57 レミジェスは兄を断じた
なにかと薄情な兄だが、それでも根底にあるのは優しさと愛情だと信じていた。
全ての外敵から守るような家で子供達を育てながらも、あの家にある私の部屋をそのままにしてくれていた兄は不器用なだけだと。
甥姪の面倒をみている内に、一度は分かたれた家族が再びまとまる気配を感じていた。
だが、兄の言葉が足りないという欠点が一番の問題だったのではないかと、最近になって思い始めている。そもそも兄が謎ときと称して
「あのユウトはフィルの家族だ。何をやらかしたところでフィルに対応させればいい。フィルはちゃんと分かっている」
と、断言したからこそ私も落ち着いたフリで対応していたが、さすがに最近はいい加減にしてくださいと、兄を怒鳴りつけたい気分になっている。
そんな私は、ウェスギニー・ガイアロス・レミジェス。
今日はミディタル大公邸のトレーニングルームで引率者をしている。甥は放っておいても大丈夫だが、姪からは目を離せない。
「こんな普通の人じゃ泳げない水流のデータも必要だったのかい、フィル?」
「そうなの。ウミヘビ使う人、それこそ激流すぎて船が座礁する所に近づこうとすることあるの。サルートスだと関係ないかもしれないけど」
私は計測したデータを一覧表にまとめていた。
それをアレナフィルがファレンディア語に書き写す。トレーニングルームに用意された簡易テーブルに向かい、私達はせっせとペンを動かしていた。
「父上。ネトシル少尉はやはり構えが美しい。つい見入るものがあります。反対にオーバリ中尉は構えている様子を見せずに攻撃してきますね。さすが工作部隊。どちらもミディタルとは違いますが、力任せの父上も見習ってみてはいかがですか?」
「はっ。小僧共が知ったような口を。この私に見習えだと? ならば見せてみるがいい」
「ちょっとちょっとっ!? それ、私が言ったわけじゃありませんがっ!?」
「私達を売らないでください、フォリ中尉。いくらドルトリ中尉がいらっしゃらないからって」
棍棒が何本も置かれたエリアで、二人の青年を相手に生き生きと動き始めたミディタル大公がいる。
このところ、自分大好き自分ルール貫徹アレナフィル菌に汚染された行動を、あちこちの人で見るようになった。
「フィル、虎の種、生まれなくてよかった。ひと安心」
「さすがに女性にはやらないんじゃないかな」
「だけどルード、弱いのに、付き合わされてる」
ペンを動かしながら、姪がぷるぷる体を震わせている。
四人の軍人達と共に腕力や脚力データを取られたアレンルードだが、一人だけ大きく引き離された状態だ。仕方ないことだろうに、「くっそぉ」と叫んだアレンルードはランニング用のマシーンで走っている。
そこへガルディアスが近づいてきた。
「次、10ローティの速度で泳ぎ続けて、疲れが出て速度が落ちた時の時間測定だったか?」
「はい。僅かでも速度が落ちたら、そこで止まってください。頑張りすぎる必要はないです。つまり、疲れが出る前に推進力の補助がパワーアップするようにセッティングするだけなので、別に苦労したくなければ最初から推進力スタート設定でもいいわけです。
泳ぐだけなら自分ができるところまで、もしも戦闘などを考えているのであればその余力が十分に残っているところまでをカウントするわけです。周囲の探査及び警戒を怠りたくないのであれば最初から移動は全て任せた方がいいわけですが、それに合わせて圧縮空気量なども変わってきます」
そういうセッティングも個人のスペックに合わせた方がいいそうだ。もう少し速く泳いでから推進力が起動する方がいいと、大抵の虎の種の印を持つ者は言い始めるのだとか。
そこを問い詰められないのは、アレナフィルが家を出ていくのではないかという恐れが付きまとうからだ。子爵家の娘に生まれながら役人を目指すアレナフィルは、いつかウェスギニー家が自分を捨てると覚悟しているような気配が昔からあった。
そんな事情など知らぬガルディアスは、屈託のない笑顔でアレナフィルに尋ねる。
「普通はそこらを自分でコントロールするものじゃないのか?」
「泳ぐだけならそうなんですけど、基本的にウミヘビ、兵器なんです。だからそこのコントロールはウミヘビがやるんです。
水中で作業したり、暴れまわったりしながら、そんな推進力までコントロールなんてする余裕はなくなります。だからある程度の速度が続いたら勝手に推進力を出すように設定するわけです。
そうすると、自分の足を動かしてゆっくりと泳ぎながら周囲を警戒している時は、スピードも出ません」
「なるほど、レバーを倒すわけじゃないんだな」
「それも手動でできますけど、慣れれば自分なりのバタ足キックで発進力がオンになるわけだから、そっちの方が楽ですよ。楽というか、自分の体の延長になる感じ?」
「なるほど。じゃあ、俺達みたいにセミオーダーしない、普通のウミヘビはどうなる?」
これが家族と他人の差だろうか。
大切な家族だからこそ優しく甘い関係を壊したくない私達と、他人だからこそ有能だと分かっている人間を腐らせず使いこなしたいガルディアスと。
「自分でレバーコントロールすることになります。だからどれだけの速度を出すかは、あのトビウオバッタ品みたいにレバーを倒してコントロール。ゆえに自分の指がそこでそっちにかかりっきりになるわけです。だからただのウミヘビを使う人は常にウミヘビに指を当てておかないと推進補助は行われませんが、先生方のようにセミオーダーだと両手が自由です」
「なるほど。だが、自分がそこまでスピードなどいらないのに、勝手に動いてしまうこともあるんじゃないのか?」
「その時は推進力をオフにしておけばいいだけです。だからこうしてデータを取らなきゃいけないんですよね。後はどれくらいの強さでバタ足したらスピードアップとか、どれだけの大きな手の振りで方向転換とか、そういったことも微調整されていくでしょう。だけどあちらにも今までのデータの蓄積があるので、かなり使いやすい程度には近づけてからくると思います」
「よく分かった。だが、なんかあそこはもう疲れきってるようだが・・・。まともなデータ、取れるのか?」
凄まじい跳躍力で、空中での打ち合いをしている三人の軍人は、空気が震える程の音を立てていた。
アレンルードがランニングをやめて見惚れている。
「疲れきった状態で使うこともあると思うので、いいことにします」
アレナフィルの顔には、理解不能な生き物なんぞもう知らんと、そんな心情がありありと表れていた。
「そうなのか。ところで最後の質問だが、アレナフィル嬢、どうしてそこまで外国の兵器について知っている? やり取りだけでそこまで分かるものではないだろう。やはりあの男から情報を盗んでいたのか? 父親の戦績の為に」
「・・・・・・・・・」
「まるで彼が関与する製品をよく知っているかのようだ。データの取り方も全く不慣れな様子がない。だが、外国のそれをどうしてサルートスから出たことのない子供が知っているのか。そのあたり、誰だって質問してくるだろう。いい言い訳は考えているか?」
「・・・・・・・・・。黙秘します」
誰かは言うだろうと思っていた。まだガルディアスだったのは、ディオゲルロスではアレナフィルを怯えさせるからか。
椅子に座った状態で見上げたアレナフィルを、ガルディアスが見下ろしている。
「俺はそれでもいいが、問題は違う奴らだぞ。俺はアレナフィル嬢が悩んだ上で我が国の利益を考えて最良の物を持ってきてくれていると理解しているし、黙って感謝して受け取るだけだ。だが、他の老害はそうもいかん。それは分かってるか?」
「・・・・・・不幸な突発事態により、ウミヘビの入荷は延期になりました。とりあえず80年程」
「やっぱり何も考えてなかったか」
アレナフィルは都合が悪くなると全てをなかったことにする子だ。
自分が問い詰められるぐらいならウミヘビなんて永遠に届かなくていいと結論づけたらしい。
だが、あのウミヘビは前途ある子爵家息女の醜聞を出回らせない為の賄賂兼口止め料で、・・・・・・まあ、問い詰められる時点で醜聞の口止めも何もあったものではないか。
「あのユウト・トドロキという男と、俺とネトシル少尉が意気投合したと、ウェスギニー子爵は王宮で話をまとめた。
ウミヘビとやらはまず子爵家に運ばれて、クラセン講師とアレナフィル嬢が通訳しながらもてなすという話だったが、それではアレナフィル嬢の存在感が出すぎる。
だから、・・・俺の別邸を提供しよう。ファレンディアからの荷は俺の持っている邸に運ばせるんだ。この身分にあちらも接触する価値を見出したということにしておいた方がいい」
「・・・それは私を隠してくれるという意味ですか?」
