36・ないないづくして大変だ。
私とアルジは今まで付けていたものを外し、皆さんと一緒に新しい庭師用のワークエプロンを身に着けると、三角巾を頭と、マスク代わりに口元にも巻き、看護班の全員にも同じように装着してもらった。その上で物資班に外で大鍋に沸かしてもらったお湯と、一度沸騰させてから冷ましたものを各ペアで桶に入れ、また、交換用の物を用意してもらうと、医療院一階のすべての窓を少しだけ開けて換気をしながら、負傷兵の皆様の清拭・創部の洗浄を開始した。
「うん、これはいいわね。 流し湯を水差しを使ってやるのは思い浮かばなかったわ。 水差しなんていつも使っていた物なのに不思議なものね。」
「灯台下暗し、という奴ですね。」
「ふふ、そうね。」
体を拭き上げながら、少し布でくぐもった声で私は一緒にペアを組んでいるズテトーラ様こと、ラミノーと話をしていた。
一人目の清拭の準備をし、いざ作業に入る前に、『隊長、これはどうですか?』 と渡された銀の水差しは、昔(そう、実習生時代にね)使ってた琺瑯のピッチャーそのもので、お屋敷では毎朝洗顔の時に用意してもらっていたのに、何故気が付かなかったのだろう、と私は歓喜した。
なにしろこれで洗い流す作業が、かなり楽になるのだ。
「朝洗顔をしているときに思いついたんです。 それで、僕たちが寄宿している寮長に相談して、倉庫にあったあまり物を拝借してきました。 あ、こちらに来るときにブルー副隊長にも許可を得ていますよ。」
そう言って目元を緩ませるラミノーに、私も目元を緩ませる。
「ふふ、どうもありがとう。 これで旦那様……じゃない、騎士団長にも怒られないわね。」
昨日から私の介助についてくれているラミノーと共に、ベッドの中心に寝ている騎士様の体を渡し、側の端にぐっと寄せ、ラミノーが傷のある腕を持ち上げてベッドからはみ出るようにして固定してくれる。
その間に、包帯代わりの布を剥ぎ、まずは腕の真下になるところに椅子を、そしてその椅子の上に空の桶を用意して、少しだけ腕を下ろしてもらう。
防水シートなどがないため、傷の洗浄の際、段差による水垂れや水滴によってシーツやベッドを汚してしまいやすくなる。その為ベッドから腕だけを出し、腕を水平にすることで段差を少なくして、水垂れによるシーツの汚染を最小限にするのだ。
まぁ、床を汚染する可能性はあるのだが、シーツを濡らして全部交換するより、床を拭くだけでいい分後始末がとても楽だ。
そこに、ラミノーが持ってきてくれた銀の水差しが加わった事で、桶よりも水の量や速度を調節できるようになり、泡を洗い流すのがとても楽になった。
(う~ん、昨日より洗いやすい。 水差しは水分補給にも洗浄にもなんでも色々使えるし、後でサイズと数を多めに用意してもらうようにお願いしましょう。)
うんうん、と考えながら、むき出しになった傷口を観察していく。
布が張り付いてしまった場所は、無理やり剥ぐと、組織まで剥ぎ取る事になってしまうので、組織の回復を阻害するし、その周囲の健康な皮膚にも負担がかかる。 そのため、まずガーゼ自体をお湯でふやかしてから、ゆっくりと捲り取った。
当て布の部分は、浸出液で赤褐色に変色し、ところどころ炭化して脆くなった皮膚片がこびりつき、腐ったような異臭もある。
(傷の状態は……当然だけど、良くはない。 本当なら、この焼いた部分を切除して皮膚の再生を速める必要があるんだけどこの世界にそんな技術は……。 出来ることは洗浄をして、清潔を保つこと。 それだとやはり、ただの布では張り付いて負担がかかるか。 傷口に張り付かないタイプの保護剤が必要になってくるけれど……あれはどうやって作ってるの。 シリコン?)
炭化してはいるが、その周りから滲み出た滲出液で汚染した傷を、しっかりと泡立てた泡だけでこすり、洗い流して観察し……ふと、傷口を洗う自分の素手が視界に入った。
(……そもそも素手で触ったりすること自体が良くないんだけどね。自分の手についてる常在菌からの感染症もだけど、一番は私自身を守れないわ。 この世界って、体液媒介の感染症はあるのかな? 一度お医者様にお話を伺いたいわ。 それに、とりあえず早いうちに『うがい』『手洗い』の習慣を、騎士団にも領民にも広めたい。)
良くないな、と思いつつも、ないものはしょうがないので、泡立ちの悪い固形石鹸を手布で何とか泡立て、しっかり泡で洗い、汚れと泡を注ぎ湯で流す、を繰り返す。
(……何かこの世界にある傷用の軟膏……いや、あれも民間療法の類だし、成分がわからないし、衛生管理的に指突っ込んで塗ってる時点で駄目ね。 しかし最適な薬が見つからない間だけでも、民間療法に頼るしかないか…。 手っ取り早いのはアロエににたあのロアエの果肉なんだけど……いや、とりあえず、お医者様に会えるまではやめておこう。 っていうか、お医者様を雇わなきゃね。)
そもそも、なんで騎士団に、医療班に、医療を行うのに必要な医者がいないのか。
根本的に間違っているのである、いったいどうしたらいいのか。
はぁ~と、私は溜息をついてしまったのだが、それを一番近くで聞いていたラミノーが心配げに聞いてきた。
「隊長、どうかなさいましたか?」
「あら、なぜ?」
「ため息もですが、とても難しい顔をなさっています。」
やや苦笑いをしながらそういうラミノーの顔が、懐いていた後輩の『先輩、めっちゃ難しい顔してますよ。 眉間の縦皺、消えなくなっちゃいますよぉ~!』という苦笑いとよく似て、私ははっとした。
夜勤明けの後輩に渡された手鏡の中の自分の眉間、一本、深く濃く、きっちりついていた縦皺。
(いかんいかん! せっかくの美少女なのに!)
