯を順番に取り去ると、饐えた匂いが衝立の中に広がる。


 ベッドのそばの窓を少し開け換気をしながら、傷口を丁寧に拭き上げては捨てを繰り返し、綺麗になったところで新しい布を厚めに当て、新しい包帯でしっかり丁寧に固定しながら巻いていく。


 この間にも体温が急速に失われていく体は、筋肉が張りを失っていき、先ほどまでよりもズシリと重く、普段の清拭よりも骨が折れる作業となる。


 一人でやるのはかなりつらい。


(それでも、やっぱり最後は綺麗なお姿で、ご家族に会っていただきたいから……。)


 創部の処置も終わり、今度は傷のない部分に取り掛かる。


 汗で汚れた張りの無い肌を丁寧に拭いていると、衝立が動く気配に顔を上げた。


「あら、エンゼ、何かあったかしら?」


 そこにいたのはエンゼで、彼は少し困ったように眉根を下げ、頭を下げた。


「作業中に申し訳ございません。 実は今、新しい隊服が届きましたので。」


「あぁ。 もう届いたのね。 ありがとう。」


 ドンティス隊長が手配してくれたのだろう隊服を受け取ろうと、手に持っていた手布を桶に入れ、手を洗ってからそれを受け取ろうとすると、彼はそれを持ったまま、私の反対側に立ち、騎士様の枕元へ騎士服を置いたうえで腕まくりを始めた。


「彼は体が大きいので隊長一人では大変です。 お手伝いします。」


「しかし……」


 そんなエンゼの申し出に、私は一瞬、躊躇した。


 亡くなった方の肉体は、とても重い。


 実際の重量は変わるわけはないのだが、死亡すると脳からの電気指令が止まる。 そのため、今まで指令を受けて拡張と収縮を繰り返し動いていた全身の筋肉が弛緩する。 そのため体を固定する力(抵抗)がなくなり、体の保定がしにくくなるためそのように感じるともいう。


 目の前の騎士様は大柄で筋肉質……つまりかなり重い。 だから本当は手を借りたい。


(……でも……)


 前世で言うところの『死後の処置エンゼル・ケア』を、看護経験の浅い、そして『死後の処置』の経験のない彼にさせて、精神的なショックを与えないだろうかと迷った。


 そんな私の気持ちを察したのだろう。 目の前に立ったエンゼは静かに私に言った。


「お気遣いありがとうございます、奥様。 しかし、今までは何もできず、ただ息絶えるのを見届け、集合墓地へ運ぶだけの仕事をしていたんです。 今までそれが悔しくてしょうがなかった。 でも、今は違う。 ですからぜひ、お手伝いさせてください。」


 そう言われて、そうだったのだ、と思い出す。


 彼ら看護班の班員たちは、つい3日前まで、目の前の傷病者や死に逝くものたちへ、何をするわけでもなく、ただ見ているしかなかった日常があったのだ。


 何かできるようになった今、その身を動かしたいのだろう。


(見誤っていたのは、おごっていたのは私の方だったわ。)


 私は目の前のエンゼを見て、頷いた。


「ありがとう。 では、清拭と残る傷の処置を手伝って頂戴。 それが終わったらその騎士服を着ていただきましょう。」


「わかりました。」


 強く頷いたエンゼは、それから、時折私に指示を乞いながら、他には何も言わず、丁寧に指示に従って死後の処置を一緒におこなってくれた。


 大きな胸の傷は、少し厚めに手布を当て、大きめの布を背中から通し、しっかりと前で合わせる。


「傷口の布は、いつもより厚めにあてるのですね。」


 そんな質問に、しっかりと答える。


「えぇ、そうよ。 人は死後、重力で体内の水分が下になっている方へ下がるのだけど、開いたままの傷口からは浸出液や血液が流れ出てしまう。 布を当てずに服を着せてしまうと、そのまま浸み出してしまって騎士服が汚れてしまう。 長くはもたないけれど、せめてお会いするときには、染みだらけの騎士服ではなく、綺麗なままで会っていただきたいと思っているの。」


