不死身と結
ページを捲る音が鳴り止まない。
まさに没頭というやつだ、全く辞書から離れる様子がない。俺が先に小説を読み終えても、向こうは辞書を読んでいて飽きないようだった。
俺の方が読書に飽きてしまって、しばらく寝転がっていた体を伸ばすように起きる。
没頭しているとはいえ、俺の動きに反応するのは相変わらず。
「俺のことは、気にしなくていいのに」
苦笑いをしてそう言ったけど、彼は俺の言葉に構わずこちらを見ている。俺がどこかに行こうとしたりするのは、放っておけないんだろう。
「どう? 辞書面白い?」
そう尋ねると彼は少し俯いたが、再びこちらを見て上げて返してくれた。
「……読んでいて、飽きない」
「そっか。言葉選びの手助けになって、結構楽しいでしょ?」
俺の言葉に、彼はコクリと頷いた。
なんとなく俺もそうだったから、その感覚がわかる。言葉を知れば知るほどに、次に繋がる言葉を見つけられるのが辞書の良さだ。
俺も初めて辞書を手にした時はそうだった。
言葉を説明する言葉というのは、有り難いもので。自分が何を思っているのか、自分が何を感じているのか、それを伝えるのは言葉なのだ。意思疎通をする時に必要な物でもある、それを教えてくれる人がいなかった俺にとって辞書は……言葉を教えてくれる親のようなものだ。
親。
その言葉を思いついて、少しため息を吐いた。
自分の親はどんな人だったか、俺は知らない。正確にはこの体質を疎まれていたことは覚えている、それだけしか覚えてない。
気持ち悪いと吐き捨てられて、存在を拒まれたことを思い出せるが。その経緯に至るまでを覚えていない。もしかしたら、俺自体が悪いことをしてしまって……そう言われても仕方ないことがあったのかもしれない。
愛された記憶がない自分にとって、親という言葉は苦手なものだった。
彼はどうなのだろう。そこが気になってしまって、俺は彼に尋ねた。
「ねぇ、親は? 兄弟とか」
「……オヤ?」
彼にはわからない言葉だったようで机に向き直ると、辞書の索引からその言葉を探していた。しばらくして見つけたのか、彼の指がページの上で止まった。
「……親はいないと思う。知らない」
言葉の意味は理解できるのだろうが。戸惑った様子から、本当に親の顔すら知らないのだろう。次に兄弟という言葉を調べて、意味を読んでから続けて話してくれた。
「兄弟は……わからない。居るかもしれない」
「居るかもっていうのは?」
「……年齢が、近い人はいる。でも、よくわからない」
言語化するには難しい関係なのだろうか、彼の背景は依然としてわからないままだが。俺のように複雑で、淡白なものなのかもしれない。
死んだら終わり。泣いてくれる人も、心配してくれる人もいないような……そんな関係のまま、ずっと過ごしているのかもしれない。
「そう、そっか」
それ以上、話を広げることも探ることも止めた。
きっとこれ以上は、まだ向き合うのは難しいだろう。俺も未だに母親との記憶に戸惑い、悩むくらいだ。
親という言葉も、兄弟という言葉も。今、知った彼には難しい。
彼を気遣っていたところで、彼が口を開いた。
「……不死身?」
「え?」
「不死身……火傷も残ってなかった」
どうやら、俺の体質について尋ねたかったようだ。彼はそっと辞書のページを開いて単語を指す。俺はその言葉に目をやった。
【不死身】
不死、死なない体。または折れない精神のこと。
この場合は死なない体の方の意味だろう。彼にそう問われたので、特に隠すこともなく俺は話した。
「そうだね、俺は不死身なんだと思うよ」
こんなに他人事なのは、求めて得た力ではないからだ。
どうすれば死ねるのか、試しても試してもその答えを得ることはできなかった。
絶望しても終わらせることもできない命に、いつの間にか他人事になってしまった。
彼に伝えると、戸惑いながら彼は返した。
「じゃあ、私に与えられた命令は。どうすればいい……?」
「だから、俺のことは守らなくていいよ。気にしなくていい。どちらかといえば……俺は君の命の方が心配。俺のことは庇わなくていい」
不死身の体を守る必要はない、それを伝えると彼は少し悩んでいた。困っているようだ。
命令は絶対だが、俺の体は不死身だから。どうしていいか、わからなくなったのかもしれない。
『ふふ、良いじゃないですか。もう既に彼は【貴方を守る】という命令を死んでも守りますよ』
上官の言葉を思い出して、俺はため息を吐いた。困った彼に落ち着けるように話し出す。
「俺は死なないんだ。だから、気にしなくていいから。ね?」
「……難しい」
「うーん、そうかな?」
難しいと言われて俺も困る。
それでも、まぁ……この子が無茶しそうなら、俺が止めればいいか。そんな結論に至った。
彼にはまだ思うことがあったようで、小さく声を投げかけてきた。
「……どうして、敵を殺さない?」
「それは」
そこも気になっていたのかと思いながら、俺は少しだけ俯いて言葉を返した。
「俺は、誰かの人生のオチになりたくないだけだよ」
自分が不死身だと気がついた時から、自分の手で誰かを殺す度に『死んだ人間の最後の光景』を想像してしまう。
痛みと苦しみに歪んだ視界の中で、無表情の俺が見下ろす。それが最後の光景、それがその人の物語の幕引き。
俺にはない、命の終わり。
俺にはない、起承転結の、結。
それが羨ましいのと同時に。誰かの人生の終わりに、自分がなりたくなかった。
「それだけだよ、別に俺は死ねないし。相手を殺す必要もないからね」
「……」
「納得いかない?」
わかりやすく説明したつもりなのだが、彼は無表情のまま黙っていた。
「……わからない」
そう正直に言ってくれた方が、まぁ有り難いのだけれど。これ以上の言語化は俺には難しいと思い、『そっか』と小さく返事をするだけにした。