「ああ。勿論、通訳としてアレナフィル嬢も保護者同伴で来てほしいが、今日、このメンバーでなければひそかにアレナフィル嬢誘拐計画が持ち上がってもおかしくない程に利用価値があると判断されることは理解しているか?」
ほえ? といった顔で、アレナフィルが針葉樹林の深い緑色の瞳を丸くした。
そして隣に座っていた私を振り返る。
「聞いてください、叔父様。ガルディアスお兄様が変な妄想に入ってます」
うちの姪は困ったことが起きると私に泣きついてくる。さすがに他人の思考までは私でもどうにもできないのだが。
あれ程に打ち合いながら、こちらの会話も聞き耳を立てていたらしい。
しなやかな動きで、ディオゲルロス達がアレナフィルの斜め後ろにすたっと着地した。
「いいや、アレナフィルちゃん。ガルディアスの意見は正しい。そして甘い。軍にも様々な派閥があり、君は女の子だ。尊厳を踏みにじられることに巻きこまれぬよう、届いてからの調整とやらは顔を出さぬ方がよい。通訳は専門の者に任せるのだ。あの遊泳補助具とやらに毛が生えたものならば別にどうでも良かったのだが、こうなるとな。周到に計画を立てて誘拐されてしまっては遅い。たかが送り迎えの士官なぞ殺せばいいだけだ。幾つかの分野で協力し合うなら、貴族令嬢誘拐など容易い」
「ぅひゃぁっ」
誰もいなかった筈なのにと、アレナフィルがびっくりして振り返る。ディオゲルロスの後ろにはグラスフォリオンとボーデヴェインもいて、まさにこの場の王様だ。
アレンルードは、みんなが休憩に入ったと考えたか、ランニングを再開する。
仕方がないと、私も口を開いた。
「フィル。お二方が仰った通りだ。技術者はクラセン殿とフィルという通訳をつけて我が家でおもてなしするにしても、調整はうちでやらない方がいい。その時は様々な士官や兵士がやってくるし、悪目立ちしては終わりだ。王宮か軍の手配で通訳を出してもらえるなら、その方がいいんだ。フィル、賢いからお手伝いできますというレベルをとっくに超えているのは理解できているかい?」
「・・・えっと」
所詮、この場にいる虎の種の印を持つ者は、変わった兵器もあれば欲しいが、なくても自分でどうにかする戦士達だ。ウェスギニー子爵フェリルドを本気で怒らせてまでアレナフィルから何かを強奪する必要を見出しはしない。
だが、誰もがそうではない。誰もがアレナフィルを尊重し、大切に扱ってくれるわけではないのだ。
「アレナフィル嬢。幼い息子を戦場へ連れていって戦闘させるようなウェスギニー子爵だ。幼い娘を外国に投げこんでスパイに仕立て上げていたとしても驚かん。だが、その利益を得るのはウェスギニー子爵である必要性はないと考える者もいる。
ファレンディア人と接触したのが俺ならば誰もが納得するが、お前では利用し尽くされる。自分が可愛ければ他の奴らの目に留まるようなことなどするな」
ガルディアスの言う通りだ。市立の幼年学校には影武者を行かせ、ウェスギニー子爵は娘をファレンディアで働かせていたのではないかと、誰だって結論づける。
それぐらいなら全ての功績はガルディアスに譲り、無関係を貫いた方がいい。あくまであの外国人と意気投合したのはガルディアス達であって、アレナフィルは引き合わせただけだと。
まるで仲間外れにされたかのような悲しみを潤んだ瞳に浮かべてアレナフィルがグラスフォリオンを見る。
「アレナフィルちゃん。みんなはね、アレナフィルちゃんが頑張り屋でいい子だって知ってる。みんなが君を大好きだ。だから危険になると分かってて引っ張り出すことはしたくないんだよ。君が一番頑張ってくれたと分かっているから心苦しくはあるけれど、君の安全には代えられない。・・・そうですね、オーバリ中尉?」
グラスフォリオンも、アレナフィルが誰かに目をつけられるべきではないと判断していた。だからボーデヴェインに同意を求める。
ガルディアスだけの意見ではないと示したのだ。
「はい。アレナフィルお嬢さん、俺らとてお嬢さんが幼児の頃から酒飲んでようが、酒場で大人相手にやばい遊びしてようが、詐欺を仕掛けようが、男を破滅させようが、そんなことでおたおたしません。
たとえボスがお嬢さんそっくりに整形した子を幼年学校に行かせておいて、お嬢さん自身を外国に投げこんで情報を乗っ取る計画に使っていたとしても気にせず沈黙します。
ですが俺達のデータ取りはともかく、ブツが届いてからのそれは様々な人間が立ち会うでしょう。そこにいるべきではありません」
潤み始めていた針葉樹林の深い緑色の瞳が、更に熱量をはらんで涙を湛える。
だけど泣きそうになっているのは、皆が思っている理由ではないだろう。たしかにアレナフィルはふてぶてしいところがあるが、傷つきやすい一面も持っているのだ。
さて、どうするべきか。うちよりもはるかに身分の高い大公邸では、いつものように慰めるわけにもいかない。
「泣くな。誰も責めてるわけじゃないんだ。だが、折角その存在を隠したウェスギニー子爵の思いを無駄にするんじゃない。お前に何かあったら誰もが悲しむんだぞ、アレナフィル嬢」
片手で抱き上げたガルディアスに頭を撫でられている姪だが、その撫でられ方にちょっと不満を覚えているのが分かった。
アレナフィルは抱き上げられて撫でられるにせよ、まずは頬にキスして微笑んであげてからじゃないと満足しない子だ。
「だ、・・・だって、・・・そしたら、・・・そしたら、私・・・」
「お前は悪くない。だがな、自分の利益でしか考えられない奴らにとっちゃ、アレナフィル嬢は金の首輪と足輪をつけた迷子の子豚だ。分かるな? いきなり棒で殴られて連れていかれ、持ってる金目の物は取り上げられ、その血の一滴まで全て食べられてしまうだろう」
「ひどい・・・」
「そうだな。だが、送迎の車を事故に見せかけて襲い、誘拐することなぞ朝飯前なのが軍にはうようよといる」
軍の遠征で起きたワンシーンなのか。調理の際、農場にいた子豚を解体して食べたんだなと、そんな思いが浮かぶ。
要は、鍋と葱を背負ってやってきた愚かな鴨だと言いたかったのだろうが、全ておいしく平らげられてしまう子豚で説明されても共感してくれるのは軍人だけだろう。
アレナフィルもショックを受けていた。
いつも兄から、可愛いウサギさん、我が家の妖精、いたずら好きな子リスさん、愛の小鳥と、甘やかされているアレンフィルはブヒブヒ鳴く子豚呼ばわりされて、よそのおうちでは自分の扱いがひどいと実感したらしい。
「ジェス兄様ぁ」
「ああ、泣くんじゃないよ。みんな、フィルのことを案じてくださっているのだからね」
私に手を伸ばしてきたアレナフィルを引き取り、肩に顔を埋めさせながら小さなタオルを渡せば、ぐしゅぐしゅといじけ始めた。
どうせ傷ついたら甘えたいだけの子だ。
「そしたら、そしたらフィル、・・・寮監先生達、・・・恩、きせられない」
「そんなことを考えてたのか。だけど男子寮の寮監に恩をきせても仕方ないだろう」
その背中をぽんぽんと撫でてやれば、ぽろぽろと己の企みをこぼし始める。
「だって、・・・何が役立つか、分かんない。フィル、・・・いつか、もみ消しに使えるかもって、思ってたのに・・・。それも役人生活の、コネ」
「そういうことは悪徳街道で生きるようになってから考えなさい。全くルードもフィルも変なドラマの見すぎだ。大人のご本もドラマも、大きくなってからと言ってあっただろう」
こんな姪に恩を取り立てられる社会人の方が恥ずかしい。
自分に優しくない寮監達にむかついていたのは継続中だったか。
「うむ。やはり悪女の道一直線だな。だが、まだ子供では力及ばぬか。数年後を見据えて精進したまえ、アレナフィルちゃん」
「恐ろしさに泣いてたんじゃなくて、あいつらを利用できないことが悔しくて泣いてたのか? どこまでも図々しいな、アレナフィル嬢」
抱き上げて撫でてやったのに損したと言わんばかりのガルディアスの気持ちも分かる。
だけど姪は昔からこんな子だ。
「まあまあ。アレナフィルちゃん、まだ子供だから分かってないだけですよ。それにこれだけのデータを表にしてるだなんて凄いじゃないですか。よく頑張ってますよ。・・・アレナフィルちゃん。俺にならいくらでも恩を着せていいから、それなら今度、何か好きなものでも買いに行こうか。
可愛いドレスなんてどうかな? たしかクラブメンバーでヴェラストール行くんだよね。
陰で護衛しているから、もし、気に入ったのがあったら合図して? 予算無しで何でも買ってあげる。これだけしてもらったお礼に、いくらでもたかってくれていいよ」
遠慮なく自分を利用していいよと微笑み、アレナフィルの指先に口づけるかのような仕草をしてみせるから、グラスフォリオンはアレナフィルに一番優しい人だと認識されているのだろう。
ネトシル侯爵家の息子でも爵位は継げない、ゆえにどこにでも婿に行けるというグラスフォリオン。
