112・旦那様の変化
「旦那様?」
「旦那様!? これは大変失礼いたしました!」
私の言葉に跳ねるように書類から顔を上げ、馬車の外に立つ雇い主の顔を確認し、慌てたように馬車を降りて礼を取ったデルモに、旦那様が難癖をつけないか心配で成り行きを見守っていた私は、何も起こりそうになさそうな空気に安堵してから、デルモに声をかけ、手を借りて馬車を降りると、腹の前で手を組み、軽めに頭を下げてから、適切であろう挨拶をして、疑問に思った事を問うた。
「ごきげんよう、旦那様。本日はどうしてこちらへいらっしゃったのですか?」
「今日は君がリ・アクアウムへ行くと聞いた。私もついていく。」
(……は?)
その返答に思い切り眉間に皺を寄せたいのを我慢しながら、私は笑みを深めた。
「お気遣いありがとうございます、旦那様。しかしそのような気遣いは御遠慮いたしますわ。旦那様は騎士団長です。そんなお忙しい騎士団長に私の都合に合わせていただくようなお手数をおかけするわけにはいきませんわ。どうぞ執務にお帰りください。」
しっかりと真正面から旦那様を見据えてそう言うと、彼は苦虫を噛んで噛んで歯ぎしりまでしてから飲み込んだような、至極苦々しいような微妙な顔をして私の方を見て来る。
何かを察してほしい、という事だろうか。
しかし私は察する気がないので、旦那様がそのような表情をしようがわからない、と示すようににっこりと笑ってから、デルモの方を見て指示を出した。
「ガラ、デルモ。気を遣わせてしまってごめんなさい。さ、行きましょう? それでは旦那様、失礼いたしますね。」
微妙な顔のまま黙り込んでしまった旦那様に、もう一度にっこりと微笑んでから、再度ガラとデルモに声をかけ、デルモに手を借りて馬車に乗り込もうとした時だった。
「待て、ネオン。」
名前を呼ばれ、振り返った。
先程とは違う、けれど何とも言い難い微妙にいらだったような顔をした旦那様は、ずかずかとこちらへ歩いてくると、デルモの手にそえていた私の手首をぎゅっとつかんだ。
「……っ。 痛いですわ、旦那様。」
あまりの力に非難めいた声をあげるが、手首を掴む旦那様の力は緩まず、それどころか私を引いてデルモから自分の方へと引っ張った。
グイッと引っ張られ、手首どころか肩の方まで痛みが走る。
「おやめください、腕が痛いです。」
「……すまない。」
手首を掴む手の力は緩めた旦那様は、小さく謝罪とは思えない言い方をした後、ひとつ、大袈裟なくらいに息を吐いてから私に向かって言う。
「ネオン。君は今からリ・アクアウムのバザーの打ち合わせに向かうと聞いている。そして今回のバザーでも、騎士の体験教室をすると聞いた。前回の体験教室とやらは警護に当たった者達も驚くほど大盛況だったそうだな。実際あの後、興味を持ったと騎士団入隊志望者もあった。近年なりての減少を憂いていたのだが、これは騎士団としては実にありがたい話だ。次につなげる必要があると判断した。そのため、今回は私もその打ち合わせに立ち会うことにした。」
「は……?」
その旦那様の身勝手な言い分に、私は婦女子としての教えも忘れ、声をあげてしまった。
確かに騎士体験教室は大盛況だった。しかし
(何を勝手なことを……。そもそも騎士団入団志望者の減少の原因が自分のおかしな思想のせいだと結びつかないのかしら?)
