119・辺境伯家での話し合い(前編)
キリの好いところまで載せたところ、大変長くなってしまいました、申し訳ありません。
お付き合い頂けると幸いです。
「『ただ夫婦の話し合いをするだけなのに、他人行儀に先ぶれを出すとはどういうつもりだ』と、お怒りになっておられたようですが、無事、お約束を取り付けることが出来ました」
「大変だったわね、ごめんなさい。それから、ありがとう」
翌日。
モルファ辺境伯家に自ら先ぶれとしていってくれたデルモにその話を聞き、深い溜息をつきながら、私はマーシに手伝ってもらい、身支度を整えてもらっていた。
夜明け前に、三通の手紙をもって屋敷を出たデルモ。
その帰りを待つ間、来てくださったただただ青い顔で動揺している魔道司法士様と話をすり合わせ、新たな書類を作成していただき、その後はマーシに辺境伯家の昔話を聞きながら食事を取り、湯浴みをし、デルモの帰還を待ち、出発の準備を整えていた。
帰ってきたデルモは、二通の返事と、私の衣装鞄を携えていた。
二通の返事を読んでそのお返事をしたため届けてもらうよう手配してもらった私は、デルモから本宅へ訪問の約束を取り付けた後、離れで私の帰還を待つ皆に今日の夜には引っ越しできるよう準備しておいてもらうよう頼んだこと、そして辺境伯家へ訪問するための私のドレスを一着とお飾りを預かって来たと報告を受けた。
そのドレスの入った鞄を開ける。
「まぁ、美しいドレスですこと」
「えぇ、私の勝負ドレスよ」
公爵家の嫁入り道具の中で、唯一私が選ぶことを許された一着であるそれは、夏の青空を思わせる生地を使用した、露出を控えた一見シンプルなドレスだが、実は全体に布地と同色の絹糸と金糸を寄り合わせた糸で、東方を思わせる意匠の繊細な刺繍が入れられたものだ。
それをマーシに手伝ってもらい身に纏うと、シンプルなドレスに合わせた化粧、そして髪は飾りをつけず、香油で浸し柔らかくなったブラシで丁寧に梳いて整えてもらい、私はデルモと共に、用意された馬車に乗り込みむと、騎士の護衛を受け辺境伯家へと向かった。
「おかえりなさいませ、奥様」
「「「「「おかえりなさいませ、奥様」」」」」
私の到着を察し、一斉に頭を下げる使用人達をちらりとも見ず、デルモのエスコートでモルファ辺境伯邸のエントランスに入った私は、一番近くにいる家令のジョゼフに問う。
「挨拶は結構よ。旦那様はどちらに?」
「はい。旦那様は応接室……に!」
顔を上げた家令は、ひきつったように顔を青ざめさせ、声をあげる。
「奥様、そのお姿は?」
「貴方に話す必要はありません。デルモ、応接室へ行きましょう」
「こちらです」
慌てるジョゼフや悲鳴をあげる使用人たちを無視し、デルモに先導され応接室に向かった私。
扉の前でデルモが入室伺いをし、旦那様の是を意味する返答をうけ開けられた扉から中に入った。
「よく来たな、ネオ……」
応接室に入った私に、ソファに座っていた旦那様は、歓迎を表現するかのように両の手をわずかに広げ、私の方を向き、今まで見たこともない笑みを浮かべ、そして。
「ネオン! その髪は何だ!」
と、叫んだが、私はそれに一切答えず、デルモを伴い旦那様の元へ向かうと、テーブルを挟んで反対側に立った。
「お話し合いに参りました。座ってもよろしくて?」
「ネオン、その髪は何だ、どうしたのだ」
問うた私に、旦那様は眉間に深く皺を寄せ、私の方を凝視して叫ぶ。
「そのみすぼらしい姿は何なのだ!」
「みすぼらしいとは? 何のことでしょう? このように辺境伯家への訪問に相応しい身なりは整えているはずですが」