我が家では、アレンルードを支える妹夫婦ということでいい組み合わせだと考えているが、まだ様子見だ。ネトシル侯爵家はどうも我が家にいい印象を抱いていない。
「そんならお嬢さん、そのネトシル少尉に買ってもらった可愛いドレス着て、俺とドライブデートなんてどうですか? よその基地なんてなかなか入れませんよ。ドルロン基地見学ってのはどうでしょう。でもってうちの上司の前で、『彼は渡さないわっ』って言ってくれたら、バケツ一杯のお菓子をあげます」
まだ女上司から逃げられていなかったのか。
証拠フォトだけでは逃げられない何かがあるのかもしれない。
「何やってるのかと思ったら。フィル、また叔父上に甘えてる。父上がいなければ誰でもいいわけ? ホント、浮気が過ぎるよね。
ほら、さっさと降りなよ。一緒にいてあげるから。
先生方も妹を甘やかさないでください。だからうちの妹、未だに甘えん坊なんです。全く恥ずかしいなぁ、もう」
「浮気じゃないもん」
額の汗をシャツの裾でごしごし拭ったアレンルードが、唇をとがらせてアレナフィルの腕を引っ張る。
仕方がないのでアレナフィルを床におろせば、妹を取り戻したアレンルードも満足そうだ。
「何、泣いてるのさ。誰もいじめたりしないだろ。ゴミが目に入ったなら顔洗わないと。おいで、フィル」
水道栓のあるスペース目指して、アレンルードが妹の腕を掴んだまま歩き始める。
「うーん、ルード坊ちゃんに連れてかれてしまいましたねぇ」
「寮に入れば妹離れするかと兄は思ったそうですが、まだまだですね」
「いいじゃないですか。おてて繋いで可愛いですよ。うちなんてどの子も生意気で可愛くないことしか言いません。ルード君もランニングに飽きたと思いますし、ちょっと気分を変えられるよう、軽く中庭で二人を遊ばせてきます」
ネトシル侯爵家は軍人が多く、弱さは罪だという気風がある。子供達も気が強いタイプばかりだろう。
当主が虎の種の印を持つ者なのにほのぼのしているうちがおかしいのだ。
そんな兄は昔からおかしい人だった。何の為に種の偽装をしたのか問えば、「やってみたらできた」というずれっぷりである。そして面倒だからと、未だに種の印を皆に訂正していない。
通常の貴族にとって、次の世代に続く人材こそが力だ。より有力な相手との政略結婚を誰もが目指す。
名門の価値を落とさぬ為、次の世代にも虎の種の印を持つ者、違う種の印を持とうとも軍人としての結果を出せる者、そうでなくては価値を認めてもらえないという価値観が、ネトシル侯爵家にもある筈だ。
「それならご一緒しますよ。ルード坊ちゃんはともかく、アレナフィルお嬢さん、構ってもらえないとすぐ拗ねそうですしね」
ボーデヴェインも体を動かし足りないのか、軽口を叩いてついていく。
その姿が消えてから、ディオゲルロスがぼそりと呟いた。
「あの異常な娘、フェリルド殿は何とも思っておらぬのか」
「・・・兄の考えることは私では分かりかねます」
「よその家ならばあの娘、凄まじい高値をつけさせるであろうに何故ここで愚かにも引くのか。わざと留守にしたとしか思えぬ」
その通りだ。本来、兄は王宮勤務である。何やら違う任務に首を突っ込んで結果を出しているから許されているだけで。
「ディオゲルロス様。我が家はアレナフィルにはささやかで慎ましい幸せを与えてやりたいのです。身に余る権力や財宝を得たところで使いきれずに潰される未来しかありません。獅子には獅子の、羽虫には羽虫の生き方がございます。どうかご理解くださいませ」
「心配せずとも兄王がそれは許さぬ。王妃と王子が気に入っているとあってはな。だが、あの娘にまつわる様々な要因に価値あることに変わりあるまい。一人の子供としては兄の方だが、・・・何故か気にかかる」
単にそれは、アレナフィルみたいな子供を見たことがないからではないだろうか。
甘やかされたい貴族子女は多くとも、あそこまで細かく要求するのはアレナフィルぐらいだろう。
「父上。あれはこちらが先に目をつけたのです。関係ないのだから口出しせず、黙って見守っていてくださればと思いますが?」
「お前もだからつまらん男なのだ」
そこへトレーニングルームの扉が開けられ、使用人が入ってくる。
「旦那様。奥方様がお戻りになりました。お客様がいらしていることをお伝えしたところ、是非アレナフィルお嬢様とお話する時間をと仰っておいでです。いかがいたしましょうか」
「別に会いたければ勝手に来ればよかろう。喋りたければ勝手に喋るがよい」
私が「それならご挨拶にお伺いいたしましょう」と言う前に、ディオゲルロスによってすっぱり話をぶった切られた。
そこへ女性の声が響く。
「殿方とは違いますのよ。令嬢相手にこんなところで立ち話ですませるだなんて、どんな粗雑な対応かと思われてしまいますわ。淑女の話というものは調えられたお部屋で、お茶や菓子にも気を配ってなされるものです」
「そんなのしたことないだろう」
「あなたはなさらなくても私はしておりましたのよ。・・・ガルディアス。あなた、わざと私を行かせたわね? ウェスギニー家の方々がおいでになるだなんて聞いてませんでしたよ」
母親の詰問も、息子にとっては肩をすくめて終わりにする程度のことだった。
「仕方がないでしょう。あなたがいらしては、アレナフィル嬢を抱き上げて撫でるだなんて許してくれません」
「当たり前でしょう。そんなことをしていいのは幼年学校に入るまでです。勿論、ガルディアスの軽挙をあなたはお叱りになりましたわね?」
「うむ。私が膝の上に座らせていたのをガルディが取っていったのだ。けしからん。お前からも叱っておくがいい」
「ああ、なんて駄目な親子。レミジェス様も気が気ではなかったことでしょう。大切なご令嬢に申し訳ありません」
ミディタル大公妃トレンフィエラ。
青い髪に水色の瞳をした氷の戦女神だ。別名、戦闘神の後始末係。
「とんでもないことでございます。アレナフィルもお菓子を頂いて喜んでおりました。まだ子供なのです。かえってアレナフィル達の為にお菓子を用意していただき、ご配慮に感謝するばかりでございます」
「いいえ。どうかお茶を差し上げさせてくださいな。てっきり殿方だけだと信じて留守にしていたというのに、最初に続いて二回目も何をやっているのかしら」
どうやら双子が初めて訪問した際、茶会どころか練習試合に参加させられたというのは肝心の大公妃にとってかなり不本意なことだったらしい。思うに、大公の主張に逆らえなかったのだろう。
恨み交じりの話にあまり巻きこまれたくない私は、軽く礼を取って一歩下がった。つまり、私のことは気にせず話を続けてほしいと示したのだ。
大公妃ながらも答礼してくる仕草は男性的で、明るい焦げ茶色の衣服と相まって倒錯的に思える。
「あんなちまちました茶会とやらのどこがいいのか分からんが、そういうことなら連れていくがよい。体を動かすこと自体は楽しむが、突発的な闘気に対して必要以上に構えるところがあるのだ。あの反応が引っ掛かる」
「闘気程度で? 父親がいますのに?」
きりっとした印象の強い大公妃は、氷の貴婦人とも呼ばれている。鍛えている肉体はどんな難しいダンスをもこなし、その姿勢もぶれることはない。
それでも虎の種の印を持つだけあって、トレンフィエラは興味を示した。
「思うに自宅では出しておらぬのだろう。根性はある子だし、これでうちの戦闘訓練に紛れこませたらどうなるのか気になるな。かえって虎の種の印を持つ男達を利用して勝利を取りに行くかもしれん」
「それも実力の内ですわね」
「うちの姪は怖がりですので、それこそ気絶してしまいます。どうぞお戯れはご容赦くださいませ」
戦闘訓練か。
そんなものに組み込まれると分かった時点で、うちのアレナフィルなら男子寮の寮監や警備棟を巻きこみ、更に兄に泣きついて工作部隊を手配してもらうかもしれない。
何かあるとすぐ「大変、大変」とみんなに泣きついてくる子なのに、アレナフィルは土壇場で思いきりがいいのだ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ロープを使った木登り遊びをしていた双子の内、アレナフィルだけを引き取った私は大公妃トレンフィエラが待つ部屋へと連れていった。
アレンルードにも行くかどうかを尋ねたが、ロープがなくても服を汚さずに登るところまでマスターしたいとか。
貴婦人が語らうのにふさわしく、美しい花壇が見える小部屋に案内されれば、なるほどと思う。壁や天井にも華やかさがあり、最初に通された部屋とは全く趣が異なっていた。
こういう絵画をメインにした内装は考えたことがなかったが、参考にしてもいいだろう。
「久しぶりね、アレナフィル様」
