117・決裂と、絶叫
「ネオン!」
地鳴りのような音が近づいてきたかと思えば、ノックもなしに扉は開かれ、雷鳴が轟くように私の名前が室内に響いた。
「ネオン! 大丈夫か!」
「だ……」
大丈夫ですわ、旦那様。
そう言う暇などなかった。
「あぁ! 目が覚めてよかった!」
耳元にその言葉が聞こえるやいなや、私は体が浮いた感覚に次いで訪れた全身に走る激痛と、呼吸が止まるくらいの圧迫感に襲われたのだ。
コルセットの比ではない締め上げに、胸の痛みどころか体中が悲鳴をあげる。
「ネオン! 本当に、無事でよかった!」
「……(けほっ……)」
耳元の後ろから聞こえてくる大きな声は反響して頭をかき回し、ますますくるしくなっていく。
何が起こっているのかわからないまま、自由になる手を動かし、自分を締め上げるモノを叩きながら、何とかはくはくと息をする。
「旦那様! おやめ下さい!」
「君が、死んでしまうかと!」
「旦那様!」
遠くの方から、デルモ達の叫び声が聞こえるが、締めつけは止まらない。
胸が痛い。
呼吸が苦しい。
次第に目の前がチカチカし始め、徐々に暗くなっていく。
(あぁ……今度こそ本当に……)
意識が遠くなる中、デルモとブルー隊長の大きな声が頭に直接響いた。
「旦那様! ネオン様を殺すおつもりですかっ! お離し下さい!」
「団長! このままではネオン隊長が死んでしまいます!」
何かが割って入るような感覚があって、その瞬間、私は突然締め上げられる苦しさから開放された。
途端、目の前はトンネルから抜けたときのように明るくなり、全身に酸素がいきわたった感覚と同時に、弾けるような激しい頭痛がした。
締めあげられていた体は解放され、足りない酸素を求めて大きく息を吸い込めば、胸に激痛が走り、追い討ちのように大きくむせこんだ。
「ネオン様!」
「若奥様!」
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……)
「……た」
助けて。
痙攣してうまく動かない唇を動かして何とか言った、と思う。
「ネオン様! ネオン様、今クルス先生をお呼びします!」
その言葉が届いたのか、遠のきそうでいて手放せない意識の中で緊迫したデルモの声がかすかに、私は何とか頷くことが出来たのだった。
「とりあえずの痛みは引いたかい?」
「……はい」
「それは重畳」
たくさんのクッションを使って上半身を起こしてもらっている私を診察したクルス先生は、薬をしっかりと包むためにきちんと折られた薬包紙を一つ、手に取った。
「これは鎮痛剤だ。ネオン隊長の体重に合わせて量を調節してある。朝昼晩と寝る前に欠かさず飲むように。もう少し君が落ち着いたら、自分に魔法をかけるやり方を教えよう。その方がこんな薬を飲むよりよほど効果も早いし体への負担も少ないからね」
「わかりました。ありがとうございます」
そんなことを言うクルス先生だが、調合していただいた痛み止めは絶大な威力を発揮していて、たった30分前に飲んだにもかかわらず、私は既に胸の痛みを気にしなくていい程度にしか感じていない。
クルス先生の薬はこんなに効くのか、と自分の身で実感しながらも、鎮痛に闇魔法を使う手があったのかと、思いつかなかった自分を恥じつつ頷いた。
「その顔はなんで闇魔法に気が付かなかったのか、って所かな? 仕方がないよ、君は最近までその存在すら知らなかったんだ、とっさの時に出てこないのも当たり前だ」
「申し訳ありません」
思っていたことがよほど顔に出ていたのかと恥ずかしくなりながら頭を下げた私に、クルス先生はそっと頭を撫でた。
「今回の事は、君に一切の非はないのだから謝る必要はない。それより問題は……」
くるっと、私から皆が待つ方を見たクルス先生は、これまでどんな時でも飄々としていた彼には珍しく、凍てつくような厳しい眼差しを旦那様に向けた。
「……っ」
息をのむほどの鋭い敵意。
クルス先生のそれは、自分に向けられていないのにもかかわらず、背筋が凍ると錯覚するほどのものだった
「団長、いや、モルファ辺境伯様。」
「……なんだ」
名を呼ばれ、鬼のような形相をして私を見ていた旦那様の視線が、クルス先生を捕らえた。