「いいえ、結構ですわっ!」
旦那様の勝手な言い分と察しの悪さに、感情を制御するのも忘れ、苛立ちをあらわにしながら、旦那様の手を振りほどこうとしてしっかりと足を踏ん張った。
「バザーは辺境伯夫人としての私の仕事です。ですから、旦那様から申し渡された約束の通り、私一人で行いますわ。どうぞ、これからも私の事には干渉せず、騎士団の仕事をなさってくださいませ。ではっ!」
きっぱりと言いきり、旦那様を振り払おうとした時だった。
ガラガラと砦の奥から別の馬車が近づいてくる音が聞こえ、私の乗っていた辺境伯家の馬車の後ろで止まった。
騎士団の紋章の入ったその馬車は、前に止まっている辺境伯家のそれとは随分と作りが違っていて、一見簡素に見えるが重厚で堅牢な砦を思わせる設えだ。
馬車を引く馬も鎧を身に着けているし、その周囲には頭の先から足の先までしっかりとした鎧を身に着けた騎士が、同じく鎧を付けた馬を伴っている。
(随分物々しい馬車……。なにかしら、嫌な予感しかしないわ。)
旦那様に手首を掴まれたまま、すこし眉間に皺を寄せてそれを見ていると、馬を引く騎士の中で一等鮮やかな紺のマントを身に着けた一人の騎士が近づいてきて、兜を取ったうえで私たちの前で片膝をついた。
「団長、ネオン隊長。馬車の用意が出来ました。」
「あぁ、すまない。」
「……ブルー隊長?」
当たり前のように頷いた旦那様だが、私は少し目を見開いた。
目の前で膝をついているのは、初めてあった時のように黒鋼の鎧を身に着けたブルー隊長で、彼は立ち上がると傍にいた騎士達に指示をして馬車の扉を開けさせた。
「団長とネオン隊長は前方の馬車にお乗りください。執事殿と補佐官は後ろの馬車へ。」
「いえ、私は当家の馬車に……。」
物々しい様相と、その物々しいものに乗るように促された事に戸惑いそう答えると、ブルー隊長は困ったように眉尻を下げて笑った。
「申し訳ありません、ネオン隊長。辺境伯家の馬車はこちらでお預かりしておきますので、本日はこちらの馬車でお願いいたします。」
(だからなんで決定事項として言うの? ホウレンソウはどこに行ったの!?)
苛立ちながら、それで2,3と静かに呼吸をし、気持ちを整えてから問いかける。
「急なお話ですのね。どうしてか、お聞きしても?」
困惑しています、と言った体で問うと、それに気が付いたブルー隊長は旦那様を見、それから申し訳なさそうに私に向かって頭を下げた。
「謝罪は結構ですので、理由をお聞かせくださいませんか?」
「チェリーバに詰め寄るな。私の指示だ。」
めんどくさい、と思いながらブルー隊長に言うと、口を開いた旦那様は私を見た。
「旦那様の、ですか?」
「そうだ。」
そういった旦那様は、私の方に視線を動かした。
「昨夜、魔物が出た。」
ドクンと、大きく心臓が跳ねた気がして、私は旦那様の言葉を繰り返した。
「魔物……ですか?」
「そうだ。」
少し息をのんだ私に、旦那様は事無げに話す。
「夜遅く、近隣の集落の近くの森で魔狼と魔犬の群れが出、農場に放牧されていた家畜が相当数食い荒らされたと報告があった。幸い巡回の騎士が通りかかったため領民へ被害は出ていないが捕りのがしたモノや新たに発生したモノがいる可能性がある。そのため、今朝から第二部隊が調査と魔獣の駆逐に出ている。」
「さようですか……。家畜の事は残念ですが、領民に被害がなかったのは不幸中の幸いですね。」
その点に関しては本当によかったと胸をなでおろしてから、旦那様を見る。
「しかし、それと私の視察に何の関係が?」
ブルー隊長が頷いた。
「魔物が出たのは、距離としては砦とリ・アクアウムの中央付近の街道沿いです。襲撃があった集落の近くへ分岐する街道を通る事になるのです。そして、まだすべてが駆逐されたという報告は上がっておりません。そのため、警護が必要と判断されました。ネオン隊長にはご不便かとは思いますが、こちらの馬車で移動していただきたいのです。」
「そうでしたか、理由は解りました。」
事情を聞けば納得せざるを得ない。
だが、しかし……。
私は、未だ手首を掴んで離さない旦那様の方を仰ぎ見た。
「馬車を乗り換える事情は分かりましたが、旦那様が一緒に行かれる理由が解りませんわ。そのような状況でしたら、殊更、旦那様はこちらにいらっしゃった方がよろしいのではありませんか?」
(団長なんだから砦でちゃんと指揮しろよ。)
と口に出さないまでも、しっかり言外に含めながらそういうと、旦那様はちらりと私の方を見ると、そのまま強引に私の手を引き、用意された馬車へと足を進めながら話し始めた。
