59 その夕食は暴風警報
早朝からサルートス上等学校の警備棟に行けば、グラスフォリオンとアレンルードが素振り訓練をしていた。
頑張れと言ってやりたいが、傘や物干し竿や農作業具といった物を使っての素振りは、違う方向へ進んでいるような気がしてならない。
息子よ、お前は一体何を目指しているのだ。
「あれ? 父上、おはようございます」
「おはようございます、大佐」
「おはよう。いつも息子がすまないな。得物がかなり独特だが、通行人の杖を奪って戦うのか?」
「はい。丸腰でもとっさに戦える物を見極めて使う訓練です。ある程度慣れたら、すぐに壊れることを考えて時間稼ぎとしてのみ使用し、その間に次の攻撃手段に移る反射訓練に移ります」
そんな自分に疑問を抱かないのか、グラスフォリオン。
「近衛はそんな戦い方をしなかったと思うが」
「あ、それはヴェインさんに教わったんです、父上。だけどヴェインさんのは何でも使って敵を倒すやり方で容赦ないから、リオンさんに相談して相手の攻撃能力を奪う程度に留めた方がいいねって、それで教えてもらってたんです」
工作部隊では普通は武器になるとも思えない物を武器として使う。それは一撃必殺というものだ。手加減などあり得ない。
「お前はどこの傭兵になる気だ、ルード」
「・・・・・・僕は普通に叔父上みたいな大人になります」
「まあいい。やりたいならやってみなさい。善良な一般人に攻撃しないならそれでいい」
「はい、父上」
息子の頭を軽く撫でてから、私は持っていた書類入れを渡した。
「何ですか、これ」
「もらい物のチケットとパンフレットだ。今日はここまでにして、シャワーを浴びて授業の用意をしなさい」
「はい。今度は何の試合かな。叔父上とリオンさんの分もありますか?」
思えばナイター試合に子供達が行くのも、私が試合観戦や劇場のチケットをもらう度に、子供達に渡していたことも影響していた。
そう考えれば、うちの子供達の夜歩きは私にチケットを渡してくる見合いトラップを仕掛けた者の責任ではないだろうか。
ちなみに私に渡されるチケットは常に一人分なので、レミジェスはそれを現地で払い戻しして代わりに並び座席三人分を購入していた。なんてひどい奴だと言われたこともあるが、いつの間にか机に差出人無しでチケットが置かれている方が怖い。
「四人まで大丈夫らしい。好きにしなさい」
「はーい。じゃあリオンさん、今日もありがとうございました」
「ああ。頑張っておいで」
娘はまだ父親に「パピー、一緒におでかけ、しよ?」と、可愛らしくおねだりしてくるというのに、息子はすっかり可愛くない。
グラスフォリオンにも頭を撫でられて笑顔になったアレンルードは、弾んだ駆け足で男子寮へと去った。
「ヴェラストールに行く際の護衛を外されたと聞いたが」
「はい。エインレイド様の外出時の護衛は今後全て外されることとなりました。あくまで校内のみと。クラブの買い出しなどは先に王宮へ報告し、近衛の出動を要請するようにとのことです」
「勝手に決められても私は了承していない。フォリ中尉はそれを了承したのか?」
「いえ。現在、私は警備棟と王宮との双方に所属しておりますので、それは警備棟ではなく王宮の指示に従うようにとの命令です。つまり私だけに命じられております」
「つまり警備棟と王宮とが護衛を行うのか? 連携もせず?」
少し迷ったようだが、グラスフォリオンが唇を舐めてから口を開く。
「おそらくエインレイド様との偶然の出会いを演出するのではないかと。ご令嬢が外国人と婚約したことは知られており、ここは望みのなくなったアレナフィル嬢の代わりに・・・という思惑かと察しております。私が外されたのは、近づく前に阻止されるからでしょう。王宮が現在エインレイド様の護衛に考えている士官は、どなたも弟妹や従妹等、親族が上等学校一年生もしくは二年生の者ばかりです。どうやら臨時で士官となった者もいる様子です」
「なるほどな。そいつらの戦闘能力は?」
「見た目は悪くありません」
戦闘能力を尋ねられて容姿評価で答えてくるってどうしようもなくないか。
そりゃ危険などまずないだろうからそれで十分なんだろうが。
「つまり護衛能力は期待できないわけだ」
「ここの治安は悪くありません。目下の問題はヴェラストールでしょう。私もいきなりのことでしたのでこっそりと護衛に就くか、もしくはレミジェス殿に頼んでレスラ基地の支援を頼むべきかと考えましたが、そうと知られては王宮上層部のどなたかの怒りを買いかねません。フォリ中尉はお立場上、今回は同行なさらぬということでしたが、相手の目的がどれか分からぬので、動かせる人間にも苦慮なさっておられる様子です」
「ふん。王子を誘拐しようとした集団を阻止してみせた近衛の実績と、運悪く巻き添えで大怪我を負った子爵家の娘といった筋書きか」
「その可能性もあるとフォリ中尉は考えておられます。ですがあちらも本当に王子を誘拐されては困る上、では誘拐犯が捕まって狂言と分かるのもまずいわけですから、どういう者達を雇うか分かりません。近衛にとっても強引にねじ込まれた形になっておりまして、下手に言い立てて外されるより、様子を見るつもりの者が大半です」
「そうか」
アレナフィルがガルディアスにねだっていたという資料は一般人の正当防衛。
恐らくガルディアスが苦慮しているのは、王子ではなくただの子爵家の娘の護衛が近衛を相手にどこまで攻撃や反撃をしてもいいかといった問題だ。
ガルディアスが気に入っている妃候補ならば護衛をつける理由もできる。しかしアレナフィルが外国人と婚約してしまったことは知っている者は知っている情報だ。
勿論、誘拐集団相手であればどれ程に反撃したところで構わない。だが、アレナフィルを傷つけようと考えるのならば、わざと手薄な状態を作り、守ろうとして力及ばなかった、もしくは守るフリで手が滑った等と近衛の誰かがアレナフィルの体や顔に傷をつける可能性もある。
外国人と婚約したと言っても解消してしまえば終わりで、後顧の憂いを断つとはそういうことだ。
「仕方ない。これで帰宅が数日遅れていたらとんでもないことになっていたな。工作部隊は届け出無しに許可を取ることができる」
競争相手から外れたアレナフィルなら誰も気にしなくなるものかと思いきや、もうその存在が許せないのだろう。
そして婚約したというのに未だに王子の周囲をうろちょろしていると、アレナフィルが目障りでたまらないのだ。
グラスフォリオンを外したというのは、彼ならアレナフィルを守り通すからだろう。既に決意した眼差しで、グラスフォリオンが私を見つめてくる。
「それなら是非私をお使いください、大佐」
「駄目だ。ネトシル少尉は誰がどう見ても、エインレイド王子やアレナフィル達とは別の場所で無関係に過ごしていなくてはならない。分かるな?」
「・・・はい」
そんなつまらないことでアレナフィルをこの先も守り続ける士官を削がれるわけにはいかない。何より学校に派遣されてくる護衛は私の言いなりになる人間が望ましい。
昨夜の話によると、ミディタル大公妃には私から挨拶に行けば力を貸してくれるということだった。
うちの娘はとても運がいい子のようだ。
(昨日の今日なら忘れられてはいないだろう、いくらなんでも)
というわけで、私は王城へ出勤した後、昼の休憩時間に抜け出してミディタル大公邸へと向かった。
エントランスまでは薄手のコートを着ていたが、それを預けた際、下に着ていた三つのボタンを外したドレスシャツ、そして金のトルク型首飾りが現れてしまい、それを見てしまった家令の表情が固まる。
「礼を失しているのは承知の上です。ですから上着を羽織ってきたのですが・・・。実は、昨夜の食事会で王妃殿下と大公妃殿下が興味をお持ちになられた仮装で参りました。恐らく一目見たら気がお済みになるかと。後で着替えさせていただけますか? 私もあまりこういう恰好を人に見られたくは・・・」
「そういうご事情が・・・。どうぞ子爵様、こちらの小部屋をお使いくださいませ。その間に通路にいるメイド達も遠ざけて参ります」
女という生き物は時に男に対して無情な要求を突きつけると、その家令も知っているのだろう。
とても気の毒そうな表情でバスルーム付きの小部屋を案内してきた。鏡もあって、身だしなみを整えられる。
それを幸い、髪も乱れた形にして片耳だけ耳飾りをつけたのだが、うちの娘の趣味が私も分からない。
そうして香り高い白薔薇を腕一杯に抱え、私は大公妃夫妻が待つ部屋へと案内された。
「遅くなりましたが、母の従妹にあたる妃殿下へのご挨拶に参りました。娘に言わせると、白い薔薇は気品のある方にしか似合わないそうです」
「・・・・・・」
「ぶふぉっ」
両腕に抱えきれない程の花束を、わなわなと顔を震わせている大公妃に手渡せば、同じ室内にいた大公がゲラゲラと笑い転げている。
どこまでも仮装に徹するなら情熱的な愛を告げる赤い薔薇だったのだろうが、さすがに大公妃に粉をかける程、私は命知らずではない。
「どこの無法者かと思ったわ。何なの、その恰好は。それが挨拶に来る恰好ですかっ。どこの男娼なのっ」
「はっはっは。なかなか似合ってるではないか。どこぞのジゴロのようだ」
「我が子を腕に抱いていて誘拐犯と間違えられる格好にご興味がおありのようでしたので再現してみたのです。うちの娘への理解が深まるかと思いまして」
「それは王妃様よっ」
無茶を言うものだ。王妃は城にいて、登城するには相応しい服装というものがあるのに。
さすがの私も申し訳ないといった顔で言い訳するしかなかった。
「さすがに王宮へこのような恰好で行くのは・・・。私にも常識がございます」
「あなたが言えるセリフですかっ。神妙そうな顔をすれば誰もが騙されると思うんじゃないわよっ」
怒りっぽい人だ。演技だと見抜いたらしい。
それでも怒ったことで気がすんだか、大公妃はこほんと咳払いした。
「それで何の用事で来たのかしら?」
「いえ。昨日、挨拶に来るのを待っていらしたということでしたので、挨拶に来てみました。そして来たら力を貸してくださるおつもりということでしたので、力を貸していただきに参りました」
「どこまで身勝手なのっ」
「やはり図々しかったでしょうか」
よく娘がやっている、しゅんとした表情を作ってみたが、そうなっては仕方がない。
大公家が無理となればやはりプラン2に移るしかあるまい。
「駄目だと言ったらどうする気なの?」
「違う手段を取ります」
隠す理由もないので正直に答えてみた。
「どこまであなたは勝手なのっ。保険を掛けた上で頼みに来るだなんてどこまで図々しいのっ」
