30・夜明けのひと悶着(お漏らし蛙を添えて)
井戸まで吹っ飛んだ檸檬色の頭の青年は、なんとか体を起こしてこちらを見た。
「誰だ! 何をす……ひぇっ!」
「貴様こそ! ここで何をしているっ!」
目の前で殴られた頬を押さえながら、文句を言おうとし……たまたま、声の主を見てだと思うが、無様にも失禁してしまったらしい。
そんな若者に向かって飛ばされた怒声の発生源は私の真後ろ。
耳に直撃した大きな声に、キーンとなる耳を押さえながら、私はそちらを振り返った。
「……ブルー、第三騎士隊長殿……でしたか。」
「おはようございます、奥様。 うちの若い馬鹿が大変なご無礼を。 何事もございませんか?」
そこに立っていたのは、目の前のつぶれた蛙の様にへたり込んでいる若い騎士を厳しい表情で睨みつけ、『逃げるなよっ!』と一喝してから私の方を向き、頭を下げた、昨夜ぶりのブルー第三騎士隊長殿だ。
確か昨夜はそのままお務めをすると伺っていたが、その姿を見る限り、疲れた様子は見えず、桃色かかった赤い髪も綺麗に後ろになでつけ整えられていて、お髭もなく、さっぱりしたお顔をしていらっしゃる。 こちらに来られる前に、きちんと身なりを整えてこられたのだろう。
こういう細かなところでも、しっかりした方なのだなぁと好感が持てる。
「えぇ。 守ってくださってありがとうございます。」
正直、私も拳が出そうだったので、そうせずに済んだことも含め、にっこりと笑って感謝を述べると、彼はなぜか少し頬を赤く染めて、それは良かったです、と顔を背け、ぱぁん! と、ひとつ己の頬を叩いた。
「ど、どうかなさいましたか!?」
あまりのいい音に、頬は大丈夫かと駆け寄った私に、ブルー第三騎士隊長殿は、顔をそむけたまま、手で私に意思表示をすると、こほん、と一つ咳ばらいをした。
「いえ、大丈夫です! 少々喝を入れただけですのでお気になさいませんように。 ……それよりも。」
そのままくるっと体の向きを変え、真顔になった彼は井戸の近くで股間辺りを濡らしたままがくがくと震える檸檬色頭の若い騎士を見下ろした。
「貴様、名前と所属を。」
「ブ、ブルー第三騎士隊長殿! なぜこちらに!?」
「名前と所属を名乗れっ!」
「は、はい! 第5部隊9班所属のアベニーパ・ファーと申します! や、夜勤明けで兵舎に戻るところであります!」
急いで立ち上がり、びしっと90度以上腰を曲げ、かなり上ずった声でそう言った彼に、ブルー第三騎士隊長は冷たい溜息をつく。
「なるほど。 昨夜は魔物の襲撃の余韻もあり、夜の見回りは大変だったであろうな。 だが、今、お前はこの方に何をしようとした。」
「へ? そ、それは……兵舎に……あっ!」
檸檬色の髪の青年の、血の気を失った顔と、しまったと両手でふさいだ口から洩れたかすれた声に、ブルー第三騎士隊長殿の殺気、というのか、何か威圧的な物が膨れ上がった気がする。
(こ、怖い。 体感温度が10度は下がった気がするわ……。 できればこの場から逃げたい……けど、どうしてかしら、足が動かない……。)
と、ブルー第三騎士団隊長の大きな背中越しに、震えながら彼らの様子を伺うしかない私の前で、当の本人は地を這うような声で目の前の若い騎士を問いただす。
「この女性に何をしようとしたと聞いているのだ。」
「そ、それは……この時間にこの中にいる女なんて……その、誰かが買った女だろうと思い……自分も……。 いえ、兵舎の方で尋問をしようと!」
青ざめてそう言いなおした彼の発言に、ブルー第三騎士隊長の殺気? って言っていいのかしら、周囲の体感温度が再び下がった。
(寒い怖い……。 あれ? そういえば、冷静に考えると、辺境伯騎士団の砦の中に、部外者を入れてもいいの? それって問題じゃないの?)
