116・リ・アクアウム、辺境伯家別邸
目が覚めて最初に気が付いたのは、ここは私が知る何処でもないと言う事だった。
実家はいつも朝から騒々しかったし、公爵家は夜明け前から家庭教師が見張っていて熟睡なんてできなかった。
そしてここ半年は、目が覚める時間には甘い花とお茶の香りが部屋に広がっていて、同じくらい甘い顔をした侍女やメイドが、自分が起きたと分かったとたんにあれやこれやと世話を焼いてくれた。
そのどれとも違う、古い蔵書が詰め込まれた図書館の様な、静かで、ほんのりと明るく、心地の良くも重い空気で包まれた静謐な空間。
(……ここは、どこ?)
「……たっ!」
確認しようと体を動かせば、胸に痛みが走りその瞬間に何があったのかを思い出す。
「っち! ……いけない……」
今世では1度もしたことがなかった舌打ちが、ムカツキついでに出てしまい、あわてて口元を抑える。
静かな室内。舌打ちを咎められることも無く、私はほっとして手を離した。
(前世でも舌打ちはダメでしょ……。あぁ、でもそうか……病院でクレーマー……いや、医療院で怪我をした領民に襟首掴まれたんだっけ。この痛み、『病院の給食がまずい、量が少ない、味が薄いっ』て叫んで暴れた患者を宥めようと近づいた時に突き飛ばされてろっ骨が折れた時の痛みに似てる! あの時は肋骨二本折れてたから、今回もそれと同じか……前世と違ってこの体は成長期に栄養失調だったから骨も脆弱だろうし、おまけでもう二、三本折れてるかも)
冷静に考え、指折り前世の治療法を思い出す。
(とりあえず今は無理に起き上がらない方がいい。誰かが来るまで待ってここがどこかを聞いて……。肋骨骨折は大体全治一~二ヵ月として、前世でも鎮痛剤と患部の固定しか治療法はないから、クルス先生に鎮痛剤をいただいて、バストバンド(*患部の保護と圧迫固定のために使用する、幅広の医療用品)はないから、医療院にある処置用のさらしを巻いて固定。ドレスを着るためのコルセットじゃ長さが足りないし、締め上げた時に余計に折れそうだからパス)
そこまで考えてから、数えていた手を、ぽとっと力なくベッドに落とした。
(あの倒れた患者は大丈夫だったかな……たぶんあの後、誰か気が付いてくれただろうし、クルス先生もマイシン先生もいるから大丈夫だと思いたいな……。あの時、出てきてくれたアルジをそのまま返すんじゃなく、ちゃんとお願いしなきゃいけなかった。言えなかったのは本当に私の失態だった……何かあったらどうしよう……はぁ、それにしてもっ!)
落とした手を恐る恐る胸に当て、呼吸を浅くして痛みが治まるのを待ちながら、ぐるぐると思案するのは思い出した出来事。
無視できない痛みに合わせ、自分の不甲斐なさと同時に、その結果を招いた原因に対してどんどん怒りがこみあげる。
(あのオヤジ、本当にムカつく! どう見てもお前はかすり傷だけなんだから一番最後だっての! 素人目で見てもこれっぽっちも緊急性なんかないのに、救急車で病院に来たかと思ったら一番初めに見ろとか、自己中心的な暴論振り回して暴力に訴える奴と思考が一緒! 救急車はタクシーじゃないし、救急外来は急変する可能性のある患者を診るところ! 来たもの勝ち、早い者勝ちのなんでも外来じゃないっての! 本当、絶対許さないからな! 暴行罪で警察に突き出してやろうかっ!)
ドンッ!
「……うっ! ~~~~~~っ!」
悶々とした怒りを、つい握り締めた拳に託し、力いっぱい体の横、つまり自分の眠っているベッドのマットレスの部分を叩きつけてしまい、腕を使った反動とベッドの振動で誘発された胸の痛みにどうしようもなくて悶絶する。
(馬鹿馬鹿馬鹿、自分の馬鹿―! いたぁい!)
