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50・落涙

 領地視察の朝。


 前日、領地視察に急遽10番隊隊長となった自分のお飾り妻が付いてくるため移動は馬車になった、と聞かされていたラスボラは、屋敷から本部へ申し送りを終わらせ、そこを出ると、馬車が用意してあるはずの場所へ向かった。


 しかし、そこには馬車はなく、可愛がっている愛馬が鞍と鐙を付けられて立っているのを見つけると、彼は馬の傍にいた騎馬隊隊長をみつけて近づいた。


「これは、団長。 おはようございます。」


「おはよう。 所で何故、プランツ号がいるのだ。 視察は馬車になったと聞いていたが?」


「それが……」


「それは、本日の視察に、奥様……ネオン隊長は同行できなくなりましたので、通常の軍馬を用意させました。」


「プニティか。」


 ラスボラの背後から、同じく本日の視察隊に同行する予定の二番隊隊長プニティ・ティウスが、騎馬隊長の代わりに答えた。


「おはようございます、団長。」


「あぁ、おはよう。」


 ラスボラは、それを無表情で聞き終えると、よしよし、と、漆黒の鬣の愛馬を撫でた後、身軽にその鞍に跨った。


「では、行くぞ。」


「は。 しかし団長。 それはなぜか、と、お聞きにならないのですか?。」


 連れてこられた自身の栗毛の馬の手綱を受け取りながら、ティウスは問いかける。


「なにがだ。」


「ネオン隊長が本日同行なさらない理由です。」


「はっ、そんなもの。 これで身軽に行けるな、としか思わなかったがな。」


 手綱を掴み、馬を操り始めたラスボラは、声をかけて来たティウスに告げる。


「女子供の理由など、どうせ馬に乗るのが嫌だ、馬車で揺られるのが嫌だ、ドレスが気に入らない。 そんなところだろう。 興味もないな。 先ほども言ったとおり、馬車で移動するのではなくなったから動きが早くなっていいことづくめだ。 ちょうどいい、視察範囲を広げる。 行くぞっ。」


「「「はっ!」」」


「……隊長っ!」


 騎士団長であるラスボラの傍につく警護隊がそれを追いかけるように足を速める。


「……どうすれば、奥様のお心が伝わるのだ……。 ……くそっ!」


 先ほど見た光景を思い出し、手綱を強く握り絞めたティウスは、先に進みだした彼らを追いかけた。









「隊長! 衝立を用意しました!」


「ありがとう。 皆、動揺するのはわかるけれど、どうか落ち着いて静かにいつも通りに、ね。 衝立は、私とこの方を出来る限り他の患者から見えないように立てて頂戴。」


「「「はい。」」」


 みんなが私のいるベッドの周りに衝立を隙間なく立て、ここで起こっていることを他の患者から見えないようにしてくれていた。


「隊長、お手伝いすることはありますか?」


「ほかの皆様は、通常のお仕事をしてください。 ここは、私が。」


「はい。 皆にもそう伝えます。」


 衝立の向こうから声をかけてくれたラミノーに、冷静だと思わせられるよう努めて穏やかにそう告げた私は、本当はただそこで、真綿で飲まれる事のない水分を与えながらも、それ以上何もできず、立ち尽くしていたのだ。


「奥様、第二隊長ティウス様がお迎えに……」


「こんな状況で、ここを離れるわけにはいかないわ。 視察は参加できません、と、伝えて頂戴……。」


 アルジの声を背後に感じ、私は振り返りもせず答えた。


「かしこまりました。」


 その返答が、アルジの声ではなかったことにも、私は気が付かなかった。








 なぜかみんなが張り切って用意をしていた領地巡視をする日の夜明けは、穏やかには訪れなかった。


 いつもならば朝日が昇るのを知らせるように聞こえる小鳥のさえずりが、今朝はカラスの大きな鳴き声だったのはその兆候だったのかもしれない。


 夜明けを迎え、そろそろ夜勤め最後の排泄交換を……と眠く、重い体を引きずるようにして、準備を始めた時、その異変に気が付いた。


 不意に、現在、2番目に重症の患者の呼吸音が、大きく聞こえたのである。


 前の時間の排尿確認の時に、熱が高くなり始めていたのも気になっていたから、もしかしたらと思い、他の患者の排泄交換をアルジに任せ、自分はすぐにそちらに向かった。


 顔面は血色を失った青白から、黄色みの強い土気色となり、呼吸も、胸と腹ではなく全身を使って大きく深く、それを数回繰り返したのち、今度は徐々に弱まっていき、呼吸をやめてしまう時間が出来る。 その後、思い出したかのように再び、浅く呼吸が始まって、それがどんどん深くなっていく。


 そんな呼吸を何度も繰り返し始めた時、私は頭のてっぺんから冷や水を浴びせられたような気がしたのだ。


(これは、チェーンストークス呼吸……? なんで!? いつから!?)