「大公妃様におかれましてはご機嫌麗しくお喜び申し上げます。ウェスギニー・インドウェイ・アレナフィルでございます。本日はガルディアス様にお呼びいただき、叔父、兄と共に参りました。ご挨拶が遅れましたことを心よりお詫びいたします」
白いシルクシャツに臙脂色のリボンタイ。リボンのドレープが女性らしさを醸し出しているのに、明るい焦げ茶のスラックスと上着によって、きびきびとした男性らしさも覗いている。
大公妃の倒錯的な魅力と衣服の素材合わせに、アレナフィルはちょっと見惚れていた。
何かとおしゃれが好きな姪は、「あ、素敵」と思う人がいたらすぐに見つめてしまうのだ。
(普通はこんなにまっすぐ見ていたら不躾すぎると嫌われるものだが、表情に考えていることが出るのがアレナフィルの利点か。誰しも純粋に感心されて悪くは思わない)
微笑んで着席を促したトレンフィエラも、本来は礼を失していることを咎めるべきだが、花に見惚れる者に罪はないというそれを選択したようだ。
何事もなかったかのように話を続ける。
「聞いているわ。色々と無理をさせているみたいね。・・・ところでアレナフィル様? あなた、秋のダンスパーティのドレスは決まっているのかしら?」
大公妃も子供相手だと油断してそれを口にしてしまったようだ。すぐに唐突すぎたかと思ったか、アレナフィルに語りかける。
「どうもガルディアス達の話を聞いていると、ウェスギニー子爵はお嬢様の支度について女親の大切さを蔑ろにしているんじゃないかと思えて仕方ないのよ。勿論、お祖母様がいてくださるから大丈夫だというのは分かるわ。だけどね、どうしても今の世代は何かとやんちゃなのよ。気をつけた方がいいわね」
アレナフィルはトレンフィエラの言葉の意味を考えたらしい。
流行遅れだと揶揄されぬように気をつけた方がいいと大公妃は言ってくれたのだが、いつも皆から言われている「目をつけられぬようおとなしくしていなさい」的な意味だと、アレナフィルは思ったようだ。
「承知いたしました。祖母は、初めてのパーティだから、お友達と相談して同じようなタイプにした方がいいと申しておりましたので、いずれ友人と相談するつもりでおりました。なるべく埋没するように努めさせていただきます」
トレンフィエラはアレナフィルがおしゃれ好きだと聞いていたらしい。
マリアンローゼが勧めるであろう王道的なタイプよりも、やんちゃ、つまり礼儀知らずな者が絡んでこないよう、皆が注目するようなドレスにした方がいいとアドバイスしたつもりが、反対の方向へ解釈されたと察した。
「そうじゃないわ。アクセサリーは何をつけるの?」
「耳飾りはつけますが、他はなるべくリボンか、ブローチでも光らないものをと考えております」
「そう。目立たないように夫人も考えていらしたのね。だけど無駄かもしれないわ」
そこまで聞いて、処世術として皆に埋没するようなよくあるタイプのドレスをわざと選択したのだと、トレンフィエラは理解する。
それならばその方がいいのだろうかと考えを変えたものの、それでも難しいかもしれないと、小さく呟く。
「無駄とは・・・。大公妃様、姪は出さぬ方がいいでしょうか?」
「いえ、言い方が悪かったわ。ごめんなさいね、レミジェス様。アレナフィル様の婚約の件はどこまで知られているのかしら。私達もガルディアス達から報告を受けているから、他の方がどこまで知っているのか分からないのよ。だけど外国人と婚約させたのは英断ね」
英断どころか、アレナフィルの欲望溢れる決断は事後承諾ですまされた。
「と、仰いますと?」
「エインレイド様に一番親しい女子生徒ですもの。同じ年頃の令嬢がいる家から警戒されていたのは承知していらっしゃる? もしアレナフィル様に何か起こったとしても、エインレイド様は未成年。しかも恋人を作るお年でもなく、だから何をされても当人同士のこととして口出しできない状態だったのよ。
それをガルディアスが横から手を出した状態だったでしょう? だからガルディアスにアレナフィル様を理由に近づく女性が増加していたのだけれど」
「え・・・?」
「それは、・・・ガルディアス様にもご迷惑をおかけいたしました」
つまり、ガルディアスが小さな恋人扱いしている子爵家息女を攻撃するのはまずい、怪我をさせるのも言語道断だと、どの家も判断したのだ。
だからアレナフィルのようなタイプが好むものはよく知っているとか、同じ年頃の妹がいるとか、そんな話をきっかけにして近づく女性が出ていたのだろう。
言うまでもなく、男は自分を甘やかしてくれる生き物だと思っているアレナフィルに、自分から誘惑をしかける思考は存在しない。ゆえに姪は話を理解できていなかった。
「アレナフィル様は分かっていなくていいのよ。ただね、外国人と婚約してしまった方が安全よ。あまりにも質素では侮られ、華やかであれば陰口を叩かれる。
フェリティリティホールにアレナフィル様を見に行こうと考えている貴族も多いでしょうけれど、それならいっそファレンディア風のドレスを着てもいいわね。あまりにもそちらに寄せると、今後の成り行きによってはアレナフィル様に不名誉な噂を立てられるでしょうから、あくまで貿易取引でそちら風の衣装が手に入ったような感じで、はみ出さない程度に」
今はファレンディア人との婚約を盾にしてアレナフィルの安全を優先しろということだ。それでいて、いつ壊れても醜聞を立てられぬよう、ファレンディアの衣装ではなく、ファレンディア風というファッション感覚に留めておけと。
「ファレンディア風のドレスですか。どのような物があるのか分かりかねますが、帰宅しましたら早速調べてみることにいたします。貴重なご忠告を頂戴しましてありがとうございます。ご承知の通り、姪には母もなく、我が家も一般の部に進ませていたことから、まず貴族令息と知り合うこともあるまいと油断しておりました」
母マリアンローゼも貴族とはいえ、男爵家の傍系出身だ。あくまでルールを乱さないことを心がける。
一般部の生徒など経済軍事部の貴族令息は大して興味を持たないことが多いから、それですむと思っていたのだが、厄介なことだ。
「何事も思わぬ方向へ転がる石はあるわ。エインレイド様を注視している人達の目は数えきれない。だからガルディアスがアレナフィル様を連れ回していたようだけれど、それで牽制しても捨て駒が使われるだけ」
「あ、あの、・・・大公妃様。私、今度、エインレイド様や他のお友達とヴェラストールまで出かける予定ですが、それはまずいのでしょうか」
そっちの捨て駒、つまり誘惑を仕掛けてくる美男子ルートは、我が家ではあまり心配していなかった。何故ならうちの姪は、顔だけでは満足しない子だからだ。
もう一つの意味、つまり捨て駒を使った暴行は、送り迎えの移動車を警備棟が出すことで対応している。
改めて見落としがないかを考えれば、アレナフィルはやはり王子に近づく自分はみんなにいじめられてしまうのかと、怯え始めた。
「成人する前に婚約は解消予定だと、あまり触れ回らない方がいいでしょうね。それであれば、いずれ外国に嫁ぐ予定の貴族令嬢と王子が親しくしていても外交の一環でしかないもの。
いいかしら、アレナフィル様? お母様がいらっしゃらないことで、あなたのお祖母様を世代が違うと馬鹿にする人も出るでしょう。だからこそ、そこにつけこんでくる人もいるわ。母親代わりとか言い出す人には気をつけることよ。そういう人に限って押しが強いから厄介だけれど」
「ありがとうございます。大公妃様、ずっと私を助けてくださいます」
突き放したかのような口調だが、自分を案じてのことだと分かっているのか、アレナフィルがトレンフィエラに微笑む。
気が抜けたのか、トレンフィエラはそっぽを向いた。常にきびきびと命じている大公妃にしては珍しい表情である。
「仕方がないわ。ガルディアスがあなたを気に入っているのだもの。あなたが幼児ならお菓子をあげて懐かせられたのに、諦めて婚約者にしたらお菓子をあげられるだろうかと、エインレイド様と一緒になって悩んでる息子なんて、母親としてはとても複雑なのよ。せめてあなたを守ってあげなきゃ仕方ないでしょう。大体、ウェスギニー子爵も令嬢の後見をしてくださる貴婦人ぐらい当たっておけばいいものを」
私はアレナフィルと見つめ合ってしまった。
そうか。うちの姪にあそこまで皆が求婚者として名乗りをあげようとしたのは、餌付けしたかったからなのか。
理解はできるが、そこに恋はあるのか。愛も生まれるのか。
エサをもらう子豚気分になったであろう姪のショックを思いながら、私はこほんと咳払いして、前半は聞かなかったことにした。
「後見をしてくださる貴婦人ですか。考えたこともありましたが、うちは姪を社交界に出すつもりではなかったのです」
「ええ、聞いたわ。だから一般の部だったのでしょう?
