『ラスボラ視点』家令の願い。
「水害になる前に堤防の補強工事をとの願いがあがっておりまして、こちらには、モリドミ子爵へ直接の視察と報告をお願いいたしました。」
「あぁ、それで、いいだろう。」
あの後、逃げるように騎士団に戻り、仕事をし、屋敷へ何食わぬ顔をして帰ってきた私は、玄関から二階の執務室までの廊下を歩きながら、元は兄の従僕であり、兄亡きあとは私の従僕となり、現在では家令となったジョゼフから、日々の日課である『本日の報告』を聞いていた。
「それから。本日の奥様の御様子ですが……。」
いつもなら聞き流しているところであるが、私は一瞬、足を止めてしまった。
「どうかなさいましたか? 旦那様。」
「いや、靴の裏に何か違和感があっただけだ。 それで?」
動揺を気取られないようにそう言うと、「では、あとで手入れを申し伝えておきます」と言った後、いつも通りの報告と紙を私に差し出してくる。
「本日も奥様は離れで庭師と庭仕事をされたようですね。 それからいつものように本を読み、お食事を作ってお過ごしになられたようでございます。 本日の支出はこちらでございます。」
「うむ。」
差し出された、離れの支出が示された紙を受け取る。
初めて受け取ったその紙を見て、私は驚愕した。
書かれている数字は、これで足りるのかと心配になるような食材費と、今日の庭手入れ用の費用だけだ。 多分、用意すると言っていたハーブの鉢植えなのだろう。
「旦那様。」
「なんだ。」
しかしこの金額はこれはどういうことなのだろうか、と、考えていると、珍しくジョゼフが問いかけてくる。
「なにか不審な点がありましたでしょうか。」
「なぜだ。」
「いえ、奥様に関する書類を受け取られるのは、ここ最近では一度もありませんでしたので。」
そう言われれば、確かに、最初の1日か2日目以降は受け取らなくもなっていたような気がする。
「……なんでもない。 ただ、あの日以降、離れから何も言ってこないのを、不気味に思っただけだ。」
気取られぬように手にした紙を返し、執務室に向かって歩きだした私に、ジョゼフはなるほど、と頷いた。
「旦那様がそう思われるのも仕方ありませんな。 しかし、毎日ご報告しております通り、奥様の支出は日々の食品や消耗品、侍女とメイドの人件費だけです。 庭の手入れ費も計上はしておりますが、これは庭師からの嘆願によるものがほとんどでございますし、離れからこちらへ要望が届きましたのはたったの2度。 図書館の本の貸し出しと、本宅からの食事を運ぶのをやめてほしい、と、それだけでございます。」
それには首をかしげる。
「それで食費の計上があるのか。 しかし食事を運ぶのをやめてほしいとは、辺境伯家の食事が田舎料理で食えないという事か。 なるほど、王都で甘やかされて育った令嬢らしい。」
ようやく本性を垣間見せたのかと鼻で笑うと、ジョゼフは首を振る。
「いいえ、そうではございません。 本宅からお運びした食事の量が大変に多く、食べきれず、また、香辛料や油などで体調を崩してしまうため、自分でお作りになりたい、とのことでした。 侍女に確認しましたところ、確かにこちらのお食事は半分も食べきる事が出来ず、その後は食欲不振など、体調を崩されていたようです。 比較的小食で、晩餐などの香辛料と油と肉が主なお食事は、お体の負担になるようです。 ですので、公爵家で購入している野菜や肉、魚、それからパン等を一日分ずつお渡しています。 それで、ご自身でスープや菓子などをおつくりになっている、と。 ですので、実際には消耗品、日用品の補充の金額だけでございますね。」
食事の量が多いとはどういうことだ? と思いながら、溜息をつく。
「しかし、公爵家の令嬢が、それで、どうやって暮らしているというのだ。 令嬢が厨房に入るなどもおかしな話だ。 ジョゼフ、やはり彼女は、本当のネオン嬢の影武者か、影の類ではないのか?」