「なるほど、わかりました。 では他の部分もそうします。」


 頷いたエンゼは、同じように腕などの小さな傷の処置も丁寧にしてくれた。


 そうして処置と清拭が終わると、体に巻いた布のせいで少し窮屈になってしまったが、新しい騎士服をなんとか着せ終えることが出来た。


「これで終わりですか?」


 額に浮かぶ汗を袖でぬぐいながらエンゼが私に尋ねるが、私は首を振る。


「……いいえ。 ごめんなさい、アルジ、お願いがあるの。」


「はい。 なにか?」


「私の化粧品を持ってきてくれないかしら? 侍女長が置いていった物よ。」


「かしこまりました。」


 アルジにお願いし、私のブラシと化粧道具を持ってきてもらった。


「奥様、なにを?」


「お化粧をするの。 最後に家族に会っていただくのだもの。 少しでも生前に近い顔色にして差し上げたいのよ。」


 先ほど拭いたせいでぼさついた髪の毛は、手に取った少しの香油を馴染ませてから櫛で綺麗に整える。


 お顔には、おしろいを薄く載せて、頬のあたりにだけ血色を良くするように淡く淡く頬紅を乗せる。


 そうして、香油に少しだけ紅を混ぜて、唇に伸ばす。


「……どうかしら?」


 化粧を終え、そばにいたエンゼの方を見ると、顔をやや歪ませて頷いた。


「生前見た、彼の姿に、近いです。」


(あぁ、顔見知りだったのか……。)


 化粧品を片付け、騎士服の胸の上で手を組ませてから、その手がほどけて胸の上から落ちてしまわないようエンゼに軽く包帯で手を固定してもらう。


 包帯をきゅっと縛った彼は、そのまま、眠る彼の手の上に自分の手を置いた。


「……どうか、安らかに。」


 エンゼはそう言って静かに頭を下げる。


「……ダナール。」


 聞きなれないその声に振り返れば、以前意識を取り戻された時に少しだけお話した、この負傷隊の小隊長だと言っていた男性――プラティ・グピー小隊長が、シルバーに支えられながら、衝立の間を縫うようにこちらに向かってきていた。


「シルバー。」


「お許しください。 彼が、どうしても、と。」


「いいえ。 大丈夫よ。 ありがとう。 皆も、もし、他にお見送りしたい方がいらっしゃるようならば、きていただいて。」


 私は皆にそう告げると、シルバーに支えられたグピー小隊長に頭を下げた。


「どうぞ、声をかけてあげてくださいませ。」


 頭を上げ、椅子を用意し、シルバーに支えられ、重そうに手足を引きずるようにやってきた彼を促すと、彼は椅子に座らず、静かに真新しい隊服を着て眠る彼の傍に跪いた。


「……ダナール……。許し、てくれ。 許してくれ。」


 ぎゅうっと、彼は部下の名を呼び、床に額を押し当てて、絞り出すようにそう繰り返された。


 何度も、何度も繰り返される謝罪に、私も、看護班も、集まった軽症の騎士様も。


 ただ、静かにその光景を見ているしかできなかった。


 それから、どのくらい、そうしていただろうか。


「奥様。 ドンティス隊長の班の方がいらっしゃいました。」


 アルジに声を掛けられ、振り返ると、扉のところで大きな戸板をもった大柄の騎士様が4人と神父様がこちらを見て頭を下げられた。


「神父様……。」


「奥様も、医療隊の方も、この時もお忙しいと思い、こちらからお迎えに上がりました。」


「ありがとう存じます。 ……彼は、あちらにいらっしゃいます。」


「かしこまりました。」


 そっと動かれた神父様たちに合わせ、私達は扉側にも置いていた衝立を外した。


 亡くなった騎士様に許しを乞い続けるグピー小隊長の傍らに膝をついた神父様は、グピー隊長の額と床の間に手を滑り込ませ、ゆっくりを顔をあげさせた。


「神父様……」


「神も、彼も、貴方を許すでしょう。 さぁ、歩けるようでしたら、共に教会まで送っていただけますでしょうか。 彼への手向けになります。」


 そう告げ、近くにいた騎士様にお願いして彼を立たせると、自らも立ち上がり、胸に下げていた祈りのシンボルを包むように手を組んで、眠る騎士様のために祈りの言葉を捧げられた。


 そこからは、ただ静かに、眠る彼は戸板に乗せられ、ゆっくりその場を離れた。


「では、我々はこれで失礼いたします。 ……後程、彼を送りがてら、またこちらへ伺います。」


 戸板に手を添えるグピー小隊長に視線をやってから、神父様はゆっくりと頭を下げてから教会の方へ皆を導くように医療院を出ていかれた。


 皆には医療院の中で待っていてもらうように指示し、出て行く彼らを扉の外まで見送った私は、深く深く去り行く人たちが見えなくなるまで頭を下げ続けた。

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