全く子爵家の一人娘に対してなんてことかしら。フェリルド様も男だから分かってなかったなんて言い訳にもならないわ。もう少しご自分の子供のことを考えるべきだったのよ。
同じ世代に子供のいない侯爵家、伯爵家あたりでセンスのいい夫人と縁を取り持たせるぐらい、何故やっておかなかったのかしら。仕事だけできてもどうしようもないわね。そこの詰めが甘いのよ。もっと早く事態を把握していれば、私も社交に力を入れて根回しできたのだけれど」
何故そこまでアレナフィルに心を砕いてくれるのだろうと訝しみ、そこで私ははっと思い出した。
私よりも年上の大公妃である。だから失念していたのだ、彼女の結婚前の名前を。
ドルトリ・ガイアロス・トレンフィエラ。
そうだ。大公妃の母親はガイアロス侯爵家令嬢だった。そして兄フェリルドの実母アストリッドもまたガイアロス侯爵家令嬢だった。年齢的に伯母(叔母)と姪だろうか。
傍系よりは直系の方が尊重される為、一族内の娘を本家の養女にしてから嫁がせることもあるが、この場合、それはあまり問題ではない。
ガイアロス侯爵家で、トレンフィエラの母親と兄の母親はどれ程の繋がりがあったかだ。そしてアストリッドはトレンフィエラにとって母方の従姉なのだ。
「あの、大公妃様。それならやはりダンスパーティを休めばいいような気がします。私、そんなに興味なかったですし、そうすればエインレイド様も男の子の友達だけになりますし」
「やめておいた方がいいわ。品定めされるなら人が多い場所で一気に済ませた方が安全よ。
学校の催しじゃなければ庇ってあげられても、学校行事では保護者の立場でしか入りこめないの。陛下がエインレイド様を見に行かれないのであれば、代わりに私達が行ってあげられるのだけれど。
しかもウェスギニー子爵、年間予定表も全て機密とやらにしてるから当日は国内にいるかどうかも分からないのよ。全く娘の社交界の実地演習だと思えば参加するのが当然なのに、その予定も空けられないというのかしら」
「申し訳ございません。ですが学校の行事の一つにすぎませんし、私も姪から目を離さぬようにしておきます」
勿論、トレンフィエラ自身はドルトリ伯爵家令嬢だった方だ。だが、母親の実家であるガイアロス侯爵家の方が家格としても上。何かと出入りしていたとしても不思議ではない。
(いや、待て。年齢的に大公妃と母上こそ仲が良かった可能性も高い。アストリッド母上と兄上は色合いもそっくりだし、顔も似ている。そして母のいないアレナフィルは母上と顔立ちこそ似ていないが、色合いは同じ)
もしかしたらトレンフィエラは、息子であるガルディアスよりも自分の方が頼られるべきなのにと、そっちにむかついていたのかもしれない。
だが、息子なんて母親の女同士の交流など把握していないものだ。
ゆえにアストリッドとの思い出を持つトレンフィエラに対し、兄はどこまでも他人行儀だったと察せられる。大公妃トレンフィエラは自分達よりも年上で身分も高い。そしてガイアロス家ではなくドルトリ家令嬢だった方だ。
(そうだ。母上はいつだって楽しくて面白い方だった)
なんとなく私はそのあたりの流れが分かった気がした。頼るべき夫人は、まさにガルディアスの申し出を待つまでもなく、ここに存在していたのだ。
実の娘はいないからそのあたりの兼ね合いを考える必要もなく、アレナフィルにとって親身なアドバイスを行い、導いてくれる貴婦人は。
私が母方の縁戚関係に気づいたと、トレンフィエラの方でも察したらしい。少し頬が赤くなっていた。
「別にあなたを侮っているわけではないわ、レミジェス様。けれど足止めされては振りきることが礼を失することもお分かりでしょう?
大公家でも、弟が上等学校に通っている士官達には保護者として参加し、アレナフィル様に声をかける令嬢がいたら割りこむように伝えてはあるの。だけど令嬢同士の連携はとても厄介よ。
いいかしら、アレナフィル様? あなたと仲良くしようとしてくる令嬢達は、あなたが外国人と婚約しようがしまいが、あなたを利用してエインレイド様と親しくなるという指示を受けていることを忘れてはいけないの」
「それは・・・。姪に過分なお心遣いを頂戴しまして、言葉もございません」
守ってくれていたのだと、心が熱くなる。できることならば聞きたかった、あの懐かしい養母のことを。
分かっていないアレナフィルが、横で拳を握る。
「かしこまりました。安心してくださいませ、大公妃様。そのお心に報いることができるよう、エインレイド様が可愛い女の子と恋に落ちるまで、私が守って差し上げます・・・!」
大公妃と私の間に、なんだか白けた空気が漂った。
いや、仕方がないとは分かっている。だが、恐らくこの部屋で同じ色合いの髪と瞳を持つアレナフィルを見ながら大公妃は従姉にあたるアストリッドを思い返していただろう。
私が大公妃の言葉の端々に、養母アストリッドを偲ばせる何かをくみ取ろうとせずにはいられなかったように。
そして何も知らないアレナフィルだけが、大公妃の気遣いは王子への配慮ありきだと思っているのである。
恐らく大公妃、第二王子エインレイドのことなど全く考えていなかったと、今の私は断言できる。そういう人だった。養母はそういう人だったのだ。
「手乗りインコに守られる男の方が恥よ」
ぼそっと、トレンフィエラが呟く。
「ちょっとこっちへいらっしゃいな、アレナフィル様」
「はい?」
テーブルを回ってアレナフィルが近寄っていけば、トレンフィエラも立ち上がって、アレナフィルの両脇に手を入れて持ち上げた。
「そうね。うちも近づいたらまずは拳を叩きつける親子関係だったから、こうしておとなしく抱き上げられる子なんていなかったものね。だから妹が欲しいとか言い出してるのかしら」
「・・・妹ですか。私も妹が欲しいです」
顔は似てないと、改めて思ったのかもしれない。
トレンフィエラは左手だけでアレナフィルを抱くと、右手でその頭を撫でた。
本当はもっと早く会いたかったのかもしれない、アストリッドの血を引く娘に。アストリッドによく似た顔の息子はいるが、やはり性格があの兄では違いすぎたのだろう。
「あらまあ。本当だったのね。服の上からじゃ分からなかったけれど、頬や髪ならこの気配はちょっと特別ね。・・・ああ、分かったわ。だから今まで蝶と踊っても分からなかったという理由が。
あの子達、馬鹿じゃないかしら。手袋していたから分からなかっただけじゃない」
「あ・・・」
どうやらかなりガルディアスは自分の両親に情報を渡しているようだ。
大公夫妻に確認されてしまったアレナフィル。思えばミディタル大公も頭や額を撫でていた。
「えっと、大公妃様。やはり姪に感じるものがあるのですか? ですがうちの兄も分からないと・・・」
「きっと鈍いのね。本当にどこまで娘を蔑ろにしているのかしら。双子で片方だけが違うなら、親なら気づいてもいい筈よ」
うちの兄を鈍いと貶したくなる気持ちは分かる。
実子である兄が全く気づいていなかった、トレンフィエラの亡きアストリッドに向ける情。
それを、法的には実子となっていても実は全く血の繋がっていない私の方が先に察してどうするのか。
母よりも大公妃の方が社交における相談相手にはいいかもしれないと、私もアレナフィルの年間予定を思い浮かべる。
「あ、あの、大公妃様。この優しい気持ちは、今、頑張って出したから出ただけで・・・。普段は気づかれないから大丈夫です。触られないとまず分からないです」
「オーバリ中尉は一目で見抜いたそうだけど?」
「それは、心が弱くなっていたからで・・・。そうそう心が疲弊しきっている人はいないと思います」
アレナフィルがいつも甘えて終わりにするパターンは、血の繋がらない同性相手には無効という弱点があった。遠慮なく問い詰められている。
「いたらどうするの?」
「・・・いたら、・・・・・・それから考えます」
