104・シグリット女子爵の願い
「ラスボラに寄り添ってほしいなどと厚かましい事は申し上げません。ですが、末永く辺境伯夫人としてこの地にとどまっていただきたいと、そう思っております。」
その言葉と、青味の強い白い髪を綺麗にまとめたベラ隊長の後ろ頭を見ながら、私は相手に気づかれぬよう気を付けながら、ちいさく一つため息をついた。
(やれやれ……。主人の仲を取り持つ様に乞い縋ったあの使用人たちに叱りつけ、皆の無礼を詫びると言ってくださり、医療院の仕事にも素直に驚いたりお話を聞いてくれたりしたこの方も、結局は過保護な大人達と一緒か……。まぁ、仲良くしろと言わないだけましだけど……。)
ちらっと見てから、もう一つため息をつく。
旦那様を過剰に大切にする辺境伯領の人間たちの思考と行動パターンは、まるで金太郎飴の様だが、そんな中でも、もしかしたら、この方は旦那様の妄信的な親族・使用人より話の通じる方なのかもしれないと、いつの間にか期待をしていたらしい。
そんな自分の甘さに喝を入れるように、腹の力を入れ、背を伸ばした私は、騎士団医療院や修道院のバザーに来てくださるお客様や関係者向けの笑顔を、対貴族のそれに変えた。
「……なるほど。医療院の視察は建前で、本題はそちらでしたのね。」
そんなつもりはなかったのだが、自分でも驚くほど低くなってしまったその声に、顔を上げたベラ隊長は首を振った。
「いいえ、それは違います。」
「しかし、先ほどおっしゃったでしょう? 辺境伯夫人としてとどまってほしい、と。それは、旦那様とやり直せと同義なのでは?」
「いいえ。たしかにそのように申し上げましたが、それは決してラスボラのためにお願いしたのではありません。このモルファ辺境伯領に住まう領民と、この辺境伯騎士団で従事する騎士達のためにお願いしているのです。」
ベラ隊長の真摯なまなざしに、私は静かに言われた言葉を思い出す。
(……確かに、旦那様と仲良くしろ、とは言われなかったわ……。)
思い返して、そして考える。
私の悪い癖と言えばそうだが、旦那様との事を言われてしまうと、良く考えず脊髄反射で拒否反応を示してしまいがちだ。
結婚式当日の寝室での発言、現医療院での命を軽んじた発言と態度、そして鈴蘭祭の夜の、今までのやり取りをすっかり忘れたかのように手のひらを返したような身の毛もよだつ出来事で、思考も態度も『旦那様関連断固拒否!』と、頑なになりすぎていたようだと少しだけだが反省した私は、一度深呼吸をし、もう一度腹に力を入れると、ベラ隊長と真正面から視線を交わした。
「では、どういう意味合いをもつものでしょうか。願いを聞く、聞かないはともかく、王都からわざわざ辺境まで来てくださり、医療院のお話を熱心に聞いてくださったのです。私もお話を伺いますわ、シグリット女子爵殿。」
あくまでも冷静に、感情的にならないようにと自分に言い聞かせながら問うと、先ほどまでのように『ベラ隊長』ではなく『シグリット子爵』に変えられたことに気が付いた彼女は、表情を硬くしながらゆっくりと頭を下げた。
「辺境伯夫人の温情、ありがたくぞんじます。」
「頭をお上げください。」
「はい。」
再び頭を下げたベラ隊長は、顔をあげると真っ直ぐな視線を私に向けてきた。
「モルファ辺境伯夫人は私の先程の発言で、こちらに来た目的がご夫妻の仲を取り持つためだと思われたようですが、そうではございません。
今回、王都より急ぎ南方辺境伯騎士団へ戻りましたのは、南方辺境伯騎士団副団長、並びに各隊の隊長から南方辺境伯騎士団の騎士の扱いについて水面下で相談を受けていらっしゃった北方辺境伯騎士団、西方辺境伯騎士団の両団長より、現在の南方辺境伯騎士団の負傷者の扱いの実態を案じている、しかし他辺境伯騎士団から突然視察を申し込むよりは、身内である私の方が良いだろうから頼まれてくれるかと、命を受けたからでございます。」