痛い部分を中心に自分の体を抱き締めながら、どうにか痛みが退いてくれるように浅く呼吸を繰り返す。
そんな七転八倒ともいえる自分との格闘を繰り広げ、なんとか痛みが落ち着き始めたところで、そうだ、と思いだす。
(そもそもここは異世界だった……日本じゃなかった……警察ないから突き出せないっ! というより、今、私が考えている事よりもっと大変なことになってる可能性大だ!)
その可能性に、内心頭を抱えてしまう。
この世界に警察はない。その役目を担っているのが騎士団であり、騎士団の下に警備兵や自警団だ。
そして男が私に行ったこと、男と私の身分の差を思い出す。
多分、投げ飛ばされる形で椅子に激突した時、視界の端に慌てて医療院を飛び出した負傷者がみえた。きっと彼が隣接する修道院に助けを求めてくれたのだろう。
(あれがもう少し遅かったら、傷はこの程度では済まなかった……本当に危なかったよね。)
地鳴りの様な音を立ててこちらへ迫ってくる、なめし皮で作られた靴を履いた大きな足を思い出し身震いする。
しかしすんでのところで助かったとはいえ、その前に襟首をつかまれ、隊服は破れており、その行為をあの場にいた男本人と倒れた患者を抜いた三人、そして駆け付けたデルモとパーンは確実に目撃している。
複数の目撃者がおり、物証もある。
そして私は辺境伯夫人だ。
庶民が貴族に、領民が慈善事業中の領主夫人への暴行など、重税圧政といった貴族・領主側が圧倒的に悪い理由があったとしても厳しく罰せられる世界にあっては、問答無用で処刑される。
それがもし、彼が痛みと恐怖で錯乱していたからだと言っても、身分制度のあるこの世界で平民が貴族に手をあげるなんて決して許されない。もしかしたら魔物に襲われた憐れな者という目線からの恩情があるかもしれないが、もしそうだとしても、むち打ちや腱切り、入れ墨などの身体刑に加え、モルファ領外への追放は免れないだろう。
況してや今回は一方的且つ理不尽な暴力で、恩情を貰うどころか刑罰はさらに重くなる。
(見せしめの公開での絞首刑……本人だけじゃなく三、いや、五親等の一族全員なんてこともありうる。それは駄目だわ)
あんなことをされて、怪我までして。
甘いと言われてしまうだろうが、本人はしょうがないにしろ、せめて家族には恩情を与えてほしいと考えてしまう。
(こういう場合はどうすればいいかしら? 騎士団内の事であればイロン隊長かしら? あぁ、でもこれは旦那様しかないかしら? デルモを通じて……は、絶対に駄目そうね。デルモのあんなに怒った顔を初めて見たけれど、あんな顔も出来るかと思うほど怖かったし、旦那様にどう報告すればいいんだってぼやいていたし……そういえば)
思い出して、考える。
(あの時、男の動きを制したのはパーンだったわよね? 彼は騎士団に入隊したてで事務官……それまでの経歴でも騎士団や自警団にいた経歴もなかったわ。なのになぜ、あんなに簡単に自分よりも大きな男を抑え込んで、腕や肩の関節を外すことが出来たのかしら……?)