「レミジェス様。あなたの姪御さんは、上等学校生だけじゃなく、父兄も多く参加するという意味を分かっていないようね。まさか求婚者を更に増やす気かしら?」
求婚者というが、婚約者は既にいるのだがそちらはノーカウントとされていた。
だが、解消後が問題だ。そして求婚予定者の一人は、この女性の息子だ。
アレナフィルを膝の上に座らせるという、なんだか今朝もその夫や息子で見たスタイルを眺めつつ、私も姪の求婚者には仰天したクチだ。責めないでほしいと思った。
「沢山の着飾った令嬢がいる中、姪が目立つことはまずないかと。それに姪をチェックする方は、それなりの理由があるかと思います」
「だ、大丈夫ですっ。大公妃様っ、つまり私に目をつけるのは、エインレイド様のお妃候補とか側近候補を考えている人達とその家族ですよねっ? その中にもしも虎の種の印を持つ方がいたとして、私に惹かれたら、そこはもう私の天下ですっ。きっと私の為に動いてくれますっ」
ダンスパーティには王子狙いの令嬢とその家族がアレナフィルを見に来る筈だと私は思っていた。
それなのにアレナフィルだけが全く違う切り口で主張し始める。
今の所、アレナフィルを取り巻く成人男性はどれも安全だ。
婚約者になっている外国人は、本当は家族ということで安全そのもの。求婚予定者のガルディアス、グラスフォリオンもまた礼儀正しさと紳士的な物腰には折り紙付き。三人目の求婚予定者ボーデヴェインはダミーな上、上司である兄の管理下にある。
だが、それ以外の虎の種の印を持つ者なんてどんなものだか分かったものではない。
「なんて愚かな小鳥なの。虎の種の印を持つ男なんて、誘拐して自分のものにするのが基本よ。あなたの天下になる前に、気づいたらよその寝室で目覚めるだけ。自分に近づいてくる男には、声を掛けられた途端、その向う脛を蹴り倒し、悲鳴をあげて人を呼び、接近禁止令を出させるぐらいの勢いが基本だと理解しなさい」
「・・・父と同じことを言わないでください」
アレナフィルがとても情けなさそうな顔になった。
愚かなのは女親がいなかったせいだと思えば不憫になったのか、トレンフィエラはそんなアレナフィルの頭や頬を撫でる。
言葉はきつくても、その根底は自分を案じているからだと分かったのだろう。アレナフィルは目を閉じた。
すぅっと、自然にその呼吸が変化する。
「何故そこで寝てしまうのか。申し訳ございません」
「いいのよ。あれだけの書類をまとめていたのだもの。疲れたのでしょう。本当にもう一人ぐらい産んでおくのだったわ。あの頃は仕方なかったけれど。・・・だけどこんなにも人懐っこい子では心配ね。どこにでも下品な者はいるわ」
「普段の姪はかなり警戒心が強いのですが、珍しいこともあるものです」
アレナフィルは家族や家族代わり以外の女性には警戒心バリバリだ。父親狙いのメイド事件がよほどショックだったらしい。
そして男性は全員、痴漢予備軍だと信じている。
「警戒心は皆無に思えるけれど? 人を疑うことを覚えさせないと、何かあってからでは遅いのよ。どうしてガイアロス侯爵家を利用しないの」
「ガイアロス家とは、とっくに縁が切れております。あの頃は兄も私も子供だった上、ウェスギニー家も後妻を迎えてしまえばさすがに図々しいお願いはできません」
その後妻は私の実母なのだが、どうせ知っている者は知っている事実だ。
「縁が切れたんじゃなくて、全く寄り付かないだけでしょう。ガイアロス家がいつ頼ってくるのだろうかと待ってる内に、どこまでも身勝手な当主だこと」
「え?」
「普通は母を亡くしたからこそ、父ではなく本人が母の実家を頼るものよ。
それもせず、勝手に軍に入ったかと思えば平民と結婚。やはりまともな教育がされていなかったからだと嘆いていれば、幼年学校に通う年になっても子供は入学しない。
落胆していればいきなり上等学校で出てきた息子はともかく、娘は一般部。それでも成績がいいのだから、やはり・・・と思えば、エインレイド様と親しくなっているのに全く連絡を取ってこない。
どこまでも他人行儀。あなたの兄は一体何を考えているの。ガイアロス侯爵家とその縁戚を何だと思っているの」
「は、・・・はあ。いえ、申し訳ございません」
名前にガイアロスをもらっていても、私は他人だ。だから何も言えない。
兄が母方の伯父達と交流していればよかったのだろうが、私とてあの頃は子供で何も気づいていなかった。
(母方のガイアロス家と、今もかなり親しいんだな。男子寮にいるドルトリ中尉をアレナフィルはひねくれいじめっ子だと言っていたが、そっちの意見はどうでもいいのか)
全ては兄が普通に人間付き合いしていればよかっただけの気がしてならない。
「あなたを責めてるわけじゃないわ。あなたの兄を責めているのよ」
「兄はあれで不器用なのです。・・・あの、もしかして、アストリッド母上と、親しくなさっておられたのですか? 母と親しかった方々がおられたのは覚えていますが、お名前までは・・・。幼い頃、可愛がっていただきました」
「そうね。アストリッド様は自由な方だったわ」
「はい。おかげでアレナフィルが何かやらかしても、祖母譲りだから仕方がないのではないかと、我が家でも悩んでおります。いえ、母はアレナフィルのように受動的ではなく、いつでも自分から飛び込んでいく性格でしたが」
「そうね」
亡くなったひとを思って、親しくもなかった私達の間に優しい時間が流れた。
くぴくぴ寝ている姪は、寝ている時に撫でられることに慣れすぎていて、全く目覚める気配がない。
「ウェスギニー家は子爵家だもの。訪ねていけば気づまりだったでしょう。だからガイアロス家も見守るようにして、いつやってくるかと待っていたのよ。
勿論、きっかけがないといきなり訪ねてくるなんてできないわね。だから一度、ガイアロスでも遠縁の人間がウェスギニー家に連なる人と縁戚関係を結んだということで様子を見に行ったことがあった筈よ。
その時はまだフェリルド様も母親を亡くして数年。荒れていたのか、とても礼儀知らずでガイアロス家など役立たずで気位ばかり高い家だと侮辱したそうなの。
そりゃ跡取りでなければね、家に居づらいなら引き取ることだってできたわ。だけど長男。しかもよその家に口出しなんてできないわよ。どうすればいいのかと悩み、下手に接触したら余計に恨まれそうで、だから手を出せなかったら、あの男・・・! どこまであてつける気なのっ」
うちの兄は常に物静かな人だった。母親の実家を侮辱する理由もなかっただろう。
そして母を亡くして荒れていたのは私の方だ。
「遠縁と言いますと、他人ということですか?」
「そうね。それが?」
私は少年時代の記憶を辿る。
「いえ。・・・ガイアロス家の遠縁で、身内がウェスギニー家の親戚と縁組したということで初めてウェスギニー家の集まりに参加した男性のことを思い出しただけです。たしかアストリッド母上に横恋慕していたらしく、同じ顔なら少年でもよくて、ついでにうちの使用人に金を握らせて深夜に兄の寝室へ忍び込み、全裸で兄を襲おうとして反対に気絶させられ、女性客室のある廊下天井に縛りつけられた男性がいらしたなと。その後、二度といらっしゃらなかったそうですが。
あの頃、兄はとてもおとなしい少年だったので、兄のしたことだと、誰も考えもしませんでした。兄が18前後の頃です」
「・・・奇遇ね。その報告した人も、フェリルド様が18前後、どの種の印が出たのか、お祝いしてあげたいからこっそり調べてほしいとガイアロス家当主に頼まれて、あなたのおうちを訪れたような気がするわ。結局、そこまで嫌われているのならばと贈らなかったそうだけど」
すーっすーっと寝息を立てているアレナフィルだけが平和だ。
私達はきっとお互いに同じことを考えている。色々と不幸な行き違いがあったのかもしれないと。
「奇遇ですね。兄が蝶の種の印が出たと、皆を欺いていた頃とは」
「そうね、奇遇ね。蝶の種の印が出ていたが、誰をも惹きつけない様子で皆が慰めるしかなかったと聞いたけれど」