昼間に感じた疑問を、今の報告で思いついた、と言う体でそのまま口にすると、驚いて『それは考え付きませんでした! 早急に調べましょうか?』と言ってくると思った家令は、自分の思惑とは違う意味で驚いていた。
「旦那様。 もしかして奥様に対する報告書を、お読みになっていらっしゃらないのでございますか?」
「なんだ、それは。」
そんなものは知らん、と一瞥すると、明らかにため息を吐いたジョゼフ。
「この度の御結婚に際し、奥様とその御実家の事をお調べします、と申し上げましたが。」
「あぁ、そのようなことも言っていたかもしれないな。」
「あちらを読んでいただければ、奥様の行動は納得がいきますでしょう。 それに奥様のあの髪の毛と瞳は、テ・トーラ公爵家に時折出る稀有な特徴で、だからこそ、テ・トーラ家の者であると証明のできる奥様が選ばれたのでございましょう。 そのせいもあり、随分と御苦労なさったようでございますが……。」
「髪と目でか? それはどういうことだ?」
家令はもう一つ、溜息をつく。
「旦那様。 執務室へお持ちいたしますゆえ、ぜひ報告書をお読みくださいませ。」
(今でも十分関わりすぎてしまっているのに、これ以上彼女を知る必要があるか。 これ以上はかかわりを持たないようにせねば!)
「いやいい。 どうせろくなことも書いていないのだろう。 そんなことよりも、領地の水害の事が気になる。 子爵には早くに報告するように申し伝えてくれ。」
ここ最近の彼女に対するおかしな執着や迷いを捨てるようにそう言い伝えると、何故か足を止めたジョゼフ。
「かしこまりました。 しかし旦那様。 奥様の報告書は、是非。」
なぜかつられて足を止めてしまった私に一言、ジョゼフはそういう。
普段であればこんなことはないのに、今日はしつこいな、とため息をついて家令を見る。
「必要がないと言っているのだ。 そもそもそんなものにとられる時間もない事は、お前も知っているだろう。」
そういって一歩、足を踏み出した時だった。
「ラスボラ坊ちゃま。」
思わず立ち止まって、振り返る。
「その呼び方はやめろ、もう坊ちゃんではない。」
「そのようなことは、幼い頃よりお仕えしておりましたため、存じ上げております。」
はぁ、とあからさまにため息をついたジョゼフは、ひとつ、頭を下げた。
「幼い頃から坊ちゃまのお傍におりましたからこそ、気づくこともございます。 もし、何か、ご自身でもお解りにならない様なお考えがございますならご相談くださいませ。 誰でも構いません。 お一人で抱えられるのをおやめください。 どうか、どうか周りの者を頼ってくださいませ。 小さなころからそれが苦手なのは存じ上げておりますが、どうか……。」
広い廊下で頭を下げる彼の背中が、小さくも、大きくも見えて、私は小さくため息をついた。
「……頭をあげろ。 わかっている。 それが必要だと感じた時にはそうする。 行くぞ。」
モノ言わず静かに頭を上げ、私に近づいて来るジョゼフを確認し、私も踵を返し執務室へ足を速めた。
「……そうできなかった、させて差し上げられなかった結果が、今でございますよ、坊ちゃま。」
「何か言ったか?」
わずかに耳に届いた言葉を聞き返すが、ジョゼフは顔色変えず、首を小さく振る。
「いえ、何も。」
「そうか……。 ともかく、ジョゼフ、お前に頭を下げられるのは苦手だ。 もうやめろ。」
ついでに一つ、ため息交じりにそう言うが「それは、坊ちゃま次第でございますよ。」とだけ告げられ、そのまま私の執務室の前につくと、いつも通り、一歩、私の前に出、執務室の重い扉を開いて、頭を下げた。
「先ほどは失礼いたしました。 晩餐の準備を整えてまいりますので、湯あみと御着替えをお済ませになられましたら、ダイニングルームへお越しくださいませ。 旦那様。」
「……わかった。」
ジョゼフと別れ、執務室を抜けて私室に入った俺は騎士服を脱ぎ、大きなソファに投げると、大きくため息をついた。