「こういうモノは実際に被害状況を見る必要がある。私は領主でもある。被害状況の確認は私の仕事だ。リ・アクアウムに向かう君と共に行けば、街道沿いに被害の確認もできる。君の警護も必要だからな、共に行く。こちらはアミアが残っている。」
「さようですか……。」
(そこは普通、副団長が確認に行って、団長が残るのではないの? とは、兵法を知らない私が言っても煙に巻かれてしまうわよね……。あ~あ、断れない状況か。馬車の中、密室に二人きりとか本当に勘弁してほしいのだけど。)
つい舌打ち……は流石にしなかったけれど、そんなことを考えて、深い溜息が漏れる。
「……私と一緒にいるのがそんなに嫌か。」
すると、私の耳に旦那様の低い声での呟きが聞こえた。
(「はい! その通りです!」って、言えたらいいのに……さすがに騎士団内でそれを言うのは「仲睦まじい夫婦を演じる」という契約に違反よね。まぁ、今更な気もするけど……。)
少しだけ反省しながら、私は外れてしまっていた淑女の微笑みをしっかりと顔に張り付ける。
「申し訳ありません。昨夜あまり眠れなかったものですから、道中でご迷惑をおかけしないかと不安になったのですわ。それに……騎士団の馬車に二人、というのは……以前も申し上げた通り、騎士団内の風紀が乱れる原因になるかと。」
はっきりとは言わずとも、拒否したいという気持ちを表せば、旦那様は片眉を上げ、低い声で言った。
「……二人きりではない。私たちの馬車にはシノも乗る。後続の馬車は補佐官と君の執事で満席だからな。」
見ろ、と言われて後続の馬車の方を見れば、ガラにデルモはもちろん、旦那様の補佐官であるベータと以前リ・アクアウムを案内してくれたナハマス、それからドンティス隊長の補佐官とパーン隊員が乗り込んでいるところだった。
「なるほど。」
相手が癖のある旦那様至上主義の節のあるドンティス隊長とはいえ、旦那様と二人きりではないことにほっとした私の手を取っていた旦那様は、わずかに口元を歪めた。
「……それほどまでに、私が嫌いか……。」
「はい? なにかおっしゃいましたか?」
微かに聞こえた旦那様の声に首を傾げたが、それには何も答えないまま、旦那様は私を馬車に乗せてくれ、自分も乗り込むと私の隣に座った。
その後、すぐ後に珍しく帯剣をしたドンティス隊長がやってきて、馬車に乗り込み旦那様の前に座ると、互いに短いあいさつを交わす。
そうして、旦那様が外で馬に乗ったブルー隊長に窓越しで目配せをし指示を出すと、馬車はゆっくりと、騎士団の砦の正門を抜け、リ・アクアウムへ向かう街道を走り出した。
「旦那様、ドンティス隊長。魔狼とは、どういう魔物なのですか?」
馬車が走り出してすぐ、面倒くさい与太話をしたくないと考えた私は、腕を組み、眉間に皺を寄せて目を閉じている旦那様と、いつものように胡散臭さを漂わせた笑顔で座っているドンティス隊長に問うてみた。
「……魔狼か。」
私の問いかけに目を開けた旦那様は、黒曜石のような瞳を動かして横目でちらりと私を見た後、少し考えるように目を伏せてから、改めて私を横目で見、それから口を開いた。
「ネオンは、狼を見たことはあるか?」
(そういえば前世では動物園で見たことがあるけれど、こちらでは動物を見たことがあまりないわね……?)
考えて、首を振る。
「いいえ、ありません。」
「そうか。では犬は見たことがあるか?」
「犬は……はい。幼い頃に野犬を見たことがありますわ。」
そう答えると、旦那様はすこし驚いた顔をして私を見た。
「貴族街には野犬が出るのか? 我が領内でも、街中にはそんなものは出ないが……王都の警備はどうなっているのだ。」
(あ、しまった。)
旦那様の驚いた物言いは当たり前だ。
王都の、しかも公爵家のタウンハウスがある貴族街の中心部にそんなものは出ないし、そもそも、私が住んでいた庶民街の中でも、比較的貧しい者達が住んでいた区画でも、そんなモノは現れることは年に一度か二度。しかも野犬などでなく、何処からか逃げ出してしまった飼い犬だったモノだ。
ではどこで野犬を見たのか。
それは、拉致されそうになった際に必死に逃げているときに、入り込んでしまった場所だ。
そこは、決して足を踏み入れてはいけないと大人達にきつく言われていた、王都でも端の端、貧困層が暮らす治安の悪い隔絶された裏路地、犯罪者や貴族に目をつけられた者達が身を隠す、王都の掃き溜めと言われ、騎士団の警備兵と、王都庶民街の警備団が常に監視の目を光らせていた、隔離された場所。
まだ宿屋兼酒場で働き始めて間もない頃、市井歩きにも慣れていなかった私は、身なりはボロボロの明らかにやばい顔をした男に路地裏へ連れ込まれそうになった。