私は珍しく宝飾を付けた右手の指先で少しだけ頬に触れ、少し首を傾げる。
そんな私を旦那様は震える手で指さした。
「気でも触れたのか!? 貴族の夫人が! そのように短く切るとは何事だ! いったい誰の許可を得てそのようなことを!」
「許可……ですか?」
私はわざと、肩にわずかに触れない程度の長さで綺麗に切りそろえた髪を少し摘み、それから笑った。
「おかしなことをおっしゃいますのね。自分の髪を切るのに、誰の許可がいりますの?」
そういえば、旦那様は私を指さしたまま、苛立ちを隠さず大きな声を出した。
「貴族の夫人が髪を短く切るなど、聞いたことがない! 美しい髪を大切にするのも貴婦人としての務めであろう! 私は、君の髪を美しいと褒めていたはずだ! それを……っ」
その言葉に、ふふっと私は笑う。
「旦那様に褒められた? 旦那様に怒鳴られたこと、罵られたことは多くございますが、褒められた覚えは一度もございませんけれど」
「そんなことは……っ」
「髪を切った理由が知りたいと仰るのでしたらお答えします。旦那様が無慈悲に切り捨てられた五人の民を偲ぶため、神にお仕えになっている修道女様に倣って髪を落としたのですわ。まぁ、旦那様に口づけられて不快だった、という理由もございますが」
「なんだと! どういう意味だ! 修道女など! それに、夫に触れられて不快など!」
「お飾りの妻ですもの、触れられて不快と思うのは当然では? それに、髪を落としたのは夫の悪行を諫めるため。それよりも旦那様、いつまで立ったまま感情的に怒鳴っているつもりですの? このままでは話し合いも出来ないのですが。それとも話し合いをするつもりはないのですか? でしたらわたくし、退出したいのですが」
そういえば、旦那様が苛立ちに顔をしかめ、私を睨みつけるようにして見てから、どかりと自分だけソファに座った。
「話し合いはする。君もそのつもりだから、わざわざ先ぶれまで立て、話し合いに来たのだろう?」
「えぇ、その通りですわ。失礼いたします」
ドレスが皺にならないように気を付けて裾をさばいてソファに座ると、私は後ろに控えたデルモを見た。
視界の端には、いつの間にやって来たのか家令と侍女長、それから執事や旦那様の秘書であるナハマス達主要な使用人たちが真っ青な顔をして、こちらに何かを乞うような目で見、控えているのが見えたが、一瞥すると、デルモが用意した書類を受け取った。
「旦那様」
「なんだ」
ふてくされたようにも見える旦那様に、内心失笑しながら、それをわずかにも表情に出すことなく、私は一枚ずつ、書類をテーブルの上に広げた。
「こちら、旦那様と婚姻翌日に交わした契約書の控えです。この契約書は旦那様のお申し出を受け、私がお願いして作っていただいたものです。ですが、この契約が結ばれてから今日まで、旦那様と本宅の使用人は守るどころか契約内容と真逆の行動と言動をとってきましたね。わたくし、嫁いできた身として黙って我慢しておりましたが、限界が来てしまいましたの。ですから契約の不履行を申し立てます」
すると、大きな音を立てて立ち上がった旦那様は、いや、違う、などと繰り返し、私を見下ろして睨みつけるようにして押し黙り、そこからソファに座り直すと私の方を見た。
「君の気分を害するつもりはなかった。愚かな契約をしたことは解っている。だが私は、あの日話した通り、契約を白紙に戻し、君とやり直したいと……」
「お断りいたします、旦那様」
その言葉を最後まで待たず、きっぱりと笑顔で言い切った私に、旦那様は目を見開き、再び立ち上がって叫んだ。
