7 四年が過ぎて
市立レミー幼年学校に通う子供達の日々は、思ったよりも平和に過ぎた。双子は元気に手を繋いで登校しているし、宿題もアレナフィルがアレンルードを監督している。
学校からもアレナフィルに接触しようとする不審者情報は流れてこなかった。せいぜい治安警備隊で対応できる小児相手の痴漢出没情報ぐらいだ。
痴漢というのは単独犯だと思っていたが、どうやら同類同士、縄張りが重なる際に変なネットワークが構築されるらしい。そんな痴漢共の非合法地下運動組織では、どこの地域のどの時間帯が狙い目だとか、泣き寝入りする確率が高い特徴だとか、情報交換で盛り上がっているとか。そいつら抹消されていいだろ、ホント。
(体も心も損ないながら戦地で斃れたサルートス軍が守ろうとしたのは、決して痴漢行為に励む奴らじゃない)
そんな私の中に生まれた感情を人は正義と呼ぶのかもしれない。
程なくして、この近辺では泥棒や空き巣やひったくりだけではなく、「体が当たったたけ」な言い逃れ痴漢であろうと、つきまとい行為に励むタイプであろうと問答無用で戦場に送られるという情報が流れた。
娘が三人いて目の中に入れても痛くない程に可愛がっているという鬼軍曹に、そいつらの痴漢行為特集と共に指導を押しつけておいたから十代の少女に甘い者同士意気投合できるだろう。善行した後のコーヒーはとても薫り高くすっきりとした味わいだった。
おかげでうちの双子も安心安全な日々を送っている。だからこそ、誰も接触していないことも分かるのだ。
(催眠が行われていた場合、ここまで放置したらもう効果がなくなっていると思うんだが)
何らかの暗示をかけられている様子もなく、アレナフィルはお子様生活に染まっている。
そして子爵となってしまった私に対する縁談が実家にはかなり持ちこまれ、父はその対応が煩わしくなったらしい。私とリンデリーナの肖像画を廊下の目立つ場所に移動させ、タイトルに私の求婚時の言葉をそのまま持ってきた。
『可愛らしい人。君に一目惚れしました。この薔薇のように燃えている私の心を受け取り、どうか私の妻になってください』 ウェスギニー・ガイアロス・フェリルド子爵
『私も初めてお見かけした時からあなたのことをお慕いしておりました。とても嬉しくて夢のようです。喜んでお受けいたします』 ウェスギニー・インドウェイ・リンデリーナ子爵夫人
レミジェスがそう教えてくれたのだが、「子供もまだ小さいのだし、後妻が必要でしょう。実はうちの娘が・・・」といった切り口から再婚話を持ちこもうとしてきた人達は、あの絵の時点で心が折れるらしい。
父のことだ。恐らくアレンルードであればレミジェスとうまくやっていけるが、私の後妻が産む子供とかになると面倒だと考えたのだろう。もしくは私とリンデリーナの出会いを聞いて、理解を放棄しただけかもしれない。
「おかげで母がうるさく喚くようになってしまいましたけどね。自分にもあんなプロポーズをしてほしかったと」
「今からやればいいんじゃないか?」
「だけどそうなると母上の肖像画も必要でしょう? まさか愛人上がりの後妻との肖像画を描かせて、正妻の肖像画を描かせないわけにはいきません」
「母上は気になさらないだろうが・・・。じゃあ、若い頃の父上と母上、子供の頃の私とお前、四人の絵を一枚描かせて、それより少し年を重ねた父上とマリアンローゼ殿二人の絵を描かせればいい」
夫妻の肖像画ならばどこにでもある。しかしタイトルに愛を告げる言葉を持ってきた肖像画を見てしまったなら自分もと願ってしまうのだろう。
愛情は過剰なぐらいに伝えないと、相手の心に届かないものだ。
「兄上はそれでいいのですか?」
「問題があるのか? 四人の方は、お前がいいフォトを選べばいい」
血の繋がりだけが家族を構築するわけではない。そして義母マリアンローゼがロマンチックな愛の言葉に価値を見出しても、私の母アストリッドがそんなものに価値を見出さないことを私は知っていた。
「兄上は母上に対して薄情すぎます」
「お前が考えすぎなんだ」
「兄上が考えていなさすぎなんです。ルードが髪を短くしたいと言ったのも、兄上、好きにしろと仰ったそうじゃありませんか」
「それぐらい好きにさせればいいだろう」
「あの子はっ、兄上の子なんですよっ」
当たり前だ。浮気された覚えはない。
勿論、私とて息子が国立サルートス幼年学校に通っていたならば髪を短くするのはやめておきなさいと言っただろう。だけど息子が通っているのは市立の幼年学校だ。
周囲の男の子達が髪を短くしているのでアレンルードもそうしたがったのだが、レミジェスの説得によってそれは挫折した。アレンルードは横と後ろの髪を肩甲骨ぐらいまで伸ばし、一つに結んでいる。
女の子のアレナフィルはもっと伸ばした方がいいとレミジェスが勧めたものの、二人は入れ替わりっこをしたいらしくて髪の長さも同じにしてばかりだ。
「全く兄上に任せてたらフィルまで平民の男の子のように短くなるところでしたよ」
「お前は妻か」
「あ、そうだ。兄上、ルードに片手剣術を習わせようと思うんですが、流派のご希望はありますか?」
「野生動物が師匠でなけりゃ何でもいい」
「はい。・・・そろそろ着替え終わったと思うので二人を裏庭で遊ばせてきますね」
「ああ」
レミジェスは軍を辞め、ウェスギニー子爵家の仕事に専念するようになっていた。子爵の位を継いだところで私が子爵としての仕事をすることはないと、嫌でも実感したのだろう。