「やはり駄目でしたか」
「駄目とは言っていないでしょうっ。まずは話を聞かせなさいっ」
何故、私が怒られるのか。
王侯貴族社会は理不尽ばかりだ。
そこで私は、仲の良いアレナフィルが外国人と婚約してしまって傷心だろうと決めつけられている王子エインレイドに、他の令息令嬢達が近づく為の包囲網が敷かれつつあることを説明した。
「あのネトシル少尉が黙って拝命せざるを得なかったところを見ると、かなり厄介な状況かと」
本来はエインレイドの護衛のことを私抜きで決められても、グラスフォリオンとて私からの命令を優先せねばならない。だが、私の娘に失恋したと思われているグラスフォリオンの所属先は王城を拠点とする近衛だ。
そこには、「お前はどこから出向させられたと思っているのだ」というそれが匂わせられていた。私の命令を優先すれば、グラスフォリオンに対して制裁的な何かが発動するだろう。
厄介なのは、今回のことを仕組んだ者は偶然の出会いを演出すべく王子の行動を把握したいだけで、王子に危害を加える気がないことだ。
王子の取り巻きにしたい令息もしくは令嬢がいるのだろう。そいつら全員が手を組んだだけかもしれない。
だが、まさか上等学校におけるクラブ活動外出時の護衛にまで近衛が口出しし始めているとは思わなかったらしく、大公妃も顔を引き締める。
「エインレイド様のことなら、最初からそうと言えばいいのよ。それで何を手助けしてもらいたいのかしら?」
「いえ。エインレイド殿下には近衛もさすがに護衛の手を抜かないと思いますので、そちらは心配しておりません。クラブ活動の外出など、どうせ突発的に決まったとか言って、あちらが間に合わないように小細工すればいいだけですから。そうではなく、あくまで私は、巻き添えを装ってうちの娘が傷つけられる可能性を消す為にお願いに来たのです」
「ミディタル家から護衛を出してほしいということ? たしかにウェスギニー家は領軍を持たないものね」
ある程度の警備や護衛といった者は雇っているが、軍というのは難しいもので時に反逆の疑惑をかけられかねないのだ。
ウェスギニー領はそれなりに治安に力を入れているが、あえて軍は持っていなかった。
「いえ。今、アレナフィルは外国人との婚約話が発生しております。ですからミディタル大公家の養女としてアレナフィルを迎えようとする手続きをしていただきたいのです」
「え? そ、それは・・・。私にアレナフィル様の母親になってほしいということかしら?」
頬が少し赤くなっているのだが、大公妃は風邪だろうか。怒りの波動は感じないが。
少しそっぽを向いていて、そうなるとなんだか高い謝礼を吹っ掛けられそうな予感が私の脳裏をよぎった。
もしかしてうちから取れる謝礼金を弾き始めているのだろうか。だが、仕方がない。
「そうですね。そのつもりがあるという形で、数年間どうにか維持していただけないでしょうか」
「・・・何ですって?」
私は誤解を招かぬようにと、丁寧に説明した。
大公家に何ら不利益が出るものではないのだと。
「貴族間の養子縁組は人身売買にならぬよう、かなり綿密な調査が入ります。年齢的に半年から一年はかかることでしょう。できれば三年以上かかるよう、どうせなら五年か六年、調査を停滞させてくださるとありがたいのです」
「審査を早めるのではなく、五年近くも引き伸ばせと?」
「はい。上等学校を卒業する頃になればエインレイド様の周囲も本当のお妃候補合戦が始まるでしょう。要はそれまでミディタル大公令嬢になる『かもしれない』という立場に、アレナフィルを置いてくだされば助かります。こちらで娘の身を守るそれは構築いたしますので」
「・・・はい?」
ミディタル大公家の有望な者を護衛という形で横取りする気もなければ、社交界におけるアレナフィルの保護をさせようとも考えているわけではない。
あくまで名義だけ貸してくれればいい。それも「審査中」を継続し、いずれ却下されることが前提だ。
「勿論、本当に養女に出そうなどと図々しいことは考えておりません。そんな書類は却下されて構わないのです。ただ、審査に数年かけてくださればそれで終わります。子爵家息女では護衛をつけるにしてもあくまで防衛一方ですが、大公家令嬢予定者ならば反撃及び攻撃も問題なく行えます」
「・・・・・・そう。・・・あなた、手放す気はないのね」
「はい。うちの娘はとても我が儘で困った子ですので、外には出せません。そんな不出来な娘でも、私にとっては可愛い娘。愚かな親心とお笑いくださいませ」
ぷるぷると大公妃の手が震えているのだが、やはり子爵家の娘程度を、書類だけでも養子縁組で受け入れるだなんてプライド的に許せなかったか。
本当に養女にする必要はないのだから、そこまで怒る程のことでもないと思ったのだが、人の感情とは難しいものだ。
「それでも養子縁組するかもしれない子だもの。たまにはこちらに寄越すのよね?」
「いえ。あの子はとても怖がりなのです。息子は大公家の強さに触れ、今や憧れと目標が混線しているようですが、娘は怯えきっておりましたので、あくまで書類だけのお願いにと。ガルディアス殿下がファレンディア人と交流なさった以上、その為の駒としてミディタル大公家という実家を使い、アレナフィルを確保しただけだと誰もが納得することでしょう。どうぞガルディアス殿下の煙幕の一つにお使いください。数年後には養女の価値なしとしてくださって構わないのです」
何故だろう。ミディタル大公がひーひーと腹を抱えて笑っていた。
ぱりんっと高い音がして、大公妃の持っていたカップの持ち手にひびが入る。
「見えない場所にひびが生じていたのでしょう。危険です、妃殿下。どうぞこちらにお渡しください」
「・・・・・・結構よ」
カップを受け取ろうとしたが、その前にソーサーへとカップを大公妃は戻した。
さすがは大公妃。優雅な仕草が見事である。
「とりあえず話は理解したわ。ちょっとガルディアスにも話を聞く必要があると思うの。そしてレミジェス様にもね」
「弟ですか? たしかに弟には子供達の全権を渡してありますが、実の父親は私なので、私の方が話は早いかと」
「あなたよりも話が通じるからよっ!」
ヒステリックな大公妃に、私は追い出された。
挨拶に行っても、ミディタル大公妃トレンフィエラの私に対する対応が変わらなかったのだが。
なんだかなぁと思いながら仕事用の軍服に着替え、王城に戻る。
「仲直りできましたか、ウェスギニー様?」
「挨拶に来ればいいという話だから行ってみたのですが、あまり変わらなかった気がします」
「女心なんてそんなものですよ。言葉通りにしてもうまくいかないことが日常茶飯事です」
「私では話にならないから弟を寄越すように言われました。それは弟も何かと貴婦人に人気ですが・・・。せめて未亡人ならともかく、私も弟を火遊びに使われるのは困ります」
「それは・・・。レミジェス様を近づけてはなりませんね。大丈夫です、他にも火遊びする相手など沢山おられますとも」
往復の移動車を運転してくれたフォルスファンドが慰めてきたが、養子縁組はアレナフィル保護を考えたベストな手段だった。
ミディタル大公家に娘はいないから誰もが納得しただろうに、やはり大公家の矜持が許さなかったか。ウミヘビというファレンディア製品は賄賂にならなかった。
「フィルお嬢さんがミディタル大公家と養子縁組するかもしれないとあれば、王弟令嬢予定者を守る為に過剰な攻撃も可能だったのですが仕方ありません。違う方向での前例を調べ直します」
「そうですね。妃候補から外れたら外れたでなかなか面倒なことです。こんなことなら学校ではもさもさ髪に野暮ったいメガネで変装させておくのでした」
「さすがにそれは無理かと」
そんなことをぼやきながら、王城に戻って仕事をしていると、近衛の方から何やら王子の護衛に関しては連携がどうだのこうだのといった接触が入る。
のらりくらりと言を左右にしながら相手の出方を見ていたら時間切れとなった。どうやらあちらも私がどう出るかを見たかったらしい。少しでも頼りにしているようなことを言えば、そこを一気に攻める気だったのだろう。
そして夕方には城に連絡が寄越され、大公邸に夕食がてら呼び出された。いい加減、娘の顔を見て癒されたいのに、どうしてランチで勘弁してくれないのか。
「昼に行ったというのに呼び出しですか」
「ええ。ガトルーネ殿、夕食のお誘いとなっては帰宅時刻がどれ程になるか分かりません。すみませんが大公邸に送り届けるところまでお願いします。帰りはうちの家の者に迎えに来させますから」
「それでしたら城の方が近いですし、夜間待機の者に申し送りしておきます。連絡をいただければ、すぐに送迎を行いますのでどうぞお使いくださいませ」
「ありがとうございます」
ミディタル大公邸の夕食の場には、何故かガイアロス侯爵家の当主もいた。そして男子寮で寮監をしている筈のガルディアスもいた。
どうやら養子縁組の届け出を出して数年間の審査を受け続けて時間稼ぎをした挙句、成人する頃合いで取り下げようという私の提案はかなりムカつかれていたようで、思いっきり責められた。
主にガイアロス侯爵家当主、つまり私の伯父と、ミディタル大公妃から。
「そういう時はまずこちらに言ってくるものだろう。どうしてうちを飛ばして大公家なのだ。そんなにもこの伯父は頼りないとでもいうのか」
「いえ。伯父上はガイアロス家が擁する令嬢にこそ力を入れるべきです。ですがあそこまで母に手厚かったガイアロス家ではありませんか。アレナフィルに豪華なドレスを着せて殿下とダンスするような舞踏会をセッティングしかねません」
王族との婚姻も多かったガイアロス侯爵家。ロマンチックな二人の時間を演出するテクニックもお手のものだろう。
うちのアレナフィルは妃狙いで生きている令嬢ではなく、おうちで甘やかされて美味しいものを食べて幸せに過ごしていたいウサギ精霊だ。変な王子妃ルートを作られてからでは遅い。
「殿下方に一番近いという娘を持ちながら何を言っておるのだ。その道筋をつけることこそ、そなたのすべきことであろう」
「うちの娘は社交界に出せない、どうしようもなく不出来な娘なのです、伯父上」
嫁ぎ先に外国のポルノ小説を私物として持っていくのはまずかろう。うちで婿をとるならどうにか隠せたとしても。
私は娘の趣味を否定しない、とてもできた父親だった。
「その為に教育を行うのだ。大体、ガイアロス家の娘がどうこう言うなら、そなたの娘もその一人と心得よ。うちの孫娘であろうが、甥の娘であろうが、ガイアロスの血筋に違いないのだ。それをそこで娘に殿下を射落とさせようと考えぬそなたは何なのだっ」
