120・辺境伯家の話し合い(後編)
憤怒とも哀切ともとれる表情の旦那様に、私は微笑むのをやめ、話を続ける。
「様々な方から教えていただきました。旦那様のお兄様であるフィデラ様は、旦那様がまだ幼い頃に遭遇した魔物の強襲の折、旦那様を守り魔物に襲われたと。そして捜索隊の手によって辺境伯家へ戻られた時には、すでにお亡くなりになられていたと」
わずかに視線を揺らした旦那様は、静かに息を吐くと、それまでになく静かに頷いた。
「その通りだ。我が兄ながら大変に素晴らしい、騎士の鑑と言える、辺境伯騎士団の団長になるために生まれたような方だった。しかし今、兄上の話は関係ない。なぜそのような話をする」
「旦那様にお伺いしたいのですが」
「なんだ」
「もし今、フィデラ様が生きて砦に戻られていたとしたら。貴方は、貴方が見捨てた騎士達になさった事をもちろんなさるのですよね? あの場で当時騎士団長であられた先の辺境伯当主が『役に立たないけが人なぞ捨ておけ』と言い渡されたら、それを納得し、黙って受け入れられるのですよね?」
「……なに?」
初めてお会いしてから今までで、最も様々な感情の混じった顔をして私を睨めつける旦那様に淡々と問う。
「凶悪な魔獣によって、体を切り裂かれ、腕を奪われ、足を潰され、お顔を焼かれているかもしれない、命に関わる大きな傷を負ったお兄様を、旦那様が傷病者の為に用意したあの救護室に放り込み、治療はおろか、朽ちた筵を引いただけの冷たい土の上に寝かせ、火のぬくもりも、喉の渇きを癒すための水すらも与えぬまま放置し、息を引き取られたのちは騎士団の集合墓地に大きな穴を掘り、命の絶えた騎士達と一緒に埋葬なさるのですよね? そして、ご家族には十分な報奨金だけをお与えになるのですよね?」
「その様な訳があるかっ!」
「「旦那様! おやめください!」」
旦那様の大きな声。
私と旦那様の間にあったテーブルが軋み、その上の書類が飛んで落ちる音。
使用人たちの悲鳴。
デルモと家令の制止の声。
そして。
立ち上がった旦那様が、テーブルに足をかけ、私の胸ぐらをつかんで叫んだ。
「そんなはずがあるはずがない! 兄上だぞ! 私の! 辺境伯家の大切な兄上だ! 医者を呼び、治療をさせるに決まっている! どのような状態になっても兄上は兄上だ! この辺境伯家に大切で必要な兄上なのだ!」
その言葉に、私は苦しさを押し隠しながら首を傾げた。
「それはおかしいですわ。負傷した騎士は役にたたない不要のモノではなかったのですか? そう言って多くの騎士達には、職を奪い、騎士団から放り出したではありませんか? ならば、怪我をなさったフィデラ様も、同じく捨て置かれればよろしいではありませんか。役に立たない不要なモノなのですから」
「……お前は!」
旦那様の目の怒りが増し、私の服を掴む手に力がこもり、首が締まる。
「いくら私の妻とはいえ、これ以上、兄上と辺境伯家の愚弄は許さん!」
「……愚弄するな、許さない、ですか?」
憤怒以外の何物でもない顔を息がかかるほどの距離に寄せ、そう叫んだ旦那様の手首を、苦しさを我慢しながらぐっと両手でつかむと、私は旦那様の目を強く睨みつけ、静かに告げた。
「『傷つき役にたたない騎士など捨ておけ』と旦那様が言ったことで、命を失う事になった大勢の騎士達のご家族も、今の旦那様と同じ気持ちだったでしょう。旦那様が私に叫ばれた怒りの言葉を、元凶である旦那様にぶつけたかったでしょう。こうして、旦那様の胸倉を掴み『家族を返せ』『家族の命を愚弄するな』『大切な家族を返せ』と叫びたかったでしょう」
「……つ!」
私の言葉に、旦那様の動きが止まった。
私の顔を睨むように見ていた黒曜石の瞳が、ゆらゆらと揺らぎ始める。
(響いた……?)