(私ではいつ死ぬかも分からないから、もうルード達を守る為に自分がウェスギニーを維持すると決意しただけかもな)
父は妻であるマリアンローゼをあまり刺激してはまずいと思うのか、一ヶ月に一度ぐらいしかやってこないが、レミジェスはふらりとやってきて、子供達の顔を見ていく。泊まっていくこともある。
学生時代に様々なスポーツをこなしていたレミジェスは、アレンルードにとって何でもできる叔父として尊敬をその一身に集めていた。アレナフィルも身軽な子なので、レミジェスも教え甲斐があるようだ。
どれ程に隙を見せてもレミジェスは私を尊重し続けた。言葉にしない思惑を私達は見通し合っているのかもしれない。
「カーウーント、しまぁーすっ。さん、にぃ、いちっ」
「いっくぜーっ」
「ほら来いっ」
三人が裏庭で遊んでいる様子は、どこか懐かしい光景でもあった。レミジェスを相手に、子供達二人がボールを蹴りながら一生懸命攻めているようだ。
やってきた私に気づき、レミジェスが手を挙げる。
「兄上、一緒にやりませんか?」
「えっ、父上もできるの? だけどおじ上ほどじゃないよねっ」
「パピーッ。じゃあパピー、わたしたちのなかまっ。レンにいさまにも、かてるっ?」
「まずは二人とも一休みしなさい。レミジェスは色々な大会にも出てたからな。もっともっと練習しないと二人とも勝てないぞ。少し休んで元気を取り戻したら、味方してやろう」
どうやら子供達はレミジェスをなかなか抜けなくて悔しかったらしい。
私の持ってきたピッチャーを受け取ったレミジェスは、薄く作ったレモネードをカップに注いで二人に渡した。
「ありがとう、ジェスにいさま」
「ありがとうございます、おじ上」
「あの頃は、兄上は全く相手をしてくれませんでしたけどね」
「私は同じグラウンドに立つより、女の子達に囲まれてわたわたしている弟を眺めている方が楽しかったのさ。レミジェスは強かったから、よその学校にもファンがいたんだ」
地面に直接座って一気にごくごく飲んでしまう二人に微笑し、レミジェスもカップを口に運ぶ。
「そうなんだ? やっぱりおじ上、すごいやっ」
「ジェスにいさま、やっぱり、かっこよかった」
「二人がもう少し大きくなったら、ラケットを買ってあげよう。あっちの家にはコートもあるから、教えてもらえばいい。レミジェスはとても強くて、みんなが歓声をあげて応援していたものさ。二人にぴったりなラケットを選んでくれる」
「すごいっ。ほかにもおじ上、できるのっ」
「ジェスにいさまが、ばんのーすぎる」
二人を軽々とあしらってみせるレミジェスが、まだまだ違うスポーツを得意にしていると知って、二人の尊敬度が急上昇中だ。
それなのにどうして恋人との仲が続かないのか。いや、考えるまい。
「文武両道って奴だな。レミジェスはとても人気があったんだぞ」
「・・・知ったかぶりで嘘言わないでください。練習試合だって一度も見に来たことないくせに」
「お前が知らないだけさ。図書室の窓際は死角で、声もよく反響して聞こえたし、誰にも邪魔されずに見えたんだ。だから、
『花壇の手入れで切った花ですけど、よかったらもらってくれませんか』
とか言って、青紫の花束を渡した女子生徒がお前の練習が終わるのをずっとドキドキしながら待っていたのも知ってる。・・・それに私が一緒だったら、お前は私に気を遣って負けたりしそうじゃないか?」
「そんなことしませんよ」
少し頬を赤らめながら、レミジェスが赤い瞳を地面に逸らした。
「父上、なんでおはなをわたすのに、ドキドキするの?」
「その女の子はレミジェスが好きだったのさ、ルード。お前もいつかそんな花束をもらえるといいな」
レミジェスは色々な女の子からちょくちょくもらう花束の一つだと思っていただろう。
だけど私は知っていた。彼女がずっと切ない瞳でレミジェスを見ていたことを。そしてレミジェスが全く彼女を見ていなかったことを。
――― この恋、わが心のみぞ知る。
自分の恋心を昇華する為だけにあの花を育て、無造作に見せかけた花束にしてレミジェスに渡した彼女は、二度とレミジェスを見ることのできるあの場所には行かなかった。
「ジェスにいさま。まさか、おんなのこ、とっかえひっかえ・・・?」
「違うよ。その女の子は婚約者がいたのさ。レミジェスに自分が育てた花を渡して、その子はその気持ちに区切りをつけたんだろう」
「にいさま、おんななかせ・・・?」
「変な言葉をどこで覚えてきたんだ、フィル。大体、私でそれなら、兄上だってやっていたらどんなに・・・。あれ? 図書室の窓? ・・・いや、あそこに水道はありませんでしたよね?」
「なかったよ。当たり前だろう」
「そう、・・・ですよね」
変な顔になっているのは、あまりにも遠すぎる記憶を振り返っているからか。
何かと差し入れのお菓子や花束をもらっていたレミジェスだ。本当にあったことなのか、私が本当にそんなことを見ていたのかも、全てにおいて真偽不明状態だろう。
ぽんっと弟の肩を軽く叩き、私は子供達に向き直った。
「それより二人とも作戦を考えなきゃな。レミジェスは強いぞ。三人で力を合わせても、勝つのは難しい。まだ見せてないだけで、レミジェス、空中で回転蹴りすらできるからな」