「伯父上、そちらにガルディアス殿下がご臨席です。的扱いされては傷つかれておしまいになるでしょう」
本人の前で言っていいことと悪いことがあるだろうにと、私は常識的な配慮を促す。
それなのに大公妃は私の味方ではなかった。
「ガルディアスはその程度のこと気にしません。全く何を考えているのかしら、この親子。口を開けば、子爵家の娘では恐れ多いですからの一点張り。しかも結婚相手が平民ならば平和に暮らせると思いこんでいるときたものですわ。平民こそ貴族のおこぼれにあずかろうと群がってくることも知らぬ愚かな小鳥、父親が現実を教えなくてどうすると言うの」
母親が気にしないと思っていても、息子は気にしているかもしれないではないか。
うちの母も息子の気持ちを無視する生き物だったが、さすが従妹だ。
「別に貴族でもかまいませんが、私はアレナフィルが婚家でいびられて悲しい日々を送ることだけは避けたいのです。ひたすら娘を思う父親の愛です」
「育児放棄している父親の言うセリフですかっ。もう完全に手放してうちに寄越しなさいっ」
「・・・それは困ります。私の愛する娘を、殿下を誑かした性悪娘として暗殺されてはたまりません」
「なんですってっ」
女親とは、息子に対して入れこむタイプが多いと言う。私はそんな世界にアレナフィルを行かせたくなかった。
あの子は我が家で可愛がられていればいい。それだけだ。
「私はアレナフィル嬢が妹になるなら養子縁組を締結してくれて構わないのだが・・・。成人するまでは養子縁組申請中の大公家息女予定者で、成人後にはそれを取り消して一気に私の妃にもらえるならそれもそれでいい。その時はガイアロス侯爵家の養女扱いになるとして」
やはりうちのウサギ精霊を諦めていなかったか。
へたに誰も可愛がることのできない立場を思うと同情するが、こればかりはどうしようもない。
「ご冗談を、ガルディアス様。うちの娘は母も平民ですし、何より娘は娘なりの未来計画がございます」
「あの定時で帰宅できる役人生活だな。だが、父上によるとアレナフィル嬢は男を手玉に取る悪女路線を行くとか。手始めにミディタル大公が篭絡されてくれるそうだ。ははっ、母上もいい面の皮ですね」
うちの娘が手玉に取る男はうちの父と弟だけで十分だ。いや、今は外国人の男も増えていたか。
何よりミディタル大公は怖すぎると、うちの娘、とっくに腰が引けていた。籠絡以前だ。
「何を笑い話にしているのっ。あなたも立場というものを考えなさい、ガルディアス。フェリルド様も少しは考えなさいっ。そんな養子縁組など後からつければいいのですっ。全く父親としてどこまで不出来なら気が済むのっ」
さすがは戦闘神の後始末係と呼ばれるミディタル大公妃。色々と気苦労も多いのだろう。
だが私は父親としてかなり愛情があふれていると自負している。
それなのに皆から父親としての意識がなさすぎだと責められ、やがて私個人への非難へと話題は移った。
「まさか蝶の種だと偽ってみせる虎の種がいたとは・・・。全くなんということだ。そしてフェリルド。どうしてお前も襲われそうになったというのならこちらに言わなかった」
種の印が出た祝いのプレゼントを考えていたならはっきり欲しいものを尋ねてくれればよかったのに。
何より人選ミスが激しすぎた。あれは伯父による盛大な嫌がらせかと、普通なら人間不信に陥る。
「いえ、そちらだけではなく誰にも言いませんでした。あの頃は皆が私を蝶の種と信じていたので、誰も私を疑わなかったのです。それに裸で女性客が泊まっている棟の廊下の天井に縛り付けられたのですよ。それ以上の処罰は必要なかったでしょう。可哀想ではありませんか」
「お前が言うなっ」
外見は母によく似ていた私だが、母に心酔していた弟は中身がそっくりだとも言われていた。私から見れば弟はとても素直な子で、あの身勝手な母とは全く似ていなかったのだが、皆が似ていると信じているなら口出しすることでもない。
私だから性犯罪者に対処できたが、これをあの弟に行われてからでは遅い。だから手引きした使用人を獣の餌にし、協力した奴らも薬で自白させてから処分したが、・・・本当に私ほど弟を愛している兄がいるだろうか。
私を襲った男は生きているが、その違いは雇用主であるウェスギニー家を裏切った者と、女を見る目のなかったダメ男との差だ。
母によく似た顔で、おとなしいとされた私ならば思い通りにできると思ったのかもしれないが、十分に性犯罪する未来は断たれたからいいとした。
けれども使用人として雇用していた者達は別だ。裏切りは許したらもっと大きな禍を持ちこむ。許せるわけがなかった。
もしもレミジェスが襲われていたらどうなっていたことか。
そしてその事実を明らかにして処罰しようとしたなら、それは本人達だけではすまない。
領主であるウェスギニー家を裏切って性犯罪者を手引きしたと故郷に知られた場合、本人は自業自得としてもその家族や親戚までも犯罪者の身内として職場から解雇されるからだ。家族や親戚までもが住まいを追われ、一家離散となる。
「落ち着いてください、伯父上。食事は心穏やかな方が消化にもいいそうです。うちの娘も現在、エインレイド様と高齢者の消化能力について自主研究中です」
「年寄り扱いされる年ではないっ」
思いやりが伝わらないとは寂しいことだ。
私の優しさだけがいつだって踏み躙られていく。
「こんなことならもっと早くガイアロス家に連絡を取ってアレナフィル様の立場を確立しておくべきだったのよ。それだけ優秀な子をどうして一般の部で隠せると思っていたの」
「いえ。ガルディアス様とエインレイド様が声をお掛けにならなければ、今もアレナフィルは一般の部でのんびりと過ごしていたと思います、大公妃様」
「子爵は私のせいにしていますが、入試で満点を取り、学年一位の成績を叩き出した女子生徒が一般の部でずっと隠れていられたというのは無理のある話ではないかと思いますね」
アレナフィルの立場というが、そんなのはあの子が惚れた男ができてから考えればいいではないか。
父親が恋人の、叔父が結婚相手の理想だと断言するアレナフィル。あの子は優しさに包まれた家の中で微睡んでいるのに。
「ああ、やっぱりレミジェス様も呼ぶべきだったのよ。なんて話の通じない子にアストリッド姉様も育ててしまったのっ」
「まあまあ。そう怒るな、トレンフィエラ。ウェスギニー子爵もアレナフィルちゃんを本気でうちに寄越せばいい。養子縁組手続きなんぞ承認に数年どころか、三日で終わらせてやろう」
権力の行使とは恐ろしいものだ。それだけは遠慮したい。
私はあの子を手放す気などないのだから。
「いえ。うちの娘はただでさえエインレイド様といるだけで学校中の嫉妬が怖いと怯えております。これで本当に大公家に入ったら、あまりの恐れ多さに儚くなってしまうでしょう。あの子はうちの小さな家でちょうどいい子ウサギなのです」
「その小さな家は、うちがアストリッドに用意したものなのだが。裏庭に射撃場だの鍛錬場だのある家で暮らしていて何が子ウサギか」
病弱だからと社交界に娘を出さないようにしていたガイアロス侯爵家。母は相手が誰であろうと平気で足蹴にするような女だった。
父との結婚も、どうせ山賊が純朴な村娘を強引に妻にするような逆バージョンだったんだろうなと、当時の事情を聞く気はないが、私は父に同情している。
そんな母だ。
蝶の種としての魅力がないと悪口を垂れ流されていたのも当然だろう。強引に迫った男を独創的にロープで縛り上げ、ベランダに放置していたのだから。
それを変にこじらせておかしくなった男がいたのは勝手だが、息子まで巻き込まないでほしかった。
「とっくに射撃場も鍛錬場も取り壊しました。今、裏庭は子供達がうふふ、あははと笑って駆けっこしては、可愛い花を摘んだりできる安全な場所になっております」
「その子供達をまだ見たことがないのだが」
「数年後には社交界に出す予定でおります。その時には真っ先に伯父上へ挨拶にうかがわせます」
亡き母の兄であろうと、あまり交流がないとどうしてもよそよそしくなる。私でさえそうなのだから、子供達を連れていくことなど考えたこともなかった。
それは母親が平民だと侮られるであろう我が子達が、精神的な強さを育むまで時間を稼ぐ意味合いもあった。
「騙されない方がよろしいでしょう、ガイアロス侯爵。ウェスギニー子爵は息子を社交界に出す気はあっても、娘を出す気はありません。その証拠にアレナフィル嬢は、父親が子爵でも軍に所属しているから王城や貴族が主催する夜会などにはまず行かないと思いこんでいて、同じ学年にエインレイドがいることすら知りませんでしたよ。実物を見ても、背が高いから上級生だと信じていた子です」
「なんと嘆かわしい・・・! アストリッドも自由な奴だったが、非常識さはその息子と孫までもかっ」
溜め息をつきながら見ないで欲しい。あの母と一緒くたにされるのもお断りだ。
ガルディアスも何故要らぬことを言い出すのか。
「誤解です、伯父上。何といってもアレナフィルは妻に生き写し、私にとってかけがえのない忘れ形見です。どうして辛い目に遭わせたいと思うでしょうか。娘を愛していればこそ、いじめられると分かっている社交界に出せないだけなのです」
「ウェスギニー子爵。以前から思っていたが、もう少しアレンにも、・・・アレンルード君にも愛情を注いであげてもいいのではないだろうか。あんなにも努力家で将来有望だというのに」
アレンルードは十分に愛情を与えられて育った子だ。あの屈託のなさをみれば一目瞭然だろうに。
「勿論、息子も愛しております。ガルディアス様は何か誤解をなさっておられる。双子でもアレンルードこそが跡取りですので、アレナフィルよりも常に優先するよう配慮させております」
「その結果、放任状態のアレナフィル嬢は無免許運転を可能にし、あそこまでたくましくなっているのでは意味がないのでは?」
「我が家は子供達の学びたい心を尊重しております。無免許運転も自宅内であれば問題ないかと」
娘が外国人だった時に取得した免許に私は無関係だ。
どちらかというと対抗心を抱いたアレンルードに運転を教えたガルディアスに問題がある。
「待ちなさい、フェリルド。どうして子爵家の娘が敷地内とはいえ無免許運転しているという話になるのだ。あの裏庭で無免許運転できるとすれば二輪タイプになるであろう。そんな危険な物に乗らせているとは何事だ」
「本当にね。保護者としてあまりにも自覚がありませんわ」
「・・・誤解です、伯父上、妃殿下」
