60 家族の絆とは
明日も学校があるアレナフィルは、ゴーストディナーが余程イヤだったのか、アリアティナの腕を掴んで自分の部屋に行ってしまった。
幻覚と分かっているならそこまで気にしなくてもいいだろうに、最後までぷんぷん怒っていた。
「言い出したのはフィルだろうに、全く勝手な子だ」
「フィルですからね。有意義な夕食でしたか、兄上?」
「ああ。あんなにも激しく窓が割れた筈が、こうしてみたら綺麗なままだ。画期的すぎて心が痺れた」
「・・・そうですか。良かったですね」
父のセブリカミオは、カズオミ・ニシナがユウト・トドロキとどこまで仲が悪いのかが気になっていたらしく、通訳をしてくれるバーレミアスがいる内に語り合っておきたいと思ったらしい。
今度はあのゴーストは無しで酒でもどうかと、カズオミを誘っていた。
【私もあの子のご家族とは話し合っておきたいと思っていたのですよ。あの小僧が本当に手に入れてしまう前にね】
【小僧とは誰のことですか?】
【あの子と婚約した優斗のことに決まっているでしょう】
バーレミアスは、なんでそこまで仲が悪いんだと、首を傾げながら通訳する。
「えっと、ニッシーさんは、自分もフィルちゃんの家族とは話し合っておきたかった、あのユウトさんがフィルちゃんと本当に結婚してしまう前にと、そう言ってますね」
いくら兵器の贈与が絡むとは言え、まだ14才の少女と即座に婚約まで持ちこんだユウトは父からかなり心証が悪いのだが、間近で二人の様子を見ていた人間はどう見てもアレナフィルがユウトを従えていたので、同情的だ。
バーレミアスは手紙一つでサルートス国までやってきたアレナフィルの弟に、かなり好感を抱いている。サンリラで軍人ばかりに囲まれ、やっと筋肉を自慢しない青年に出会えたという気持ちからではないと信じたい。
「む? フィルが婚約したとかいう青年には何かあるのか? まあ良い。それならば書斎の方へ。フェリルド、レミジェス。お前達も来なさい、全く私に何の断りもなくフィルの婚約を決めてしまうとは。
すぐ解消予定であろうと、あまりにも情報が少なすぎるではないか。マリアンローゼ、お前も聞いておきなさい。フィルの婚約者についてお前が全く知らんわけにはいくまい」
「はい。書斎にグラスと何か摘まむものを」
「かしこまりました、奥方様」
一人のメイドがグラスや氷などを用意する為に食堂を下がっていった。
【子爵は、ユウトさんとは会ってもいないので色々と聞きたいことがあるのです。それならば書斎へ案内しましょうと言っています。ところでお酒やつまみについてリクエストはありますか? あるようでしたら伝えますよ】
【特にありません。訪れた国で現地のものを頂くのは楽しみの一つですぞ】
【それはよかった】
【ということにしておきましょう。アルコールなんぞ飲めるか飲めないか、酔えるか酔えないかですな、はっはっは】
【ハハハ】
バーレミアスが合わせて笑いながら、私の脇腹を肘でトントンとつついてくる。
助けろという合図だ。
【だが、今はできるならば茶を。酔いながら話していいことといけないことがありますからな】
【そうですか。
「えっと、子爵夫人。ニッシーさんができるならばお茶か何か、アルコールではないものを頂きたいそうです。酔って話すのはこちらにとって失礼だろうからと」 】
「え? ええ、分かりましたわ。・・・じゃあ、あなた達。そうね、紅茶とコーヒーも用意してきてちょうだい。お話が盛り上がった時の為にお酒も一緒でいいわ。アザミ印も忘れずにね」
「かしこまりました」
マリアンローゼは、私には紅茶を、バーレミアスにはコーヒーをと思ったのだろう。その場で飲みたい方を淹れるから両方用意してくるように命じた。
アザミのマークがついた蒸留酒は、オレンジの花を思わせる香りでとても紅茶に合う。
こちらの家に帰ってきた時には、紅茶にスプーン2杯。それが私のいつもの味だ。実母が好んだ味でもあった。
あの頃は子供で見ているだけだったが、いつの間にかこの家に戻ってくると飲む味になっていた。レミジェスはストレートで飲むことを好むが、やがて同じ味をたまに楽しむようになった。
ぐいっとバーレミアスが私の腕を掴む。
「おい、フェリル。やっぱりこれ、俺がいたらまずい奴じゃないか?」
「諦めて通訳しとけ。フィルにやらせたら通訳にならん」
「そりゃそうだろうが」
お前の家族のことなんだからお前が通訳すればいいだけじゃないかと、バーレミアスの水色の瞳は雄弁に語っていた。
「兄上、フィルの通訳ではまずいのですか?」
「通訳というのは双方に正しく内容を伝えることで、フィルがやるのは改竄だ」
「ああ。フィルですからね」
レミジェスはアレナフィルを幼な妻と勘違いしているのではないかと皆が危ぶむぐらいに溺愛しているが、ぎりぎりのところで客観的な視野は失っていなかったらしい。
水商売の女が語る愛をにこやかに受け入れながらも信じていない、そんな男の眼差しで頷いた。
(これ以上はもう引き延ばせんな。レミジェスもいい加減焦れている)
カズオミとアレナフィルとの間に流れる空気。それはもう婚約者の親戚というだけではあり得ないレベルだった。
私は、このカズオミよりもあのユウトの方がまだ扱いやすいと感じている。
アレナフィルは、弟の姉に対する束縛は異常だったとバーレミアスに訴えていたようだが、もしもうちの子達が双子ではなく姉と弟で年も離れていたら、アレンルードは年上の筈の姉があまりにも騙されやすくて不安だと、同じように束縛に走っただろう。そう思うからだ。
うちの双子はどちらもまだ子供だから、こんなものだとアレンルードも思っているだけだ。数年後にはアレンルード、危なっかしすぎる妹を家から出さなくなるかもしれない。
(レミジェスもユウト・トドロキとはそれなりにやり取りしているようだが、顔を見て話すのと手紙や文書のやりとりとは違う。言葉の壁はかなり厚い。そしてあの弟はフィルの意向を尋ねてから動くが、この男は自分がやりたいことをやるタイプだな)
父は書斎と言っても仕事用ではなく、男性客を迎えて歓談する為の書斎へと案内した。
「こちらにどうぞ。お好きな席に」
「皆様、お酒を飲みながら歓談なさる部屋ですのよ。それぞれのソファにミニテーブルもついておりますので、どうぞ気楽にお座りくださいな」
父はいつもの一人掛けソファに座ったが、この部屋は仕事でやってくる者ではなく、親しい友を迎えて歓談する為の部屋なので、長いテーブルの周囲に一人掛けソファが二十二席並んでいる。壁際の本棚は本を含めてインテリアという奴だ。
【子爵は、好きな席に座ってほしいと。子爵夫人は、ここは男性同士で酒を酌み交わしながら歓談する部屋なのでどうぞ寛いでほしい、一人掛けソファのミニテーブルにそれぞれの飲み物も置くからと言っています】
テーブルはあるが、あるだけだ。寛いで己のソファにすっぽりと沈み込み、思い思いのままに紫煙をくゆらしたり、嗜好品を嗜んだりする。
【では、子爵の近くに行かせていただきましょう。こういうことは家長に話すものですからな】