一つ、咳き込みながら私は思う。
これ以上言う必要はないのかもしれない。
けれど、旦那様には自分が犯した過ちを理解してもらわなければならない。
このまま旦那様の罪を有耶無耶にしたまま二つの医療院を続けて支持を得て旦那様の悪評を拭い去らせても、それでは現実を旦那様に見せず、自身を犠牲にして対外的な体裁を整えているだけ過ぎず、過去に旦那様を守ってきた周囲の人間がしてきたことと同じ。
問題を別の目新しい事柄で塗り替え虚飾するだけで、本質は何も変わらない。
だから、私は口にする。
最後に一度、しっかりと向かい合い、話し合うと決めたから。
「旦那様、お聞きください」
胸倉をつかまれたため、ソファから少し腰を浮いているために首が僅かに締まり息苦しさを感じながらも、私は旦那様の目を睨みつけたまま、言葉を続ける。
「旦那様は、傷ついたお兄様のためならば、医師を呼び、病室を用意し、傷の治療にあたり、その傷が治らなくても大切な人だから、必要な人だから保護するとおっしゃいましたね? と、言う事は、旦那様は傷病者に対しそれが必要だと解っているのです。しかし多くのそれを必要とする騎士たちには何一つ施すどころかそのまま打ち捨てた。つまり、戦闘で負傷し、治療を必要としていた多くの騎士達の死の原因は、侵略者でも魔物でもなく……」
「やめろ……」
私の胸元を掴む手が震えている。
「違う……」
わなわなと震える唇から、その先を拒絶する言葉が漏れる。
けれど。
私は。
「旦那様、貴方です」
「やめろと言っている!」
旦那様が両の手で頭を抱えて叫んだ。
その瞬間、私は締め上げから解放され、落ちるようにソファに倒れ込む。
ソファに崩れ落ち、痛みと苦しさに動けなくなった私から離れた旦那様が、そのままよろよろとテーブルから降り後退し、ソファに倒れ込むようにして座ったのが、ぼやける視界の先に見えた。
「……違う! いや、まさか。そんな、そんなつもりは! そんなことは!」
私の言葉を受け入れることを拒絶する言葉を何度も何度も繰り返す旦那様に家令や侍女長、使用人たちが、咳き込んでいる私の元にはデルモが駆け寄る。
そして、旦那様の周りの人間たちが口々に、旦那様のせいではないと言っているのが聞こえると、私を心配し背を擦ってくれているデルモを手で制し、痛む胸に空気をたくさん取り込んで、声を張り上げ、旦那様と使用人たちに叫ぶ。
「違う? そんなつもりはなかった? 何を言っているのです? そんなはずはありません。すべては旦那様の責任なのです。それから、旦那様のせいではないなどと、貴方方は一体いつまで血迷った事を言っているのです。貴方方がそうやって皆で真実や辛いもの、苦しい現実、そして本当に心配し、旦那様のために心を鬼にして接してくれた人たちを遠ざけ、長年にわたり甘やかした結果が今言った多くの犠牲を生んだのです。貴方達の無責任な妄言で、旦那様がどれだけ多くの騎士の命を無為に散らすことになったと思っているのですか! 貴方達も同罪です!」
私の言葉に、旦那様を取り巻いていた家令を筆頭に、多くの使用人たちが青ざめた顔で立ち尽くしたり、へたり込んだり、首を振って退いたりしている。
そんな様子を見ながら、私は未だ顔を覆ってぶつぶつと何かを言っている旦那様に向き直った。
「旦那様」
呼ぶ声に、ビクリと旦那様が肩を震わせる。
かき乱した赤い髪の向こうにのぞき見えたその顔は、幼子の様に怯えているように見えたが、彼は私よりもはるかに年上の大人で、そして多くの騎士と領民を守らなければならない辺境伯だ。
体を心配し、止めるデルモに首を振って制し、ゆっくりと立ち上がった私は。旦那様を見下ろし、言い聞かせるように言葉を選んで紡ぐ。
「わたくしが、旦那様のその命を御救いになった尊く誇り高い騎士であられるフィデラ様の死を貶めてまで申し上げたことは、貴方が長年にわたり、貴方の元に集い剣を手に戦ってくれた騎士達にやってきた事です」
その言葉に、呻くような声をあげ、震える両の手で顔を覆った旦那様はいっそ哀れだ。
これ以上、彼を諫める言葉を私が吐く必要があるのか。相手は十分に傷ついたのだから、これ以上は必要ない。弱者を責めるのは卑怯だと、自分を蔑み、諫める私がいる。