皆から父親としての義務を放棄していると責められたが、私ほど娘を愛し、その自由を認めている父親はいない筈だ。
辻褄合わせに全ての罪をひっかぶる私は父親の鑑だろう。
私の人生は母と娘の後始末だけで終わるような気がしてならない。本来は私こそが労られる立場だ。
結局、大公邸で宿泊する羽目になったが、ミディタル大公妃は私という人間を誤解している。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
戻ってきたと思ったらむふむふごろごろウサギのいない夜に落胆し、ミディタル大公邸での針の筵な夜に耐え、そうして私はやっとウェスギニー子爵邸へ帰宅した。
やはり私を見るなり抱きついてくるアレナフィルがいなくては帰宅と言えない。
ミディタル大公家を使ったら一気に持っていかれる、ここはもう養子縁組はやめておこうと思い、次善策を取ったが、ミディタル大公妃だけは理解できない。
そこまで私を嫌いかと思えば、変なことで説教してくる。もしかして気に入られているのかと錯覚しそうになった。
かと思えば、うちの娘を使って私へ嫌がらせしてくる勢いだ。
女というものを理解できたことなどなかったが、やはり身近な女はアレナフィルだけでいいと実感した。
アレナフィルは女というよりもただのウサギ精霊だが、やはりあの子はうちでひっそり生息していればいい。
そんな私をレミジェスが笑顔で出迎える。
「兄上、やっと戻られましたか」
「一昨日から戻っていたが、ミディタル大公妃に絡まれてた」
「良い方ではないですか。あそこまで兄上やフィルに対して好意的な貴婦人など望むべくもありません」
「私に対しては全く好意的じゃなかったぞ。私じゃなくてお前を出してこいと言われた。全く母上の関係者は変人しかいない」
母を理解しようと思ったことなどない。だからそれと同じだなと思うことにした。
世の中には様々な謎生物がいるというだけだ。
「えーっと。とりあえず父上も交えてお茶でも用意させましょう。実は話の流れ上、フィルが母と血が繋がっていないことを知ってしまったんです。恐れていた反抗とかはなかったんですが、どうも子供返りしてしまって、母にくっついて甘えるようになってしまいまして」
「マリアンローゼ殿にくっついてるだけなら今までと変わらんだろう」
「今までは駆け寄っておねだりしていたのが、べたっとくっついて離れない感じで甘えるようになったんです」
「・・・重そうならお前が抱きかかえておけばどうにかなるんじゃないか?」
主に第二王子の護衛を行う近衛の士官達がどの貴族とどう繋がって何をやらかすのか分からなかった為、私も早退してきたのだ。
またいなくなったと思われている方がいい。その間にこちらも手を回せる。
しかし実家ではマリアンローゼと双子達に血の繋がりがないことが露見していたらしい。
「それよりフィルがユウト殿から聞いたそうですが、今年のカットフェックのユィンミェン平野の収穫が悪かったとか? カットフェックの国力が落ちている為、サルートスを攻めてくるのではないかと」
「なんであんな遠い島国がカットフェック国の情報を把握してるんだ」
「カットフェックがファレンディア人を誘拐して言葉を学び、同じ色の髪と瞳を持つ人間が整形して入りこんだのにばれたそうです。ファレンディアの技術目当てだったらしいですよ」
どこから驚けばいいのか分からないが、やはりあの外国人とは話し合うことがありそうだ。言葉を覚え、整形しても入り込めないファレンディア国。
物騒な情報をアレナフィルに流してきたのは、サルートス国が攻められてアレナフィルに危害が及ぶかもしれないと考えたからか。
そこへコンコンとノックの音が響き、男の使用人が入ってきてメモを見ながら読み上げた。
「失礼いたします、レミジェス様。お帰りなさいませ、フェリルド様。先程、お嬢様から通話通信が入りまして、今日、お客様を連れて帰るということをお伝えしておいてほしいとのことでございました。ファレンディア国からの男性のお客様がお一人、お名前はニッシーナ様だそうです」
「へえ? では客室の用意をしておいてくれ。だが、フィルはまだ学校だろうに、うちではなくあちらに行くとは」
ユウト・トドロキならば理解できるが、違う男が現れたらしい。
ウミヘビの納品にしては早いが、なぜ学校なのかと、レミジェスも怪訝そうな顔になった。
「それから別口で、そのニッシーナ様がお泊まりになっていたというトゥリデンホテルから、お荷物をこちらに運んでいいかという問い合わせがありましたので、こちらの判断で了承いたしました」
「分かった。トゥリデンか、また一流ホテルだね」
「ニッシーナ様は高名な学者だそうで、トゥリデンホテルからも、次の宿泊先としてウェスギニー子爵邸を問い合わせてきた方にお伝えしていいのかと尋ねられております。そちらに関しては保留ということにしております。いかがいたしましょうか」
「どうします、兄上?」
「そのニッシーナという客が来てからの話だな。うちにずっと滞在するのか、それとも一泊したらまたホテルか違う場所に移るのかだ」
「そうですね。例の仕事で来たならばすぐにガルディアス様の所へ行くでしょうし。・・・それは明日になったら連絡すると言っておいてくれ」
「かしこまりました」
するとまたノックの音がコンコンと響き、女の使用人が入ってきた。
「失礼いたします、レミジェス様。まあ、お帰りなさいませ、フェリルド様。旦那様がお帰りをお待ちでいらっしゃいました。あ、先程、お嬢様から通話通信が入りまして、本日、クラセン様ご夫妻がおいでになるから、夕食と客室の用意をしておいてほしいとのことでございます。ニッシーナ様というファレンディアのお客様の通訳をなさっていただく為、連泊で考えてほしいとのことでした」
「それなら来客は合計三人か。兄上、お疲れなら今のうちに仮眠された方が・・・」
「大丈夫だ。それより父上はもうその話を聞いているんだな?」
「はい。旦那様がファレンディアの方と聞いて、かなりそわそわなさっておいでです」
父は、アレナフィルの三年間婚約者となったユウト・トドロキを全く見ていないのでそこが不満なのである。やはり一度はその顔を見てみなくてはと思っている。
「そういうことなら上等学校の警備棟に、フィルへ迎えの移動車をうちから出すと連絡してくれ。来客が三人なら六人乗りぐらいでいいだろう。今日の運転手は誰だったかな。警備棟に連絡すれば待ち合わせ場所もあちらが指定してくれるはずだ」
「かしこまりました、レミジェス様。フェリルド様もお戻りだと旦那様に報告の上、お茶の支度をしてまいります」
使用人達が去った後、レミジェスが机上を片づけて立ち上がった。
「まったくフィルは退屈させませんね」
「本人はおうちで引きこもってるつもりなんだがな」
私のムフムフごろごろウサギ精霊は、外に行ったら何かと拾って帰ってくるから困ったものだ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
私が帰宅すればいつも笑顔で抱きついてくる娘にやっと会えると思えば、玄関前に着けられる移動車を出迎えもするというものだろう。
「おかえり、フィル。バーレンとティナ殿もようこそ。そちらのお客人がファレンディアの方かな? 遠いところをはるばるようこそ」
「パピーッ。どうしたの? もうお仕事終わった? おうち帰れる? フィル、いい子にしてたよ」
私を見つけるなり笑顔になった制服姿のアレナフィルが、腕の中に飛び込んでくる。相変わらず心を隠せない行動がストレートな子だった。
「ああ。帰宅したら部屋の前に貼り紙があって、お前がこっちだって書かれてたからマーサ姉さんの所で話を聞いてからこっちに来たのさ」
抱きついてきた娘をぎゅっと抱きしめ、それからいつものように抱き上げて頬にキスして目を合わせれば、アレナフィルが幸せそうに笑う。
さすがに来客を放っておくわけにもいかないので、さっとアレナフィルを床におろすと、私は左手でアレナフィルの肩を抱き、思ったよりも年上だったファレンディア人に右手を差し出した。
ぱっと見、父と同世代だろうか。
「初めまして。アレナフィルの父親のウェスギニー・ガイアロス・フェリルドと申します。サルートス国へようこそおいでくださいました。歓迎いたします」
【彼は、アレナフィルの父親のウェスギニー・ガイアロス・フェリルドと申します、サルートスへようこそおいでくださいました、歓迎しますと、言っています】
ファレンディア人の横にいたバーレミアスが、即座に通訳する。
あのユウト・トドロキ程ではないが、このファレンディア人もアレナフィルに思い入れがありそうな目をしていた。顔は全く似ていない。こちらは青い瞳だ。
【こちらこそお初にお目にかかります。和臣・仁科、どうぞさすらいの発明家ニッシーと呼んでください。ところでこちらの挨拶は手を握るだけでいいのですかな? それとも肘も叩く回数に決まりが? 足の向きはどうですかな?】
私の腰に抱きついていたアレナフィルが二歩踏み出したかと思うと、私とカズオミの右手同士を引っ張って握らせる。
娘よ、まずは言葉で言いなさい。
「パピー、挨拶は握手だけでいいですか、肘もぽんぽん何回しますか、足はどうしますかって聞いてるけど、握手以外にも挨拶ってあるの? お名前、カズオミ・ニシナだけど、発明家ニッシーって呼んでって言ってる」
「国によって握手の際にお互いの肘まで触るとか、二の腕を触るとか、色々だよ。まあ、フィルが握手だけって示しちゃったから分かりやすいけどね。発明家なのかい?」
カズオミ・ニシナ、発明家か。
かつてのアレナフィルの人脈が悩ましい。普通の人間はいないのか。
小さな会社で転職を繰り返す、どこにでもいる事務員だった筈だ。
「うん。
【あのね、和おじさん。この国では握手しか見たことないけど、父は、国によっては肘とか二の腕とかにも触るって言ってる。だけど握手は外国人としてる人、見たことあるけどこの国ではあまりしないの。だから足の向きとか以前じゃないかな。男の人同士でも女の人とでも、男の人は少し距離を保った上でちょっと軽く肘から左胸より少し下の所まで曲げて、口頭で挨拶する感じだよ。だけどなんか身分とか作法とか場所とかによって変わってくるみたいで、ケースバイケース。ところで発明家なのかいって父が尋ねてるけど、それでいいよね?】 」
私にくっついていた娘がファレンディア人の横に行って説明し始めたが、かなり親しげである。
【勿論だとも。そこは遠慮なく誇りたまえ。私こそ栄光あるニッシーの一番弟子であると】
