123・医学書と腹の探り合い
コンコン。
お茶を飲み終わったガラと共に、連れ立って執務室を出た私は、もろもろの手続きや雑務のために本部へ向かったガラを見送ると、執務室の右隣にある部屋のドアをノックした。
「はいは~い」
扉の向こうから、相変わらず間延びしたのんびりした声が聞こえ、扉のノブが動くと、ほんの少しだけ扉が開き、そこからひょっこりと部屋の主が顔をのぞかせた。
「やぁ、ネオン隊長。珍しいね、ご機嫌いかがかな?」
それに私も笑顔で返す
「御心配をおかけしました。先生の出してくださった薬のお陰で痛みもなく、調子もいいですわ。クルス先生のご機嫌はいかがですか?」
「僕かい? う~ん、そうだなぁ」
問えば、先生は思案するように細い目の向こうで黒い瞳をくるっと動かすと、それからいつものように笑う。
「そうだねぇ。このあいだ隊長と話していたスラティブの実験もどうやらうまく行きそうだし、なかなかいい感じだよ」
「まぁ、それは良かったですわ。ところで先生?」
にこにこと笑うクルス先生に、わたしも穏やかに微笑みながら頷き、それから切り出した。
「いま、少々お話しする時間がいただけますか?」
それには、クルス先生もいつもとは少し違う笑みを浮かべて頷いた。
「うん、もちろんだよ。僕も君と話がしたいと思っていたところさ」
そう言って笑みを深めたクルス先生は、自身の身を覗かせる程度にしか開いていなかった扉を大きく開けると、私を部屋の奥へと誘った。
「君に与えてもらった部屋だからこんな言い方はおかしいけれど、遠慮なくどうぞ」
「失礼します」
招き入れられた医療院の2階にあるクルス先生にあてがわれた部屋の中は、もともと上官入院用の個室にするはずだった場所だ。それを急遽クルス先生の部屋として用意したため、私が執務室として使用している部屋よりも狭い上、左右の壁に天井まで隙間なく本棚や戸棚を設置したせいでさらに狭く感じた。
しかし、こんな言い方をするのは大変失礼だとは思うが、いつも飄々と人を小馬鹿にするような態度やイメージのあるクルス先生からは想像できないくらいきっちりと、戸棚も本棚も一見してわかりやすく整理整頓され、さらにわずかに酒精の匂いを感じるほど細部まで丁寧に清掃が施され、隅々まで清潔に整えられていた。
その中で、前世の理科の実験室で見たような機器を見つけ、私はそちらに近づいた。
「先生のお部屋は珍しいものが多いですね……?」
「おや? きになるものがあったかな?」
「あ、申し訳ありません、じろじろと」
あまりに興味を引く物が多く、つい口に出してしまってから、私は口元を押さえて謝ると、先生は嬉しそうな表情を浮かべてそれらを見せてくれる。
「いや、かまわないよ。そこらにある物は、様々な国に出向いた際に研究に使えそうなものを購入してきたんだけど、使い勝手が悪いものも多くてね。ここにきて、親方を紹介してもらって助かった。いろいろと作ってもらえたからね。本当に研究がはかどっているんだ。ネオン隊長のお陰だ」
「まぁ、そうなのですね? それは良かったです。 ではお言葉に甘えて少し、拝見しても?」
「あぁ。実験途中のものもあるからね、見るだけなら構わないよ」
「ありがとうございます」
クルス先生が許してくれたのをいいことに、行儀が悪いと思いつつも、私は本棚や戸棚を覗き込んだ。
本棚には、新旧や国の内外を問わず様々な文字や造りの本が綺麗に並べられていて、戸棚とその隣に並ぶ魔導ランプの置かれた研究用の大きな机の上には、前世で見たシャーレやフラスコ、蒸留装置、それにテレビでしか見たことがないような、名前も知らないガラス製の実験機材がセットしておいてあり、中でカラカラと何かが回っていたり、魔導石を使用したアルコールランプのようなモノが試験管を熱していたりしている。
(わ、面白い。理科の実験みたいでワクワクするわ)