私達は苦い思いで、カップを口元に運んだ。
「本当は虎の種の印だったそうです」
「ええ。だからてっきり出た印を虚偽登録してでも虎だと思いこみたかったのか、そこまでして軍に入りたかったのか、どれだけ性根が腐ったのかと、ガイアロス家でも頭を抱えてたのよ」
「さすがに軍の登録に嘘は書けないと思ったのでは」
「そうみたいね。何を考えてるの、あなたの兄は。どこまで人をおちょくれば気が済むの。本当は蝶なのにと、ガイアロス家が手の者をつけさせようとしてみれば、よりによって工作部隊・・・!」
心配してくれていたのだ、この方は。どこまでも罪な人である、我が養母と兄。
「えっと、実はまだうちの一族でも兄は蝶の種と信じている者が大半です。本当に申し訳ございません」
「責めてないわ、あなたのことは。ええ、騙されたこちらが悪いのよ」
「あの、父も私が軍に入るまで知らなかったのです。兄もそこまで気にすることと思っていなかったようです。本当に申し訳ございません」
てっきり息子に頼まれたからこその配慮だと思っていたが、トレンフィエラ自身にも私的な思いがあったらしい。
ひょんなことから、私は大公妃と友誼を結んでしまった。
兄が戻ってきたら、一度ガイアロス家に連絡をとらせなくては。
うちの兄、人間関係に対して無頓着すぎる。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
昨日、大臣同席の際にアレナフィルだけ出された菓子は、ミディタル大公家の料理人によるものだったとかで、同じ物を持って帰ることができるように手配されていた。
あの後、目覚めたアレナフィルはミディタル大公妃に護身テクニックを披露して色々と改良点を指摘されていたので、お腹ぺこぺこだったらしい。帰宅してからの夕食も元気に平らげた。
「フィル、跳び蹴りが一番だと思ってたけど、あれ、スカートだとできないのがネックだったの。だからフィル、スラックス着てるのに、スカートで蹴りあげられて一人前、大公妃様言ってた。大公妃、大変。貴族社会、怖い」
「大公妃様を基準にしなくてもいいんじゃないかしら、フィル。ほとんどの貴族令嬢はスカートじゃなくても蹴ることなんてできないものよ」
「僕もそう思います、お祖母様。あそこ、ミディタル軍事基地に改名すべきです」
そうしてデザートに持ち帰ってきた菓子が出されれば、両親の口にも合ったようだ。
「まあ、美味しいわ。たまにはこういうお菓子もいいものですわね」
「そうだな。我が家でも作れないわけではないが、技術が今一つ及ばないかもしれないと嘆いていたが」
「完全に同じレベルでなくても、十分ですわ。ご馳走も毎日では特別感がありませんもの」
そんな中、アレナフィルだけがぱくっと食べた後、眉間にしわを寄せている。
「おかしい。昨日、食べた時はもっと口の中にふんわりと鼻まで抜けるようなふくよかさがあったのに」
「フィル。フィルとルードの分は、香りづけの蒸留酒を抜いてあるそうだよ」
「ええっ!? 夕食後ならおうちだし、何にも心配いらないねって言ってたくせに」
「そんなの気にすること? 美味しいよ、これ。だけどこのパイ、食べ応えない気がする」
アレンルードは酒が入っていなくても全く気にしなかったが、量が足りないらしい。そしてアレナフィルは昨日の味が食べられるという期待に心弾ませていただけにショックが強かったようだ。
涙に潤んだ針葉樹林の深い緑色の瞳が私を見つめてくる。
「ひ、一口だけ。ジェス兄様、一口だけでいいのぉ」
「しょうがないな。ほら、お口を開けて」
「あーん」
ぱくっと食べたアレナフィルは、一気にご機嫌となった。
「フィル。もしかしてアルコール中毒なわけ? 恥ずかしいなぁ。ミディタル大公家の料理人だって僕達へのお土産って聞けば、子供用にお酒入ってないのを用意するよ。うちの料理人だってそこはチェックするに決まってるじゃないか」
「ちゅ、中毒なんかじゃないもんっ。フィル、大人の味、分かる子なんだもん」
「全然自慢になんないよ、それ」
菓子に合わせて濃いコーヒーを飲みながら、私は両親にファレンディアから届くウミヘビはガルディアス所有の邸に運び入れることになったと報告する。子供達はホットミルクに少しだけコーヒーを垂らしたものだ。
父はかなり安堵した様子だった。
母にしても、その外国の兵器目当ての来客がどれ程になるのかと、かなり胃を痛めていたらしい。
「よかったですわ。それならどなたがおいでになることかと、客室で悩まずにすみますもの」
「そうだな。貴族の身分で判断するにせよ、軍の地位もおろそかにはできぬ。そして上下の不満もかなり面倒になるところだった。まさかディオゲルロス様まで興味を示しておられたとは」
まだ独身のガルディアスがこっそり訪れる程度はどうにでもなる。だが、ミディタル大公や大公妃が訪問してくるとなれば、失礼など一つもあってはならなかった。
「だけどお祖父ちゃま、どうしてフォリ先生の所なのかなぁ。それならミディタル大公邸でもいい気がする。あそこ、本当は大公邸じゃない。ミディタル軍事基地だよ。名前、間違ってる。ルードもフィルも、そう思う」
「ディオゲルロス様の邸はどうしても人の出入りが多い。その点、ガルディアス様がお持ちの所は私邸。招待されていない人間が訪ねていくのは失礼にあたるのだ。我が家のことも考えてくださったのであろう」
「私邸? お祖父ちゃま、それって何か違う?」
「勿論だとも」
いいところを見せたいのか、父は孫娘の疑問に対し、まさにといった態度で語るくせがある。
「我が家ではお前達が暮らしている家がフェリルドの私邸に当たる。ウェスギニー子爵への招待や訪問はあくまでこちらの本邸だし、フェリルドに対する連絡もこちらになされるのが当然で礼儀だ。あの私邸は子爵家の本邸ではない。招かれてもいないのにあの家に訪ねていくのは、いきなり他人の寝室にズカズカ入っていくようなものだ」
「そうなんだ。だからフィルのおうち、静かなんだ。こっちのおうち、お客様、いっぱい」
仕事上の来訪者は多く、アレナフィルは知らない人を見かける度に逃げていた。
「そうなる。子爵家の子があのような寂しい邸で暮らすのはどうかと思っていたが、かえってあれでよかったのかもしれんな。もしも他の令嬢と仲良くなっていたら、エインレイド様との時間を取り持つように要求されて断れなかったかもしれぬ」
「それ、フィルこそが危険。寮監先生達、フィル暗殺する」
「なんで先生達がフィルを暗殺することになるかなあ。フィル、おかしいよ」
「フィル、おかしくないもん。ルード、分かんないの? 寮監先生達、フィルがレイドに悪い影響、与えてるって言うんだよ。被害妄想だよ。心の治療、必要だよ」
「それ、フィルの自業自得」
アレンルードはサルートス上等学校に入ってから、どんどんと大人びていっている。
外見ではなく中身が。やはり妹を案じる気持ちが、少年を成長させるのか。
「ところでお祖父ちゃま。パピー、ガイアロス、頼らないって、大公妃様、怒ってたよ。ジェス兄様、代わりに怒られてた」
「ん? ガイアロス家? そういえばトレンフィエラ様のお母君がガイアロス侯爵家出身だったか。そちらはフェリルドに任せていたのだ。私では付き合いきれんからな」
するとアレンルードが尋ねた。
「お祖父様、付き合いきれないって何ですか?」
「ガイアロス家は名門だが、他人を気にせず自分勝手な人間が多い。だからおとなしいフェリルドに安心していたのだが、・・・・・・ただのまやかしであったな」
父はまるで遠い過去を辿るような眼差しで壁を見つめる。
自分勝手とはどういうことだろう。今日の会話を思い返せば、どちらかというと慎重で控えめなイメージしか浮かばないのだが。
そして父も私も、兄が軍に入って勝手に結婚するまで、我が家の長男はおとなしくて自分の意見さえ言わずに微笑む人だと信じていた。
そこでぴーちくぱーちく囀るのがアレナフィルだ。
