表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
124/168

110・溢れ出す、遠い日の記憶

 いつも通り、アルジと共に馬車にのり屋敷へ戻り、アルジと別れて屋敷の中に入ると、待ち構えていた離れの使用人たちの挨拶を受けた。


 それに答えながら手に持っていた鞄をデルモに渡し、中に入っているドンティス隊長から預かった『例の書類』の確認をお願いして、浴室へ向かう。


 着替えだけは手伝ってもらい、1人で体を洗い湯につかった後は、ゆったりとした作りの柔らかな夜着と、厚手であるがふわりと軽いお気に入りのナイトガウンをしっかりと纏って、食堂ではなくサロンの方へと向かった。


 サロンは私がくつろげるように明かりがともり、花が飾られ、湯冷めしないように温められていて、お気に入りのソファの近くには、四隅に花の刺繍の入った清潔なクロスのかけられたテーブルが用意されている。


 整えられたソファに促されて座ると、リシアがひざ掛けをかけてくれ、アナがテーブルの上に暖かな食前酒を出してくれた。


 一口飲み干すと、お腹の中から温まって、自然と大きく息が漏れた。


「あぁ、美味しい。やっと一息吐けたわ。」


「本日もお疲れさまでした、ネオン様。」


「皆も、こうして出迎えてくれてありがとう。」


 前世で言う果実を使った蒸留酒と、数種類のスパイスとはちみつを混ぜ、お湯割りにした食前酒を舐めるように飲みながら答えていると、アナとは別のメイドが食事の乗ったトレイをもってやってきて、同時に室内に美味しそうな匂いが広がった。


 くぅ~。


 香ばしく甘い香りに、私のお腹がなった。


「やだ、ごめんなさい。」


 肩を竦めた私に、食事を用意してくれている2人のメイドは笑う。


「お腹が減る事はいい事です。ネオン様は食が細くていらっしゃるので、そうして食欲があると解ると私共は安心します。」


「いっぱい食べるように頑張るわ。それにしても、いつもいい香りなのだけど、今日は特にいい匂いね。」


 漂ってくる匂いにそう言うと、アナがにこにこ笑った。


「ネオン様、今日は以前よりお食べになりたいと仰っていたキッシュとスープになります。たんとお召し上がりくださいませ。」


「まぁ! キッシュ!」


 目の前に並べられるのは、小さく刻まれた野菜のたくさん入ったミルクのスープと、柔らかな白いパンが一つ、そして手のひらサイズの真ん丸のキッシュが置かれた。


 つやつやで香ばしい焼け目のついた表面と、カリッと焼き上げられたパイ生地は、前世のキッシュと遜色ない出来栄えで、つい声をあげてしまう。


「うれしい! ようやく完成したのね。」


 そう言うと、アナとリシアがうんうんと頷いてくれる。


「ネオン様のためにと料理長が試作を重ねて完成いたしました。自信作です、との伝言ですわ。」


「それは楽しみだわ、頂きます。」


 食前酒の入っていたカップを置き、並べられたカトラリーを手にした私は、お行儀悪く、しっかりと焼き色のついたキッシュの真ん中にフォークとナイフを入れた。


 ナイフを入れると、パリッとしっかり焼かれたパイ生地の中に注ぎ込まれた、柔らかだけれどしっかり火の通った卵生地が出てくる。断面を観察してみれば、葉野菜や燻製肉、それに香りのよいキノコが小さく刻まれ、全体に程よく入っているのが解る。


 わくわくしながら一口大に切り分ける。


「いただきます。」


 よく観察してからぱくっと一口頬張れば、口の中にはほんのりと甘く感じる卵とミルク、それにチーズの優しい味とともに、塩味の利いた燻製肉と深い味わいのキノコがとても良いアクセントになっていて、前世で大好物だったキッシュと変わらぬ美味しさで、懐かしさと美味しさに手は止まらず、一口、また一口と食べ進め、気が付いた時にはお皿の上からなくなってしまっていた。


「美味しかった……。」


(キッシュは飲み物、絶対にそう!)