「なぜだ!?」
「なぜ?」
ふっと、笑う。
「なぜもどうしてもありません。そもそも白い結婚を命じられたのは旦那様です。わたくしはそれを受けいれ契約として書類を作成しサインをし、契約に忠実にいただけです。けれど一方的な思いをこちらに勝手にぶつけ、自己満足な感情を押し付け、司法士様まで入れて作った契約を、先に言いだした旦那様と辺境伯家の使用人が一方的に撤回させようと私が何度拒否しても、体調を崩しても、しつこく要求してきているのです。それは明らかな契約違反ではありませんか。迷惑をこうむったのはわたくしです。鈴蘭祭の後にその説明をし、まずは何故この状況になったのかお考え下さいとお伝えしましたよね? しかしそれすら無視し、さらに契約を反故しようとなさっているのは旦那様でしょう? そのような状況で、なぜやり直せると思ったのですか?」
「だが君は、今まで何も言わなかっただろう?」
「反論がなければ何をしても許されているとお思いで? いやですわ、旦那様。わたくしはずっと我慢していたのです。本来ならば鈴蘭祭の後の話し合いの時に、契約不履行で訴えることも出来た。しかし旦那様方のことを思い、警告に留めていたのです。しかしそれを無視し、さらに非常識な行動を繰り返してきたのは旦那様と使用人たち。我慢の限界が来るのも当たり前でしょう?」
「しかし、君は私の事を少しでも思い、考えてくれているから、いままで献身的に私を支えてくれているのだろう?」
「その事は、何度も否定したはずですが? それなのに、まだそのように勘違いなさっているのですか?」
至極真剣に言った旦那様に、私はただ呆れながらも、顔色ひとつ変えず冷静に言葉を返す。
「旦那様を思い、考え、献身的に? いいえ。わたくしが常に考え、思っていたのは、傷ついた騎士や、領地領民の事です。断じて旦那様の事ではありません。好意を持っていた、好いていた、愛していた? 何の世迷い事ですの? わたくしの心を旦那様のために割く余裕などほんの一欠けらだってありません」
「……そんな……」
絶望したような顔で私を見た旦那様は、わずかに首を振ると、煩わしいだけの恋情の熱がこもった真剣な視線を私に向けた
「いや、では、これから君の為に努力すると約束する。だから君と真に仲睦まじい夫婦として過ごすための挽回の機会を私に与えてくれないか?」
(何のガッツだよ、復活するなよ)
気持ちが悪い言い回しに寒いぼと鳥肌が立ちそうになるのを、奥歯をかみしめこらえつつ、私は貴族の仮面をしっかりと被ってころころと笑う。
「それは何の冗談ですの?」
「冗談などではない。私は君に愛され支えられながら、この辺境伯領を良くしていきたいのだ。だから、一度だけでいい、挽回の機会を……」
「随分と一方的に求めるだけですのね。それと、一度で良いのなら、もうとっくの昔にその機会は失っておりますわ」
「なに?」
深く眉間にしわを刻み、信じられないと言った顔でこちらを凝視する旦那様に、私は笑う。
「挽回の機会は差し上げておりました。1度でなく何度も。それをすべて無下になさったのは旦那様と使用人たちです。今さらですわ」
「……だが」
「ですが」
さらに食い下がろうとする旦那様の言葉を遮るように、私は笑顔を深めてきっぱりと声を上げた。