その視線は、旦那様をこれっぽっちも怖いと思っていなかった私ですら一歩引いてしまうような、どうしてそこまで、と思うほど冷たい目で。けれど相対するクルス先生は、わずかにも表情を変えぬまま口を開いた。
「医師としての立場から言わせていただこう。か弱き女性、しかも全身を強く打ちつけ、胸の骨まで折れている重症患者の体を、全力で締め上げるとは何事か? ネオン隊長――奥方の事を殺すおつもりだったのか」
「そのようなつもりはなかった」
問われたことに旦那様は表情を変えず答えるが、クルス先生もそれは同じだ。
「つもりはなかった? これはおかしなことを。そのような言い訳が通用するとおっしゃるつもりか。こんなことは、普通に考えれば子供でもわかる事です。大の男が、しかも力の強い辺境の騎士が、か弱いご婦人の体を力任せに締め上げるなど言語道断だ」
その言葉にはさらに表情を硬くした旦那様が吐き捨てるように言う。
「心配したのだ」
「心配したのなら何してもよいと? 仮に、本当に心配し、相手のことを思うのであれば、相手の体を重んじ、自分の感情を押し付けるような真似など決してしない。貴方が行ったのは独りよがりに自己を満足さるためのただのお遊戯だ。そんなものが許されるのは子供だけですよ。仮にも貴族の紳士が、しかも騎士を名乗る者ならば、決してありえない。恥ずべき行為ですよ」
「貴様、たかが医師の分際で誰に向かって口を……」
旦那様のその言葉に、ふはっとクルス先生は噴き出し、それからまっすぐ見据えた。
「ご存じないようなので一つ、辺境伯卿にお教えしましょう。我らネオン隊長の元に集う医療隊は患者が安心な状況で、安楽に治療を受け、心身を癒す場と医療と看護を提供する事を信念としているのです。そしてその信念を胸に患者の前に立った時、我々には身分など関係も興味もないのですよ。しかも貴方が身勝手を押し付ける患者は、貴殿が一方的に思いを押し付けているとはいえ、大切に扱うべき婦女子であり奥方でしょう? 心配だ、大切だと言うのであれば、まずは相手を慮り、心配し、心を尽くすべきだ。自分の気持ちばかりを押し付け、それ以上の見返りを期待するような貴方の態度はいかがなものか。相手を大切にすることも出来ないから、相手からも受け入れてもらえないのですよ」
「貴様、黙って聞いていれば勝手なことを!」
先ほどまでとはけた違いの、まさに殺気というものを身に纏った様に憤怒の形相を呈した旦那様の指先が腰に佩いた剣に触れたのが見え、私は飛び起きるようにしてクルス先生の前に出……ようとしたところが、クルス先生と傍に控えていたデルモに阻まれ、その隙間から、ブルー隊長が旦那様を押さえているのが見えた。
「団長! おやめください! 先生も団長を刺激しないでください!」
ブルー隊長の制止の言葉に、しかしぷっと噴出したのはクルス先生だった。
「おやおや。辺境伯騎士団団長ともあろう御方が、図星を突かれたからといって、一時の激情で隊員を切り殺すのかい? 先程の私の言葉の一欠けらだって理解していないじゃないか。本当に子供なのだね」
「……貴様っ」
「団長! 先生もおやめください!」
奥歯を強くかみしめた旦那様を押さえるブルー隊長の足元がズ……ッと押されるのが見える。
よく見れば、手は鞘と柄を握りこみ白くなっている。
(旦那様、本気だわ)
そのことに気が付いた私が身を乗り出そうとすると、私の前に立つデルモがそれを制止する。
「いけません、奥様」
「けれど、先生が……」
小さく頷いたデルモは、私とクルス先生を背後に、旦那様の方を見た。
「旦那様、ネオン様の前で、この辺境で数少ない、ネオン様が信頼する方を切られるおつもりですか?」
「使用人風情が意見するかっ」
「私の主はネオン様でございます。決して旦那様ではございません。主人を守るためであればご意見申し上げます。冷静になってください、旦那様。このままではお話も出来ませんよ」
「そこの医者のせいだろう!」
ギッと、デルモを睨みつけていた視線をクルス先生に移し、ブルー隊長を押しやろうとする旦那様。
「先程の愚かな男達のように、この場で切り捨ててくれるっ!」
氷水を掛けられたような気になった。
世界から光が失われた気がした。
「旦那様?」
瞬きも出来ない。
自分の歯が重なり合って、カチカチと音がするのが聞こえる。