「なるほど。以前、カルヴァ隊長やブルー隊長より他辺境伯騎士団の方へ相談をなさったとは伺っていましたが……皆様、南方辺境伯騎士団の騎士様達の身を案じていらっしゃったのですね。」
それには私は納得して頷いた。
北方、西方辺境伯騎士団とは同じく国境を守る者同士。
公爵家の軟禁教育の際、嫁ぐ先の家の事をしっかりと知るべきであると習った時の事を思い出す。
そもそも、北方、西方、南方の三大辺境伯家は、元は開国史で初代国王陛下と名を連ねる、一人の英雄が祖であるとされている。
戦旗を翻して戦場を進み、初代国王陛下に玉座をもたらした英雄は、国を守るため、子らと共に国境の領地に別れて立ち、各辺境伯として長くトロピカナフシュ国を魔獣や敵国から守り抜いた。
当主の下に集った騎士達と共に国を守るため剣に命を捧げ、戦場を生き抜くため、己の剣術と魔術を独自に鍛錬し、研鑽を重ねて守り続けていることに誇りを持つ、政を担う三大公爵家とは違った意味で替えのきかない特別な三家なのだ。
始祖から数えれば、すでに血のつながりは皆無であるはずの三家ではあるが、平和になった世の中で、安全な王都で王家と王宮、貴族を守る王家直属の王宮騎士・近衛騎士団とは一線を画し、国境を守るために日ごろから連携し、いついかなる場合であっても戦が起きた時には後方支援や援軍を送れるよう、常に連携を取り、協力し合い、私が医療隊の隊長となった際にはそのような横のつながりと共に、医療隊を正式に結成するための契約書自体が、両騎士団の医療隊長から意見を貰って作られたと聞いたのを思い出す。
「それで、王都からわざわざシグリット女子爵殿が遣わされたのですね。」
「その通りです。そしてその目的は達成されました。先ほど拝見した医療院は以前とは比べ物になりません。雲泥の差です。騎士団の医療班はもう心配することはないと、私は報告させていただきます。」
「シグリット女子爵殿のお眼鏡にかなった、という事ですね。」
「その様な不遜な物言いは決していたしません。奥様の献身が実を結んだ結果だと。そしてそれには、奥様が大変に辛い思いをし、御苦労なさったと報告させていただきます……。」
そこで一呼吸をおいたベラ隊長は、一度目を伏せ、それから静かに私に言った。
「ラスボラが貴女様にどのような言葉を突き付けたのか、屋敷の家令、侍女長を筆頭に様々な話を聞きました。それらは彼らの主観であり、事実とは食い違う点があると加味しても、のちに結ばれたとされる契約の内容を聞けば、実際の物言いがどのようなものかは容易に想像が出来ます。意に添わぬ政略で嫁いでこられた貴女に対し、それがどれほどお辛かったか、心中は察して余りある許せない行為です。それゆえ、ネオン隊長……いえ、辺境伯夫人も、ご自身がこの地から去られた後の事も考えて行動していらっしゃるのだと思いました。ですが、ですがどうか! この辺境と、南方辺境伯騎士団を、見捨てないでいただきたいのです。」
その言葉には、私は首を振る。
「見捨てる、などと。私は所詮、ただの公爵家の世間知らずの小娘です。先ほど申し上げた通り、負傷兵への扱いを非情と思い、怒りから旦那様を遣りこめた産物の医療院で、その他もただの令嬢の気まぐれ。自分で始めた物を投げ出すわけにもいかず、どうにかしなければ、と、やみくもにやった結果、たまたますべてがうまくいっただけです。」
「いいえ、やみくも、とは思えません。」
ひとつ、深呼吸をしたベラ隊長は、先程記録官がつけて置いていった書類を手に取ると、パラパラとさかのぼり始めた。
「お教えいただいた医療院の運営の仕組み、教会のバザーの事……確かに最初は同情心から始められたものかもしれません。しかし、チェリーバやシノ叔父様から、騎士団における奥様の采配を伺いました。医療院のみならず、騎士団厨房、輸送運搬に関わる事、そしてラスボラの騎士団長就任から五年にわたって行われてきた非道ゆえに騎士団と領民の間にでき始めていた軋轢を埋めるために始められたリ・アクアウム、ひいては辺境伯領の未来を考えて始められた孤児の救済に、領民の識字率向上のための学舎……それらがいつか教会を中心に独自に運営できるための組織の運営。