あっちこっちから見ていると、笑い声が聞こえた。
「ネオン隊長はこういうものにも興味があるのかい?」
そう声を掛けられ、つい熱中してしまっていた私は小さく会釈した。
「初めて見る物が多くて、つい見入ってしまいましたわ。無作法で申し訳ありません」
「いいや、全然かまわないよ。興味を持ってくれて嬉しいくらいだ」
おおよそ貴族の令嬢であれば興味も示さないような機器を面白いと見まわしていた私の様子が面白いと笑ったクルス先生は、木製の椅子を一つ用意してくれた。
「悪いね。研究室代わりにしてしまっているからこんな椅子しかないけれど」
「いいえ、ありがとうございます」
簡素な木製の椅子のため、わざわざブランケットを敷いて差し出してくれたクルス先生にお礼を言いながら座ろうとした私は、机の上に置かれた数冊の本が目に入り、動きを止めた。
表紙には東方ビ・オートプの文字がつづられている。
「どうかしたかい?」
「いいえ。あの、先生。此方の本は?」
「うん? あぁ、これかい?」
そんな私に気が付いたクルス先生は、面白そうにそれを手に取ると、パラパラと内容を確認するように流し見てから、顔をあげ、口元を大きく弧にするように笑った。
「これは東の大国ビ・オートプの医学書さ。みてみるかい?」
「え、えぇ」
柔らかな言葉とは裏腹に、受け取れ、と強く言われているような圧を感じ、私は両手でそれを受け取った。
「拝見しますね」
「あぁ、どうぞ」
ぐっと笑みを深めたクルス先生に違和感を覚えながら、私は視線を本に移した。
随分と分厚いその本は、自国のそれとはまったく製本方法が違う事に気がつく。と同時に、王都にいる頃に読んでいた十冊100マキエの投げ売りの本も、かなりくたびれていたが同じ造りだったと懐かしく感じる。
(そういえば、昔は解らなかったけれど、ビ・オートプの製紙技術と製本技術は、前世の日本の古書に近い……だから余計に懐かしいと感じるのでしょうね)
手の中にある本は、前世で言う和綴じ本のように太い紐で綴られており、背表紙はなく、表紙も硬くも目を見張るような装飾があるわけでもない。
中の紙よりはやや厚みのある程度の濃紺に書籍名だけが書かれた表紙を開けば、そこにはこの書籍に書かれているらしい情報を検索するための目次が現れた。
(『人』『体』『詳細』『まとめ』『辞典』……という事は、この本の内容は解剖生理学の辞典になるのかしら? ……それにしても難解だわ)
私が勉強のためにと読んでいた本は、市井でまとめて銅貨一枚で売られるようなもの、すなわち専門書のような物でなく、一般大衆向けの、流行も過ぎた恋愛小説や大衆小説、冒険活劇ばかりだった。
おかげで俗語は難解であったが、そのほかは同じく投げ売りされていたボロボロの辞書を使って何とか読むことが出来た。
しかし手の中にある物は医学書である。専門知識が必要なこの書物をすらすらと読むことは難しいと感じる。
目次の中の、何とかわかる単語だけを読み取り、そこからこちらで得たビ・オートプ語の知識と、前世の医学の知識とすり合わせることで、何とか答えを導き出すわけだが、ここでふと気が付いた。
(王都で読んでいる時は前世の記憶がなかったから何の疑問も既視感もなかったけれど、こうしてみると、製本技術もそうだけれど、書いてある文字もかなり独特で、言葉の難解さは漢字に近い……。それに、この書体はペンではなく墨と筆で書いている文字にとても似ている。しかし写本にしては墨の色合いが一定で、墨が溜まったり擦れたりした時の濃淡がない……あ、もしかしてこれ、浮世絵や版画みたいに木版印刷なのかも……え!?)
紙に手をすべらせ、その滑らかさや紙の歪みを確認しながら、内容を確認するために次のページを開き、そこに記された内容に私は目を見開いた。
(これ、異世界版解体新書じゃない!?)