【そんな嘘言えないよ。全然だもん。残光ペンだってできるまで失敗しまくったし、お茶汲みマシーンは少人数対応にできなかったし、やっぱりお金貯めて和おじさんの作品買うのが一番だったよ。本当の価値って、離れて実感するもんなんだね。あ、そうそう。ここね、少し行ってホールなの】
アレナフィルが子爵邸の間取りを説明しようと思ったらしく、エントランスの奥を示した。
なるほど、アレナフィルの試作品やら失敗作やらは彼の影響だったか。
カズオミ・ニシナということは、ニシナが姓、カズオミが名前だ。うちの娘がニックネームを苗字ですませようとしたのは、ファレンディア的に普通だったのかもしれない。
「フィル。ではニッシーさんを、先にお部屋選びに案内してくれるかい? 荷物はホテルから届いているが、1階と2階と3階、どれがいいかを尋ねてくれ。部屋にお茶も運ばせる。それから皆に紹介がてら食事を始めよう。ああ、食事と言っても上着の必要はないと伝えてくれるかい?」
「はぁい。だけど1階のお部屋って開かずの客室だよ?」
来客を一階に案内することはあまりないので、アレナフィルが首を傾げた。
「階段が辛い人の為の客室だからね。バーレン達も好きな部屋を選んでくれ。現在のお客は君達だけだからどっちの棟でもかまわないが、新婚当時を思い出したいなら女性用の棟の3階の7号室がいい。
なんでこんな内装にしたのかと言いたくなるが、自宅ではこんな内装は楽しめないと、かえって好評だ。ファレンディア人のお客はこの後も来るだろうが、その間、ずっと二人で泊まってくれるとありがたい。さすがにバーレン一人の連泊がまたもや続いたら、ティナ殿に浮気だと誤解されても文句は言えない」
これでも友人家庭に対し、私はかなり神経を使っているのだ。何かと娘のことで呼び出しているだけに。
男友達との付き合いだと称して浮気する男は多く、間違ってもそんなものだと疑われたくない為、ここはもう夫婦で泊まってもらった方がいいというアレナフィルの判断を私も支持したい。
女性用客室棟の3階7号室は、まさに赤やピンクや純白のリネン、そしてレースが沢山使われていて、女性でも笑顔が引き攣りそうなぐらいに恋愛をモチーフにした内装だったりする。絵画や彫刻も恋愛や性愛の女神などがテーマだ。
「まあ、フェリルドさんったら。誤解なんてしませんわ。だけどどんな内装なのかしら」
「女性用の棟は俺も入ったことないな。なんかドキドキするんだが」
バーレミアスが泊まる時は男性用客室の棟だ。
別にそこまで厳密に分けているわけではないが、大勢の客が泊まる時は、男女で分けた方がトラブルも起こりにくいという一面があった。やはり未婚の男女も泊まるとなれば、不祥事など遠慮したい。
「レン兄様が不純すぎる。ティナ姉様、3階の7号室は見た途端、みんなが大笑いするの。だけど怖いもの見たさでお泊まりするの。
なんかね、ザ・新婚って感じすぎて、よくぞここまでってお部屋なんだよ。めっちゃフリル、めっちゃラブ、めっちゃ二人の世界。自宅では決して選べない内装がここにあるって感じなの。
【和おじさん、まずはお部屋を選びましょうって。ここね、お客さんは男の人用と、女の人用の建物が繋がってるけど、一人だから男性用のどのお部屋でもいいよって。階段使いたくなかったら1階のお部屋、お庭とか見下ろしたかったら、2階か3階。4階は疲れるだけ】 」
【私はどこでもいいが、折角だから案内してもらおうか。あそこに控えている人達が案内役かな?】
【うん。私もついてくけどね】
エントランスの壁際にいた使用人達を示したカズオミだが、アレナフィルは彼と手を繋いで歩こうとして、動きを止めた。
【私が小さすぎる。ああ、背が欲しい。せっかくあれだけ背を伸ばしたのに】
【もっと小さい時も見ていたよ。それに君につかまられたぐらいでよろける年ではないぞ。毎晩、ランニングもしている】
【そんなよろけるようになったらハーレムだよ。和おじさん、片思いしている女の人多かったくせに。手伝いたいのに手伝えないって悔しがってた人達がこぞって押しかけてくるよ】
道理で優しい眼差しを向けていると思った。かつては子供の頃から親しい仲だったか。
「お嬢様、それではお客様をご案内いたしましょうね。現在、廊下にお客様のお荷物は置いてありますけれど、お部屋を決めていただいたらすぐに運び入れますわ」
マリアンローゼ付きのメイドが声をかける。
血が繋がっていないと知ったアレナフィルが少し子供返りしていたそうなので、彼女付きの使用人達も気を遣っているのだろう。
しかしアレナフィルの精神年齢は、・・・・・・ああ、外見未満だな。
「はぁい。なんかね、毎晩ランニングしてるぐらいだから上の階でも平気そうなの。どこのお部屋が一番景色がいいかなぁ。発明家って言うだけあって、何かやり始めたら時間を忘れちゃうことあるから、その時は大声で話しかけないと通じない人だけど」
「それでしたら3階の2号室はいかがでしょう? 外階段から降りて中庭の花園を楽しむこともできますし、ベランダが広いので下からの明かりも届きにくく、夜空を眺めるのにもいいですわ」
「うん、それじゃそこ案内する。勝手に行くから大丈夫。お荷物運んできてって、お願いしてもらってもいーい?」
「かしこまりました。それでは運ばせておきますわね」
バーレミアスには違うメイドが声をかけていた。
「クラセン様。それではご案内いたします。あちらのお客様と同じ棟の方が便利かもしれませんが、やはり奥方様が気兼ねなくお過ごしできる方がいいかと思いまして、女性用の棟でご用意いたしました」
「ありがとうございます。だけど女性専用なのに夫が入りこむのも変な気分だわ」
「あくまでお客様同士のトラブルを避ける為の女性専用、男性専用ですから。皆様がご夫妻でお泊まりの場合は、どちら専用ということもなくお使いいただいております」
そんなことを説明しながら案内に立つメイドだが、バーレミアスは客室にあまり興味もなさそうだ。
「じゃあティナ、好きな部屋を選んできてくれ。俺はフェリルといるから」
「しょうがないわね。じゃあ後で」
「ああ」
そんな私達から離れていくアレナフィル達の会話が廊下の向こうから聞こえていた。
〖では私の腕につかまっていくといい。父親として君の結婚式に参加し、その花嫁姿の美しさに感動しながら花婿をこの手で殺すのが夢だった〗
どうやら私のファレンディア語能力はまだまだだったらしい。意味が分からない言葉を聞いた。
だが、同じく聞いていた筈のバーレミアスも眉間にしわを寄せている。
〖もしかして優斗、いじめてないよね? 三年間だけ婚約者なんだけど〗
〖分かっていたら蹴り出したのだが、ファンだと言って訪ねてきた上、鞄から覗いている物が昔作った私の作品とあれば警戒心も薄れる。差し入れを一緒に食べて彼のアイディアの改良点を話し合ってたら、夕食の時間になっていた。それから名乗られた。さすがに叩き出すには遅かった〗
私とバーレミアスは、かつてのアレナフィルの人間関係について大いなる疑問を抱いた。
食卓を共にして話が弾んでも、名前を名乗り合うのは最後なのか。どこまで横着なんだ。
平然と話しているアレナフィルは何も疑問に思わないのか。しかも自分の弟を彼がいじめること前提なのか。花婿を殺すような奴でも平気なのか。
いや、怖がりなくせにやる時は思いきりのいい子だった。
成育環境が人を作るのだろう。
〖あまり優斗いじめないでよ。あの子、偏食で体強くないんだから〗
〖私とて鬼ではない。彼の半生を聞けばそんなことはせんよ。単に母とは縁を切ったというだけならば信じなかったが、既に息子の毒殺未遂でも逮捕されているとなればな〗
私はその場に残っていた使用人達に命じた。
「ニシナ殿の部屋に茶を運んでくれ。そして必要な物もアレナフィルが通訳してくれるから尋ねて用意して差し上げるように」
「かしこまりました」
使用人達を追い払い、足音を消して二人の後を追った私とバーレミアスの行動は至極当然だっただろう。
ファレンディア国とは悪鬼うごめく国なのか。閉ざされた戦国地帯なのか。
曲がり角などで姿が見えない所まで近づけば、二人の会話が聞こえてくる。
〖犯罪行為による妊娠及びそれによって生じた息子を毒殺しようとした罪で逮捕された。それに伴い、離婚。今、どうなっているかは知らんが、少なくともお前の父親と弟とは縁が切れている〗
〖ちょ、ちょっとっ、ちょっとそれっ、優斗無事なのっ? なんで優斗殺すのっ。優斗生きてるのっ、なんで妊娠が犯罪なのっ〗
アレナフィルのパニックを起こした声が響いてくるが、なんという殺伐とした家族関係だったのか。
私はやはりアレナフィルはサルートス国で一生を終える方が幸せだと知った。
〖逮捕されたのはかなり前だそうだぞ。無事に生きてるから再会したのだろうに、本当に馬鹿な子だ。おじさんの言うことをよく聞いて、賢い子になろうな。大丈夫、お前はやればできる子だ〗
〖そ、そういえば・・・。うん、優斗、幽霊じゃなかった〗
あんな粘着質で物騒な幽霊がいてたまるか。
そしてカズオミという男は褒めて伸ばすタイプらしい。まさかあの弟と仲が悪いとは思わなかったが、アレナフィル自身は全く気にしている様子がない。
何か困ったことがあっても解決したら全部忘れるアレナフィルの性格は、そういう悩んでもどうしようもない家庭環境で培われたものかもしれなかった。
〖馬鹿でもたくましく生きていけたらどうにかなるものだ。大丈夫だ。一番できの悪い一番弟子として育ててあげよう〗
〖言っとくけど、天才じゃなくても世の中渡っていけるもん。私にはこの美貌が・・・、び、美貌・・・は、ちょっと可愛い系にシフトしたけど、・・・だ、大丈夫。どうにかなる〗
うちのアレナフィルは愛らしい子だが、さすがに美貌とは言い難い。ちょっと垂れ目がちな瞳はくりくりしていて可愛いが、それゆえに子供っぽく見られがちだ。
〖美貌はあっても中身が残念な子だったからな。今度はどっちもへちゃむくれになっただけだ。気にせず強く生きるんだ〗
〖くっ。自分が賢すぎると思ってっ〗
『あの・・・、お嬢様。お願いですから、お客様を絞め殺したりするのはやめてくださいませ。遅いと思ったら廊下で首を絞められているだなんて。・・・お客様が、落ち着かせようとしてくださっているのは分かりますけれど』
どうやら壁の向こうで、うちの娘は客人の首を絞めていたらしい。メイドにそんな声を掛けられていた。
苦しそうな様子はなかったから、大丈夫なのだろう。
私はバーレミアスと頷き合い、リビングルームへと移動することにした。さすがにこうなればシリアスな会話も続かないだろう。