「わたくしは旦那様の様に、傷病者を捨ておき、領民を切り捨てるような血も涙もない生き物ではありません。離縁したいと思ったことは幾度となくあります。ですが、清い体による婚姻による解消は、まだ結婚して半年ですから、教会からも認めてはもらえませんし、そもそも私たちの婚姻は王家からの命令によるものです。先程、契約不履行で訴える、と申し上げましたが、いくらこの契約書があろうと、わたくしと旦那様、二人だけの判断では婚姻関係を解消できないため、我慢していただけに過ぎません。テ・トーラの義父の許可もいりますし、もちろん陛下にも許可を頂かなくてはいけませんもの」
その言葉に、光明を見出したのだろう。眉間の皺を消し、口元に笑みを浮かべて旦那様は私を見る。
「では、関係のやり直しを……」
「いいえ、それはこれまでの旦那様と使用人たちの行動を考えて、絶対にありえませんわ。けれどこの契約結婚は継続しなければならない。契約を言い出した旦那様側から散々反故にされているのに、私ばかりが我慢を強いられ、旦那様は何の罰則も受けないのも、納得いくものではありません。なのでわたくしの方から、罰則の代わりに、旦那様への白い結婚に対する契約の条件の追加を要求いたします」
「……は?」
「デルモ」
「はい」
新たにデルモから受け取った書類を、旦那様の前に並べる。
それを手に取った旦那様は、目を見開き、書類を今にも破る勢いで握りしめ、ぶるぶると震えているが、私はそのまま旦那様のもつ書類の写しを読み上げた。
「まず、旦那様の申し出により様々な条件が付けられたこの婚姻を今後も継続するにあたり、以下の項目の追加を要求します。まず一つ、わたくしの居住をこちらではなくリ・アクアウムに移します。これについては、様々な問題を起こしてくれた本宅の使用人が、今後もこちらの都合などお構いなしに頻回に押しかけ、要望という名の命令を再三繰り返されるのにもう耐えられないからです。この住居の移動に伴い、現在わたくし付きになっている使用人は、辺境伯家の雇用から、わたくしの直接雇用に契約を変更させていただきます。あぁ、ご安心くださいませ。この人員費に関しましては、辺境伯家のわたくしの予算は使いません。すべて辺境伯騎士団十番隊隊長としてのお給金で賄いますわ」
その言葉に旦那様は目を向き立ち上がって、声を荒らげる。
「私は君を解任したはずだ!」
「少々お声が大きいですわ。貴族として、もう少し冷静に話ができませんの?」
怒りを露わにする旦那様の態度に呆れながら、私はソファに座る事を要求し、心底嫌そうに顔をしかめながらも座った旦那様に告げる。
「先程のお話ですが、次の条件に盛り込ませていただきました。一つ。不当な解任を撤回し、私を辺境伯騎士団十番隊隊長への復帰と、今後そのようなことの無いことをお約束ください」
「なんだと!?」
「認めてくださらないのであれば、当初に作成した契約を破棄するため魔術契約を行使し、陛下と義父へ奏上申し上げますわ。旦那様から婚姻当夜に白い結婚を命じられた、と」
「そ……」
義父であるテ・トーラ公爵の名と陛下の名を出せば、流石の旦那様も顔色を変え、両の膝の上に置いていた両の手をぎゅっと白くなるまで組んで、考え込むように項垂れながら、呟くように問うてくる。
「……そんなことをすれば困るのは君ではないのか?」
やや低くなった声に、これは私を脅しているつもりなのかとその浅はかさに目の前の人が可哀想に思えるが、私は続ける。
「いいえ、特には」
にこっと笑った私は、顔を上げた旦那様としっかり視線を合わせながら、とん、と最初の書類に指をおいた。
「この魔法契約書に記した契約不履行の罰をお受けになるのは旦那様ですし、この身を調べていただければ旦那様とわたくしの関係が清い物である事は証明できます。社交界では白い結婚を強いられた出戻りと罵られるでしょうが、特段何とも思いません」
バンッ!