寒いのと怖いのとで頭が冷えたのか、ちょっと冷静になり、そんなことを考えていると、さらに稲妻のごとき怒声が落ちた。
「なんだと!?」
「ひぃ!」
「……っ!」
私は自分の体をぎゅうっと抱きしめた。
体が縮みあがって悲鳴も上げられないとはこのことだ。
(怖い怖い、謝って、まず謝って。 ブルー第三騎士隊長に謝って! あ、もしかしてこの寒さは殺気ではなくて覇気? わぁ、ちょっとファンタジーっぽい……)
彼の返答で、ブルー第三騎士隊長殿の殺気が、ますます膨れ上がり、正直私も気を失いたくなる。 が、変なところで冷静な自分もいて、せっかく冷静になったはずの私の思考はごちゃごちゃだ。
「貴様! 砦内、しかも兵舎に、面会時間以外で騎士でもない人間を入れるのは規則違反だと知っての事か!」
「ひぇ! も、申し訳ございません! で、ですが、その女は!」
(墓穴って、こういうこと言うんだろうな……自分が引き入れたわけでもないだろうに……でも、声をかけてそのあと買おうとしたんだから同罪か……)
井戸の前で股間辺りから足元まで、さらに濡らして震えあがっている彼を見て、急に冷静になったわたしが、そろそろ止めるか、と、助け舟を出そうとした時、ブルー第三騎士隊長殿はびっくりすることを言った。
「このお方は、南方辺境伯夫人……団長の奥方様だ! 昨夜より、騎士団長の命令により、辺境騎士団医療班が第10番隊として新設され、辺境伯夫人が隊長となられたため、こちらに滞在していらっしゃると申し送りされたのを聞いていなかったのか!」
「っ! お、奥さ……ま……。」
その叫びを聞いた檸檬頭の騎士様は、さらに顔を引きつらせ、自分が濡らした地面へとがくがくと震え、へたり込んでしまった。
(……人って絶望して崩れ落ちるとき、スローモーションになるのね。 というか、そんな申し送りがされていたのね、新設に隊長って聞いてないわ、本当に驚きなんだけれど……。)
真っ青になって座り込んで泣きそうになっている若い騎士様は、さらに大きく股間のあたりに水たまりを作っている。
(どれだけ出るのかしら? ひょっとして騎士様は、夜勤の時はトイレに行けないの? ……いや、そうじゃない。 落ち着け、私。)
いろんな方向に跳びがちになっている思考を抑え込むために私は一つ深呼吸してから、静かに、怒り心頭で真っ赤な顔のブルー第三騎士隊長殿の背中に声をかけた。
「ブルー第三騎士隊長殿。 そろそろお怒りを鎮めてくださいませ。」
「奥様っ! 大変お見ぐるしいものをお見せしてしまい、またわが軍の騎士が、不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫びを申し上げます!」
体をこちらに向け、膝と頭がくっつくんじゃないかしら、と思うくらい深々と頭を下げたブルー第三騎士隊長に、私は首を振った。
「いいえ。 謝罪には及びません。 ブルー第三騎士隊長殿が助けてくださったお陰で何事もありませんでしたし、あの騎士様も隊長にそのように怒られて、随分と反省していらっしゃるでしょうからもう大丈夫ですわ。 そちらの騎士様。 此方はもう結構ですから、兵舎に戻って汚れを落としてお休みください。 夜の見回り、お疲れさまでした。」
そう言って檸檬色頭の騎士様に微笑むと、両目から滝の様に涙を流し、よろよろと立ち上がり背筋を正すと。
「奥様! ブルー第三騎士隊長! 大変、申し訳ございませんでしたぁ!」
と、叫びぶように謝罪され、深々と私たちに頭を下げてから、兵舎のある方だろうか、ものすごい勢いで走っていってしまった。
「……まったく、逃げ足だけは速い……。 しかし奥様、よろしいのですか? あのような無礼な発言をしたのです。 しっかりと罰を与え……。」
頭を下げながらも、視界の隅にそれを見ていたのだろう。
彼が走り去り、私が頭を上げてもらったところで、ブルー第三騎士隊長は、先ほどまでの殺気はどこへやら、困惑した顔で私を見た。
(ブルー第三騎士隊長は、人懐っこくて喜怒哀楽の激しい、もふもふでにっこにこの大型犬のような方だわ。)
昨夜といい、今日といい。 前世で言うところの滅茶苦茶人懐っこいけど忠義に固い大型の日本犬のような人である。
私は彼に淑女の微笑みを向けたまま、頷いた。
「確かに発言も態度も不愉快ではありましたが、実害はありませんでしたし、昨日の今日で私の事を知る人間など少ないですからね。 今日のところはブルー第三騎士隊長殿に怒鳴られて失禁したという、恥ずかしい思いもしたことでしょうし、これで終わらせておきましょう。」
「ですが……」
「それに、あまり苛烈に罰を与えると、いらない恨みを買いますから。」
にっこりと、私は笑みを深めた。
(本当、それに尽きるのよ。)
いらない恨みは買わないに越したことはない。 何なら恩を売った方がいいに決まっている。
「……ですが。」
「それよりブルー第三騎士隊長殿、ここにおいでなのは、どうかなさったのですか?」
なおも何か言って来ようとする彼ににっこりと笑うと、彼はひとつ、溜息をついて私の方を見た。
「夜を通してこちらでお過ごしになるという事でしたので、僭越ながら、此方をお持ちしました。」
「なんでしょう?」
渡された手提げの籠の、蓋するように掛けられた清潔なナプキンをめくってみると、野菜と肉のサンドイッチと、果物のサンドイッチがきちんとそろえて入れられていた。
前世のお店に出て居そうな綺麗な出来のそれに、びっくりすると同時に、嬉しくて笑みがこぼれた。
「まぁ、嬉しい。 ありがとうございます。」
「その奥様の朝食をと昨夜のうちに、調理班に頼んだとき、奥様にいただいたお褒めの言葉も一緒に伝えたのです。 そうしたところ、調理班が、お言葉が嬉しかったと、奥様のためにと張り切って作ったそうです。 お疲れもありましょうから、是非お召し上がりください。 それから、先ほどの馬鹿には、後でしっかりと言い聞かせておきますのでご安心ください。」
「まぁ、本当に嬉しいです。 お気遣い感謝いたしますわ、ブルー第三騎士隊長殿。 調理班の方にも、よろしくお伝えくださいませ。」
(その言い聞かせが穏やかなものであることを祈りますよ。)
と思いつつもそれを言葉にするのは控え、感謝だけを笑顔で伝えると、私はブルー第三騎士隊長と別れ、医療院の中に入った。