顔の、体のあちらこちらが、ぴくぴくとひきつっているのが解る。
痛みとは違う得体のしれぬ恐れに怯える体を抱え、私はブルー隊長を今まさにはねのけようとしている旦那様を見る。
「旦那様、どういうことですか」
「ネオン、大丈夫なのか」
私に名を呼ばれた旦那様の手から剣が離れたのが見えた。
そしてそのまま、ブルー隊長に剣を預け、こちらに向かってくるのが見えた。
「ネオン、君が無事でよかった。怪我は大丈夫か」
「その様な事よりも、私の質問にお答えください」
体を起こそうと動けば、クルス先生がそれを止め、デルモが私に向かってくる旦那様の前に立つが2人を制し、私は問う。
「いまのお言葉は、どういうことなのですか?」
「君を心配しての言葉だが」
「そうではありません」
言いたくない。
聞きたくない。
こんな可能性が浮かんでしまう自分の頭を殴りつけてやりたい。
けれど、聞かなければならない。
言葉の真意を。
ぐっと奥歯を噛んでから、しっかりと旦那様の黒曜石の瞳を見、私は問う。
「愚かな男達、とは……どういうことですか? 言葉の真意をお聞かせください」
それに、旦那様は言葉を詰まらせ、ブルー隊長やデルモは顔色を失う。
察してしまう。
理解ってしまう。
嘘であってほしいと思うのに。
ただの私の悲観的想像であってほしいと願うのに。
けれど、聞かなければならない。
「旦那様? お聞かせください。」
私の言葉に、こちらに向かっていた旦那様は僅かに後退ったのが見えた。
同時に、デルモとブルー隊長が私を労わるように傍に寄る。
「……奥様、それは……」
「隊長、それは後程ゆっくりご説明を……」
「貴方がたは黙っていなさい。私は旦那様に聞いているのです」
自分でも聞いたことのない、ひどく低く冷たい声が、自分の喉から出たのがわかった。
そしてその言葉に旦那様は一つ、嫌悪を隠すことなく大きくため息をつき、そのため息と共に答えた。
「君を害した破落戸とその場にいた傍観者は、辺境伯夫人を害したとしてその場で私自ら切り捨てた」
足元から崩れ落ちる感覚に陥る。
頭の、腹の、心の奥底から冷え切っていくのがわかる。
「その場にいた者、とは……?」
「ネオン様、これ以上は……」
自らの行動で何が起こったのか、正しく確認をしなければ。
止めるデルモを無視して私が問うと、旦那様はやれやれと言った感じで続けた。
「言葉のままだ。あの場で君を害した破落戸共は、慈悲で建てられた領主夫人の医療院で、こともあろうかその体に傷をつけたのだ、処されて当然だ。いま、警備兵にそれらの家族を七親等まで集めさせている。集まり次第、見せしめとして全員絞首刑にする。修道院へ助けに求めたものに関しては恩赦を与え、家族含め全員むち打ち二十回の後、辺境伯領からの追放で許すことにした」
旦那様が何事もなげに言った言葉が、私に突き刺さっていく。
「なぜですか」
口から零れ落ちた言葉に、旦那様は険しい顔をした。
「なぜとはなんだ」
「私を害した者だけでよかったのではないですか? その暴挙を止めようとしてくれた者もおりました。彼らの話を聞いてくださらなかったのですか」
「破落戸の言う事を聞く必要などない」
冷たい声で、一切の迷いなくそう言い切った旦那様の言葉に、震えが止まらない。
想定をはるかに超える厳しい処罰に、なぜそんなことをしたのかと、言葉にしたいのに口が動かない。
そんな私に気が付かない旦那様は、組んだ腕の指先や眉尻に苛立ちを見せながら淡々と続ける。
「止めようとした者がいただと? 笑わせる。君の見間違いではないのか。そもそもそんな者がいたとしても、止められなかったから君はそれほどまでに怪我をしたのだ。慈悲をかけられているにもかかわらず、己の立場も弁えず領主夫人に殴り掛かったのだ。周りの者も同様だ。命がけで止めるのが当たり前で、止められなければ意味はなく、そんな者は破落戸と同類だ」
階級社会の、高位の貴族として、そして騎士団の隊長として。
辺境伯であり騎士団長である旦那様の言葉を理解しようと努力をする。
しかし、降り注ぐ旦那様の言葉は意味を持たないまま、暴力と同じく、私の心に拳をねじりこんでくる。
「ですが、旦那様も御存じの通り、あの場の者達は皆、魔物に襲われ怪我をしていたのです」