けれど、旦那様も私も、貴族で、領主で、騎士で。
この腕に多くの領民の、国の防衛と命運を抱えているから。
迷いを断ち切るように一つ、深く大きく呼吸をし、顔を上げ、はっきりと言葉にする。
「たくさんの騎士を旦那様は見殺しにしてきました。それだけでなく、魔物に襲われ傷ついた領民を、その罪咎を調べることなく感情のままに切り捨てた。騎士団として厳しい規律を皆に順守させている旦那様が、正しく罪を裁くための法を無視なさったのです。
魔物に家族を襲われたと知らされ、その無事を祈る家族に届けられる知らせが『医療院で騎士団長に、領主に切り殺された』だった時。その家族はどのような思いでそれを聞くのでしょう。いいえ、何も考える暇はありません。なぜならその知らせを聞いた直後に、家族はその身に縄を打たれ、絞首刑にされるために抵抗する術もなく連行されたのですから。
会った事もない親類諸共、ろくに事情も聞けぬ、聞かされぬまま、騎士達によって首に縄を掛けられるのです。旦那様が一時的な感情で出した命令で、です。その数は何人ですか? どのような者達がいましたか? 年端も行かぬ幼子がいたのではないですか?」
「やめろ……」
「それは本当に必要な見せしめでしたか? ただ、旦那様の気分をはらすためだけのものではなかったのですか?」
「やめろっ!」
立ち上がった旦那様が、赤く染まった眼で私を上から睨みつける。
そんな旦那様をただ静かに見て、ゆっくりと口を開く。
「以上が、わたくしが絶対に旦那様を受け入れられない理由です」
その言葉に、旦那様は目元を吊り上げる。
「君は、こんなことをして楽しいのか」
「こんな事、とは?」
「私を、兄上の死を貶めて楽しいか!」
怒りのままに叫ぶ旦那様に、私は首を振る。
「旦那様に、私の言葉はその様にしかとどかないのですね……。旦那様が、騎士団の皆様が。いまだ敬愛するフィデラ様の死を貶めていた時、わたくしは楽しそうに見えましたか?」
ひととき目を伏せ、それから旦那様に視線をやる。
「わたくしには兄も弟妹もおります。大切な過去をすべて捨て、白い結婚を受け入れてでも守りたい、大切な家族です。ですから、このような真似は決してしたくありませんでした。ですが、夫の愚行を諫めることは、たとえお飾りであろうとも妻の役目です」
すっと、視線を青い顔をした使用人たちに向ける。
「本来であれば、これはわたくしがこちらに来る前からの問題です。ここにいる皆が、そして旦那様を取り巻く大人達が、旦那様の誤った思考を諫め、行動を窘める必要がありました。そうしていればここまで被害は大きくならなかったでしょう。しかし」
視線を旦那様に戻す。
「それはわたくしも同じ。旦那様が一時の感情で領民を切り殺すなどと言う暴挙に出る前に、旦那様と正しく向き合い、お話をすべきだったのです。その点に関しては、心から反省しております。申し訳ございません」
私の言葉にしんとなった室内。
その言葉に旦那様は表情と言葉を失いよろよろとソファに腰を落とし、使用人たちは、床に散らばった書類をかき集め、テーブルに戻したあとで部屋の端に控えた。
それを見届けてから、私は目の前のソファに座る、憔悴した顔の旦那様を見つめ、一枚の書類を差し出した。
「旦那様、此方にサインをお願いします」
私の言葉に、旦那様は力なくペンを取り、それからしばらく躊躇したのち、ゆっくりとペンを走らせ、己の名を記した。
途中、ペン先が紙に掛かり、飛んだインクが紙の端を斑に黒く染める。
それが何故か血のように見え、身震いするほどの気味の悪さを感じながらも、私はサインされた書類を手に取り、名前の綴りや跳ねたインクが契約の言葉を消してしまっていないかを確認ののち、後ろに控えるデルモに渡した。
そうして、スカートの裾を摘むと、静かに深く頭を下げた。
「サインしてくださりありがとうございます。旦那様が契約を守ってくださる限り、わたくしは旦那様の表向きは良き妻として、誠心誠意お支えいたします。ですから旦那様も、対外的にだけで結構ですので、良き夫としてお過ごしください。