 慌てて患者の胸に、体重をかけないようにしながら耳を当てる。


 肺には呼吸音は気管支分岐の部分でわずかに聞こえる程度で、後は弱弱しく脈打つ心音しか聞こえない。


 耳を離し、患者の頬のあたりに手を当て、呼吸を確認する。


 深い呼吸を数回、浅い呼吸を数回、無呼吸となり、再度浅い呼吸を数回……間違いなく、チェーンストークス呼吸だ。


(呼吸中枢の低酸素脳症とか、動脈血循環不全、低酸素血症の時、それに……瀕死の時に見ることのある呼吸状況……。 なぜ今?)


 ざわっと、全身の毛が粟立つ。


 受傷後3日目。


 安定はしないまでも、悪化もしないまま、良くも悪くもない状態で安定している、と私は思っていた。


 それなのに、そんな私の浅はかさを笑うかのような急激な容態の変化。


(どこかで兆候はあったの!? 私が見逃したの!?)


 いつ、どこで、見落としたのか。


 考えれば考えるほど、自分の落ち度となる患者から目を離した時間の多さに、その可能性が次から次に出てくる。


 見落としてはいけないサインが何だったのか、何処にあったのかもわからないのに、だ。


 翌日からの何度を示すかわからない高熱。


 昨日の昼から、まったく出なくなっていた尿。


 傷口からの血膿や浸出液も、どす黒く糸を引く、粘度の高いものに変わり始めていた。


 そうかと思えば足の末端はむくみ、冷たくなっている。


 体内の水分が一方的に出て行ってしまう中、塩と蜂蜜水で簡易的に作った経口補水液の代わりのようなもので飲水量を増やそうと、頑張ったつもりだった。


 すべて口の端から流れ落ちてしまっていたために、脱水は改善するどころか悪化の一途をたどっていたのは事実。


 すでに、手も、足も、唇の色さえも、血行不良からチアノーゼ症状――肌が青黒くなり始めている。


(ここからどう立て直すの……。)


 しかし、何の手立てもない。


 前世では医師の診察や検査をもとに多角的に探れた原因も、いまは自分の視覚聴覚触覚で得た情報でしか、何もわからない。


 対処法など、元々ないに等しかったのだ。


 深く浅くを繰り返していた呼吸は、時がたつごとに、徐々に弱く、弱くなっていく。


(そもそも、あまりにも物事が順調に進んだから、私が調子に乗っていたせいかもしれない……。)


 思いつくのは、己の不甲斐なさと後悔ばかり。


 もしかしたら、ここ3日の間のどこかで、悪化する兆しはあったのかもしれない。


 そしてそれは、もしかしたら、入れ替わり立ちいってくる客のあしらいや、二晩にわたって行われた、貴族の面子を保つための不必要な『お磨き』をしていた時だったのかもしれない。


 あの時間、ここから離れることなく患者を観察し、水分補給を行っていれば、もしかしたらこんなことにはならなかったのかもしれないという思いが頭の中をぐるぐるめぐる。


(必要だからと言って、少しでも、患者から目を離すのではなかったんだわ。)


 今更そんなことを考えても、この状況ではなるべくしてなったことだ。 頭のどこかでは冷静にそう分析している自分がいるものの、それでも私の体は、少しでも熱を下げようと、大きな血管が走る首元、わきの下、鼠径部を、何度も冷たい水で絞った手布を置いては頻回に交換という、焼け石に水でしかないことを繰り返している。