驚き、私はそのままどんどんページを開いて先を確認する。
見開きは男女の全身の裸体像とその名称から始まり、骨格標本、筋肉標本となっている。そしてその後は、前世のそれより臓器の区分けはおおざっぱではあるものの、頭から足先にかけ、臓器の形状や色、取り巻く血管に至るまで緻密に描かれており、さらにその臓器が体内で収まっている場所とその臓器の持つ機能などが、事細かに記されていた。
(すごい……精密すぎて気持ち悪いレベル……だわ)
思わずうなりたくなるそれに、感心しながらページを開く手を進めれば、全身の解剖図が終わったその先に、前世には存在しなかった体内にあると言われる魔術回路や魔術の根源である魔力の貯蔵臓器について考察が記されていた。
これに比べれば、以前旦那様が手配し、王都より取り寄せてくださった我が国の医学書は遠く足元にも及ばない。
内臓の記載もあるにはあったが、それはあくまで想像上の物でしかなかったし、魔術回路に関しては何の根拠もなく、ただ血液と共に体内に流れているとされていた。一見真っ当そうではあるが、血管などの記載が一切なかった為、血流自体、気の流れのように捉えられている可能性もあるのだ。
(魔術回路に関しては確定ではないにしろ、根拠はあるみたいだし、それを元に治療法も記されているし、その治療は、トラスル隊長とカトグス隊長で見ているから信じざるを得ない……あの時、クルス先生はこの知識をお持ちだったから、あの施術が出来、トラスル隊長達はその知識がなかったから、半信半疑だった、と)
なるほど、と今さらではあるが妙に納得した私は、少しページを戻って内臓の項目を見た。
心臓、肺、胃、小腸、大腸、肝臓、腎臓など、大きめの臓器もちろん、区分としては単純化されているものの、胆のうや虫垂、副腎等の付属品ともとられかねない器官に至るまで、まるで見てきたかのように、描かれたそれにただ感心するばかりだ。
やはり我が国の医学書など、精密性も、情報量も足元に及ばない。
(トロピカナフシュの医療知識がビ・オートプに劣っていることは解った……けれどなぜ東方にはここまで正確な医療知識があるの? 電子顕微鏡どころか普通の顕微鏡だってまだないのではないかしら? それとも、ビ・オートプにはそれらがあるの? ……そういえば、彼の国は精巧な技術を誇る職人を大切にする国だと言っていたから、技術も飛躍的に上なのかもしれない……。でもおかしいわ? それなら交易のあるこの国に、少なからずその技術や知識の流出があるはず……それとも厳格な情報統制がされているとか? あぁ、でも、だとしたらこれがここにあるのはおかしいことになるわ)
東方の技術者について教えてくれた人の面影を脳裏から追い出しながら、ひとつため息をついた時だった。
「どうだい? 興味深いだろう?」
声を掛けられ、自分が集中しすぎていたことに気付き、当初の目的を忘れていたことに反省しつつ、顔をあげて頷く。
「えぇ、とても。けれど先生?」
「うん、なんだい?」
奥に置かれていた魔道具を使い、紅茶を入れている先生に疑問を投げかける。
「私はこちらの医学書をかなりの数見たのですが、どれもここまで詳細に人体について記した本はありませんでした。王都から取り寄せた最新の医学書でさえ、想像で書かれたと思われる物ばかりでした。ですがこの本は想像で書くにはあまりにも精巧すぎます。そう、まるで見てきたかのよう。この内容だけでも東方は我が国よりはるかに医療が進んでいるように思われるのですが……?」
本の持ち主であるクルス先生を見れば、少し驚いたように目を開き、それからとても面白いものを見たといったような表情になると、紅茶を置き、椅子に座りながら一方の口の端だけ上げた。
「ふぅん。絵だけを見ているのかと思ったけれど、ネオン隊長はそれが読めるんだね」
「え? えぇ」
自らが淹れた紅茶を飲みながら、私の手の中にある本を指さすクルス先生の言葉に、少しだけ首を傾げる。
(あら? 言ってなかったかしら? まぁ読めることに関しては隠していないから、普通に話しても大丈夫ね)
相変わらず何か含むように笑っている先生に、私は本を閉じ、差し出しながら頷く。
「公爵家はビ・オートプの属国と交易をしていますから、東方での公用語であるビ・オートプ語は独学ですが勉強していたのです」
「なるほど」
うんうん、と頷きながら、先生は私が差し出すその本を手に取る。
「で、どう思った?」
「はい?」
「この本の内容さ。ネオン隊長はどう思った?」
「どう、とは?」
問われている意味が解らず、紅茶を頂こうと伸ばした手を止めた私に、クルス先生はいつもと同じ表情で笑う。
「さっき君が言っただろう? この本の内容は、トロピカナフシュ国の医学知識の水準をはるかに超えたものだと」
「えぇ、それは、はい」
頷いた私に、それではと先生は表情を真剣なものに変える。
「君はこの国の医学書を読んだと言ったね? しかし君はそれを想像の産物と言い、これを精巧なものと言った。という事はこれに書かれた事柄が正しいと知っていると言う事で、そうすると君はこれと同等かそれ以上の知識を持っていると言う事だ。その知識を、君はどこから得たんだい?」