「え? ちょっと待ってください、兄上。まさか3対1はひどいでしょう。兄上がそっちに行くなら、ルードかフィルのどっちかは私に来てくれないと」
「じゃあ、フィルいっていいよ。おじ上、つよいからいかせてあげる」
アレンルードが兄らしくカッコつけている。そこで感動してくれる妹を期待したのか。
「はっ、・・・ジェスにいさま、これはパピーのわなっ。すでに、にいさまは、どーよーしているっ。しっかりするっ、ジェスにいさまっ。きずはっ、あさいっ」
「いや、そもそも傷でも何でもないし」
自分のシャツを握り締めて力づけようとするアレナフィルにレミジェスは当惑中だ。アレンルードも変な顔になっている。
しかし始めてしまえば、子供達を楽しく動かしてやろうという私の意図を察し、レミジェスは上手に合わせてきた。
「ほら、フィルッ、右だよっ」
「うんっ」
「甘いな、フィル」
「パピーのばかぁっ」
「父上っ、すごぉいっ、かたあしだちっ」
「ルードッ、そこだっ、走れっ」
「はいっ」
「ざーんねんっ」
「おじ上、ひどいっ」
「きゃーっ、ジェスにいさまっ、かっこいいっ」
勝敗を決める為ではなく、大きなデモンストレーション的なボール運びで、子供達をあちこちへと走らせながら、その日は夕暮れまで四人で遊んだ。
レミジェスにとって、双子は我が子のように愛しい存在だと知っていたから。
その時間を私は否定したくなかった。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
私の帰宅が遅いせいだろう。
いつしか子供達は私の寝室ではなく自分達の部屋で眠るようになっていた。大抵はアレンルードの部屋でアレナフィルが一緒に眠っている。
ローグスロッドとエイルマーサの泊まりこむ部屋も用意した。だから私の帰りが遅いようだと思った日は二人が泊まっていってくれる。つまり平日はほとんど泊まっていくわけだ。
私を抜かして四人家族が出来上がっている。
(だから軍は離婚割合が高い。不在の間に妻が妊娠したケースも珍しくない)
ウェスギニー子爵邸から一ヶ月毎、つまり36日間でメンバー交代といった形で二人ずつメイドが寄越されているのだが、誰にでも懐くアレンルードと違い、アレナフィルは使用人を家事仕事をしてくれる人だと割り切っているところがあった。
(やはり内面の年が近いとうまくいかないのかもしれんな。しかし今からここまで自立しようとして、どこへ向かう気なんだ? 子供っぽい話し方と、バーレンに教えられた理屈っぽい話し方と、もう本人も訳が分かってないようだが、子供だからとあしらわれることに実はムカムカしているのか?)
アレナフィルも、家族には甘えた話し方の方がいいみたいだと諦めている様子だ。ローグスロッドとエイルマーサ夫妻もだいぶ年上だから、しょうがないから甘えてあげようという気持ちなのか。
そんなアレナフィルも、使用人にまで子供っぽく甘える気にはならないらしい。
いつしか自分のことは自分でやってみたいからと言い出し、アレナフィルは自分の部屋を自分で掃除するようになった。洗濯する物は自分で洗濯室へ運び、リネン室から替えの物を自分の部屋に運んでセットするのだ。
ローグスロッドは、アレナフィルもバーレミアスという生活無能力者を見てしまったことで危機意識を抱いたのだろうと変な納得をしていた。
エイルマーサもアレナフィルの自立心に最初は驚いていたが、平民が通う学校に行っている以上は自分でやる癖をつけた方がよいと思ったようで、今ではアレナフィルと楽しそうに菓子を作ったりしている。
年の差は大きくても、二人はまるで本当の親子のような笑顔で日々を楽しんでいた。
――― 彼女は善人だ。そしてお前達家族を愛している。あの子はみんなが大好きなんだ。
バーレミアスに言われるまでもなかった。
知っている。どれだけ私が、アレナフィルを見てきたことか。
子供らしい我が儘を言うこともなく、アレンルードがこっそり家を抜け出した時でもちゃんと連れ帰って服を着替えさせ、少し元気がない時には風邪のようだとエイルマーサに耳打ちし、アレナフィルはいつも双子の兄を守ってきた。
たまに私が早く帰宅した時など、夕食後にひょいっと扉の向こうからアレナフィルは顔を覗かせる。
まるで何かを相談したいかのように。
「あ、あのね、パピー」
「なんだい、フィル? 欲しい物でもあるのかな? それとも出かけたい所でもあるのかい? 一人は危ないから、私や父上やレミジェス、ローグさんやマーサ姉さんとしか出かけちゃ駄目だよ」
ひょいっと抱き上げ、私と同じ色の前髪を手で梳いてから額にキスすれば、アレナフィルは何かを言いかけて黙り、俯いては顔を上げて笑う。
(自信を持てないのだろうか。こうして態度で愛していると、どんなに伝えたところで。・・・そうだな。自分の小さな子供が、いきなり大人の意識を持ち始めたら、拒絶する親の方が多いだろう。気味が悪いと遠ざける親がほとんどだ)
無理して子供らしい笑顔を作るそれは、異邦人ゆえの孤独を隠す為か。
バーレミアスに打ち明けたように私にも話しておきたいと思いながら、アレナフィルは土壇場で言葉を呑みこむ。
それを言ってしまえば、私達は親子としてこんな風に触れ合えなくなるからだ。
「ううん。パピーにね、会いたかったの。ほしいものは、フィル、もういっぱいもってるの」
「私も会いたかったよ。いつもお前達の寝顔しか見られなかったからね」