 ふぅっと息を吐いて、私はお腹を擦る。


 そんな私の様子を見、食事を全部食べられるなんてとても偉い! と喜んでくれる使用人たちの姿を見た私は、あら? これは旦那様を甘やかす本宅の使用人とあまり変わらないのでは? と一瞬思ってしまった。


 が、いやいや、彼らと彼女たちは全然違う! と美味しい味と一緒にその言葉をごっくんと飲み込んだ。


「料理長にとっても美味しかったと伝えて頂戴。本当、もう一切れ食べたいくらいよ。」


「食欲がおありになるのは結構です。おかわりをご用意いたしましょうか?」


「えぇ! ……いえ、まって。」


 それは魅力的な提案だ、と咄嗟に頷いてしまったが、キッシュはかなりハイカロリーで、脂質が多い食べ物だ。前世の鍛えられた胃腸であったならあと2つくらいは平気で食べられただろう。しかし、今の私の胃腸は未だ油モノや贅沢品に適応しきれていないため、ここで調子に乗って食べてしまえば、確実に夜中に胃がもたれて辛い思いをすると考え直し、前世の優秀な胃薬が欲しいわと思いながら首を振る。


「とっても魅力的だけれど、明日も仕事があるからやめておくわ。」


「では、お口直しのデザートをお出ししましょうね。」


 私の言葉に頷き、空になった皿を片付け、小さな焼き菓子と果物の乗った皿を出してくれたアナに消化に良いハーブティーをお願いすると、サロンの端に置かれた彼専用の執務用の机に向かっているデルモの方を見た。


 先ほどまで書類を見ていたと思っていたのだが、今はペンを持ち何やら書き物を行っている。


 相変わらず仕事が早いと感心しながら、声をかける。


「デルモ、書類は読み終わったの?」


「はい。新しい会計担当者が入られるようですね。」


 書類から顔を上げ、ペンを置いて私の方を向いたデルモに問いかける。


「えぇ。急な事なのだけれど、次回のバザーの打ち合わせから同席させたいと言われているのだけれど、デルモはどう思う? 率直な意見が聞きたいわ。」


 その問いに、彼は一つ頷いた。


「かの商会の件は存じ上げております。辺境伯家には贔屓にしております商会がございますが、取引契約をした商会がその地位に胡坐をかいてしまう事のないよう、また領内の商会が互いに良い方向へ切磋琢磨し、研鑽を重ねられるようにと、四年に一度、領内の一定以上の評価を持つ商会を呼びよせて面接するのです。かの商会は、前回、前々回と当家と取引につながる事はありませんでしたが、その候補として名のあがっていた商会です。商会長には大変に優秀な次男がいるという話は聞き及んでおりましたが、まさかお家騒動があったことは承知しておりませんでした。しかし、この書類と奥様のお聞きになったお話から察するに、長男の継いだ商会が、次の顔合わせには呼ばれることはないでしょう。……ともすれば、そこまで存続していないかもしれませんね。」


 デルモの返答に、私は首を傾げる。


「そうなの?」


「はい。こういう話はすぐに広まります。ネオン様も御存じかと思いますが、商売は信用で成り立っております。今回のお家騒動では犯罪まがいの手が使われております。誠実さをないがしろにするような商会は遠巻きにされるでしょう。もともと長男への評価も良い物はありません。時間の問題かと。」


 アナが用意してくれたデザートを食べ終わり、ハーブティーを半分飲んだ私は、ひとつ、息を吐きながら笑った。


「そう……わかってはいるつもりだったけれど、お家騒動ひとつで商会自体の先行きが陰るなんて難しいものね。でも、良かったわ。まだ一度しかバザーをしていない中で騎士団側、しかも会計担当者の交代というのは正直悩ましかったの。デルモの耳にも優秀さが届くほどの人物なら、安心して大丈夫ね。」


 デルモの方を見れば、彼は困ったように眉を下げている。


「全面的にとは申しませんが、ドンティス伯爵の推薦と、騎士団の調査が入っておりますのでその点は安心なさってもよろしいかと。私自身、彼に直接会った事はありませんが、大変に優秀だという評判は何度も耳にしておりますし、彼の留学先は東方ビ・オートプ国という事もあり、個人的にも、共に仕事をし、話を聞けることは少しばかり楽しみではありますね。」


「ビ・オートプ国?」


 その国の名に手を止めた私に、デルモは頷いた。


「はい。ネオン様はあちらの本を良くお読みであったそうなのでご存じかと思いますが、彼の国は独自の文化が発展した国です。商売についても、商品についても、興味深い話が聞けるかもしれませんよ?」


