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1・慰問と南方辺境伯騎士団第1班第2小隊敗戦(嘔吐表現あり)

 私の足は、そこから動くことはなかった。


 いままで、確かに負傷者を見たことはあった。 しかし、こんな悲惨な状況は見たことがなかった。


 私の手に持っていた焼き菓子入りのバスケットが、足元に落ちてころがった。


 後ろに付き添っていた侍女が小屋から飛び出した気配を感じながら、硬く目を閉じ、首を振る。


 そうしてもう一度、しっかりと前を見据えた。


 板のかけた隙間からしか光の入らない、締め切られた粗末な小屋の中。


 ところどころに点在する灯はとても粗末で小さく、室内全体を照らすことはない。


 そんな中で、一見すればそれとはわからない粗末な筵が床とも言えない土の上に広げられ、その上に転がされるように寝かされているのは、清潔とは言えない粗末な布で傷口を応急処置をされただけの負傷兵たちだ。


 彼らは皆、痛みと、熱、迫りくる死の気配の恐怖に、悲鳴を上げたり、唸り声をあげている。


 そんな彼らを、まだ年端もいかぬ少年たちが、片手に足らぬ数だけ、転がる人の隙間をただうろうろと、何もできず、ただ恐怖に歪む青白い顔で、うわべだけの慰めを呟きながら彷徨う、黴臭さと、汗と、土埃と、熱気がこもった異質な空間。


 それらが混ざり、人の不快を顕著に刺激するところに、さらに追い打ちをかけるのは、むせかえるような錆びついた鉄の匂い。


 ぐうっと、胃の中の物がのど元まで上がってきたのを、私は口を手で押さえ、必死に飲み下す。


 この人たちは、辺境伯騎士団の兵士たち。 そう、領地の、領民のために戦って負傷した騎士の皆様なのだ。


 その方たちの前で、見苦しく嘔吐するわけにはいかないと思ったのだ。


 けれど、押し寄せる淀んだ空気の悪臭は、私の鼻の奥を、心の奥を、脳髄を、焼けた火箸の様に強烈に、ぐるぐると乱暴に引っ掻き回す。


 もう一度湧き上がる酸っぱいモノを飲み下し、それでも繰り返しやってくる吐き気の波。 それに耐え切れなくなった私は、逃げるように負傷者用の小屋から飛び出すと、すぐ近くの大木の下にしゃがみこんだ。


「う、ぅっ……。」


 新鮮な空気と共にそれを飲み込もうとした。


 その、瞬間。


 強烈なまでの鋭い陽光と、むせかえる若葉の香りに、何度か繰り返し飲み下した胃の中身が、せき止めきれず逆流し始める。


 喉の奥、鼻の奥、目の奥、頭の奥、私の心臓の奥で、激しく金属を叩きならす熱が、音が、光が聞こえる。


 飛び込んでくる、記憶、情景、面影、音、光。


 涙があふれる。


 鼻水も噴き出す。


 押さえきれなくなった私は、そのままその場で嘔吐した。


 せき止めようとする指の隙間からあふれるように飛び出したそれは、木の根元に音を立てて飛び散った。


 胃の中の物。


 朝食べた豪華な朝食。


 爽やかな香りのする庭園の中で食べたお菓子やお茶を。


 何度もえずいて、全部吐き出して。


 胃の中が空っぽになってもなお、鼻の奥に残る臭気に目をまわし、自分の吐しゃ物の中に倒れこもうとした瞬間。


 ――しっかりしなさい! あなた、プロでしょう!?


 聞こえた声に、私の頭の中が急に明るくなった。


 これは誰の声だったかしら?


 私を叱咤激励してくれた、厳しくも優しい先輩の声。


 手放しかけた意識を手繰り寄せ、目を見開き、木の幹に手をついて、吐しゃ物の上に倒れるのを阻んだ。


 ――投げ出さないで、今、自分が出来ることを、最大限で頑張りなさい。 今は目の前の事に集中し、頑張ればいいの。 泣くのはその後よ。


 先輩の声が、私の中で何度も励ましてくれる。


「出来る事……」


 ――最初から完璧な人はいないの! でもね、後悔するくらいなら、踏ん張って頑張りなさい! あなたの仕事は何?


 私の仕事は……。


 白に濃紺のラインの入った、Vネックのスクラブに身を包むと、俄然スイッチが入る、私の、仕事、は。


「そう、私はプロだった。 それから今は、この辺境伯領の、領主夫人……」


 ポケットの中にあったハンカチを取り出して口の周りを拭くと、足に力を入れ、立ち上がった。


 土で汚れてしまったドレスのすそを翻し、あの小屋へ、足をむける。


「奥様! いけません、お屋敷に戻りましょう!」


 先ほど、私より先に小屋から飛び出した侍女が、真っ青な顔をして私を止めるが、それに首を振って制止を振り切る。


「奥様!」


「辺境伯夫人!」


 小屋に戻った私は、口と鼻をハンカチで押さえ、臭気に顔をしかめてしまいながらも、止める声を無視してどんどん奥に進み、締め切られた窓を次々と開け放った。


 柔らかな風と共に、臭気が薄らぐのを感じる。


 ――頑張りなさい、やれることを、全力で。


「はい、先輩。」


 ぐっと、こぶしを握りしめ、振り返る。


「申し訳ないけれど、皆さん、私に手を貸して頂戴。 貴方は清潔なシーツや手布をありったけ、屋敷から持ってきて頂戴。 それから、貴方方はお湯をたくさん沸かしてもらえるように頼んでくれるかしら。 それと、申し訳ないけれど、手洗いできる場所を教えてくれる?」


 扉のところで立ちすくんでいた侍女と、それから傍にいた見習い騎士の少年にお願いをする。


「それから、領地領民のため、戦ってくださった騎士様に、これでは申し訳が立ちません。騎士様のお世話を手伝ってくれるものも探してきて頂戴!」

お読みいただきありがとうございます。

気合のもとになりますので、いいね、お気に入り、ブックマーク

していただけると嬉しいです!

誤字脱字については再三見直し、注意しておりますが多いと思います。

本当に申し訳ありません。

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