ぎゅっと抱きついてくる8才のアレナフィルは誰なのだろう。
私の小さな可愛いアレナフィルは4才で時を止め、違う内面を持ったアレナフィルの思い出だけが積もり重なっていく。
泣き虫でいつも私のシャツをぐしゃぐしゃにしていたアレナフィルではなく、怒ったり笑ったり驚いたりと忙しいアレナフィルの思い出だけが・・・。
「だけどパピー。ルード、またヘンなの、あつめはじめたんだよっ」
「大きな蚯蚓は諦めたんじゃなかったかな? あれより変なのはないだろう?」
話しかけた以上は何かを言わねばならないと思ったのか。
いきなりアレナフィルがそんなことをぷんぷんとしながら言い出した。
「こんど、トカゲのシッポ。くらいところとか、かべとか、こうえんとかで、おいかけてるっ」
「・・・やれやれ。あの子の部屋はとんでもないことになっていそうだな」
「そうなの。なのにルード、フィルを、ベッドにつれてく。まくらのしたに、しっぽ、かくしてるのにっ。フィルがだめっていっても、ルード、だいじょうぶっていうのっ」
「それは私も嫌だ。しょうがない。ルードの部屋を一斉大掃除しないといけないな」
「うんっ」
私達の体は紛れもなく親子だ。私達の心は完全な他人同士であっても。
私は娘を愛する父親の演技をして、彼女は父を大好きな娘の演技をしている。
(私と君はどんな関係なのだろう。君にとっての人生はやはり前世とやらのファレンディア人なのか)
好意がないわけじゃない。だけど踏み出せない理由がある。互いの伸ばしあう気持ちの間にあるのは4才のアレナフィルだ。
泣きじゃくる小さなアレナフィルを挟んで、私と彼女は向かい合っている。
お互いに言いかけた言葉を呑みこんで、少しでも優しい親子の時間を続けようとして。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
アレンルードの収集物に悲鳴をあげるエイルマーサとアレナフィルを救済する為、私は裏庭に小さな物置小屋を設置した。
「やったねっ。父上っ、ここ、ボク専用っ?」
「ああ。お前だけの小屋だ。どんな生き物も部屋に持ち込むのは許さんが、ここはお前が好きにしていい。鍵はコレだ。なくさないようにな」
「うんっ」
アレンルードは自分だけの秘密基地に満足そうだ。
自慢の虫かごや容器に入った土を見せられたレミジェスも苦笑していた。どうやらアレンルードはとっくに地面の中の幼虫が成虫となって飛んでいったことに気づいていないらしい。
自慢のコレクションは全てそこに置くように言いつければ、アレンルードも自分専用の鍵に目を輝かせ、幸せそうに了解した。
(あれだけ大きな鍵だ。なくしてもすぐ見つかるだろうと思ってたら、一週間の内に何度なくしてるんだろうな。カラフルな樹脂製にしておいてよかった)
アレナフィルも安心して今日も仲良くアレンルードと遊んでいる。そして私はアレナフィルの言いなりだった。
せっかくの休日だが存在感のない父親とは哀れなもので、子供達の要望に逆らえない。
(自然な寝姿とはどういうものをさすんだ。休日の父親は家族が起こしたら可哀想だという寝顔で寝ているものだって言われてもなぁ。起こしてもらいたくないなら鍵を掛けて寝ていればいいだけだろうに)
窓や扉を開け放した寝室で服を着たまま、私は転寝をしていた。
午睡に相応しく風に揺れるカーテンが室内を柔らかく照らし、ベッドの上にある幾つかのクッションや、斜めに軽くかけられた掛布団が、私がそのつもりもなく寝てしまったのだと示している。
そこへ、誰かが入ってきた。
私の寝室は床張りで、軽く小さなカツ、カツといった靴音が響く。その足音に気づいてびくっと緊張した体があった。
(スカートの裾をさばく布音。メイドか。・・・持っていたモップを壁に立てかけた音)
気配を消そうとしているのか、その布ずれや物音はとても小さい。だから息を殺している子は人違いだと気づかないのだろう。今にでも見つかるのではないかと動きを止めて、吐息に緊張を隠している。
メイドは私の近くにまで近寄ってきて、眠っている私の顔を覗きこんだ。
そして囁くような、とても小さな声。
「好きです。ずっとあなたのことをお慕いしていました」
キスされようとした時、クッションや掛布団に隠れて耳を澄ませていた子がその言葉を拾ってしまったらしい。
そして私は寝息を立てているフリをしているところだった。
「え?」
がばっと掛布団の下からアレナフィルが起き上がる。
まさか私以外にも人がいるとは思わなかったのだろう。メイドとアレナフィルが気まずくお互いの顔を見つめ合った。
私はアレナフィルに頼まれて寝たふりをしていたのである。アレナフィルを隠す為に。
「お、・・・お嬢様」
「えっと・・・」
これは一体どういうシーンなのだろう。
そんなことを思いながら私は目を開けて上半身を起こした。
「だ、旦那様」
そのメイドの眼差しにあったのは、何かを懇願するような気配だっただろうか。
ずっと慕っていたと言うが、うちに派遣されてきて6日目じゃなかったか? 若い子は性急すぎておじさんにはついていけない。
「私は雇用している者と恋愛する気はない。妻子持ちの男などより、いい青年を見つけたまえ。・・・ほら、フィル。ちゃんと隠れていないとルードに見つかってしまうよ」
「う、・・・うん」
メイドはきゅっと唇を噛むと、
「失礼しますっ」