言われ、内心、しまったと思いながらも私は首を振る。
「買いかぶりすぎです。私は修道院などで習った知識と経験を生かしているだけにすぎません」
「それはどうかな? 少なくとも、僕が来るまでの間に君が患者に行っていたいわゆる『看護援助』と『創処置』は、あの時点でできる最良の内容だっただろう。それは、これまでの生存率と君が医療院を立ち上げてからのそれと比べればわかる。多分、圧倒的な差が出ているだろう。けれど君が施したそれは、南方辺境伯騎士団は論外としても、この国の如何なる場所でも行われてこなかった事だ。僕に提案してきた義手義足や創処置の提案に対する返答もそうだ。披露される知識とこれまでの行動。それらを総合的に判断しても、君はこの国で受けられる最高の医療以上の知識を持ち得ていると思うのだけど、どうかな?」
「……それは」
(うかつだった……)
クルス先生の問いに、私はすぐに答えを導き出すことが出来ず言葉を詰まらせる。
前世の知識は、出来る限りはっきりとは出さないようにしている。
看護技術は王都の修道院で見様見真似で習った事にしているし、ケーキ類やトロッコなどの各種の技術は他国の本から得たということにしている。
そうして、自分の持つ知識を小出しにするようにし、不審がられないよう細心の注意を払ってはいるものの、体にしみ込んだ知識は自分には『当たり前』の事であるため、気が付かないうちに口にしたり行動したりしてしまっていることがある。
皆、何かしら思う事もあるかもしれないが、ひとまずは『辺境伯夫人であり南方辺境伯騎士団隊長』という肩書に加え、『市井育ちではあるが、公爵家でしっかりと教育を受けていた』という色眼鏡のお陰で、自分でもしまった、と思うような発言をしても、なんとなく流されてきたのだが。
ちらりとクルス先生を見れば、涼しい顔をして紅茶を飲んでいるが、口先だけの説明でごまかされてくれるかは疑問だ。
(私の方が質問に来たのに立場が逆転しているわ。本当に、クルス先生は容赦ない……)
到底呑み込めない苦いものを無理やり飲み下さなければならないような欝々たる気分になりながら、私は考える。
目の前のクルス先生は、私を取り巻く人の中で飛びぬけて異色の人だ。
基本的に医療隊、そして私の味方という立ち位置にいてくれ、どんな話でも面白がったように、けれど真剣に聞いてくれ、的確なアドバイスを授けてくれる。表立っては飄々としていて話術で人を煙に巻くようなところもあるが、責任感がないと言うわけではないし、無気力なわけでもない。周りの人から見れば命知らずと言われる行動ではあるが、あの旦那様に対しても、正面切って意見を通す気概がある。味方にすれば大変心強い人でもある。
だからこそ、先生に対しては注意しなくてはいけないと心のどこかが断固として告げているのに、つい気を抜いてしまっていたのだろう。
で、今こうして少々追い詰められている訳であるが……。
(困ったわね……どうしようかしら)
気づかれぬように深呼吸をしてクルス先生を見れば、先生は先ほどの本を興味深そうに目を通している。
(……あ)
そうだ、と思った私は話を逸らす手立てとして、問うてみることにした。
「先生、先程の質問の答えなのですが、それについてひとつ伺っても?」
「うん、何だい?」
本から顔を上げ、口の端をきゅっと上げて笑ったクルス先生に、私は問うてみる。
「私の知識は、以前申し上げた通り、本で得た知識がほとんどなのですが、先生はその知識をどちらで得られたのですか? わたしよりはるかに高度な、この世界に到底存在しえない医学と医療の知識をお持ちだと思うのですが?」
にこっと笑って問うた私に、クルス先生は僅かに目を見開き、それから目元を緩ませた。
「そっか、なるほどね。うん、ネオン隊長は大変な努力家なんだね。そうだなぁ、僕も似たようなものだよ。長く生きているからね、様々な国の書物を読み、いろんな医者に師事したね。この書物もその時に得たものだよ。で、ネオン隊長、今日の用向きは何だったかな?」
そうそう、といつものように飄々と笑って話を変えてくれたクルス先生に、私は少しだけほっとしながら用件を言った。
「先生は先ほどさまざまな先生に師事したとおっしゃいましたが、後継をお育てになるおつもりはありませんか?」
「うん? 後継?」
本を閉じ、私を見たクルス先生に頷き、告げる。
「はい。リ・アクアウムに看護学校を建設すると共に、医師を育てる学校も作りたいのです」
いつもお読みいただきありがとうございます。
お気に入り登録が初めて5000人を越えました、本当にありがとうございます!
近いうちに番外を書きたいなぁと思っておりますが、まずは本編!を進めなければ!ですね。
『辺境伯騎士団』『領地改革』『辺境伯家問題』となって、『医療開拓』に入ってきました!
そろそろ魔術の医療転用が始まります! ひたすらに頑張ります!
更新がかなり遅いのに、本当にありがとうございます。これからも頑張って完結に向けて頑張って書き続けたいと思っています!
そんな私の、気力の源になりますので、よろしければいいね、評価、ブックマーク、レビュー等していただけると大変に嬉しいです!