私は慌てて笑顔を作る。
「いけないわね。 ただこう、ね。 こうして洗って綺麗にすることしか方法がないことを、歯がゆく感じてしまったの。 ごめんなさいね。」
「いえ、今まではそれすらしていなかったのですよ? 奥様のお陰です。」
「あら? 奥様?」
「いえ! 隊長のお陰です! 新しい手布です。」
「ふふ、ありがとう。 お互い早く慣れましょうね。」
前世の事を口に出すわけにもいかず、話を変えるようにしてごまかした私に、ラミノーが騎士様が動かないように固定しながら新しい乾燥用の手布を差し出してくれて、受け取る。
洗い流した傷口の水分を、手布で、擦らないよう気を付けながら、丁寧に押し付けるようにして水分を取った。
「隊長、こちらも。」
「ありがとう。 固定はこの角度でやってくれる?」
「はい。 これで良いですか?」
「えぇ、ありがとう。」
処置をするのにちょうどよい角度で腕を固定してもらったら、綺麗な布を当て、昨日の夜アルジと一緒に包帯のように細く切った布を手の先(末梢)から腕の方(中枢)にかけて、締め付けず、ゆるすぎない程度に同じところで折り曲げながら、丁寧に巻き上げていき、最後の部分は裂いてあるので、そこを縛って固定する。
「この巻き方には決まりがあるのですか?」
「そうね。 この巻き方は『折転帯』と言ってね、血流を妨げないようにしたうえで、腕は太さが変わるから、ずれないように気を付けているの。 ぐるぐると巻きあげるだけでは、何かの拍子に緩む可能性がある場所ではこの巻き方をするのよ。」
「なるほど、只巻くだけではだめなのですね。」
「関節や骨折の時はまた巻き方を変えたりするわ。 さて、これで終わりよ。 じゃあ次は体を拭きましょう。」
「かしこまりました。」
腕と足の処置が終わり、全身清拭を始めるための準備を始めた私たちのもとに、桶と大きめの水差しを持ったアルジがやってきた。
「奥様……ではなく、隊長。 水差しのお湯を補充しました。 それから、足元の水、捨ててきますね。 何か必要な物はありますか?」
「ありがとうアルジ。 今のところは大丈夫よ。」
傷の洗浄に使用した桶の水を、アルジがペアを組んでいるミクロスと共に片付け、新しいお湯を水差しに入れてくれる。
(侍女だけあって、私の動きをよく見ているわね……。)
しみじみそう考えながら、目の前のラミノーを見る。
彼も、先ほどの様に私の処置を見、頃合いを考えながら包帯や手布をさっと出してくれるので、本当に助かっている。
そのままどんどんと処置と清拭を終わらせ、全員分の作業が終わったのはお昼前だった。
「奥さ……いえ、隊長。 軽症者の方も終わりました。 意識が戻っている方もいらっしゃいますが、どうしますか?」
そう言ってこちらに向かってきたのは、軽症者のお世話をしてくれていたエンゼとシルバーで、汗だくのようだがやり切ったぞ、というさっぱり良い顔をしている。
(あぁ、嫌々じゃなさそうでよかった。)
もしかしたら、奥様の肝いりだからしょうがなく来てくれたのかと不安になっていたのだが、彼らの穏やかな表情にその不安が払拭された気がしてほっとした。
「では、起きられる方には、コップにハーブ水を入れて差し上げて頂戴。 起き上がれない方には私が回るわ。 それが終わったら、少し休憩をしてから、皆様の食事の準備をしましょう。 今日から、負傷した皆様にも、お昼から病人食を用意してもらうように手配しているの。それまでは少し休みましょう。 みんなも水分補給して頂戴ね。 そちらに私たち用のハーブ水と軽食が用意してありますので遠慮せず。 ただし、飲食の前は全員、外で三角巾とエプロンを取ってから、うがいと手洗いをしっかりして頂戴ね。」
「わかりました。」
仕事を終えた3人が、外の井戸に向かう中、遅れてアルジとミクロス様も向かった。