と、モップを掴んで寝室を出ていった。
その際、一瞬だがアレナフィルを睨みつけていたのが気にかかる。
アレンルードを預けることはあってもアレナフィルは私が同行する時でない限りウェスギニー子爵邸には行かせていなかった。
アレナフィルをこの家から出さない私の行動は、愛する妻によく似た娘を溺愛すればこそだとウェスギニー子爵邸では捉えられている。
(あのメイド、アレナフィルがいなければ告白は成功していたと、そんな思考になってないだろうな)
私はちらっとアレナフィルの表情を確認した。
私が目を開ける前の僅かなひと時、彼女達は何をお互いの顔に見てしまったのか。
「仕方ない。明日から違うメイドにしてもらうか」
「だ、・・・だけど、パピー」
「ん? ああ、驚いたね、フィル。ほら、見つかってしまうよ。・・・まあ、ルードはレミジェスと遊んでるからいいがね」
「へ? え? ジェスにいさま? なんで?」
「さっき、外からルードの声が聞こえた。どうやらフィルが見つからないから、やってきたレミジェスと遊び始めたようだ。レミジェスがラケットを持ってきたんだろう。もぐっているフィルがあまりにも可愛いから、私もいつ教えようかと思っていたんだが、びっくりしちゃったね、フィル」
私は何でもないことのように終わらせようとしたが、アレナフィルの表情はまだ強張ったままだった。
まるで恐ろしい事実に気づいたかのように、心を停止させている。
(レミジェスにあのメイドを連れ帰ってもらうか)
私のことをかっこいいとか素敵とか言っている割に、アレナフィルはかなりショックを受けてしまったようだ。
感情が混乱しているらしい。
「パ、パピー。・・・えと、あの、・・・こいびと、とか、・・・つくったり、とか・・・」
「何を言ってるんだか。作るも何も、私にはもう愛する妻も、可愛い恋人もいるんだが?」
「え・・・?」
私はアレナフィルの背中に両手を回して抱き寄せると、仰向けに上半身を倒した。小さな体が、私の上で寝そべる姿勢になる。
どうすれば彼女は自分を肯定できるのだろう。
本当の自分は大人の女性だと認識しながら、彼女は外見に引き摺られていた。人は子供の姿になれば、子供時代をやり直すものなのか。
今も彼女は、自分は生まれ変わったのだろうと思いながら、それでも自信を持てずに消えてしまったアレナフィルを自分の中に捜して苦しんでいる。
私も認めなくてはならないのだろう。
あの時、リンデリーナと共に小さな私のアレナフィルも亡くなったということを。
「ねえ、フィル? 覚えてないかもしれないが、お前は4才の時に全ての記憶を失ってしまったんだ。
私はね、記憶喪失のことについて色々と調べたよ。それまでのことを忘れ、好みも変化し、家族を家族とも思えなくなる悲劇がとても沢山あった。
大抵はね、記憶を失っても今までの通りに過ごせば思い出すだろうとして、・・・だけど言葉もおかしくなったり、習慣や好みが変わったりしたその人を家族や恋人も受け入れられず、そして記憶を失った人も家族や恋人だなんて思えないから拒絶して、孤独に苦しむんだ」
びくっと、腕の中にある体が震える。
なだめるように、私はその強張った小さな肩や背中を撫でた。
「だけどね、フィルは記憶を失っても私達を愛してくれた。それがどれだけ嬉しかったか、お前に分かるかい?
そしてお前がどれだけみんなを愛しているか、気づいているかな?
ローグさんとマーサ姉さんは、前のフィルを知らない。父上とレミジェスもね。・・・フィル、みんなは今のお前を愛しているんだ。言いたいことがあれば我慢しなくていい。フィルは4才から0才をやり直している。今のお前は8才だけど、まだ4才だ」
泣き虫だった私のアレナフィル。あの子はひらひらしているワンピースがお気に入りだった。
だけどこのアレナフィルはアレンルードと駆け回るから、ズボン姿ばかりだ。
それでいい。無理にあのアレナフィルを演じる必要などないのだ。
だってあの小さな私のアレナフィルは、あの子だけだから。
「私達は怖がりで泣き虫なフィルを愛していた。だけど今の世話焼きで明るいフィルも愛しているんだ。たとえ君が全く違う別人でも、君だからこそ私達は愛している。フィル、8才だからって我慢しなくていい。お前はまだ4才の子供だ。我が儘なんていくらでも言っていいんだ」
「わ、わがままなんて、・・・いってる」
どこか涙声になっていた。その理由を私は考えなかった。子供はすぐに泣くものだ。
はらはらと溢れ出す涙を隠そうと、アレナフィルは私の胸に顔を伏せる。
(四年は短く、長かった。私はもうファレンディア語を普通に話せる)
こうやって私のシャツに顔を埋めている今のアレナフィルは、私のシャツに鼻水をなすりつけていた小さなアレナフィルを思い出させた。
だけど私はそのことを指摘しなかった。比較するまでもなく、全く別の魂なのだから。
私の上で丸まっている小さな体。その玉蜀黍の黄熟色の髪を撫でて口づける。
「フィルと呼ばれるのが嫌なら改名だってしていい。無理にいい子でなくていい。私達は都合のいい子だから愛しているわけではないよ」
「わ、・・・わたし、・・・アレナ、フィルじゃ、・・・なくても、いいの?」
「ああ。だって私達は君を愛している。君だってみんなを愛している。それ以上に何が必要なんだ? どんな人間関係だって、お互いの気持ちがなければ続かないんだ」