加えて、騎士団内で実験的に行われている魔物を使った農地改革。どれも大変よく考えられております。これらすべてが偶然と言えるでしょうか? おそらく、そう言える者はおりません。すべてはネオン隊長の才覚によるものです。」
「買い被りすぎです。実際、医療院を立ち上げ、バザーは始めましたが私だけの力で行ったわけではありません。医療院は医療隊員の意見を取り入れられたものが多くありますし、クルス先生の研究の成果で革新的に進歩した治療、設備です。教会のバザーもそうです。元は騎士団の神父様が手伝ってくださると言ってくださった言葉に、ではバザーを、と最初の販売物と販売の方法、そして資金をお渡ししただけです。皆様がそこから様々な意見を出してくださり、ドンティス隊長が教会に対し運営や会計の基礎を教えてくださった。すべて、私は発案のみ。そこからは、皆が話し合ってより良い方法へ導いてくれただけです。 私の功ではありません。」
「その発案と、皆をけん引する真摯なお姿こそが、ネオン隊長の最大の功績だと思います。」
ベラ隊長は背筋を伸ばす。
「ラスボラには、それがありません。幼い頃の彼は、泣き虫で引っ込み思案、剣も苦手で、人と打ち合うなど出来ない、図書館で一人本を読んでいる様な男でした。それを外に連れ出し、見識を広め、遊びや剣技を交え他者と触れ合う楽しさを教え、剣の才を見出し、支えてこられたのがフィデラ様です。彼は幼い頃からフィデラ様の背中だけを見て生きてきました。そして、それを失った時、自分の歩むべき道を見失い、戸惑い、己を責め、気付いた時にはあぁなっていた。本来であれば支えるべき前辺境伯である父君や周囲の者達、共に育った我らが途中で道をたがえぬように導くべきだったのでしょうが……。」
ふっと、ベラ隊長は顔を上げた。
「ネオン隊長は、前辺境伯団長がその座をラスボラに譲り、蟄居なさった理由をご存じですか?」
「……蟄居?」
その言葉に、首を傾げる。
(蟄居って、自宅軟禁の事よね? それを自分で……という事?)
「いいえ、存じ上げません。ご存命であることは存じ上げていましたが、お会いしたこともございません。」
それには、やはり、と小さく項垂れるようにベラ隊長は頭を下げた。
「そうですか……。いえ。もし、この件が気になられるようでしたら、リ・アクアウムのモルファ辺境伯別邸をお訪ねください。そこに、当時本宅の家令をしていた者がおります。嫁がれた奥様になら、全てを話してくれるでしょう。」
何とも面倒くさいことだと、私は首を傾げた。
「……ここまでお話をしてくださったのでしたら、このままベラ隊長から、お聞かせくださってもよろしいのではないでしょうか。」
正直興味はないが、ここまで聞かせたのならば教えてくれてもいいはずだと私は彼女に問いかけたが、彼女はゆっくりと首を振った。
「私も、はっきりとした話は聞かされていないのです。この話は、あの別邸と共に封じられたものでございます。」
「……そう、ですか。」
一つ息をついた私は、静かに目の前のベラ隊長に告げた。
「お教えくださってありがとうございます。シグリット女子爵殿のお願いに対しては、現時点で首を縦に振ることも横に振る事も、明確に御返答することも出来ませんが、心の中には留め置いておきますわ。」
それに対し、ベラ隊長は僅かながらに口元を緩め、しっかりと頭を下げた。
「いいえ。辺境伯夫人が騎士団の騎士達のために心を砕いてくださったこと、私からの、ご不快でしかない話を聞いてくださったこと、心に留め置くと言ってくださったことを。心から感謝申し上げます。」
あくまで真摯である彼女に頭をあげてもらうと、私は新しく入れたお茶を勧めた。
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