「彼はその国と深い付き合いがある、と……?」


「はい。報告書にもそのように。……もしや、公爵家との関わりで、なにか不都合がございますか? そうでしたら御断りも出来ますが。会計には当家の者を出すでもよろしいかと。」


 そう問われ、私は困ったように笑った。


「いいえ、違うの。実は、終業時間まぎわにその書類を渡されたものだから、まだ目を通していなかったのよ。実家は大丈夫だと思うわ。……そう、彼はビ・オートプ国に留学していたのね。」


 なるほど、と頷いたデルモは説明してくれる。


「こちらの報告書を見るとその様です。ネオン様も御存じかと思いますが、ビ・オートプ国は東方の大国です。その大国の都にある教育機関で商売を勉強していたパーン殿がいれば、バザー運営も心強いでしょう。」


 その言葉に、私は頷いた。


「そうね。」


 東方の大国、ビ・オートプ。


 その国名に、私はひきつりそうになる口元を隠すようにナフキンを押し当てると、静かに頷いた。







 その後、短い時間であったがデルモと商会やバザーについて必要最低限の話し合いを終えた私は、寝室に戻り、一人、洗面を終えベッドにもぐりこんだ。


 サイドチェストの上に置かれた小さな魔道ランプの灯だけが揺らめく暗い室内。


 ぼんやりと見える天蓋に描かれた絵画を眺め、時折すこしのあいだ目を閉じて、また目を開けてを繰り返し、いっかな訪れる気配のない眠気にため息を吐く。


 その理由は解っている。


 先ほどまでの話の中に出た、たった一つの国の名前。


 それが繰り返し繰り返し頭の中で浮かんでは、過去の思い出を引っ張り出して、私の心をかき乱す。


(なぜ……次から次に思い出させるようなものばかり集まってくるの?)


 東の大国ビ・オートプ。


 その国名は良く知っている。


 多くの属国を持ち、独自の文化を持ち、国力も軍事力も持つ、トロピカナフシュ国とは、十数年の間『話し合い』を重ね続け、ようやく正式に友好関係という名の交易を結ぶことの出来た友好国だ。


 互いの軍事力を推し量った結果、そうなったらしい……わずかにあちらの方が関税の入りがいいのは、そのあたりの力バランスがあったりするのだろう。


 先日、カルヴァ侯爵夫人との茶会に出した金の花のお茶も、実はかの国からの交易品だ。


 十数年にわたる国同士の話し合い。それらに各々の役割を言い渡され交渉に当たった3公爵家は、本国までは手が届かなかったものの、交渉にあたった属国とそれに付随する周辺地域に対し、独占的に交易ルートを手に入れていた。もちろん実家であるテ・トーラの家も、本国よりさらに東側に位置する属国との独占交易権を手にしている。


 実に抜かりのない話である。


 国益の話をしに行っているのに、立てるべき王家を差し置いて三公爵家はやりたい放題だなと家庭教師の授業を聞きながら思ったが、それが『特権』として許されている三公爵家は、王家にとってよほど特別なのだろう。


(……いいえ、そちらは私にはあまり関係ない話だわ。)


 公爵令嬢、しかも一度放逐された上で他家へ嫁に出された私に出来るのは、社交の場で交易品の広告塔になる事だけだ。それ以上でも以下でもない。何かあっても決して出しゃばる事のないように、正しく知識として知っておかねばならない。そのためにしっかり教えられたのだ。


 しかし実は、公爵家の家庭教師以外から、私はこの国の話を詳しく聞いたことがあるのだ。


『土産だ。』


 青紫色の花と一緒に渡された、東方の守護の呪い文字だという不思議な彫り物のされた、あの人の瞳と同じ夏の日の青色の石。


 赤に橙色の縁の入った不思議な形の花と、東方の文様の彫られた細い腕輪。


 守り石、ブローチ、髪飾り、日持ちのする硬くて甘い菓子。


 仕事をしている私を気遣い、話しかけるのは休憩時間になるのを待ってくれたあの人は、ちゃんと親父さんとおかみさんに断りを入れてから、私を宿の馬車置きに置かれた遊牧商隊の馬車の中でも可愛らしい作りの幌馬車や、宿屋の屋根の上に連れ出しては、隣り合って座り、毎回のお土産に渡される花、そして時折見たこともない珍しいお土産と共に、遠い異国の話を聞かせてくれていたのだ。