「ニッシーさんは、それならば子爵の近くで、まずは家長に話すのが礼儀であるからと言っています」
「うむ」
私のことは後回しにされていた。カズオミは何も知らないアレナフィルの祖父母にターゲットを定めたようだ。
「私はここでいい」
「おい、フェリル。何を離れてるんだよ」
「留守がちな父親に誰も期待していないだろう。レミジェスがちゃんと聞いておくさ。帰宅したらフィルで心を和ませるのがお決まりだってのに、アリアティナ殿に取られてしまった」
「ティナをフィルちゃんが奪い取ってったんだろ」
「ごめんなさいね。本当にもうフィルったら」
「いえ。ただの軽口です、子爵夫人。それに妻もフィルちゃんがいてくれる方が心強いでしょう。何よりフィルちゃんですから」
マリアンローゼはアレナフィルと血が繋がっていないことが知られたことに忸怩たるものがあったらしいが、恐らくアレナフィルはそういった機微を理解していない。あの子が気にするのは、孫娘として引き続き自分が甘やかされて愛され続けるかどうかだけだ。
アレナフィルが普通の貴族令嬢ならマリアンローゼに反発したかもしれない。
前妻であるアストリッドと後妻のマリアンローゼは同じ貴族であっても天と地程に身分が違う。よその貴族令嬢ならば、「私の本当のお祖母様は立派な血筋の方だったのよ」と、やらかしたかもしれなかった。
(あの子にとっては、誰もが他人で始まっている。血筋に興味なんぞなかろうよ)
出生の秘密が判明した時のレミジェスの荒れようを覚えていればこそ、マリアンローゼも双子達に壁があったのだろう。
だが、アレンルードが知った時は祖母と血が繋がっていないことよりも母と妹のことで頭がわやくちゃ状態だった。そして多感な時期を迎えている筈のアレナフィルは、祖母にサディスティックな一面がないならそれでよかったらしい。
(やっとフィルに対して本当の祖母気分になれたのか。あの時のレミジェスにはかなり傷ついていた)
いつしかウェスギニー子爵邸では「フィルだから仕方がない」というフレーズが完全に定着していた。
何か起きても「フィルだからな」「フィルですもの」「お嬢様ですから」で、皆が終わりにしている。それに流されることなく、ぶつぶつ文句を言っているのはアレンルードだけだ。
(頑張れ、ルード。お前にウェスギニーの未来がかかっている)
やがて皆の好みが尋ねられ、それぞれの飲み物が提供された。
「後はもう呼ぶまで下がっていていい。誰もこの部屋に近づかぬように」
「かしこまりました、フェリルド様」
メイド達が下がれば、私は部屋の中をチェックしてから、小型スクリーンを壁やドア近くに置いてそれぞれ違う番組を流す。更にはテーブルの下に、食堂で録音してきたそれを流した。
ガルディアスとエインレイドにとって特別な子爵家の娘は外国人と婚約したが、ミディタル大公家とガイアロス侯爵家が今になってアレナフィルに関与し始めようとしている。目端の利く者ならば次にあるのは外国人との婚約解消、そして王子との婚約ではないかと考える流れだ。
使用人達を買収してでも我が家の会話が気になることだろう。
「何をやっておるのだ、フェリルド」
「聞かれていいことと悪いことがあります。録音機器が仕掛けられていても、これでかなり聞き取りにくくなります」
【何をしているのかと子爵は尋ね、彼は仮に盗聴されていても聞かれにくくする為だと答えました】
【なるほど。では、それに協力させてもらいましょう】
カズオミが何か小さな箱を床に置く。
【これは様々な言語、様々な男女の声が混じっている音を出します。この音を取り除くのはとても厄介です。しかも内容が無視できないゴシップばかり。例えば高官の浮気情報や国家間の火種とかね。勿論、デタラメですが】
「それは様々な男女の声が様々な言語で入っている。録音や盗聴をされていたとして、この音を除くのは難しいだろうと、ニッシーさんは言っています」
素晴らしいセンスだ。ただの防御にも何かしら相手をおちょくるものを仕込む。
私が握った拳に親指を軽く立ててクイッと背後に向けるジェスチャーをすれば、カズオミもまたニヤリと笑って同じジェスチャーをしてきた。
(握手の際に足を当てて腕を叩くのはロータエン国。そしてこれがロータエンの「グッド」だった筈だ)
あの食堂でのゴーストもそうだったが、一つの作業に相手のダメージを大きくする何かをぶち込んでくるところがいい。
いい人と知り合えた。私はそう感じていた。
問題は私のムフムフごろごろウサギを彼も狙っていることだ。あれは私のウサギなのだが。
― ◇ – ★ – ◇ ―
カズオミ・ニシナは言った。
【私が何故訪れたのか、恐らくあなた方は疑問に思っていることでしょう。私は優斗という青年からアレナフィルのことを聞いてやってきました。それはアレナフィルに会いたかったからです。その理由を語る為には、私の若かりし頃の話をしなくてはなりません】
「どうして自分がここに来たのか、それを皆さんは疑問に感じているでしょう。自分はユウト・トドロキからフィルちゃんのことを聞いてやってきたが、そこまでしてフィルちゃんに会いたかった理由を説明するには自分の若かった頃の話から始めなくてはなりませんと、ニッシーさんは言っています」
すっと、ポケットから取り出したフォトをカズオミがテーブルの上に置く。
それは若かった頃のカズオミと、赤い瞳をした黒髪の美女とのフォトだった。花束を抱えてベンチに座った美女が振り返るかのように上を向いている。その背もたれに片手を置いて背後から身を乗り出している若いカズオミ。二人は笑いながら何かを話している様子だ。
「まあ、なんて美しい方。恋人、いえ、奥様かしら」
「なんという美女だ。いや、隅に置けませんな」
父と義母が若い恋人達の姿に微笑を誘われていた。
【それは当時のトドロキ研究センター長の一人娘、百合奈・轟です。センター経営者の一人娘として生まれ育ち、誰もが振り返る美貌に恵まれ、人の悪意を知らずに育ったがゆえの善性を持つ娘でした】
「そのフォトに映っている女性は、当時のトドロキ研究センター経営者の一人娘、ユリナ・トドロキさんだそうです。美しく、周囲の人に恵まれて育ち、人を疑うことを知らない女性だったそうです」
トドロキという姓に、ユウトとの家族関係を誰もが連想する。
そのフォトがレミジェスに渡ったところで、カズオミは次のフォトを取り出した。そこには若い娘と少年がいて、年齢差的に姉弟だろうか。
【これが、その百合奈の産んだ娘、愛華です。そして隣にいるのが優斗。二人の関係は姉と弟ですが、姉は融・相田という男にとって前妻の娘、そして弟は後妻の息子です】
「次のフォトは前妻であるユリナさんが産んだ娘のアイカさん、そして後妻が産んだ弟のユウトさんだそうです。二人はトオル・アイダという男性にとって、それぞれ妻が違う子供にあたるとか」
通訳しながら、バーレミアスが身を乗り出した。
まだ少年のユウトに背後から抱きついている黒髪の娘が、そのユウトの持っているアイスクリームらしきものを食べさせてもらっている。・・・普通、反対じゃないのか?