そこまで考えたところで、部屋をノックする音が聞こえて一度思考を止めた。
(誰かしら。でもこれで、ここがどこかわかるわ。もしどなたかのお屋敷を借りているのだとしたら、お礼を言わなくては)
落ち着いて冷静にと、自分に言い聞かせながら、両腕で胸を抱き締めるように抑え込み、圧迫しながら胸が痛まない深めの呼吸をし、気持ちを落ち着けてから扉の向こうに向かって声を出した。
「どうぞ」
「失礼いたします」
部屋の扉が開き、静かに入って来た人は、ベッドの傍で足を止めた。
「若奥様、お目覚めになられたのですね?」
「……わか……?」
今までになかった呼ばれ方にわずかに頭を枕から浮かせてその人物を見れば、濃い灰色のシンプルなお仕着せと思われるドレスを着た老齢の女性と目が合った。
目が合った瞬間、彼女は柔らかにその目を細めた。
「よかった。お顔の色も少し良くなられましたね。こちらに来られた時は本当にひどい顔色で、どうしようと思ったのです。お目覚めになられたことを神様に感謝しなければ」
少々大げさではないかと思う物言いで女性はそう言うと、そのまま私の枕元に来てくれた。
「若奥様、少しお声が枯れておりますが、お水をお飲みになられますか?」
少し顔をのぞかせて穏やかに尋ねられると、途端に喉に渇きを感じ、私は素直に頷いた。
「では、失礼いたしますね」
私の言葉に頷いた老女は、傍のテーブルに用意されていたらしい水差しのお水をコップに注ぎ、ベッドに横たわったままの私にスプーンを使い、ほんの少しずつ飲ませてくれる。
「ありがとうございます。……あの」
コップ半分くらいの水を飲んだところで、口の端から頬へ伝って零れてしまった水を丁寧に拭ってくれている女性に声をかけると、彼女は柔和な笑みを浮かべた。
「どうかなさいました? どこかお辛いですか?」
「いいえ、大丈夫です。それよりここはどなたのお屋敷かお尋ねしても? お礼を申し上げたいのですが……」
私の言葉にわずかに困ったような顔をした女性は、それでも丁寧に答えてくれた。
「ご安心くださいませ。こちらはリ・アクアウムの中心にある南方辺境伯家の別邸、つまり若奥様のお屋敷でございます。私は先々代様の代から辺境伯家にお仕えし、今も夫のジミーとこのお屋敷の管理を任されておりますマーシと申します」
「……え?」
頭の中に浮かぶのは、女神の噴水公園の向こうにあった主人不在の美しい建物であり、つい先日、ベラ隊長からモルファ一門に何があったのか知りたいのであれば尋ねてみるといいと言われた屋敷だと言う。
私はその答えに戸惑った。
「リ・アクアウムの……お屋敷?」
「えぇ。気を失って真っ青な顔をされた若奥様を、急病だからと、従者が抱えて連れてこられたのです。その後、すぐに怖いお顔でぼっちゃま……いえ、若旦那様もおいでになって。今は来賓室で騎士団の方とお話をしていらっしゃいますが、若奥様がお目覚めになられたらお声をかけるように言われておりますので、お伝えに行ってまいりますね。お傍を離れてもよろしゅうございますか?」
「……えぇ」
まさか会いたくないので、というわけにもいかず、私は頷き了承した。
すると笑顔でそれではとお辞儀をし、彼女は出て行く。
(旦那様にお会いするなんて憂鬱だわ……それにしても……)
私は改めて室内を見回した。
四代前の辺境伯が建てたとナハマスが教えてくれたリ・アクアウムの南方辺境伯家の別邸の内部は、公爵家の祖父母が好んで使っていた一昔前の、けれどパッと見て誰にでもわかる『絢爛豪華』を愛した彼らのそれとはまったく違う、重厚かつ繊細な造りでありながら、時間的な流行の遅れを感じさせない意匠の調度で揃えられた全体に落ち着いた設えで整えられている。
(テ・トーラの人間とは違って、此方には趣味の良い方がお住まいだったのね……)
ふっと息を吐いて目を閉じる。
屋敷の事、そしてベラ隊長から言われたことも気になるが、それよりも先にやらねばならないことを考える。
これから旦那様がこちらにやってくる。
(どうやってあの事態の事を取り繕い、彼の家族に対する減刑を願い出ようかしら)
遠くからあわただしく近づいてくる足音を聞きながら、私は目を伏せて静かに答えを探した。
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