『ち、違うのっ。それ誤解っ。フィル、ただ話を聞こうと・・・っ』
『お客様を襲うだなんて、レミジェス様がお嘆きになります。どうぞお嬢様、お願いですから、そういう訓練はレミジェス様相手になさってくださいませ。ね?』
『・・・はい』
何やらメイドに怒られているのか、唆されているのか分からないやり取りが聞こえてきた。
レミジェスとアレナフィルは血の繋がった叔父と姪だが、レミジェスの溺愛が異常すぎてメイド達の倫理観が壊れていないかが心配だ。
「うちの子はへちゃむくれだったのか」
「うーん。可愛いけどなぁ。前のフィルちゃんがかなり気になる」
「生きてなきゃどんな美人も意味ないがな。しかも間接的に、妻と息子と娘をへちゃむくれ呼ばわりされたかと思うとかなりむかつくぞ」
「どうだろなぁ。このフィルちゃんとは初対面なのに、フォトでも見てたかな、すぐに察してかなり好意的だった。笑顔でお菓子渡して抱きしめてたし。生き別れの祖父と孫? なんつーか、フィルちゃんもユウト君見た時は気絶したのに、あのニッシーさんだと涙流して抱きつくってどうよってな」
「・・・仕方ないさ。故郷や身内はまた特別だ」
過去を忘れ、ウェスギニー家のアレナフィルとして生きてほしいと願う気持ちはある。だが、様々な場所を流れて生きてきた男達でさえ、時に故郷や同郷の者に対する思い入れを消せずにいるのを見てきた。
アレナフィルの孤独を強めたくはない。
たとえあのカズオミにとってアレナフィルはアイカという存在にすぎないのだとしても、私にとっては紛れもなくもう一人の娘なのだ。
― ◇ – ★ – ◇ ―
カズオミとアレナフィルが来るまでの間、食堂で簡単に話をしてみたら、やはりマリアンローゼは血の繋がりがないと知られてしまったことが負担だったらしい。
アリアティナもそれを聞いて驚いているのは、バーレミアスがそのことを教えていなかったからだろう。
「そんな・・・。奥方様と血が繋がっていらっしゃらなかっただなんて。フィルちゃん、あんなにもお祖母様が大好きなのに」
「どうしたらいいのかしら。不安そうにしているものだから、私もどうやったら安心させられるのかが分からなくて」
「フィルちゃん、子爵夫人が大好きですから。要は本当の孫じゃないって不安になってくっついてるだけですよね? 嫌われてないって理解したら落ち着くんじゃないですか?」
「まあ、私がフィルを嫌うだなんて。うちの孫娘ですのよ」
そればかりは落ち着くまでどうしようもないだろう。私とてアレナフィルの不安そうな態度が落ち着くまでかなり時間がかかった。
「おい、フェリル。いいアイディアぐらいないのか?」
さすがにマリアンローゼを怒らせたかもしれないと、バーレミアスが私に回してくる。
「どうだろうな。私がメイドに告白されそうになったのを見てしまった時も、フィルはかなり情緒不安定になって泣いてたぞ。仕方ないから誰よりもお前が大事だ、メイドは全て追い出せばいい、他の女は要らないと言い聞かせて落ち着かせた。慌てず普通に接してたら、フィルは単純だ。そんなものかなと思って信じるだろう」
「言われてみればフィルちゃん、単純だもんな」
「ああ。未だに子供は舌足らずに喋るものだと思いこんだらそれをやめられない子だ。別に血が繋がってない祖父母と孫なんて普通だと言えば信じる」
所詮、中身は外国の成人女性だと思っているバーレミアスだ。体の血縁は通常の子供よりもアレナフィルにとってあまり意味を持たないと理解していた。
「兄上、察してあげてください。フィルはそれだけ傷ついてるんですよ」
「傷ついてるんじゃなくて、考えが空回りして訳が分からなくなってるだけだ。先にここまで大丈夫、これ以上は駄目と、示してやれば問題ない。義母上から先に『血が繋がってないからと言って距離を置くのは許しませんよ』と説教してしまえば、そんなものかとフィルも理解するだろう」
「お前はどうしてそう人間関係に手を抜いているのだ、フェリルド」
みんなして私が父親として機能していないと説教をかましてくるのだが、アレナフィルの中身は私と同じ世代だ。本当の未成年じゃないんだから大丈夫だろうに。
「所詮はフィルですよ、父上。世間一般の血が繋がってない子は嫌われていじめられるというのを連想してパニックになってるだけでしょう」
「む。まあ、そうだな。フィルだからな」
「そうです。面倒をみてくれる母親代わりはマーサ姉さんでも、血の繋がった母親代わりが祖母だと思っていたら血が繋がってなかったと知って、自分の根底がぐらぐらしているだけでしょう。安心したら落ち着きますよ」
あの涙に潤んだ瞳で見上げてくるから誰しもおろおろしてしまうだけで、アレナフィル自身はそこまで深く考えていない。
その証拠に解決したら忘れている子だ。
普通はそれなりに悩み事があったとして、それが解決してもそれで良かったのかなと改めて悩んでしまうものである。
そんなことを話していたら、制服から動きやすそうな私服に着替えたアレナフィルが、カズオミを伴ってやってきた。
「お祖父ちゃま、お祖母ちゃま、ジェス兄様、ただいま戻りました」
「お帰り、フィル。学校から連絡があったが、見事な通訳ぶりだったそうだな」
「お帰りなさい、フィル。頑張ったのね」
「そちらが発明家の方だね。お帰り、フィル。ちゃんとご案内できたかな?」
「大丈夫。フィル、ちゃんとご案内できたの。3階の2号室、お花の香りがベランダに出ると分かるの」
ユウトと会っていない父の為、父とバーレミアスの間の席を空けておいた。ファレンディア人がどういうものか、父も色々と案じているのだ。
アレナフィルもそこにカズオミを案内する。
【和おじさん、お客様だから祖父のお隣。隣に座ってあげたいけど、お客様だから和おじさんとレンさんとティナさんが、祖父と祖母の間に挟まれる感じになってる】
【なるほど。では、通訳してくれるかい?】
使用人が近寄ってきて椅子を引いたが、カズオミは立ったまま挨拶することを優先した。そうと察して私達も全員立ち上がる。
【ファレンディアより参りました和臣・仁科と申します。ご招待をいただき、図々しくお邪魔してしまいましたが、歓待を心より感謝いたします。どうぞニッシーとお呼びください】
「えーっとね、ファレンディアから来たカズオミ・ニシナです、ご招待を感謝いたします、どうぞニッシーと呼んでくださいって言ってる」
父にとっても同世代だと思えば気が楽になったようだ。若いと話が通じないかもしれないと思っていたのだろう。
「ウェスギニー家へようこそ。アレナフィルの祖父のセブリカミオ、彼女が妻のマリアンローゼ。そして息子のフェリルドとレミジェスです。他国のお名前は発音しにくいので、そちらも呼びにくいことでしょう。遠慮なく呼びやすいように縮めてください。どうぞお席に」
【えっとね、祖父が、自分はセブリカミオ、妻はマリアンローゼ、長男のフェリルドに次男のレミジェスです、外国人のお名前は発音しにくいと思うので呼びやすいように縮めてくださいって言ってる。そして、どうぞ席に座ってくださいって】
握手している二人を確認してから、アレナフィルが私とレミジェスの間にある席へとやってくる。
「パピー。フィル、ちゃんとご案内できたんだよ。ニッシーさん、お部屋にあったお茶に興味持ってたの。夜にランニングするみたいだから、お庭走ってもいい?」
「勿論だよ。夜でも庭を照らすようにしておこう。運動しやすいルームウェアもあったとは思うが」
よしよしと頭を撫でて額にキスすれば、ご機嫌になった。マリアンローゼは真面目に悩みすぎである。
「うん、クローゼットに入ってて、わざわざお客さん用のお洋服を用意するのかってびっくりしてたの。フィルのお部屋はどこって聞かれたから、ジェス兄様のお部屋で寝てるって言ったら、怖い話をしても誰かと寝るんじゃ反応が面白くないとか言うんだよ。持ってきた幽霊セット、フィルのお部屋の窓に仕掛ける気だったんだよ。だからジェス兄様、今日は絶対にフィルと寝るの。パピーも一緒なの」
わざわざアレナフィルの私室を聞かれていたと知り、レミジェスの表情が険しくなった。
「どうぞスパークリングワインでございます。お酒ではなく果汁を炭酸で割ったものもございます」
そこで食前酒が運ばれてくるが、私とレミジェス、そしてアレナフィルには無言で果汁を炭酸で割ったものが注がれる。マリアンローゼの指示だろう。
「何故、パピーとジェス兄様には何も尋ねないのかな。フィル、そこが不思議」
「そんなことより、幽霊セットって何なのかな、フィル? 普通、部屋の場所を聞かれたら違う心配をするものだよ。女の子なんだから危機意識を持たなきゃね」
優し気に言い聞かせているが、レミジェスの怒りを私は見た気がした。
「幽霊セットの方が怖いもん。だってあれ、窓の外に貼っておくだけで、ひゅーぅぅって風の音と、女の人の泣く声が小さく響くようになってるんだよ。でねっ、でねっ、うっすらと窓にその幽霊の白っぽい影が浮かぶようになってるのっ。恐怖の夜で、フィル、気絶しちゃうっ」
「そういうものだと分かってるならもう怖くないんじゃないかな?」
「それならジェス兄様、やってもらえばいいよ。めっちゃ怖いから。本気で怖いから。しかも窓掃除しない限りまず気づかないんだよ、あの幽霊セット。フィル、パピーのお部屋に避難するっ」
未婚令嬢が男に部屋の場所を聞かれるという夜這いリスクより、その幽霊グッズの方を恐れるアレナフィル。
その怯えように、誰もがちょっと引っ掛かったようだ。
【幽霊セットというものに、フィルちゃんが怯えていますが、そんなに恐ろしいのですか? 窓から音がして、白い影が映るわけですね?】
【おお、興味がわきましたか? 何事も体験なくして本質を知ることはないというもの。どうやら他にも部屋は空いているそうだし、ならば一つの部屋に取り付けてさしあげましょう。そこで過ごしてみてはいかがかな?】
【わ、私っ、絶対にその部屋行かないからねっ。嫌だからねっ。そんなの、和おじさんのお部屋に貼っちゃえばいいんだっ】
【愚かな子だ。製作者が自分で設定した音声や影に、どうして驚く必要があるんだね?】
夜這いを案じたレミジェスだったが、アレナフィルにとってはゴーストセットの恐怖が大きいらしく、私の腕にぎゅううっとしがみつく。
「えーっと、その幽霊セットはそんなに怖いものかと尋ねたら、興味があるのなら空いている客室を一つ提供していただければそこに貼ってあげましょう、そこで興味のある方は一晩過ごしてみてはどうか、体験するのが一番分かりやすいでしょうと言っておられます。