それでも特筆すべきはその色気だろう。子供っぽい動作なのに、はっと目を奪われる美貌とスタイル。
「凄いな。母親そっくりの美人じゃないか。色合いは僅かに違っているが、ほとんど生き写しだ。なるほど、たしかにこれは美女だと言いきる権利がある」
「これがアイカ・トドロキか。似た容姿でも母親が楚々とした美女なら、娘はまた艶やかな美女だな」
私とバーレミアスはまじまじとそのフォトを見た上であの能天気なアレナフィルを思い浮かべ、ほとんど同時に言わずにはいられなかった。
「なんでこの顔であの性格になるんだ? 傾国の美女じゃないか。いや、そう言ってたが、自己申告なんて割り引いて聞くものだろ?」
「この外見があってどうしてああなるんだ? 詐欺だろう、存在全てにおいて。この容姿であの性格だぞ?」
なんという外見の持ち腐れな娘なのか。
わざわざあんなムフムフごろごろウサギな性格に育たなくても、この顔とプロポーションならその微笑み一つで幾人もの男を操ることができただろうに。
「兄上。つまりその女性が、リンデリーナ殿の文通相手という女性ですか」
「となると、この少年がフィルと婚約したという青年か? まだ子供の頃のフォトのようだが」
「腹違いの姉弟でも仲がいいのね。だけどこんなに仲のいいお姉様がいたら、フィルったら大丈夫なのかしら。そりゃ数年後に解消するなら無用な心配でしょうけど」
父と義母はユウトの顔を知らないので、たとえ少年時代のものであろうとも、手に取って熱心に見始めた。
レミジェスはユウトと面識があるのであまり興味を持たず、どうせ同じ顔だからと、母親のフォトを見ている。
【なんであの顔であの性格に育ったのか、聞いてもいいですか? それともファレンディアでは美女でも評価されないんですか? いえ、アイカさんの性格はどうだったんです?】
【性格? 子供の頃はよく、
〖ねえ、和おじさん。この私の美貌なら結構いけると思うんだ。あとは性格と顔とスタイルがよくて、そこそこお金持ちで私に全財産貢いでくれる彼氏をどうやって見つけるかが問題なんだよ。だってお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、いつまでも生きててくれないよね?〗
と、何でも悩みを打ち明けてくれる子でしたな】
【ああ、良かった。昔からか。俺の育て方が悪いんじゃなかった】
失礼なことを。いつからお前はアレナフィルの親になった。
昔からじゃなかったら、私の育て方が悪かったとでも言うつもりだったのか。
【そんな小僧はどうでもよろしい。やはり私と愛華のフォトこそ見せるべきでしょうな】
カズオミはそこで幾つかのフォトをテーブルに置くが、それはどれもカズオミとアイカの二人がいるフォトだった。周囲に違う人間がいることもあるが、仲のいい様子がよく分かる。
小さなアイカがカズオミと一緒に大の字で寝ていたリ、カズオミの膝の上に座って甘えていたり、はたまた学校の入学なのか卒業なのか、何らかの記念フォトらしき十代のアイカだったり、成人している彼女と楽しそうに酒を飲んだりと、長年に渡っての付き合いが分かるものだった。
全くユウトの影も形もない。
「まあ。本当にニッシーさんはお姉様と仲が良かったのですわね。・・・もしかして、弟さんとうちのフィルが婚約してしまったことを、お姉様が不快に思われていたリなさるのでしょうか?」
【子爵夫人は、ニッシーさんとアイカさんがとても仲が良かったのがよく分かる、もしかしてユウトさんとフィルちゃんが婚約したことをアイカさんが不快に感じていて、あなたが来たのかと、そう尋ねています】
カズオミはマリアンローゼに向かい、軽く片目をつぶった。
【それはありませんよ。愛華はとっくに亡くなっていますからね】
「ニッシーさんは、それはありません、アイカさんはとっくに亡くなった人だからと言っています」
その場に沈黙が満ちる。
(容赦ないな、このカズオミ・ニシナ。さらりとフィルの嘘を暴露しやがった)
ウェスギニー家の誰もがここでアレナフィルの大嘘に思いを馳せているのが分かった。アレナフィルは、亡き母リンデリーナの文通相手であったアイカ・トドロキに会いに行くと説明していたのだから。
【さて、話を愛華の母の百合奈に戻しましょう。私は百合奈を気に入っていました。だが、あの枯れる花にも心を痛め、話し合えば分かり合える、誰もが相手を尊重し、愛を心に持てば皆が幸せに暮らせる筈だという夢見がちなところは理解できませんでしたね。それは百合奈も同様で、私達は分かり合えないまま、一緒にいたものです。分かり合えなくても兄妹のように、恋人のように、共にいることはできました】
「話をアイカさんの母親、ユリナさんのことに戻しましょうとニッシーさんは言っています。ユリナさんは枯れる花にも悲しみを覚え、話し合って分かり合えば社会の軋轢をなくせる、誰もが相手を尊重して愛情を忘れなければ社会は幸せなものになるという思想の持ち主で、ニッシーさんとはいささか考えが異なっていたそうです。ニッシーさんとユリナさんの思想は交わりませんでしたが、それでも兄妹のように、恋人のように寄り添うことはできたと言っています」
その場にいた私達は、同じことを思った。
トオル・アイダという男性とユリナの間にアイカが産まれたのであれば、それ、アイカにとってカズオミは親戚のおじさんどころか、ただの他人の小父さんだったんじゃないのか? と。
彼はアイカにとって母親の昔の恋人というだけの他人だ。
娘よ、お前の嘘が次々と暴露されていく流れが辛い。どうしてお前の嘘はいつも底が浅いんだ。
【私と百合奈は互いの心だけを尊重し合い、やがてお互いのやり方については語り合うことも、理解を求めることもしなくなっていました】
「ニッシーさんとユリナさんはお互いの心だけを尊重し合い、いつしかそれぞれの生き方については語り合うことも理解を求めることもなくなっていたと、ニッシーさんは言っています」
「まあ」
なんだか悲恋に繋がりそうな話になってきた為、マリアンローゼが身を乗り出している。
何故ならアイカの父親はカズオミではないのだから。
【やがて私と同じ未来を見ることはできないと考えた百合奈は、私が数年がかりの仕事で外国に行っている間に融・相田という男と出会い、恋に落ちて結婚しました。帰国してそれを知った私は百合奈を祝福し、完全に身を引きました】
「ニッシーさんが数年がかりの仕事で外国に行っている間に、ユリナさんは違う男性、つまりトオル・アイダという男性と出会い、恋に落ちて結婚したそうです。帰国してそれを知ったニッシーさんは祝福し、身を引いたそうです」
「なんて悲しいこと。だけど数年がかりだなんて、やり取りぐらいはしていたのでしょう?」
【子爵夫人は、なんて悲しいことでしょう、ですが数年の間にやり取りぐらいはあったのですよねと、そう言っています】
やり取りがあろうがなかろうが、成人した女に数年待てと言う方が無茶だなと、私は思った。
男がその外国とやらでどんな恋人を作っていても分からないのだ。そんな男を待つぐらいなら、女は身近な恋人を見つけた方が幸せになれる。
【手紙のやり取りも、居場所を告げることもできない仕事でしてね。要は数年、行方不明になっていました】
「ニッシーさんは、手紙のやり取りもできず、誰にも自分の居場所を告げることもできず、音信不通で行方不明ということになっていたと言っています」
さすがに室内の誰もが、そりゃ捨てられてもしょうがないという顔になった。
「つまりフェリルドが既にルードから父と思われていないようなものだな。長い不在は繋がりを断つものだ。行方不明とあれば、もう次を見つけても仕方あるまい。これほどの美女だ」
「父上。うちのルードはちゃんと私を父親だと思っていますが?」
私の言葉に、父は黙ってレミジェスを見る。何故、私を見ないのか。
【百合奈・轟と結婚し、融はトドロキ研究センター長の娘婿として後継者になりました。百合奈はあまりにも心が弱かった。だから百合奈を女経営者にしたくなかった両親の意向も働いていました。やがて二人の間には愛華が産まれました】
「ユリナさんと結婚したトオルさんは娘婿としてトドロキ研究センターの後継者になったが、ユリナさんはあまりに心優しい人だったので、女性経営者としては不向きだと両親が考えていたことも影響していたと、ニッシーさんは言っています。やがて二人の間にはアイカさんが産まれました」
そうなると先妻の子であるアイカと後妻の子であるユウトは、姉弟であってもかなり事情が違ってくる。
トドロキ研究センターとやらの真の持ち主は、父方ではなく母方なのだから。
【そんな三人の生活も長くは続かず、愛華が幼い時に百合奈は亡くなります。一人娘の死を嘆いた両親は、娘婿の融にトドロキ研究センターを任せ、幼い孫娘、愛華を育てることにしました。若い父親が子育てするよりもその方がいいと考えたからです】
「残念なことにアイカさんが幼い時にユリナさんは亡くなり、父親一人では子育ては無理だろうと、祖父母にあたるトドロキ研究センター長夫妻が孫娘のアイカさんを育てることになりました。娘婿のトオルさんが経営者となったそうです」
なるほどと父が頷いた。
「つまりフェリルドに任せず、私達がルードとフィルを育てるようなものだな。よく分かる話だ」
全然分からん話だ。なんで自分の子を親に取られなきゃならんのだ。
(いや、まさか・・・!?)