その男から逃げるため、慣れない王都の庶民街を走って逃げていたのだが、周囲の確認も出来ずに逃げていた私は間違った道に逃げ込んでしまったのだ。そしてそんな私の目の前に、がりがりに痩せ、涎を垂らしてこちらを見据える野犬に遭遇した。
気持ち悪い笑みで迫ってくる男は野犬を恐れて逃げて行ったが、残された私は今度はそれに追われることになった。
飛び掛かられる前に、貧困層の見張りをしていた警備兵に助けてもらったおかげで、怪我無く無事に家に帰る事が出来たが、そうでなければあの野犬に食い殺されていたか、別の者の餌食となっていたか、どちらにせよ、日の目を見ることは出来なかっただろう。
しかしこれをどう伝えたらいいものか。
少し考えてから、私は少しだけ眉尻を下げ、当たり障りない程度の話として答えた。
「いいえ、そうではありません。市井の暮らしにまだ慣れていないころ、道に迷って貧困層の路地裏に迷い込んだことがあります。その際に追いかけられて怖い思いをしたのです。」
「そうか。」
そう言った旦那様は、納得したように頷くと、組んでいた腕を解いた。
「……? 旦那様?」
ふわっと旦那様の手が私の頭に近づいてきた。
「幼い頃ならば、それはとても怖かっただろう。 無事でよかった。」
初めて見る旦那様の穏やかな笑顔と、多分、頭を撫でようとするその姿が。
あの日、自分を拘束した公爵家の従者たちの、大きくて歪、理不尽の塊のような手に見えて。
バシッ!
気が付いたらその手を払ってしまった。
「……っ! あ。」
手を払った先に傷ついた顔をする旦那様に、私は旦那様の手を払ってしまった右手を左手で押さえて自分の胸に押し当てると、深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません。私、男性に頭を撫でられるのが得意ではない……というよりも怖いのです。」
私の言葉に、傷ついたように細めていた目をわずかに開いた旦那様は、わずかに首を振った。
「……いや、こちらも無断で触れようとして悪かった。」
目元はすでにいつもの旦那様に戻っているのに、その奥に傷ついて揺れる瞳を私に向けた旦那様は、それ以上は何も言わず、たたき払われた手を事無げに先ほどと同じく組んでそう言った。
「いえ、不躾な事をして申し訳ございません。ドンティス隊長にも、嫌な思いをさせてしまって申し訳ありません。」
旦那様の前に座り、ことの一切を見てわずかに眉間を寄せていたドンティス隊長に頭を下げると、彼は表情を元に戻し、首を振った。
「いや、恐怖に反応してしまうのはしょうのない事です。けしてお気になさらぬように。団長も、気安く女性の頭を撫でてはいけません。幼子ではないのですし、ネオン隊長は奥方ですが、他の女性であれば誤解もされます。それに、せっかく外出のために整えられた髪型が崩れてしまっては、ネオン隊長は侍女を連れて歩いてはおりませんから直すことが出来ません。貴族の淑女としての矜持が損なわれます。お気を付けを。」
いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべて私を見、其れから旦那様を諫めるようにそう言ったドンティス隊長の言葉を聞いた旦那様は、私の方を見、なるほど、と頷いた。
「そうだな、配慮に欠けていた。申し訳ない。」
「いえ……申し訳ございません。」
再び頭を下げた私に、旦那様は視線をそらし、馬車の外を見るように顔をそむけてしまった。
自分の態度が悪かったのだから、仕方ないと思い私も静かに外でも見ていようか、と顔を上げたところで、パチッとドンティス隊長と目がった。
すると、彼は穏やかに口元に微笑みを浮かべてた。
「ところでネオン隊長、王都にお住まいだったのでしたら、こちらの雑技団の話は御存じですかな?」
「雑技団、ですか?」
受け取った手のひらサイズの紙には、沢山の色を使って描かれた動物の曲芸や、多分空中ブランコであろうモノのシルエットが描かれている。
「いいえ。聞いたことがありません。ここ一年の事でしたら、領地に戻っておりましたし……。」
「おや、御存じありませんでしたか? 実はバザーに合わせて、リ・アクアウムへこの者達を呼び入れようかと思っておりまして……」
と、悪くなってしまった馬車内の空気を換えるように、ドンティス隊長が王都で最近流行しているという歌劇や西方の雑技団の話をしてくれた。
私はその話を興味深そうに聞いている風を装いながら、先程思い出した気持ち悪さと怖さに、少しだけ目を伏せた。
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