フィルちゃんは絶対にそんな部屋行かないと叫んでます」
残光ペンで血のりのいたずらを考えるようなアレナフィルがここまで拒否する幽霊グッズ。
私はカズオミとバーレミアスに笑いかけた。
「それはとても興味がある。この子がここまで怯えるとは、知らなかったら本気で怖いものなのだろう。是非、体験してみたいと伝えてもらってもいいか、バーレン?」
「ジェ、ジェス兄様っ。フィル、ジェス兄様と寝るっ。だからパピー追い出して二人で寝るぅっ」
娘とは薄情なものだ。アレナフィルは私からさっと離れてレミジェスにしがみついた。
「別に作り物なんだからそこまで怖がらなくても兄上や私がいれば怖くないと思うよ、フィル」
「ジェス兄様はあの怖さを知らないからそーゆーこと言うのぉっ」
「なんか遅いなと思ってたら、もう脅かされてたのかい? 一人のお留守番も怖がらないフィルが、そこまで怯えるだなんて驚いたな」
そこまで怯えられると、レミジェスも戸惑いながらアレナフィルとカズオミを交互に見やる。
【どんな子供も親に泣きついていい子になるという素敵なものですよ。どんな暴れん坊でも、次の日から家族にしがみついて甘え始めます】
「ニッシーさんによると、どんな子供も次の日から家族にしがみついていい子になるものらしいですよ」
いや、もうしがみついている。
「それっ、フィルがいい子になるんじゃないもんっ。フィル、最初からいい子だもんっ。あの幽霊、時間差攻撃もしてくるんだよっ。そこらの幽霊屋敷なんてもんじゃないんだよっ」
「フィルちゃんったら、この短時間でもう脅かされちゃったのね。大丈夫よ、フィルちゃん。作り物だと分かっていたらそんなに恐ろしくないものよ。ね? いい子なフィルちゃんに幽霊だって怖いことしないわ」
「ティナ姉様、分かってないっ。普通の幽霊じゃないんだよっ。何ならこの場で明かりは小さな蝋燭だけにしてみるといいよっ。本当に怖いんだよっ」
あの三年間婚約者とは違うファレンディア人というので、ウェスギニー家も彼の情報を欲していた。
そこまで言われれば興味も出てくる。
【なんかフィルちゃんが、食堂を蝋燭だけにして試してみればいいとか言っていますが、そんなに恐ろしいのですか?】
【ふむ。リクエストを頂いてしまったとなれば仕方がない。食事用のもあるからそれを用意してきましょうか。うむ、まだ晩餐が始まっていなくてよかった。しばしお待ちを】
「えーっと、そういうことであれば少し待っていてほしい。食事用のもあるからそれを使おうと言ってくれています」
食前酒しか運ばれていなかった為、まだ夕食が始まったという程ではない。
そしてアレナフィルが切羽詰まった声で叫んだ。
【和おじさんっ。私の除外コートもっ】
【一人だけズルはいかんな。一緒に楽しみたまえ】
【くぉの根性悪発明家ぁーっ】
そういうことならばと、アレナフィルがそこまで怯えないように室内を少し暗くして、テーブル上にある程度の明かりを置いていく。
アレナフィルは給仕する使用人達に、心配そうに注意し始めた。
「あのね、お料理の配膳、心臓弱い人とか、怖がりな人、やめといた方がいいと思う。暗いのとか、幽霊とか怖くない人にした方がいいの。あれは無差別ゴースト旋風」
「まあ、お嬢様。大丈夫ですわ。幽霊が怖かったらちゃんと守ってさしあげますからね」
「・・・うん、ありがとう」
かなり不安そうな顔のアレナフィルに父が問いかける。
「ところで、フィル。この時期にファレンディアから来たということは、お前が勝手に婚約をしたとかいうファレンディア人の関係者なんだな? ご本人ともそのあたりを話すつもりだったが、親戚とはどれくらいの親戚なのだ?」
「ごめんなさい、お祖父ちゃま。フィル、嘘つきました。親戚みたいな人だけど親戚じゃないの。お祖父ちゃま、ニシナさんが親戚として可愛がってるのはユウトのお姉さんだけ。ニシナさん、ユウトのことはただの他人扱い。しかもユウトの職場と仲、とっても険悪。ウミヘビ届いても、あそこの関係者とニシナさん、会わせちゃ駄目」
父だけではなく私達も意味が分からず戸惑った。
姉弟がいて、姉とは親戚付き合い、弟とは他人関係とはどういうことだ。しかもアレナフィルは、現在、その弟と婚約中である。
いや、その姉がアレナフィルなのだから私とバーレミアスには理解できるが、他の人間には理解不可能な内容だ。
「は? ちょっと待て。どういうことだ。会わせちゃ駄目とは?」
「嫌がらせでウミヘビ全部壊すぐらいする。ニシナさんとは隔離しとく。それが一番平和。フィル、パピーも帰って来たし、ニシナさん連れておうちに帰る。ウミヘビと技術者はここで対応する。それが一番」
いや、ウミヘビとは兵器だった筈だ。それを壊せるとはどういうことだ。
さすがにマリアンローゼも戸惑い、アレナフィルから詳しく話を聞き出そうとする。
「ちょっと待ってちょうだい。それならどうして我が家にお招きしたの? とても仲がよさそうだったじゃないの、フィル」
「お祖母ちゃま、フィルはニシナさん大好きだし、信用してる。ニシナさん、とても頭いい。だけど世の中、会わせちゃいけない人もいるの。ニシナさん、ユウトのこと大嫌い」
「まあ。じゃあ、フィル、それで幽霊でいじめられたの? ユウトさんと婚約したから?」
「それは関係なくて、ニシナさん、いつも自由。好き嫌いはっきりしてるの」
アレナフィルのファレンディア人婚約者を嫌いな男がいるとして、それならばアレナフィルも嫌われるのが当然だ。
婚約者を飛ばしてどうして仲良くしているのかと、誰もが思うだろう。幽霊グッズとやらで怖がっていても、お互いに気のおけない空気があったのだから。
そこへカズオミが手にフィルムのようなものと、シートみたいなものを抱えて戻ってきた。
【私の手伝いもしないとは困った子供だ。だが、私は女性には親切な紳士。ゆえにあなたとあなたにはこれを差し上げよう】
「えーっと、子爵夫人とアリアティナにはそのコートを着るようにということみたいですね。女性には親切にすると、ご本人は言っています」
バーレミアスの通訳に、マリアンローゼとアリアティナが興味深そうな顔でそれを手に取る。
「あらまあ、これを羽織ればいいのかしら」
「え? 何か理由があるのかしら。上から羽織って着ればいいのね」
言葉は通じなくても、カズオミは明るい笑顔で話しかけるタイプだ。どこか稚気もあった。
【私もそれ着るっ。それ着ると対象外になる除外コートッ】
「なんかフィルちゃんが欲しがってますよ。それを着ると対象外になるとか。どうやら女性だからと配慮されたようですね。みっともないことにならぬよう、夫人もアリアティナも着ておいた方がいいでしょう。あのフィルちゃんがそこまで欲しがるということは、警戒しておいた方がいい」
バーレミアスの助言に、二人はささっと着てしまった。
ウミヘビという兵器を壊せるという話にマリアンローゼはカズオミの技術力に危機感を抱いたのだろうが、アリアティナも習得専門学校で講義を突発的に行った実力を侮る気にはならなかったか。
フードをかぶり、首元まできっちりと留め具を掛けて全身を覆う。出ているのは手首から先と顔の前面だけだ。
マリアンローゼのコート内にもぐりこもうとしたアレナフィルを、カズオミが引きずり出していた。
【私の分はぁっ!?】
【いいじゃないか。両脇に守ってくれる騎士様が二人もいるんだから。さあ、食事の再開だ】
カズオミは、食堂の壁や窓、天井や床などに透明フィルムを貼り付けていく。たしかにあれならば貼ってあっても目立たない。
私はとても好奇心をそそられていた。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
マリアンローゼとアリアティナが渡されたコートは覆う部分が多ければ多いほど、怖くないそうだ。そういうことならと、二人もフードを目深にかぶった。
全員が興味津々となったところで、食事が始まる。
――― ボコッ、・・・ボコッ、ボコッ・・・。
まるで水中から泡が出てくるような音が響き始めた時、誰もがその音で脅かすタイプなのだろうと、瞳を見交わし合った。
やがて音がだんだんと大きく、そして泥水の中で泡がぼこぼこと出てくるようなトーンへと変化していく。
そして・・・。
「うわああっ、スープがぁっ」
最初の悲鳴は、運んできたスープを配っていた使用人だった。
いきなりテーブル上のスープが泡立ったかと思うと、そのスープが、ぼふぁっと天井まで噴きあがったのだ。
「わぁあっ!?」
噴きあがったスープから小さなカエル達がどどどどっとテーブルの上に飛び出てくる。
「お、落ち着いてっ、それは幻覚っ。どんなに噴きあがってみえても、本当は噴きあがってないっ」
「そんなことないですお嬢様っ。熱いスープがかかってっ」
「それはレーザートリックッ。本当はかかってないっ」
私も手に熱さを感じた。しかし明るい照明がつけられ、改めてテーブル上のスープ皿を見ればどのスープも減っていなかったし、スープが顔や手にかかったと感じた全員が何度確認しても、そんな痕跡はなかった。
「え? たしかに熱かったのに・・・」
「ええ。手首に熱いスープがかかって・・・」
「それ、熱さを感じたように刺激を受けただけ。スープやカエルが幻影ってことを気づかせない小細工」
幻覚に合わせてレーザーで熱く感じるような刺激が与えられたということだろうか。
なんという見事な技術だ。
【まだまだ始まりですよ。本当に怖いのはこれからです】
「えーっと、これは始まりで、怖いのはこれからだとニッシーさんが言っていますね」
「だから言ったのにっ。けどフィル、スープ食べる。今のうちに食べるっ。怖い目にあっても食事に罪はない。フィルはそう思う」
アレナフィルが慌ててスープを口に運び始めた。
ということは、あのスープやカエルはカズオミが様子を見ながら起こさせたということだろうか。時間的に決まっていることならば、停止リズムがあるということか。
「あのカエルを見て、よく食べられるな、フィル」
「お祖父ちゃま、あれは幻覚。その証拠にお祖母ちゃまとティナ姉様も平気で食べてる」
「えーっとスープが噴きあがったのは見ましたのよ? カエルが出てくるのも。ですけど、半透明なそれに見えて、あまり怖くなかったのですわ」
マリアンローゼによると、あの噴きあがったスープは、向こう側が透けていて幻影だと分かるものだったそうだ。そしてスープが服の袖にかかった時も幻影だけで全く熱さを感じなかったという。
カエルも同様だとか。
アリアティナも同意した。