はっと、私は気づいた。
まさか父が私に爵位を譲ったのは、リンデリーナの墓碑銘が理由ではなく、子供達の養育を狙ってのことだったのか?
もしも私が子爵の仕事を父と弟に押しつけずに忙殺されていたら、うちの双子達は父に取られていたのか?
思いがけぬ流れ弾が、父と私の仲を引き裂いていった。
【百合奈が亡くなる前、私は彼女と会っていました。百合奈は、愛華だけは強く育ってほしいと願い、私はその願いを受け取ったのです。愛華を育て始めた祖父母も私の話を聞き、一人娘はあまりにも世の中の悪意を知らな過ぎたと反省し、愛華を深窓の令嬢ではなく、たくましい心の持ち主に育てようとしました。愛華は容姿こそ母親に似たものの、性格は全く違う子に育ちました。私も愛華を色々な所へ連れ出してあげたものです】
「ユリナさんが亡くなる前、ニッシーさんは彼女と会っており、アイカさんの養育への関与を頼まれたそうです。アイカさんは、ユリナさんのような世間の悪意を知らぬ上品な令嬢ではなく、心たくましく育てなくてはという祖父母の考えもあって、容姿は似ていても性格は全く違う子に育ったそうです。ニッシーさんもアイカさんをよく連れ出していたそうです」
なるほどと、誰もが納得した。
「つまり血は繋がっていなくてもニッシーさんはアイカさんにとって伯父みたいなものでしたのね。祖父母を両親代わりに、そしてニッシーさんをもう一人の父親として育っていらしたから仲がよかったのかしら」
「フィルやルードにとってのレミジェスみたいなものか」
【子爵夫妻は、親ではなくても伯父みたいなものだったのですね、フィルちゃん達にとってのレミジェス殿みたいなものだったのだなと、そう納得しています】
にこにことして、カズオミは頷く。
人畜無害そうな笑顔だが、この男がアレナフィルの「過ぎたら忘れる性格」の元を作ったような気がしてならなかった。
【やがて融は再婚し、そちらで家庭を築きます。愛華にとってはたまに会いに来る父親といったものとなり、愛華は祖父母のところで育ちました。融の子は優斗だけだと信じている者も多くなりました】
「その後、トオルさんは再婚し、後妻とその息子であるユウトさんと三人家族で暮らすようになります。アイカさんは引き続き祖父母の所で育てられ、父親はたまに会いに来る人となったそうです。やがてトオルさんにとっての子供はユウトさんだけだと信じる人が多くなったそうです」
アイカという娘をアレナフィルに重ねていたからだろうか。
レミジェスが痛ましげな表情を浮かべる。
「つまり、うちでルードとフィルを育てている間に、兄上が再婚して子供を作ってしまうようなものですね。そして兄上に存在を忘れられてしまうと。・・・可哀想に、ルードもフィルも」
「勝手な事実を作ってるんじゃない、レミジェス。そうなったらお前、喜んであの子達を取ってくだろうが」
「どこの家もよくあることですから。こんなにも綺麗な女の子だったのに寂しく可哀想な・・・、あまり悲しそうでもないですね。伸び伸びと育っているような・・・? まあ、フォトですからね。うちでルードとフィルが元気に過ごしているようなものかな」
改めてアイカのフォトを手に取って眺めながら、レミジェスは首を傾げた。
父に存在を忘れ去られた不憫な娘どころか、後妻の息子に対してやりたい放題に見える。
カズオミと差し向いに座りながら、テーブルに幾つもの酒瓶を並べている様子など、まさに実の親子だ。それも駄目な親子だ。そのフォトを撮ったであろう人間はテーブルにグラスを一つしか置いていないのに、カズオミとアイカはそれぞれ瓶に合わせて違うグラスやカップを並べていた。
【父親に忘れ去られた可哀想な身の上だったわりには伸び伸びと育っているように見えると、レミジェス殿は言っています。フィルちゃん達がこの家で元気に過ごしているようなものだろうか、とも】
【こちらとは大きな違いがあったでしょう。融の後妻にとって、愛華は邪魔者でした。やがて祖父母が亡くなり、愛華は父親の所へ引き取られました。母の顔も覚えていない愛華は、その後妻を自分の母とも思おうとしましたが、後妻は人前では愛華を尊重しましたが、皆の目がないところでは、融の後継者は優斗だ、さっさと出て行けと、かなりいびっていたようです。母を知らぬ愛華はそれでも愛されることを諦めきれず、耐えていました】
「ニッシーさんによると、やがて祖父母が亡くなったアイカさんは父親に引き取られ、母を覚えていないアイカさんはその後妻を母とも思おうとしたそうです。しかしトオルさんの後妻にとってアイカさんは邪魔な人間で、後継者は自分の子のユウトさんだと言って、皆の目がない場所ではアイカさんをいびっていたそうです。母親が恋しいアイカさんは黙って耐えていたとか」
バーレミアスの脳裏に浮かんでいるのは今よりも小さなアレナフィルかもしれない。
あの子はいつも親の愛情に飢えているようなところがあった。
【その後妻は実子の子育てすらしない女でしてね。義母に愛されることを諦めた愛華は代わりに優斗へ愛情を向け、よく面倒を見ていました。それを見たらお分かりでしょうが、優斗にとって愛華は最愛の家族でした。父親は子育てする余裕などなく、常に仕事でしたからね】
「その後妻は子育てに興味がなく、母親の愛を諦めたアイカさんはユウトさんの母代わりで面倒をみていたそうです。ユウトさんにとってアイカさんは最愛の家族でした。父親は仕事で忙しく家庭を顧みることなどできない状態だったそうです」
「姉弟二人で身を寄せ合って生きていたのか。それでも母と子の繋がりはまた特別だ。この少年とて母親を愛していたに違いない」
「ええ。育児を他人任せにしていても、子への愛情がないわけではありませんわ」
父が見たこともない少年とその母親に対して理解を示そうとしている。義母も恐らく私に対して気を遣おうとしている。レミジェスは沈黙を選んだ。
しかしカズオミとアレナフィルの会話を立ち聞きした私とバーレミアスは、そういった意見に同意する気にはなれなかった。
その後妻、息子を殺そうとしたとかいう話じゃなかったか?