「それが何なのだ。あの場にいた者は騎士であればかすり傷だと笑われる程度の者達ばかりであり、目の前で婦女子が暴力を受けていれば、身を呈してでも助けるのがあたりまえだ。傍観してもいい理由にはならない」
はぁ、と、殊更大きくため息とともに、旦那様は言う。
「そもそも君は何が不満なのだ。破落戸を殺した事か? だとしたら認識を改めるのは君の方だ。そもそも大袈裟に治療など受ける必要もない程度の傷で大騒ぎをし、さらに君を害したのだから処されて当然なのだ。なのになぜ君は私を責め立てるのだ。全く理解が出来ん。そんなことよりも。ネオン、君は私が言ったことを覚えているか?」
「……ぇ?」
理解しがたい、理解しえない言葉の洪水に、思考が定まらず混乱する私に旦那様は続ける。
「『足手まといになった場合、君を隊長位から退ける』と言った事だ」
「……っ」
その言葉に、その後に続くであろう言葉を想像し、私はとっさに顔をあげた。
「それはっ」
「団長、お待ちください! このような場所で、独断で決めることでは……っ」
体のどこかで何かが悲鳴をあげているのを聞きながら、旦那様を仰ぎ見、睨みつけても、凍り付いてしまった喉はそれ以上の声を発してくれない。
そんな私を『納得したのだ』と勘違いしたのだろうか、わずかに表情を軟化させた旦那様。
「ネオン・モルファ。今をもって、辺境伯騎士団十番隊隊長の任を解く」
目を見開く。
足元から全てが崩れ落ちる。
微動だに出来ない私を守るため、旦那様の前に立ちふさがるデルモたちを、まるで虫を払うように乱暴に押しのけると、旦那様は私がへたり込んでいるベッドサイドに近づき、動けない私の髪の一房を手にするとそっと口づけた。
「口では威勢の良いことをいくら言っても非力な君では何もできないこと、身をもって知っただろう。政略結婚の意味を考え直し、あの屋敷で辺境伯夫人として守られているといい。これからの事については夜にでも話し合おう。」
それだけ言うと、旦那様は立ち上がり、ブルー隊長の方を見た。
「チェリーバ、聞いたな。十番隊は解散。今更解体するわけにはいかないからな、隊員と医療班は第三番隊へ戻す。後は全てお前に任せる」
「隊長、お待ちください! 医療班を今の形に築き上げたネオン隊長の功をお忘れですか!? 他の隊長や、隊員たちにはどう説明するのです。ネオン隊長を慕う騎士は多い! これでは騎士団内で暴動が起きかねません!」
「今日ここであった事をそのまま話せばいい、そうすれば皆理解せざるを得ないだろう。暴動? 騎士団内でそんなものが起こせるものか。だがその様な不届きなものがいれば、お前とターラで言い聞かせろ。私はシノと共に先に砦へ帰るため、破落戸の後始末はお前に任せる。それからネオン、馬車をまわさせるから屋敷に戻れ、解ったな」
そんな、旦那様とブルー隊長の会話を頭のどこかで聞きながら、私は自分の身に起きたことを理解しようとする。
「ネオン隊長!」
呼ばれた言葉にそちらを見れば、ブルー隊長が今にも泣きそうな顔で頭を下げていた。
「必ず! 必ず先ほどの団長の発言は撤回させます! しばらく、しばらくご辛抱ください! それから、彼らの家族の事は何とかしますので、どうかお心をしっかり持ってください……。」
此方を見て泣き出しそうな顔で頭を下げ、部屋を出て行ったブルー隊長の背を見送って。
「ネオン様……」
かけられた誰かの声。
断片的に散らばって、理解できなくて、逃げ出してしまいそうな言葉たちが意味を成していく。
私の中に落ちていく。
そうして、理解させられる。
何があって、どうなったのか。
叩き落される。
先も見えない暗闇の、僅かにも見通せない泥水の中を、皆に助けられながら手探りで探し、ようやく掬い上げられたと思ったすべてのモノが、全部全部、指の間から落ちていく。
そうして。
この手の中に残ったものは、命を散らした者達の、恨めしくも虚ろな視線と絡みつく恨みの言葉だけ。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
他者の亡骸の上に立つ自分を、今すぐ殺してしまいたかった。
お読みいただきありがとうございます。
気合のもとになりますので、いいね、評価、ブックマーク等していただけると大変に嬉しいです!
ここのところ苦しい場面ばかりで本当に申し訳ありません。