それから、わたくしも南方辺境伯騎士団の十番隊隊長、そして辺境伯夫人として日々忙しくしておりますので、もし何か用事があり、リ・アクアウムの屋敷に訪ねてこられるときは必ず事前にご連絡くださいませ。もちろんわたくしもそうさせていただきます」
顔を上げ、旦那様に向かって微笑む。
「それでは。わたくしはこのままお屋敷を辞すために引っ越しの準備がございますので、これで失礼いたします。次にお会いする際は、契約にあるとおり、仲睦まじい夫婦、もしくは騎士団長と隊長として節度のある対応をお願いいたします」
「ネオン」
デルモに手を借りて応接室を出るために歩き出した時、ひどくしゃがれた旦那様の声に呼ばれ、私は足を止めると振り返った。
「はい、旦那様。どうかなさいましたか?」
微笑みを浮かべながら首を傾げると、旦那様はすがるような視線で、私を見上げる。
「……契約にある、仲睦まじい夫婦としての対面を保つのであれば、君がリ・アクアウムに居を移せば疑われるのではないか? 使用人には君に干渉しないよう言って聞かせる。体裁を整えるため、そして互いに分かり合うため。本宅に居住するのではだめ、なのか?」
旦那様の問いかけに、私は笑顔で首を振る。
「居を移すことに関しましては、先ほど申し上げました通り、わたくしの心身が健やかにある為ですので無理ですわ。
体面上の事を御心配なのでしたらご安心ください。私がリ・アクアウムに居を移すのは、領民のためを思い、長らく停滞していた慈善事業に力を注ぐための一時的な処置と触れ回るつもりです。ですから、旦那様がそのようにご機嫌を害している様をお顔と態度に出すことなく、わたくしと共に領地で行われる折々の行事に参加し仲睦まじい姿を見せれば噂が立つこともありませんわ」
「……そう、か」
「はい。それではこれで失礼いたしますね。本日はお時間を取っていただき、ありがとうございまし……」
「まて! 一つ、教えてほしい」
「まだ、なにか?」
微笑んだままの私に、旦那様は問う。
「君が先ほど言った言葉の意味を私が理解出来たら……その時は、君は私との関係をやり直すことを考えてくれるのだろうか……? いや、このようなことをいま言うのは間違っているのだと言う事は解る。だが、私は……」
本当に、幼子の様にそういう旦那様に、私は首を振る。
「いま言う事が間違っているとおっしゃったのはまさにその通りです。そしてそれに返答させていただくとしたら『その様な事を私に問うている間は、決してやり直すことはございません』と、言う事です」
そう言ったあと、私は再びしっかりと渾身のカーテシーをとった。
「それでは旦那様、これにて失礼させていただきます」
「……」
何も言わなかった旦那様と使用人たちをそこに残し、私はデルモの手を借りて本宅から出ると、待たせていた馬車に乗り、離れによった。
そこはすでに完璧に引っ越しの準備を終え大変に満足げなモリマ爺にメイドのアナカ、侍女のリシアとその他数名の侍女メイド、本宅の使用人を押し返してくれていた頼りになる門番と護衛と、それから何故かとってもしたり顔のアルジまでもが、とてもたくさんの荷物が乗った荷馬車と共に待っていてくれた。
「皆、ごめんなさい。ついてきてくれる?」
「勿論です!」
「……ありがとう」
離れの使用人たちの優しさに、先ほどまでの胸の奥が凍るような寒さが和らいだのを感じながら、私はモルファ辺境伯家を後にし、リ・アクアウムの別邸へと向かったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
執筆の気合になりますので、いいね、評価、ブックマーク、レビュー等していただけますと、それはもう大変に嬉しいです!小躍りします!
また、感想、誤字脱字報告も本当にありがたいです! 心から感謝申し上げます!
旦那様、ネオン。
それぞれに対していろいろと思う事はあるでしょうが!
もうしばらく見守っていただけると幸いです。
次から新章!舞台の中心はリ・アクアウムへ移ります~
それから、タイミングを見ながら、全員の名前のネタ晴らしを始めて行こうと思っているのですが……いるかしら……?(ある意味ネタバレにもなってきますw)