カズオミは、うちの父の口調に何を言われているかを察したらしい。
【優斗にとって実母は、邪魔になったと思ったら自分に毒を盛った女ですからね。そんな母親と、いきなり血を吐いて倒れた弟に驚き、それ以降は全ての料理を自分で作って食べさせるようになった姉と、どちらを愛するかは自明の理です。結局、その後妻は捕まって監獄に行きました】
「えーっと、その後妻は、自分の息子であるユウトさんが邪魔になった途端、毒殺しようとしたそうです。結局、捕まって監獄に行ったそうですが。自分を殺そうとした母と、いきなり血を吐いて倒れた弟の為にそれ以降は全て手作り料理を用意するようになった姉と、ユウトさんがどちらを愛したのかは火を見るより明らかであろうと言っています」
その場の空気が凍った。
「い、いや、自分の血を分けた息子を殺す? 何の為にだ?」
【おや、もしかして殺害理由をお尋ねに? その後妻、どうやら自分がとても可愛い人間だったようでしてね。息子が生きていたら自分の犯罪が明るみに出てしまう。だから少しずつ毒を盛り、徐々に虚弱体質なのだと誤認させ、やがて突然死しても不自然じゃないようにと計画したようですね】
「殺害理由を尋ねているのですか? その後妻は、どうやら息子のユウトさんが生きていたら自分の犯罪が明るみに出るということがあったそうで、だから少しずつ毒を盛って虚弱体質に見せかけ、やがて突然死しても不自然じゃないという計画を立てて実行したそうだと、ニッシーさんは言っています」
父にとっては理解できないことだったらしい。
(だからいいように母上に利用されたんだな、父上は。貴族のわりに変にまっすぐすぎるところがあるし)
血が繋がっていようがいまいが、残酷になれる人間はどこまでも残酷だ。ユウトの母親はまさしくそんな女だったのだろう。
ユウトにとって、アイカはほとんど唯一の信じられる家族だったのか。
アレンルードは、
「なんかさぁ、僕、あのユウトさんに呪われてた気がするんだけど。さっさと大きくなってしまえっていう呪い。別に大きくなりたいからそれは構わないんだけど・・・、構わないんだけどさぁ」
と、複雑そうな顔をしていたが、この年齢差と家庭環境ならば理解できる。
アイカという姉に愛されて育った、年の離れた弟。まだ子供のアレンルードだからこそ、本気でライバルだったらしい。
【そんな姉弟ですが、弟はこれで幼い頃から優秀な研究員でしてね。学校に通わずに研究センターにいたわけです。その頃はまだ後妻の犯罪も判明していませんでしたが、愛華は弟に子供らしい生活を送らせてやって欲しいと父親とその後妻に頼みこみ、彼を全寮制の学校に入れました。そして自らは姿を消したわけです。後妻を刺激しないように】
「まだ後妻の犯罪が明るみになっていない頃、学校にも通わず優秀な研究員として仕事していた弟に子供らしい生活を与えてやってくれとアイカさんは父親とその後妻に頼みこみ、弟を全寮制の学校へ入れたそうです。そして後継者として義母を刺激しないように一人で姿を消したと、ニッシーさんは言っています」
まあと、マリアンローゼが痛ましげな表情になった。
「なんという不甲斐ない父親だ。娘にそんなことを思わせて、何も恥じんかったのか」
「情けない父親もいたものですね。悪妻に娘をいびらせた挙句、そんな決意をさせるとは。そんな両親に期待せず、姉と弟はお互いを支え合い、思いやりをもって生きていたのですね」
父と弟が感動しているのだが、そのなれの果てがアレナフィルだ。
だが、娘よ。父は複雑な気分だ。今まで世界で一番素敵な父親だと言われて嬉しかったことは否定しない。だが、そんな父親と比べられての評価だと思うと、その言葉の重みも一気に激減だ。
【父親が情けなさすぎる、それに比べて姉弟の絆はどうだと、子爵とレミジェス殿が言ってます】
【全くですな。弟からも姿を隠し、一人暮らしを始めた愛華は様々な職を転々としながら、時折ふらりと私の所へ顔を見せていました。隠そうにもその美しい容貌は隠せず、しつこい男に迫られては仕事を辞める日々だったのです。それなら私と暮らせばいいと言ったのですが、自分の力でやれるところまでやってみたいと言ったので好きにさせていたのですよ】
「一人暮らしを始めたアイカさんは弟のユウトさんからも身を隠し、転職を繰り返しながら、たまにニッシーさんの所へ遊びに来ていたそうです。その美貌で男にしつこく迫られては仕事を辞めていたとかで、ニッシーさんが一緒に暮らせばいいと言っても、やれるところまで自分でやってみたいからと」
次々とアレナフィルのフォトを出してくるカズオミだが、本当に仲が良かったのだと分かるものばかりだった。
「こんなにも美しい娘だ。言い寄る男は多かっただろう。それこそ見合いの一つでもすれば、すぐに誰もが是非守らせてほしいと言っただろうに」
「もしかして跡継ぎがどうこうより、義理の娘があまりにも美しすぎて、その後妻の方も嫉妬していたんじゃないかしら」
父と義母の感想はともかく、そこまで悲劇のお嬢さんだろうか。
勿論、カズオミが語っていることは本当のことだろう。だが、本人は弟の面倒を見ているつもりだったかもしれないが、弟の方こそ姉の面倒を見ているつもりだったかもしれない。
私はヴェラストールでの二人を思い出した。
どう見ても姉が思いつくままに弟を振り回している感じだった。弟はそんな姉をにこにこしながら子守りしていたと思えて仕方がない。
(かといって、こっちも嘘とは思えないんだよな。合成ならこんな笑顔は撮れない)
フォトの中でカズオミとアイカは仲良く何かの作業をしている。顔は全く似ていないのに心の繋がりが見えるかのようだ。
〖まるで実の親子のようだ〗
声を出さずに呟いた言葉を、正しくカズオミは拾ったらしい。青い瞳をやや細めて口角を上げた。
〖よく言われたものですよ〗
それは唇の動きを見ていた私だけが拾えた言葉だ。
自分が愛した女が違う男との間に作った娘を、それでも愛せるのか。まさかと思うが、実は不倫関係でカズオミの子とかいうオチではないと信じたい。
【そんなある日、愛華は亡くなりました。とある旅館で身を乗り出し、誤って落ちたということでした。生きていればともかく、亡くなった人間はどうしようもない。それから何年もの時が流れたわけです】
「そうしてある日、アイカさんはとあるホテルで身を乗り出してバランスを崩し、亡くなったそうです。生きていればともかく、亡くなってしまったなら何もできない。そうして数年の時間が流れたと、ニッシーさんは言っています」
そこで皆も気づいたらしい。
あくまでこのカズオミが可愛がっていたのは姉の方であり、弟には全く興味がないという事実を。
【先日、今まで実際には会ったことのない優斗が訪ねてきましてね、こう言ったわけです。
あの愛華に文通相手などいた筈がないのに、あの人の名前を出して接触してきたサルートス国人がいた。誰が仕掛けてきたのかと思って見に行ったら、14才の女の子だった。その女の子は愛華しか知らないことを知っていた。婚約して繋がりは作ってきたが、あの子を二度も失いたくない。自分が昔もらった腕輪は渡してきたが、どうかあの人の為に、今度は完全に身を守る物を作ってほしいと】