小さな頭を撫でながら、私はあれから過ぎた年月を思う。
どうしてこんなことが起きてしまったのかは分からないが、もうこの体は彼女のものだ。
ずっと見てきた。この子の意識がある時も、ない時も。
そしてこの体の中にある人格はずっと今のアレナフィルだった。
「今の君を愛している。いずれもっと大きくなってお前に結婚したい人ができるまで、この家で、私の最愛の恋人でいなさい」
「・・・・・・ふぇ」
返事はなかった。
それでも私のシャツに顔を押しつけているアレナフィルの思いを理解できてしまうのはどうしてだろう。
耳まで赤くなっているのは、皮膚の薄い子供だからだ。この子のことなら私はかなり把握している。
「うぇ、・・・っ、うぇっ・・・」
「ああ、どうしたのかな。泣き虫さん。悲しいことなんてないだろう? 私がいる。お前は何も不安なことなどないよ」
あの頃の小さなアレナフィルとは違って、彼女は押し殺したように泣くのか。
ぐしゃぐしゃな顔を私に向けて駆けてくるのではなく、ぐしゃぐしゃな顔を隠してしまうのか。
「フィル、お前にはまだ意味が分からないかもしれないが、いずれルードはウェスギニー子爵となり、子爵邸で暮らすだろう。だが、この家はお前のものになる。嫌な相手と結婚する必要はないし、嫌な人間を受け入れる必要もない。この家はお前の好きにしていいんだよ。お前は私とルードが好きだろう?」
「・・・うん」
私のシャツを握り締めて顔を隠し、涙と鼻水を垂らしながら、アレナフィルはくぐもった声で頷いた。
「そしてローグさんとマーサ姉さんも」
「うん」
「父上とレミジェスも」
「うん」
「それでいい。お前の好きな人だけ受け入れて、お前の好きな物だけ揃えて、お前が全てを決めなさい。・・・愛しているよ、私の妖精。お前が望むことは全て叶えよう」
「・・・パピー。・・・それ、わがままで、ダメな子の、そだてかた」
瞳が赤く充血し、眼のふちも赤く腫れあがったアレナフィルが顔をあげて私を見つめる。
その頬に口づければ涙の味がした。
「いいんだ。だって私は恋人に甘い男のつもりだからね。さあ、私の最愛のお嬢様? 私になんて呼んでもらいたい?」
「・・・フィルで、いい。わたし、パピーの、フィルで、いたい」
「ああ。愛しているよ、私のフィル。この家は、お前の成人を待ってお前の名義にしよう。ルードには子爵を継げる力を身につけたと見做されるまで財産は譲渡されないから、お前の方が先に財産持ちとなるな。まあ、子爵家の財産を小さくするわけにいかないから、お前にはこの家と一生の生活費ぐらいしかあげられないがね。だから変な男に引っかかって貢いだり、騙されたりしないでくれよ? そんなことになったら私はこの家を追い出されて路頭に迷ってしまうからね」
「な、なんという・・・、いきなり、せきにんじゅーだい・・・」
ぽけっとしてしまった顔は、まさかそこまで子供に甘い父親だと思っていなかったからか。
そこは線引きがあるのだ。子爵家の財産として引き継ぐものと違い、この家は私の個人的な資産だ。誰にあげたところで私の勝手である。
「お前が賢い子なら問題ないさ。勿論、フィルはお利口さんだから、お前のおうちに私を住まわせてくれるだろう? さ、ちゃんと今から持ち主として家の維持管理をしておきなさい。使用人の管理もお前の仕事だ。レミジェスとマーサ姉さんに言えば何でもしてくれる」
「パピー、・・・さっきのひと、・・・すきじゃない?」
おずおずと確認するように聞いてくる。
自分達の父親が、実は恋人を作ることのできる独身男性だと実感してしまったのか。
「私の愛を一身に集めている恋人なら、ちょうど今、この腕の中でぐちゃぐちゃな顔をしているところだ。他に目移りした覚えもない。・・・何よりね、私は好きな相手は自分で口説く。だって私はこんなにいい男で、可愛い息子と娘もついてくるんだ。どんな恋愛だって負けなしだと思わないかい?」
パチッと片目をつぶって尋ねれば、くすっとアレナフィルが笑い出す。
「うんっ。パピー、まけなしだよっ」
「当たり前だろう? さあ、この家の女王様? 眠っているあなたの家族に、勝手にキスする使用人はどうするべきかな?」
「・・・これが、あいてがルードなら、はんざい。だめ」
「そうだね」
「だけど、・・・どうせパピー、あしたからおしごと。もう、そんなことできない」
「おやおや。私はルードより下の扱いか。薄情な恋人だ。まあ、好きにしておいで。この家のルールはお前だ」
「パピーッ」
両手を伸ばして私の首に抱きついてくるアレナフィルを、私は抱きしめた。
私とよく似た色の髪が鼻先をくすぐってくる。
(だって仕方がないだろう? いいと思ったのだから)
アレナフィルの姿をしたこの存在がたとえ凶器と化して私を襲ってくる日がきたとしても、・・・この魂の持ち主になら殺されてやってもいいかと思った。
勿論、実際にそのような愚かな行動はとらないだろう。
それでもこの子が本気で私を殺したいなら殺されてやってもいいと思ってしまった。それならば、もういい。
(君はまだ気づいていないだろう。私に向ける笑顔に父親に向けるものとは違う感情も混じっていることを)
可愛いアレナフィル。私の小さなお姫様はずっと私のことが大好きだった。小さなアレナフィルにとって、私はあの子を全ての怖いものから守るナイトだった。