 本来であれば、この患者の体はもう危篤状態であり、只、静かに穏やかにと、見送るのが一番なのかもしれない。


 それでも、もしかしたら、と私は手を動かす。


 時間は知らぬ間に経っていて、日が昇り、昼勤めの者達がやってきた音がする。


 そこで、アルジの手伝いをしてもらうように指示しつつ、私と患者を衝立で隔離、それから、水を凍らせた『氷』はないかと確認する。


 氷は兵舎にあるという事で、来たばかりのミクロスが走って兵舎へと向かってくれた。


 その間に、他者が苦しみ変わりゆく姿を、療養中の騎士様に見せないように、と、二階や辺境伯家から持ち込まれていた衝立で、私と患者は他の患者から見えなくした。


 何もできないまま、うかばないままに、無情にも時は進む。


「隊長! 氷です!」


 そんな声が私の背後に聞こえた時、私の目の前で、患者は呼吸をするのやめた。


 ずっと閉じていた目を開き、濁った緑色の瞳で、大きく天井を見回して。


 大きく一度息を吸って……


 安堵したかのように、息を吐いて。


 そうして、静かに目を伏せた。


 立ち尽くす私の目の前で、息を引き取った。


「……もう、いいわ……。 だいじょうぶ、よ……」


 衝立の向こう側から呼びかけられる、ぐわんぐわんと歪んでなにを言っているか理解することのできない言葉に、私は何とか返答したのだろうと思う。


 それくらいには、よく聞こえなかった。


 ただただ、目の前で息を引き取った患者が……騎士様が流した一筋の涙をそっと、手布で拭った。






 あぁ、なんでかしら。


 私はなんで、ここにいるのかしら。


 何の役にも立たないのに。


 なんでこの世界で、記憶なんか取り戻したのかしら?


 こんなにも、無力で何もできない。


 こんな出来損ないの記憶なら、知らないまま、戻らないままの方がよっぽどよかったのに。






「ネオン隊長っ」


 パンッ。


 目の前で風船を割られたような大きな音をした気がして顔をあげれば、目の前にはドンティス隊長が立ってた。


「……亡くなった、のですね……。」


 衝立の中。


 私の横に立った彼は、ベッドの上で眠る患者に静かに胸に手を置き、頭を下げた。


「よく働いてくれた。 貴殿の献身を、騎士団は心から、感謝する。」


 それからそっと、私の背に温かい手が回った。


「奥様もお疲れになった事でしょう。 お顔色が優れませんな。 少し休まれては?」


 その言葉に、目頭が熱くなる。


(……いっ!)


 私はどこかから聞こえた声に、首をかしげた。


 ――泣くのはいいけど、後にしなさい! 貴方は看護師なの! プロなの! 他の患者が不安になるから、患者の前では泣いたりしない!


(先輩っ!)


 ぐっと唇を噛んで、下を向く。


(こうやって言葉だけでも登場してくれるなら……もっと早く……)


 そう思って、涙を浮かばせないように目を固くつむると、静かに首を振った。


 教えをもう一回説いてほしかった。


 など先輩の声の幻聴を責めるのは、己の勉強不足、知識不足に対する只の逃げや甘えなのだ。


 私は顔を上げて、ドンティス隊長を見た。


「……大丈夫、ですわ。 それよりドンティス隊長。 隊長は、この方に引き取ってくださるご家族がいらっしゃるかどうか……御存じですか?」


 そんな私に心配げな顔を一瞬のぞかせ、それからいつも見せる騎士の表情に戻る。 


「騎士団名簿を調べればわかるので、いるようであれば家族に知らせましょう。 その他、私に出来ることはありますでしょうか?」


「私はここで、この方のお姿を綺麗にして差し上げてから、教会へ運びたいと思います。 ご家族の方も、こちらでお会いになるよりは教会の方がいいでしょう。 ですので、神父様へうかがいます、とだけ、お話を通しておいてくださいますか?」


 静かに微笑んでそう言うと、彼は私に軽く頭を下げた。


「任された。 昼までにはいく、と言っておこう。 それから騎士服を私の部下に届けさせよう。」


「ありがとうございます。」


 去り際、ぽん、と大きく温かい手に肩を叩かれた私は、ただ静かに頭を下げてその手の主を見送った。

拙作をお読みいただきありがとうございます。

また、いいね、評価、お気に入り登録もありがとうございます。


旦那様、ちょこっとしか出てきませんでしたね。相変わらずですし。


私のはぼちぼちですが、頑張ります。


また数日、気圧に気温の乱高下があるようですので、皆様もご自愛くださいませ。

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― 新着の感想 ―
まぁこうなる可能性はあるよね。 だからこそ、そんな事すら考えない周りに、その事を考えられるはずの主人公が視察のタイミングを強制された数話前が不快だったんだけど。 旦那? クソガキか何かかな? まだ淡々…
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