「えっと、・・・ある日、今まで一度も会ったことのないユウトさんがニッシーさんを訪ねてきて言ったそうです。
アイカさんに文通相手などいた筈がないのに、そんな嘘をついて接触してきたサルートス国人がいた。何の罠かと思って見に行ったら14才の女の子だった。その子はアイカさんしか知らないことを知っていた。当座の関係として婚約はしてきたが、あの子を二度も失いたくない。昔、アイカさんに自分がもらった腕輪を渡してきたが、今度はあの子の為に完全に身を守る物を作ってほしいと」
静かな時間が流れた。
カズオミは冷めたお茶を飲み、ふぅっと落ち着いた様子である。
誰もがお互いの顔を見て、先に口火を切るのは誰かを譲り合い始めた。
「フェリルド、お前はさっきから何を黙っておるのだ。何か言うといい」
なんで私なのだ。
以前から思っていたが、うちの父はさりげなく身勝手だ。
「つまり、こういうことです。アレナフィルはリンデリーナが殺されるのを目の前で見てしまって倒れ、数日間、意識不明でしたが、目覚めた時には全ての記憶を失い、言葉も分からなくなっていました。それは、それまでのアレナフィルの記憶を失ったこと以外に、大事なことが一つあったのです。ファレンディア国人のアイカ・トドロキ。倒れて目覚めた後、フィルの意識はそれまでのフィルではなく、アイカ嬢の意識と切り替わっていたということが」
【フィルちゃんは母親のリンデリーナさんが殺される際に倒れ、数日間目覚めませんでした。そして目覚めた時には全ての記憶を失ってサルートス語を全く理解しない状態でした。それは記憶喪失とされましたが、それまでのフィルちゃんの意識はそこで切り替わり、アイカさんの意識が出た状態だったと、フェリルは言っています】
【なんと母親が殺されていたのですか。どちらも本当に母親に縁のない子だ】
そうかもしれない。だからアレナフィルは母親というものに憧れを抱くのだろうか。
エイルマーサに抱きしめられながら、アレナフィルはいつも幸せを感じている様子だった。
「亡くなった筈のアイカ・トドロキは病院でアレナフィルとして目覚め、当たり前ですが、彼女はサルートス語が話せず、理解できず、ファレンディア語しか話せませんでした。それをバーレンが一年でサルートス語を理解できるところまで持っていきました。そしてファレンディア時代の記憶があるアレナフィルは、幼年学校も上等学校も片手間に授業を受けて、いい成績を取り続けているわけですね」
私が言った言葉を、バーレミアスがカズオミに通訳している。
「待て。・・・待ちなさい、フェリルド。お前は知っていたのか?」
「ええ。だからバーレンを付けたんじゃないですか。ファレンディア語が分からなくても、法則性のある言語を話していることは分かりました。だからバーレンにどこの国の言葉かを特定させ、後はうちのフィルにどこかが仕掛けてきた可能性を考え、何かあった時に被害が少なくてすむようにと、平民が通う幼年学校に行かせたんです。・・・いずれ私の小さなフィルが戻ってくることも考えていましたが、結局、あの子はあの時から今のフィルのままです」
「そんな大事なことをっ、そんな大事なことを何故言わなかったっ!」
「落ち着いてください、父上。もう年なんですから血圧を上げても仕方ないでしょう。話す時間はまだ十分にありますし、昔のことじゃないですか」
「兄上。何故、何故話してくださらなかったんです。そんな大事なことを・・・」
父と弟がかなり非難がましい目を向けてきた。
何故、いつも私だけが責められるのだろう。人生はあまりにも理不尽で満ちている。
「様々な理由を考えれば考える程、簡単には答えを出せなかったからだ。
小さなフィルはどこかで催眠教育を受けさせられて、自分がファレンディア国人だったと思いこんでいるだけかもしれない。かなり高度な整形手術を受けた子供を送りこまれただけかもしれない。フィルこそが洗脳され、生きた自爆兵器にさせられたのかもしれない。
何も気づいていないフリをしながら、何年もかけて私とバーレンはフィルを観察し続けてきた。
だが、サンリラで出会ったファレンディア人を見るなり、フィルは気を失って倒れた。バーレンにはその青年が弟だと、目覚めたフィルは語った。
フィルはフィルで、自分の中にあるファレンディア人の記憶は夢か何かで、自分の気がおかしくなっているかもしれないと不安だったらしい。あの子はユウト殿に会って、やっと自分がかつてはアイカと呼ばれていたファレンディア人であることを確信できたわけだ」
バーレミアスがせっせとカズオミに通訳しているが、結局はお互い様だったわけだ。
ファレンディア国であっても、サルートス国であっても。
共にアレナフィルに係る人間は、あまりにもおかしいと、何かを仕掛けられたのではないかと疑っていた。
【ま、そういうわけです。というわけで、外見はお宅のお嬢さんかもしれないが、中身はとっくに成人した、それも親と同じ世代の子供なんて薄気味悪いだけでしょう? 私は迎えに来たのですよ。この際、あの子を手放しませんか? 今までは可愛い子供を装っていたかもしれないが、あのまま生きていたらそこのお父上と叔父君と同じ世代の女です。知ってしまえば日々の生活だってぎくしゃくしてしまうだけでしょう】
「えーっと、ニッシーさんは、そういうわけで、自分はフィルちゃんを迎えに来たのだ。外見はウェスギニー家の令嬢であろうと、中身はフェリルやレミジェスさんと同じ世代の外国人女性。そちらも持て余すだけだろう。知らなければ可愛がることができても、知ってしまえばぎくしゃくするだけなのだし、ここはもうこちらで引き取らせていただくと、そう言ってますね」
何度目か分からない沈黙が流れていく。
ふっと、鼻で笑ったのは父だった。
「ま、よくできた作り話でしたな。うっかり信じてしまいましたよ。ですがそれはあり得ない」
【子爵は、よくできた作り話でつい信じてしまったが、それはあり得ないことだと言ってます】
【ほう?】
ほとんど同じ世代の二人が喧嘩を売るかのように睨み合う。
「うちのフィルの中身がフェリルド達と同じ世代? あり得ない。あの子は今の年でさえ、あまりにも子供なのだ。精神年齢は10才と言ってもいいあの娘が30越していることなどあり得んっ」
【フィルちゃんがこの二人と同じ世代などあり得ない、あの精神年齢は10才だ。それは無茶がある話だ、笑止千万と言ってます】
だが、カズオミも負けていなかった。
【はっ。何の為に愛華の成育環境を話したと思っている。あれは結局家族の愛に飢えている。それだけだ。そんなバレバレな演技に騙されるとは情けない。たとえたくましく育つのだよとあれこれ世間を教えたつもりでも、所詮は祖父母から一人娘として育てられた愛華は昔から抜けているのだっ】
「えーっと、どうしてアイカさんの家族環境を話したと思っているのですか、アイカさんは親の愛に飢えていました。あのようなバレバレな演技に騙される人生経験ではないでしょうに。所詮、祖父母に一人娘として育てられたアイカさんは昔から抜けているのですと、ニッシーさんは言ってます」
肝心の本人、そして保護者たる父親の意見はどこに行ったのだろう。
私のゴロゴロむふむふウサギを誰もが狙っていて、勝手に所有権を主張する問題が発生中だ。
二人共、アレナフィルに対して何の権利もないよな?