「大勢のものによってその身を調べられるのは屈辱ではないのか!」
旦那様がテーブル上に強く手を叩きつけ、机の上の書類が数枚滑って床に落ちていくが、私は顔色を変えず、書類を指し示していた手を自分の方に戻し、笑みを深める。
「いえ、全く」
「!」
明らかに動揺の色が隠せない旦那様に、私は笑顔のまま、手を己の胸にそえた。
「わたくし、旦那様と婚姻が決まった時にすでに一度調べられておりますの。ですので、いまさら調べられようが何とも思いません。この身に触れるのが旦那様なら強く拒否させていただきますが、お調べになるのは女性の宮廷医と修道女様ですから、なんとも思いません」
「なっ!」
かっと赤く顔を染め、歯を食いしばり私を睨みつける旦那様に、私はにっこりと微笑む。
そう。連れ戻されてすぐ、私の体はテ・トーラの義母と数名の宮廷医、そして数名の修道女によって調べられているのだ。市井に身を置いているうちに純潔を散らしていないかと厳しく詰問され、押さえつけられて調べられた。
恥ずかしくて抵抗したりすると、躾用の鞭で腹を叩かれた。
一度あの屈辱を味わえば、二回目を受けるのも一緒だ。
「……だがっ」
「あぁ、わたくしが出戻りになることへの醜聞をご心配に? なら必要ございません。義父はわたくしの利用価値を良く知っておりますから、多少の罵倒と傷をつけない程度の折檻程度を受けるだけで殺されたりはしません。それより、お困りになるのは旦那様なのでは?」
「なに?」
片眉を上げた旦那様に、にこりと笑う。
「陛下によって命じられた政略結婚の相手に白い結婚を突き付けたのですもの。南方辺境伯騎士団は王家に謀反の意ありと取られても、仕方ありませんわよね」
くすっと笑えば、周囲はざわめき、旦那様はぐっと口を引き締め、わずかに身をひいた。
「お話を続けさせていただきますわね」
笑んでから旦那様から視線を書類に戻す。
「一つ。後継をお決めになる際には、書類上の妻であるわたくしの意見も聞いてくださいませ。私が母となり子を育てるわけですし、互いの相性というものもあります。もちろん、愛妾をおつくりになって子を生して作って頂いてもかまいませんが、対外的には私の子となるわけですから、出産後は、酷なことを申しますが、その瞬間から、私が辺境伯家の後継として育てさせていただきます。二人目からはお二人で育てていただいて結構ですわ」
「……私は、君との間に子をなしたいと思って……」
「契約にございませんので、お断りいたします」
「しかし」
「白い結婚とお決めになったのは旦那様です」
契約書の『白い結婚』の項目を指さし、きっぱりと断った私に、なおも食い下がる旦那様。
私の手を取ろうとするが、すっと引いて、笑顔のまま旦那様を強く見据える。
「だがっ」
「わたくしの髪を見て察してくださるかと思いましたのですが、はっきり申し上げないとお解りになりませんか? 修道女様を倣って切った、と申し上げましたでしょう? 私、この結婚は領地領民、ひいては国としたと思う事にしました。ですから、神と婚姻し、純潔を守る誓約の為に髪を落とされる修道女に倣って髪を落としたのです。故人を偲ぶのにも良いでしょう?」
「だが! 君が言った通りこの結婚は陛下が決めたものだ。私と君の間に子を成して成立……」
「白い結婚を最初に言い出したのは旦那様です」
食い下がる旦那様に、私はそれまで絶えず浮かべていた笑みを消した。
「それにわたくし、罪なき人々の血に染まった旦那様に、指一本、髪の一房でも触れられるのは嫌です。ましてや床を一緒にするなど虫唾が……いえ、絶対にご遠慮しますわ」
そこまで言われ真っ青になった旦那様に、続けさせていただきますね、と微笑んだ。
「一つ、先の契約書及び追加の項目を破った際は、即刻旦那様の有責での婚姻の解消を陛下に奏上くださいませ。今まで度重なるわたくしからの警告を無視し、何度も使用人たちと共に契約を反故にしようとされてきたのです。そしてそのたびにわたくしが我慢してきたのですから、当たり前ですわよね」
ふふっと笑った私は、後ろに立つデルモに目配せすると、彼は無表情のまま、旦那様の前にペンとインクを用意した。
「この契約書は、あらかじめ最初の契約を結んでいただいた魔道司法士様に確認をしていただいております。旦那様がサインしてくだされば、最初の契約書と共に追加項目として申請出来るよう手配済です。安心してサインしてください」