『これはビ・オートプ国の熟練の組紐職人が作ったという飾り紐だ。揃いで買ってきたのだが……受け取ってくれるか?』


 そう言って穏やかに微笑む彼の長く白い髪を細かく編み込み、高いところで一つにまとめた髪にも同じ飾り紐がついていたのに気づいた時は、嬉しかった。


『ビ・オートプは美術品・工芸品に施される意匠すべてに意味がある。だからそれを作る職人を大切にし、育てるために教育機関がある。武具はもちろん、装飾品、絹織物、彫刻それらすべてに伝統がある。伝統と品質を保つために職人は格付けされ、最高位についた職人は国王より称号が与えられる。その紐も最高位の職人がいる工房で作られたものだ。』


 そして、組紐に施された意匠の意味を、ひとつずつ丁寧に教えてくれた。


 そこから、国、町、周辺諸国の付き合いや仕組みについても教えてくれた。


『こちらで言う王都には、いろんな商人街があり、市場が立ち、多くの人が行きかう。それから、ビ・オートプとトロピカナフシュの間にある砂漠のオアシスを統治する自治国家デゼルートも、温暖な気候でとてもいい国だ。俺たちの拠点となっている国だが、そこは様々な国から移民を受け入れている。その為、誰も髪や目、肌の色(見た目)に囚われることもなく、様々な特徴を持った人間が自由に往来を行きかい生活をしている。街中には様々な言語が飛び交い、様々な文化が入り混じって独自の文化を築いている。街並みも通りごとに特徴があって面白いな。一見、実力主義で厳しい国だと思われがちだが、努力を怠らない者には生きやすい場所だ。』


 そう言った彼は、私を見つめると、鮮やかな青い瞳を細めて笑った。


『多分だが……お前にとっても、ここよりずっと自由で息がしやすい場所だと思う。迎える準備が出来たら、一緒に帰ってくれないか?』


 胸が締め付けられるように苦しくなる。


『ネオン。』


 脳裏にかすめた声と笑顔。


(苦しい。)


 声に出来ない悲鳴を吐き出し、ぎゅっと眉間に力を入れ、それらを断ち切るために深呼吸を繰り返す。


(消えて、消えて。)


 そう願うのに、声は、面影は消えてくれない。


(お願い、もうやめて。)


 あの時は答えを返すことが出来なかったけれど、その言葉は本当に嬉しかった。


 だからこそ、食料や薬、妹たちの土産などを買って残った小銭を溜め、投げ売りされている他国の本と辞書を買って、彼のいない期間の休憩中に、朝に、晩に、たくさん勉強した。


『自国の本が高いので、投げ売りする本を買うしかなかったのです。』


 あの言葉はけして嘘ではない。しかしその言葉の奥には、お前にも息がしやすいだろうと言われたその国に彼と共に行くことを夢見ていた自分が確かにいたのだ。


 妹たちの教科書を読み自国を知り、その上で異国の本を読んで夢を見た。


 息のしやすい、様々な文化と言語の飛び交う新しい土地で、彼と共に街を歩く。


 そんな、手に届きそうだったのに儚く消えた淡い夢。


(忘れよう。忘れなければ……私は、もう、違う。)


 その思いを放り投げるように、ぐるんとシーツの中に潜って身を丸くした。


(もうこれ以上、彼の面影を思い出すものが……私の心を乱すものが、現れませんように。)


 そう願いながら、私は浅い眠りと覚醒を何度か繰り返しながら朝を迎えた。

お読みいただきありがとうございます。


年度末で少しいろいろと忙しく、間が空いてしまって申し訳ありません。

ネオンさんのグダグダ思い悩む一日、ようやく終わりました。そろそろ旦那様再登場です……


気合のもとになりますので、いいね、評価、ブックマーク等、していただけると大変に嬉しいです! 誤字脱報告も本当にありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なんか前回からネオンのパーンへの当たりが強いなと思ってたけど、そう言う理由… でもふつうに長男は別にいるし、どういうことなんだろう
面白くて一気読みしてしまいました。あと少しで追いついてしまいそうです…! ヒロインが領地改革に奮闘する姿がワクワクして、夢中で読んでいます。 恋愛面では、今のところ初恋の人のほうを応援したくなってしま…
や、私はこの人とも元サヤなしでお願いしたい。 人の意見は多様ですねぇ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