【子爵夫人も自分の息子程の年の女が、外見は子供だからと甘えてくるのですぞ。気持ち悪いだけでしょう。はっきりとご夫君にそう言うべきですな】
「子爵夫人も、中身は息子程の年なくせに、外見だけ子供だからと甘えてくる少女など気持ち悪いだけでしょう、遠慮なく子爵にそう伝えるべきですと、ニッシーさんは言っています」
「え? ・・・いえ。フィルはフィルですもの。あの中身が二人と同じ世代と言われても・・・。うちのフィル、何かあるとすぐ泣いてしまう子ですのよ。本当にそれは何かのお間違えではないかしら」
【フィルちゃんが二人と同じ世代と言われても、何かあるとすぐ泣いてしまう子供だけに到底信じられないと、子爵夫人は言っています】
【単にあれは甘やかされたいだけです】
つい、私とバーレミアスは頷いた。
「兄上、彼はなんと言ったのですか?」
「あれは甘やかされたいだけだと言った」
残りのウェスギニー家全員が思わず頷く。
実は誰もが知っていることだった、その真実。
「ちょっと待て。フェリルド、お前はファレンディア語を理解しているのか」
「していますよ。一度はフィルのことを調べようと思いましたからね。外国人では調査がかなり難しい、いや、無理だと判断したから行きませんでしたが、娘がいきなり外国語しか喋れない状態になったんです。父親がどうしてその語学習得を躊躇うと思いますか」
「ならば何故今まで言わなかったのだっ」
【どうしてファレンディア語を理解しているのかと子爵は尋ね、フェリルは娘がその言語しか話せなくなったなら父親がその言葉を学ぶのは当然だ、ファレンディアに調査に行かなかったのは外国人排斥傾向が強くて調査できないからだと言いました。すると子爵は、どうして今まで何も言わなかったのだと言いましたね】
何故、今まで父達にそのことを言わなかったか。
改めて問われても、「言っても意味がなかったから」に尽きる。
「ですが父上。今、こうしてアイカ嬢のフォトを見せてもらい、更にはユウト殿との関係を知るニッシーさんが来てくれたから、そういうこともあるのかと思えますが、今までファレンディア国におけるフィルの情報は集められるものではありませんでした。フィル本人でさえ、ユウト殿と再会してやっと本当に自分がファレンディア国で生きていたことを確信した程度です」
「む・・・」
「何よりフィルはずっと、小さなフィルを自分が乗っ取ってしまったのではないかと悩んでびくびくしていたのですよ。サルートス語を覚え、そうして私に打ち明けようとしては唇を噛むあの子は、いつだって打ち明けることで家族を失うことに怯えていました。ユウト殿と出会い、ここに至っても未だにフィルは私達に打ち明けるのを恐れている。ニッシーさんの話を聞いてやっと理解しました。フィルはもう家族に捨てられたくないのです」
父もそんな荒唐無稽な話を信じる気はないのだろう。
それでも私がファレンディア語をマスターしていたこと、未だにバーレミアスをアレナフィルにつけていること、そして不自然なアレナフィルの婚約等が一筋のラインとなって繋がった筈だ。
アレナフィルはあまりにも異常だった。そしてアンバランスだった。
やがて父が力なく呟く。
「捨てるわけないであろうが」
「幼くして母を亡くし、父はたまに顔を見に来るだけで祖父母に育てられ、その祖父母は他界。父親の所に引き取られてみれば、違う妻子が父の家にはいて、厄介者扱い。若い身空で弟の家政婦をしながら、その弟の為に身を引いて自立したものの、その容姿が原因で転職続き。・・・そして不慮の事故で死亡したと思ったらいきなり言葉も通じない場所にいて、サルートスの記憶などないまま幼女。なんとか言葉を覚えたものの、そこでサルートス国人の父親に、自分は外国人であなたと似た世代の年だと言えば、精神病院行きだということぐらいは理解していたと思いますよ」
「それはそうだが、お前にそんな繊細さなどなかろうが」
私はこの家の長男で子爵を継いでいる身だ。
しかしこの家で一番冷遇されているのではないかと、たまに思うことがある。特に父親からのいびりがひどい。
「フィルとて私に信じてもらえたとして、今度は『中身は同じ世代です』とかいう娘に普通の父親はどんな目を向けるかを考えずにはいられなかったでしょう。
ファレンディア国は遠い。子供が家出しても辿り着けない程に。
自分の記憶が正しいものなのか、妄想なのか、気が触れているだけでファレンディア国に行ったところで自分の痕跡など全くないのではないか。父親に拒絶されたとして、どうやっても帰れぬ祖国。
あの子が辿り着いた結論は、かつての弟を育てたように双子の兄を立派に育てあげ、自分はあまり家の迷惑にならぬよう地道に役人生活を目指し、後はのんびり過ごそうということだったのでしょう」
改めてフォトを手に取れば、アイカはたしかに美しい娘だった。
「その父親も、これだけ美しい娘に何の不満があったのやら。思えばフィルは本当に親の愛に飢えている子でしたよ。だからエイルマーサ殿を母と慕い、彼女の健康を考えて成人病予防研究クラブなどを学校で立ち上げている。
マリアンローゼ殿が実の祖母ではないと知っても、フィルにとっては血縁などどうでもいい問題でしょう。実の父親ではなく、血の繋がらぬニッシーさんこそがフィルのことを知るや否やここまで迎えに来てくれる家族なのだから。他人でもフィルにとって、いえ、アイカ嬢にとってニッシーさんは紛れもなく自分の伯父だったに違いありません。
だけど人は血縁があろうがなかろうが自分を捨てていく存在だと、フィルは諦めている。あそこまで貴公子達からちやほやされていても最初から夢を見ないのは、そこがあるからかもしれないですね」
ずっと考えこんでいたレミジェスがそこで尋ねてくる。
「兄上。では、フィルがファレンディアに行きたがっていたのは・・・」
「バーレンが聞き出したところによると、祖父母の家から取ってきたい物があるらしい。家は祖父母からアイカ嬢に相続されたらしいが、アイカ嬢の死に伴って父親の物となった。つまりユウト殿がいれば、こっそり入って形見や愛用の品を取ってくることもできるということだ」
「ああ、それでですか。だから旅行が終わるまで婚約と。ですがそこまで仲が良かったなら今は他人なんだし、結婚もできますよね?」
「フィルなりに年の離れた弟に手を出す変質者ではないという誇りがあるんじゃないか? なんと言っても幼児の弟をお風呂に入れてあげてたんだろう? 六人がかりの上級生も幼児サイズにしか見えなかったそうだし」
私はアイカとユウトが笑顔でいるフォトを指差した。
ウェスギニー家全員、そこであのアレナフィルの上級生叩きのめし事件を思い出したらしい。私にしても隠し子を疑われて大変だった。
「なるほど。道理でフィルは全く少年に興味を持たなかったわけです。ですが今は子供なのだから・・・。うーん、だから兄上はフィルを好きにさせていたのですか?」
「中身は成人してる以上、いかがわしい本を読もうが、酒の蘊蓄を語ろうが、旅行に行こうが好きにさせるさ。さすがに体は子供だから酒は飲むな、無茶はするなと言うが」
「そういうわけでしたか。ですが中身は三十代、・・・三十代? 本当に三十代ですか?」
「この弟が育ったのがアレで、年齢差とあれから10年近く経ったことを考えたらそうなるな」
レミジェスは少し考えてから顔を上げる。