「私もそうです。見えたことは見えたのですが、そこまで驚くほどには・・・」
「うううっ。だからフィルも除外コート欲しかったのにっ。けど食べるっ」
「ここまでフィルが怖がっているのだ。あまり暗くするのはどうかと思うぞ」
「いえ、父上。ここまで本格的な幻覚などそうそう体験できません。まあ、さっきよりは明るい程度に、それでも光量を落としてくれ」
「かしこまりました、フェリルド様」
兵器よりも使い道がありそうだ。
熱さを感じたそれは、あの残光ペンによる血のり偽装より役立つだろう。
「フィル、決めた。絶対にパピー、夜、信じない」
「兄上には兄上なりの考えがあるんだよ。ね、フィル?」
娘よ、私とてサルートス側の損害を抑える戦い方を常に追求しているのだ。相手の戦意を失わせる手段は多い方がいい。
そんな殺伐とした現地のことを言う必要はない為、私はアレナフィルに向かって微笑んだ。
「そうだな。気に入らない奴との食事に使うとか、最高かもしれん」
「ジェス兄様っ、パピーが暗黒世界に堕ちたぁっ」
さすがに父は私の好奇心がどこにあるのか気づいたらしい。
「静かに食べなさい、フィル。だが、見事なものだ。幽霊ではなく、もっと華やかなものであれば、女性に喜ばれるだろうに」
【セブリカミオ殿は、幽霊ではなく華やかなものであれば、とても女性に人気がでるだろうと感心しています】
【その通りですが、それなら普通に幻想世界を映し出せばいいのですよ。これはあくまで部屋にこっそりと仕掛けて驚かすものですからね】
「ニッシーさんは、そうですね、ですが皆を喜ばすなら堂々と幻想世界を映し出すことで対応できます、これは部屋にこっそりと仕掛けて対象者を驚かすものですと、言っています」
そこへ、ぴちょーん、ぴちょーんと、水音が小さく響いた。
誰もが身を強張らせて周囲を見渡す。
――― ぴちょーん、・・・・・・ぴちょーん。
首筋に落ちた水滴のような刺激に、カズオミとマリアンローゼとアリアティナ以外、首に手を当て、その手を目の前に持ってきた。
「え?」
「ん? 赤・・・?」
「これも幻覚か?」
水滴のような冷たさ、ぬるっとした感触、赤い色。
どこから落ちてきたのかと、使用人を含めて皆が天井を見上げれば・・・。
「うわああああっ」
「きゃあああーっ」
「っぎゃあーっ」
天井からぶら下がっている、部分的に白骨化した腐乱死体。幾つもの死体が真上にあった。
滴り落ちる血が顔や手に降りかかるが、さすがに味覚には影響がない。そう、濡れた感触はあったが、味はしない。そして腐臭もない。
「ぎゃああっ」
「うわあっ」
「わぁーっ、ぺっぺっ」
血の味こそしなくても体や舌に触れたような感触に、誰もが悲鳴を上げずにはいられなかったようだ。
食堂内にぱっと照明を全部つけることで明るくなっても、今度はその天井からぶら下がっている死体は消えなかった。
最初のスープは光で溶けて消えたが、この明るい中でも本物のように透けることなく、沢山の腐乱死体が天井からゆらゆらとぶら下がっている。
「凄いな。腐臭があれば完璧な死体じゃないか。なんという見事な精密さだ。本物の死体を再現したかのようだ」
【フェリルドは、本物にしか見えない脅威の技術だ、まるで本物の死体のようだと、言っています】
【ふっ】
私は椅子の上に立ち、その腐乱死体を触ってみた。
「なんてことだ。手触りという程ではないが、触れた感触が・・・? いや、気のせいか? いや、この肉の手触りは・・・」
「っぎゃーっ。パピーッ、死体の肉を剥がさないでぇっ」
白骨部分はざらっと、そして腐った部分は気持ち悪いぬめりをもって感じられたかのような気がして、ついその腐肉部分をぐしゃっと握って引っ張ればずるりと床に落下した。
どろどろした腐り溶けた肉が、びしゃっと音を立てて潰れる。
その際、血や脂、腐肉が周囲に飛んだ。
【まるで本物みたいでしょう? だが、それは幻覚だ】
「ニッシーさんは、本物みたいに思えるだろうが幻覚であると、そう言っていますね」
幻覚と言われ、使用人達も床に落ちたそれを触ろうとしたが、気持ち悪い感触に「ひっ」と、手をひっこめる。
私は感動した。
【もうやだよっ。ご飯食べられなくなるっ。怖いのこれからなのにっ】
【ふっふっふ。ゴーストはこれからだよ。楽しんでくれ】
「なんという見事な・・・。なるほど、ホラーだと侮ることなどできやしない。最高の技術が使われているのだろう。ゆえに発明家なのか」
【フェリルドは、なんという見事な技術だ、発明家という名を裏打ちするのは素晴らしい頭脳があるからかと呟いています】
感動している私をアレナフィルが恨めし気に睨みつけてくる。
「もうパピーだけここでご飯食べるっ。フィル達、違うお部屋でご飯食べるぅっ」
「あー、そうだな。もうフェリルドだけここで食べなさい。私達は違う部屋で食べよう」
アレナフィルの泣き言に、父が違う部屋に食事を用意するように命じた。
結局、この食堂に残ったのはカズオミとバーレミアスと私だけだ。三人だけの夕食はとても有意義だった。
――― ガッシャーンッ。
突風が吹いて、ガラス窓が大破する。
その爆風に、カーテンばかりか髪が煽られた。
「にっ、逃げろおーっ」
「わあああっ」
「いやあああーっ」
まさに恐竜のような生き物が、ギザギザの凶悪な歯を剥いて外から室内へと飛び込んできたものだから使用人達が腰を抜かしたり、食堂から廊下へと飛び出したりしていく。
「あれも噛まれたら痛いのですか? ここまで室内に風を起こすことができるとは」
【あの生き物に噛まれたら痛みを感じるかと尋ねています】
【さすがにそれは設定していません。血が出ない程度に痛みを覚えさせることはできますが】
「痛くはない、設定すればある程度の痛みを覚えさせることはできるそうだ」
既におんぼろ幽霊屋敷のようになった食堂で、私達はとてもいい感じで食事を進めていた。
「ファレンディアは魚が美味しいそうですが、やはり肉よりは魚の方がいいのですか? 調理法などにこだわりは?」
【ファレンディアは魚が美味しいと聞きますが、肉より魚がいいのでしょうか、調理法に好みはありますかと、尋ねています】
【そこまで好みはありませんね。ファレンディア料理はファレンディアで食べればいい。サルートス料理はとても興味深いです】
「特にこだわりはないそうだ」
バーレミアスも私が聞きとれていることを知っているせいか、通訳の手抜きが凄い。
そこで何か幽霊のようなものが横を通り過ぎたかと思うと、いきなり足を掴まれた。
「ひいいいーっ」
「いやあーっ」
床から現れた半魚人みたいな生き物に足を掴まれて、使用人達が悲鳴をあげる。
「なるべくテーブルに料理を並べ、給仕は最小限でいい」
「はっ、はいーっ」
悲鳴をあげながら、肉料理などを並べて使用人達が出ていけば、まさに温度変化すら感じられる芸の細かさだ。
「本当に見事な技術だ。ところでニッシーさん。普段、私と娘は違う家で暮らしているのですが、空き部屋もあります。使用人がいるのはこちらの邸で、私達が暮らしているのは通いの家政婦しかおりません。ところでサルートスにはいつまでの滞在をお考えでしょう」
【ニッシーさんはいつまでサルートス国滞在を考えておられますか? 使用人がいて便利なのはこちらの邸ですが、普段、フィルちゃんは違う家で父親と暮らしています。そちらにも部屋は空いていますが、通いの家政婦しかいません。アレナフィルちゃんはあなたとまだいたいようだと、彼は言っています】
【実はこちらで家を借りる予定なのですよ。いい不動産屋を知りませんか?】
「サルートス国で部屋を借りて暮らす予定だ、いい不動産屋を知らないかと言っている」
やはりそうだったか。
短期滞在にしてはかなり多い荷物は、この発明家という職業もあっただろう。だが、ユウトから話を聞いたにせよ、そこまで荷物を持ってやってくるものだろうか。
彼は見定めに来たのだろう、アレナフィルを。
「なるほど。ご家族は?」
【彼は、ニッシーさんのご家族は大丈夫なのかと尋ねています】
【現在、天涯孤独ですな】
「天涯孤独だそうだ」
「そうですか。では、我が家で働いてみませんか? 内容はアレナフィルのお喋り相手です。報酬は三食昼寝付きで」
【それならば、うちで働きませんか? 報酬は三食と住まいです。仕事内容はフィルちゃんの話し相手ですと、彼は言っています】
血まみれの牙を持つ鬼が、ぬぅっとテーブルの上に現れて足を踏み鳴らす。
【いきなり現れた外国人をすぐさま信用するのですか? 身上調査もせずに? 私の技術が目当てですかな?】
「外国人を身元調査もせずに信用するのか、それともこの技術が目的かと尋ねている」
「ファレンディアには外国人が調査を入れても無駄だと聞いています。たしかにこの技術はとても魅力的だが、買い取る時は相場の支払いをいたしましょう。それとは関係なく、私はアレナフィルにとって大切な親戚ならば、それを排除したくないだけです」
【ファレンディア国に外国人が調査を入れても無駄だと聞いています。あなたの技術は魅力的ですが、買い取る時は相場の支払いをしましょう。あくまで彼は、フィルちゃんにとって大切な親戚を取り上げたくないだけだと言っています】
【さて。どうしたものかな。あなたは信じるに足る人ですか?】
その笑みは、底知れぬものがあった。
彼がアレナフィルにアレナフィルではない存在を見ていると、こちらがとっくに把握していることを匂わせたからだろう。
「お前は信頼に値するかと尋ねている」
「信頼を築き上げるにはまだ時間が足りないことは確かですね。勿論、不動産屋の紹介なら弟が手配しますし、送迎もさせるでしょう。ですが、我が家は私と子供達の三人暮らしで、息子は現在寮生活です。アレナフィルと暮らしたいのであれば、私の提案は悪くないと思いますよ」
【信頼を築くにはもっと時間が必要です。信頼できる不動産屋の紹介なら弟のレミジェス殿が手配し、その契約にも立ち会ってあなたに不公平がないようにチェックし、送迎も出すでしょう。ですが、彼の家は彼と子供の三人暮らしながら、息子は寮で暮らしています。フィルちゃんと暮らしたいならその方がいいのではないかと言っています】
私の提案にカズオミが考え始める。
恐らく彼もまたアレナフィルをファレンディア国に連れて帰りたいのだろうとは分かっていた。
だが、天涯孤独ならばファレンディア国に固執する必要はない。どんな記憶を持つにせよ、今のアレナフィルはファレンディア人ではなく、親の庇護下にあるサルートス人なのだから。
だからユウト・トドロキも、アレナフィルを連れて帰ることができなかったのだ。