記憶も心も失い、外国人の魂に切り替わってもこの子は私を選ぶのか。
「パピー、だいすき」
「ああ。愛しているよ、フィル」
たとえ私の頬にキスして、幸せそうに寝てしまうお子様であっても。
ずっと観察し続けてきた時間は、それだからこその変化を私にもたらしていた。
― ◇ – ★ – ◇ ―
かつて弟のレミジェスは、この家に来たがらなかった。
母のアストリッドが亡くなってから、足を向けなくなったというべきか。
アレンルードやアレナフィルのことで訪れるようになり、いつの間にか折り合いをつけたようだ。2階にあったレミジェスの部屋にも物が増えている。
今日の私の帰宅は遅かったのだが起きて待っていたらしく、ローグスロッドとレミジェスがリビングルームからひょいっと顔を出した。
「一杯やってますよ、フェリルド様」
「お帰りなさい、兄上。今日はご自分で運転されていらしたのですか」
「ただいま戻りました。珍しい組み合わせですね。・・・所属が変わったから、今は自分で運転しているのさ。ガトルーネ氏はフィルと会えなくなると残念がっていた」
「なんでフィルと?」
上着を空いていた椅子に放り投げてレミジェスが差し出してきたグラスを受け取れば、弟は変な顔で尋ねてくる。
二人はそれぞれの酒が入ったグラスとナッツでやっていたようだ。
ガトルーネ・シミラ・フォルスファンドは移動車を運転して私を送り迎えしてくれていたのだが、私の異動に伴って外れた。
「私を待っている間、フィルに本を読んでやっていたからだろう」
「へえ。どんな本ですか」
「性犯罪の具体例だ」
グラスを持っていたレミジェスの手がぴたっと止まる。ローグスロッドの顔も一気に強張った。
「おい。零すなよ、レミジェス」
「あ、はい。なんでそんな本を?」
「フィルはガトルーネ氏に、雇用者と被雇用者間における性犯罪の定義について質問した。ガトルーネ氏は、父親がメイドにキスされそうになった時の、娘が取るべき正しい対処法を知らなかった。そして二人は本を一緒に読み、どういった解釈をすべきか話し合っていたそうだ」
「それで・・・」
「フィル嬢ちゃんも、あの学者先生のせいで変に育っちまって・・・」
「車内で笑われたよ。非力なメイドから軍人の唇を守ろうと幼学生が立ち上がるとは楽しいおうちですねと」
ローグスロッドとレミジェスは、はああっと大きく溜め息をつくとソファにぐったりとした様子でもたれた。
「今、うちでどんな噂が出回っているかご存じですか、兄上?」
「さあ?」
「現子爵は亡き妻にそっくりな娘を溺愛し、言いなりだ。いずれ子爵になる息子より娘を優先していると」
「へえ。フィルは最強だな」
「ですね。・・・母が、フィル達をこちらで育てた方がいいかと言い出しました」
それで来ていたのか。
子供達の住まいを変えるとなると、さすがに父親である私に話を通さないわけにはいかない。
「必要ない。私からフィルを引き離せばすぐに落とせると思っている者がマリアンローゼ殿を唆したのだろう。何より男は目標があった方がいい。ルードはお前に憧れている。たまにしか会えないからこそ背中を追いかけるものだ」
「・・・はい。なんでいきなり兄上にメイド達がそんな野望を抱き始めたんだか。大抵はいいようにつまみ食いされて捨てられるだけなのに。独身メイドのこの家への派遣希望が多すぎます」
レミジェスも私の返事は予想していたようだ。あっさりと引き下がった。
実際、貴族の邸でメイドとして働くのはいいことばかりではない。美しかったり若かったりするだけで一夜の愛人扱いされ、頃合いを見計らって捨てられるだけだ。
結婚まで持ちこみたいなら爵位を継がない息子を狙うか、はたまた後妻であればまだ可能性があるといったところか。
妻に迎える相手というのは、その間に生まれる子供の立場にも影響するので慎重になるのが常だった。だから私の結婚は非難されたのである。
「まあまあ。若くなければいいんじゃないですかね? マーサもあまりにも若い子の気持ちは分からないと困惑していましたよ」
「ベテランはマーサさんを蔑ろにするかもしれないからと、兄上が・・・」
「あ、そうでしたか。すみません、お気遣いいただいたようで」
「いえ。フィルやルードに対し、マーサ姉さんのやり方に口出しされたくなかったのですよ。古参の者ほど偉そうに振る舞いたがりますからね」
「ですがねえ、フェリルド様。ルード坊ちゃんとフィル嬢ちゃんにあそこまで取り入ろうとし始める使用人ってのはどうかと思いますよ。マーサがブチ切れて、今日は二人とも追い出してしまったようですがね」
どうしてローグスロッドまで起きて待っていたのかを理解する。
エイルマーサがウェスギニー子爵邸から派遣されてきていた使用人達を追い出してしまったので、そのあたりを話し合う為だったのか。
(子供達の世話は疲れるものだ。さすがにこの時間まで起きていられなかったんだろう)
苦笑するローグスロッドも、これが他の貴族の家ならば妻に我慢させ、そんなものだと言い聞かせただろう。
裕福な家に生まれた子供は甘やかされて育つ。使用人にちやほやされるのが当たり前と言っていい。
けれども私は、子供達にたくましさを望んだ。
「しょうがない。次の休日にでもマーサ姉さんと話し合うか。レミジェス、マーサ姉さんの要望通りにしてあげてくれ。使わない部屋を手入れする必要はないし、洗濯や掃除、庭木の手入れや草むしりだって休日にみんなでやればいい。あのマーサ姉さんが追い出したというのであれば、よほど目に余ったのだろう。ルードやフィルだってお皿を並べたり、洗った皿を拭いたりする程度の手伝いはするさ」