「分かりました、兄上。今まで親が恋しい子供なのだからあの家で兄上を待つのも仕方がないと思っていました。ですが中身は成人しているのです。ここはもうフィルは私が引き取り、きちんと教育しましょう」
「ちょっと待て。なんでそうなる。それならフィルは引き続きあの家で暮らせばいいだけだろう。中身はファレンディア人なんだぞ」
「それまでの記憶が消えたとか言われても、あまり接触がありませんでしたからね。私にとっては今のフィルがフィルです」
嘘つけ。
今までレミジェスは私の意向あってアレナフィルをあの家から出さないのだと、それだけ私にとって意味がある行動だと思っていたからアレナフィルに対し、そこまで手を出さなかっただけだ。
単に私が中身は成人しているからアレナフィルを好きにさせていたと知り、遠慮する必要はないと判断したのである。
「そうだな。フェリルド、そういうことなら中身は成人しているのだし、親が恋しくて夜泣きすることもあるまい。言い聞かせれば年齢相応の少女のふるまいもできるだろう。やはりフィルは私が育てよう。どうせ以前のアイカ嬢でも祖父母に育てられていたのであれば構うまい」
「ちょっと待ってください、父上。フィルは私の子です」
これで父は変なところで情にもろいところがあった。
子供にとって親は大事だと思えばこそ、無理に強奪はしなかったが、アイカの身の上を聞けば、祖父母に育てられることに忌避感はないと判断したのだろう。
生まれ変わるという昔話は我が国にもちらほらあるが、父も私がファレンディア語を習得してまでアレナフィルの観察を長年に渡って行い続け、父と弟に真実を告げることなく子爵邸にアレンルードだけを寄越していた意味を理解したらしい。
その上で危険はないと判断したから王族とも交流させているのだと。
私には分かった。
今まで経済力で孫娘を釣っていた父は、その孫娘から更に愛されるコツは、ただ愛してあげることだと見破ったのだと。
「あの、・・・フェリルド様。つまり以前のフィルはそれだけ母親との縁が薄かったのでしょう? それは、私も母にはなれませんけど、乳母の経験ならありますもの。烏滸がましくはありますけど血縁がなくてもそちらのニッシーさんと仲良くしていたフィルなら、私も育てられると・・・」
「マリアンローゼ殿。乳母以前に、今のフィルにとってあなたは唯一の祖母です」
マリアンローゼも母性本能を刺激されてしまったのか。前世では成人した外国人女性だったかもしれないが、今のアレナフィルはまだ14才の子供である。
(かえってレミジェスより育てやすいよな。いつでも構って、構ってと甘えてくる子だし)
気持ちは分からないでもない。だが、あまりにもひどい話だった。
どうせ中身はもう成人しているなら子供には聞かせられない話も聞かせられるし、その上で外見は可愛い少女として甘えてくるのだからと、誰もがアレナフィルを狙い始める。
あの子は私の娘なのだが。
中身はどうであろうと、今までもずっと父親として育ててきたのだが。
【何を言い合っているのですか?】
【中身は成人しているから手のかからない愛玩動物として、誰もがフィルちゃんを父親から奪って自分のものにしていいのではないかと言い始めました】
【それなら私も参戦しなくてはなりませんな】
しなくていい。
【言っておきますが、私がアレナフィルの父親なのです。私はあの子を手放す気はありません。
「あなた方も落ち着いてください。フィルは今まで通りです。実際、フィルにとって唯一の祖父、唯一の祖母、唯一の叔父として十分好きに関与しているでしょう」
ニッシーさんも色々と思い入れはあるでしょうが、今のあの子は父親の私を最愛の恋人、叔父のレミジェスを理想の結婚相手としているウェスギニー家の娘です。私もあの子が結婚したい相手を見つけるまでは手元におくつもりです】
我が家の泣き虫な癒しウサギを、どうしてあの子にとって殺伐とした思い出しかない国へ引き渡さなくてはならないのか。
長く生きたところで、成長が遅い子だって存在するのだ。
【それは手強いことだ。女を守り通せる男を選べと教育したのが裏目に出たか】
【いいですか、ニッシーさん。アレナフィルをファレンディアに連れて帰ったところで、あなたに何かあればあの子にはユウト殿しかいません。それぐらいならこの国であの子を愛する家族に囲まれて育つべきです。あの子は決して孤独ではなかったのですから】
カズオミには、アレナフィルはうちの家に生息する固有種ウサギなので譲れないと伝え、だけど一緒に暮らすぐらいは目こぼしすると伝えたら、それならそれでいいと思ったらしい。
【そうですな。ファレンディアに連れていく方が厄介なことになるかもしれん。私もあの子から家族を奪いたいわけではないのですよ】
結局、明け方近くまで二ヶ国語でアレナフィルについて語り合った。そしてもうアレナフィルには何も言わず、好きにさせておこうということになった。
何故なら誰もが、アレナフィルを泣かせてまで白状させても意味がないと判断したからだ。
「もうフィルはフィルでよい。大体、未だにあのたどたどしい喋り方のやめ時が分からない子ではないか。試験点数はともかく、人間社会においてフィルはどうしようもない子なのだ」
「そうですわね。フィルを問い詰めても空回りしてルードが困るだけですわ。何より中身が幾つだろうが、ルードの方が余程しっかりして頼りになる子ではありませんの」
「それ以前にフィルの嘘のつき方が壊滅的にヘタクソなのはファレンディア時代からって、つまりもう一生治らないってことですよね?」
アレナフィルと話を詰めるより、カズオミと話した方がはるかに話も早い。疑問点もすぐに解消される。
その婚約者の勤めるセンターから届く予定のウミヘビを壊すかもしれないと言われて意味が分からなかった父達も、そのセンターの本来の経営者はユリナの父親で、ユリナの一子であるアイカへと引き継がれる筈がトオルというユリナの夫に移り、そしてユウトが受け継ぐと聞けば、納得するものだった。
カズオミはその研究センターを憎んでいるのだ。
本来の相続者であるアイカが家を追い出されなければ、そんな亡くなり方もしなかっただろうに。
「道理でユウト殿、フィルの言いなりだったわけです。三年で解消される婚約にすぎないというのに、こちらに高級家具を贈ってこようとした上、ファレンディア旅行の際には自家用船での送迎予定ですからね。宿泊には自宅を完全提供し、高級旅館と遊園地での接待を行うという話でしたが、もしかしたらフィル、サイフを一度も開かないで帰ってくるかもしれませんね」
「何だそれは。どこも弟というのは経済観念が壊れてるものなのか?」
「他にもそんな弟を知ってるのですか、兄上?」
「は?」
ユウトがどこまでも融通してくるのは、本来は姉の物だという思いがあるからで、アレナフィルにしてもある程度の余剰分が倉庫にあることを知っていて遠慮なくねだったのだろうと、カズオミは言った。
何でも家を出て一人暮らしを始めるまで、研究センター内で弟の秘書のような作業もたまにしていたらしく、権限として全ての研究段階や倉庫内のリスト一覧他、彼女は見ることができていたらしい。経営者の娘なのだから当然か。
(いや。だから後妻は追い出しにかかったのか? 秘書が全てに目を通せるのは当然だ。だが、その秘書によっても権限の度合いは違うだろう。まさか父親は・・・)
新しい疑問が発生しないわけではなかったが、ずっと意味が分からなかった数々の疑問が、カズオミが来て一晩で解消していた。