そういえば、旦那様は一度大きく項垂れ、それから叱られた幼子のような表情を浮かべた顔をあげて、私を見た。
「ネオン」
「なにか?」
「私は君を愛しているんだ」
「わたくしは旦那様を大変に嫌悪しておりますわ」
いっそ哀れを前面に出し、慈悲を乞うようなその言葉に、私は笑顔で返す。
「何故だ」
「何故? これは異なことをおっしゃいますのね。婚姻日から今日まで、さんざんわたくしの事を踏みにじって来られたのに、今更それをすべて無にし、受け入れてもらえる、好かれていると思える感覚が私には解りません」
それには、旦那様は表情を変えた
「私が一体いつ、君を踏みにじったと言うのだ。これほどまでに君に愛を……」
「結婚当夜」
狼狽えるように声を上げた旦那様の目を見据え、口を開いた。
「辺境と王都に強い絆を。王命に近い陛下の言で嫁ぎ、夫婦の寝室で旦那様をお待ちしていたわたくしに一方的に白い結婚をつきつけましたね? 旦那様がどのように考えてあの様なことをおっしゃられたのかはわかりませんが、国のため、王家のため、公爵家のため、民のため。そう言い聞かせられ嫁いだわたくしに、国家反逆罪の片棒を担げと言われたのですわ」
「そんなつもりはない! 私はただこのような辺境に嫁ぐ君の為を思って!」
立ち上がり、叫ぶ旦那様を、座ったまま冷え込んだ胸を抱え、冷めた目で見上げる。
「わたくしのためを思われるのでしたら、あのような申し出ではなく、嫌でも褥を共にし、わたくしの純潔を散らしておくべきでしたわね」
「だから、それはこれから……」
「辺境伯騎士団での傷病者の扱い」
世迷い事のような旦那様の言葉を遮り、私は続ける。
「あの時も申し上げましたが、領地領民のため、騎士としてその身を捧げ戦ってくださる騎士様たちに対しての長年にわたるあの所業。旦那様は死神か何かでいらっしゃいますの?」
「なんだとっ」
「死神でなければ疫神でしょうか?」
「言葉が過ぎるぞ! ネオン!」
「そうでしょうか?」
激高する旦那様をただ静かに見据える。
「旦那様は、末で働く騎士達の事を考えたことはございますか? 私は彼らから聞きました。ある騎士は魔物から生まれ育った土地と愛する家族を守るため、ある騎士は父母のいない孤独を他の子供たちにさせないため。彼らは強い志を持って騎士になるのです。
旦那様は確かに、魔物や他国からの侵略者から国や領地領民をお守りになったでしょう。ですがそれ以上に、ご自身の同胞であり、守るべき領民を足蹴にし、見殺しにしてきたのです。この地を、家族を、未来ある子供たちを守りたい。その信念を胸に恐ろしい魔獣や侵略者と戦い傷ついた騎士達を、旦那様は褒め称えるどころか見殺しにしたのです。数え切れないほどたくさんの騎士が、旦那様の誤った信念のために犠牲になったのです」
「何を馬鹿なことを」
旦那様が拳をソファに叩きつけた。
「騎士ならば死を覚悟して戦地に向かうのが当然だ」
「えぇ、そうでしょう」
怒りをあらわにする旦那様に、私は努めて冷静に、静かに言葉を紡ぐ。
「騎士となったからには、戦場、戦いの中で死ぬ可能性は高い。皆、解っております。そして、戦地でのそれなら、誰しも納得は出来なくとも受け入れはするでしょう。騎士として立派だった、誉れ高かったと。しかし旦那様が皆に強いていた事は違います。戦いの中で傷つき、それでもこの地へ帰還を果たされた騎士様達は、治療もされず放置された上で息を引き取ったのです。それは騎士としての名誉の戦死ではなく、ただ騎士団に見殺しにされただけなのです」
「助けても戦えぬのだぞ!」
(あぁ、この人にはここまで話しても通じないのか……)
『若旦那様は、幼い頃から人の心を理解したり、察したりする力が欠けておいででした……それで、何度も他家のお子様たちと喧嘩を。そのうち他者と関わるのをやめ、図書館に引きこもってしまった若旦那様を唯一、お母君とフィデラ様だけが外に連れ出し、他者と関わらせようとなさっていたのです』
涙を浮かべそう話してくれたマーシの言葉を思い出す。
(守りたかったのかもしれない……けれど、このままでいいわけでは絶対にない)
一度目を伏せ、それから口を開く。
「……では、フィデラ様がもし生きて戻られたとしても、旦那様は同じことをなさったと言うのですね?」
「……何だと?」
私の言葉に、旦那様の表情が凍り付いた。
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誤字報告、感想も本当にありがとうございます!