「別に兄上、そういうことならメイドだけじゃなく監督する男の使用人も来させればいいだけでしょう」
レミジェスは元々この家に使用人が少ないことを不満に思っていた。
本当は私達と一緒に暮らしたいとも願っている。
「それは駄目だ。そんな話が使用人達の間で出回ったならな。フィルには専属の侍女などつけていないし、部屋に連れこまれて何かされてからでは遅い。使用人だろうが既婚者だろうが、護衛に差し向けた奴らのそんな話なぞ腐る程ある。目が離せない幼児の頃はともかく、今となっては子供達も廊下に灯りさえつけておけば夜だって怖がりもしないだろう」
人の目があれば立派な言動もするが、騒がれない、ばれないと思えばとんでもないことをやらかす使用人など枚挙にいとまがない。
男の使用人ならば余計に、平民の母を持ち、ケチのついたお嬢様なら自分が結婚してやってもいいといった考えに至るのは早いだろう。
何より私は、アレナフィルがこっそりとファレンディアの本を隠し読む時間を取り上げたくなかった。
「いやいや、マーサだってそこまで手を抜いていいのであれば、簡単な掃除や洗濯ぐらいしますよ。3階は掃除しなくていいわけでしょう?」
3階にあるのは客室だ。ローグスロッドや交代でやってくるメイド達もそこの部屋を使っている。
この家への派遣は待遇も良くて気楽な仕事だとされていた。双子が寝てしまったら自由時間で、来客もない。そしてこの家そのものが使用人をあまり置かなくてもいい造りとなっていた。
「別に2階だって私の部屋はしなくて構いません。フィルも自分の部屋は自分で掃除すると言っていた筈です。ルードにも自分でやらせればいいですし、せいぜい1階だけでしょう」
1階はこの家における生活ほとんどのスペースだ。
「それならマーサだけで問題ないと思いますよ。元々、うちはわんぱく坊主ばかりを育てていましたからね。普段はメイド二人もいたらすぐに掃除や洗濯も終わってしまい、だから彼女達が坊ちゃん達をちやほやする余裕も生まれていたってだけです。ただ、やはり子爵様のお宅となると・・・」
「ああ。子爵としての用事は私もウェスギニーの家ですませていますし、今も父とレミジェスが代行してくれていますからいいのですよ。ここは子供達を育てる為の家です。父親が仕事に出かけていても、子供達を母親が笑顔で迎えてくれて、安心して甘えられる。・・・それが大切なんです」
「そういうことなら、・・・まあ、坊ちゃんも嬢ちゃんもいい子達です、本当に」
面映ゆそうに酒で赤らんだ頬を掻くローグスロッドは、仕事が終わればこの家に戻ってきて宿題を見てあげたり、話を聞いて遊んであげたりしている。気分は孫みたいなものか。
(息子の妻は記念日しか孫に会わせてくれないという話だったしな)
元々、ここは母の為に用意された3階建ての小ぶりな家だ。高い塀と門。ちょっと大きめな移動車保管庫。玄関前のスペースからは考えられない程、裏庭は広い。現在、門は二重となっているが、それが余計に威圧感を与えているだろう。
家の掃除や洗濯、片づけなど、子供達がいない間にさせてもいいのだ。
「レミジェス。フィルはバーレンから、女でも稼げるなら男の顔色を窺わなくていいと教わった。ローグさんみたいに安定した役人の仕事を目指したいらしい」
「・・・は?」
「へっ? いや、役人なんて地味な仕事ですよっ? そりゃどんな仕事をしているのか訊かれて教えましたが、まさか、・・・いや、そんなのを勧めた覚えはっ」
目を丸くしたレミジェスとは対照的に、ローグスロッドが慌てて手を横にぶんぶんと振る。
「いや、ローグさんだけじゃなく、あの子は色々な人にどういう仕事をしているのか、安定性はあるかと、尋ねまくりました。その上で考えた結果でしょう。雇用主の機嫌一つでクビになる仕事には就きたくないそうです。・・・レミジェス。いずれ幸せな花嫁さんになるのが夢だと言いだすかもしれんが、市井で働くのであれば一般的な生活レベルを知っておいた方がいい。安全には配慮してやってくれ。だが、そこまで甘やかす必要はない」
「分かりました、兄上」
「いやいや、子爵家のご令嬢ですよ? ちょっと待ってください、お二人とも。酒が抜けてから話し合った方がいい」
ローグスロッドが慌てていたが、レミジェスも軍に入って何かと演習では、使用人ありきの坊ちゃん達にげんなりしていたクチである。
本来はレミジェスも面倒見がよく忍耐強い兵士をつけてもらえる筈だった。だけどレミジェス、実は自分のことは自分でできるご令息だった。だから代わりに他のお坊ちゃま達のフォローに回された。何かの折にブツブツと呟いているのを父が聞いてしまったらしい。
そんなの殴りつけて言うこと聞かせればよかったのに。
「世間知らずな令嬢が社会の現実に打ちのめされたところでヒモ志願男の優しさにあっけなく騙されるなんてよくあることじゃないか。甘やかしてばかりの育て方はそういうリスクも育ててしまう。レミジェス、こき使えと言ってるわけじゃない。優しさだけでは何も解決しないこともあるのだと、お前の背中を見せてやっておいてくれ」
「・・・はい、兄上」
少し考えるような表情になってレミジェスは頷いた。