「お祖父ちゃま、パピー、いつも物静か。まやかしじゃないよ。お祖母ちゃまだって、自分勝手違う。それ、間違ってる」
アレナフィルが知らなかったことを思い出し、室内が静まり返った。
そう、アレナフィルは知らない。マリアンローゼが後妻であることを。
私達の沈黙にアレナフィルは違う解釈をしたらしく、きょとんとしたかと思うと、すぐにおろおろとし始め、更に信じられないという顔になった。
「ま、まさか・・・。お祖母ちゃま、フィルの知らない、裏の顔が・・・!? そ、そんなことないよね? お祖母ちゃま、いつだって優しくて物静かな貴婦人だよねっ?」
ふぇえっと涙を溜め始めたのは、いつもおねだりしたら折れてくれる母が、いつか豹変するかもしれないと思ったからか。
「裏の顔って、フィル、お祖母様を何だと思ってるわけ?」
「そ、そりゃ女の顔は会う人の数だけあるって言うけどっ。フィル、信じないもんっ。お祖母ちゃま、表も裏も優しい人だよねっ? いつだって物静かだよねっ? 実は鞭持って、ビシーンバシーンしてないよねっ?」
一体、うちの姪は何を妄想したのか。
こんな子供に真実を教えてもパニックを起こすだけだろうと判断した母は、なんと言ってごまかそうかと考え始めた様子だ。
「えっと、・・・フィル。その、ね?」
父が諦めたような顔で咳払いする。
「いつまでも隠せはしまい。フィル、私は二度、妻を迎えている。一度目の妻がフェリルドの母で、フェリルド達が子供の頃に亡くなったのだ。彼女はガイアロス侯爵家の令嬢だった」
目を丸くしてアレナフィルは言葉の意味を考えたらしい。
「ええっ!? そ、そしたら、フィル、お祖母ちゃまの孫じゃないのっ? フィル、お祖母ちゃまをお祖母ちゃまって呼んじゃいけないのっ? フィル、お祖母ちゃまのよその子なのっ?」
「何を言っておるのだ。お前はマリアンローゼの孫娘だとも。ただ、血が繋がっているかと言われれば、そこは繋がってない。それはどうしようもない事実だ。お前達の髪と瞳の色は、実の祖母譲りだからな」
血が繋がっていないことに反発するのではないかと恐れていた大人達だが、アレナフィルの反応は少しずれていた。
「そっか。だからフィル、青い髪も赤いおめめももらえなかったんだ。フィル、そっちの色ならシンプル勝負服でいけたのに」
玉蜀黍の黄熟色の髪に針葉樹林の深い緑色の瞳をした養母アストリッド。青い髪に赤い瞳をした母マリアンローゼ。
二人は全く似ておらず、そしてアストリッドを知る人からマリアンローゼは、比較する価値さえない後妻にすぎなかった。
「もしかして青い髪と赤い目がよかったの、フィル?」
「そうなの。そしたらフィル、おめめの色変わるメガネで変装できたの」
アレナフィルには分からない貴族としてのランク。だからこそ本音でそう言ってしまえるのだろう。
マリアンローゼの実の孫だったなら同じ色合いをもらえたのではないかと、そんなことを考えている。
「お祖母様。所詮、フィルなんてそんなことしか考えてないですよ。シンプル勝負服とかって、何の勝負する気なんだか。どうせフィル、エリー王子に使ってもらってる眼鏡使って変装できたのにとか、そんなことしか思いつかないんですよ」
実の母が殺されたと知った時にも大泣きし、祖母とは血が繋がっていないと知った時にも悔し涙を流したアレンルード。
妹には知らせまいとしていた双子の兄は、知ってしまった妹の思いつくくだらなさに何だかやさぐれていた。
そんなアレンルードの両肩をアレナフィルは自分の両手でがしっと掴んで、じっと目を見る。
「ルード、自分が混乱してるからって、フィル、馬鹿にしても解決しない。お祖母ちゃま、血が繋がってなかったって、ショック受けてる。そんな自分、目を背けちゃ駄目」
父と私の眼差しがちょっと放心し、母はあっけにとられた。
だけどアレナフィルは真面目な顔だ、この上ない程に。
「あのね、ルード。ルード、小さくてまだ分からないかもしれないけど、家族は血の繋がりが全てじゃないんだよ。
大切なのは心なの。不安になった時は、今までのやり取りを思い出すの。
お祖母ちゃま、ルードの為にお洋服、作ってくれた。カッコいい正装も用意してくれたの。抱きしめてくれたその愛情を疑っちゃ駄目」
母が涙を浮かべているのだが、何故アレナフィルがアレンルードに言い聞かせているのかが私には分からない。
きっとアレンルードにも分からない。
「別に疑ったことないけど。僕のお祖母様、お祖母様だけだし」
血の繋がった祖母がいたとして、生きて自分達を可愛がってくれている祖母は今の祖母だと言ってのけたアレンルードは、とっくに心の決着をつけていた。
だけど自分と同じく今知ったのだと信じているアレナフィルは、アレンルードの言葉を信じない。
「男の子、その場はそういうこと言っても、後でぐちゃぐちゃ悩んじゃうんだよ。何かあると、結局は血が繋がってないからとか言い出すの。
だけどね、それはそれだけ本当は自分こそが愛してて、血が繋がっていたらいいのにって切望する程に大好きな気持ちの裏返しなの。
よく考えて? 夫婦だって元は他人。だけど愛し合えるでしょ? 誰よりも信頼し合えるでしょ?
それと同じ。血が繋がっているとかいないとか、心の繋がりよりは薄い問題なんだよ」
こういうところが、アレナフィルをそのままでいいかと思わせてしまうのだ。
「とりあえず落ち着きなよ、フィル。ショックなのは分かったから」
「ショ、ショックなんて、受けてない。ショックじゃないもん」
あー、はいはいと、アレンルードがアレナフィルの頭を撫でる。
自分の時のことを思い出しているのかもしれなかった。
血が繋がっていないと知っても反発することのなかったアレナフィルに、母も心の重荷が下りたのかもしれない。
母はアレナフィルを背後から抱きしめた。
「お祖母ちゃまぁ」
「あなた達は私の大切な孫よ、フィル。こんな小さな頃から見ていたんですもの。それは、・・・フェリルド様はどうしても息子とは思えないけれど、あなた達はかけがえのない孫達なの」
ぐしゅぐしゅと顔をゆがめているアレナフィルは、その父親と全く性格が似ていない。だから母もアレナフィルを実の孫のように可愛がることができるのだろう。
「ほ、本当に? お祖母ちゃま、フィル達、よその子じゃない?」
「そんなわけないでしょう。血が繋がっていないことなんてとっくに忘れていたわ」
「お祖母ちゃま・・・!」
まるで捨てられるのではないかと恐れているかのような問いかけに、母は大きく否定する。
そして強く抱きしめた。
「ねえ、フィル。心の繋がりとか言いながら、自分が一番疑ってたんじゃないの? 何かといえばお祖母様に心労かけてたの自分だってことを思い出しなよ」
「フィル、いい子にしてたもん。お祖母ちゃまに気苦労かけたこと、一度もないもん」
目の前で盛り上がられてしまうと冷静になるのか、アレンルードが冷ややかに指摘する。
ぎゅっとマリアンローゼにしがみついたアレナフィルは、きりっとした表情でアレンルードを睨みつけた。
「ルード、乱暴者だからお祖母ちゃまに心配かけてても、フィル、おとなしくていい子だったんだからっ」
「お祖母様、何か言ってやってください。フィルこそが一番の問題児だって」
「そんなことないよね、お祖母ちゃま。フィル、心配かけたこと、一度もないよねっ?」
理性的にはアレンルードに味方したくてもアレナフィルに味方しないと泣くと分かってて、母にどちらが選べようか。
「えーっと、・・・何をしてもしなくても、孫を案じない祖父母はいないのよ、フィル。ルードは男子寮で不便な思いをしていないかしら、フィルはお友達と楽しく過ごしているかしら。いつだってあなた達を思っているわ」
アレンルードの言葉を否定せず、アレナフィルにも味方せず、母は全く違う話に話をすり替えた。
愛されて甘やかされることに根性を入れるアレナフィルは、それで満足したらしい。
どうしよう。姪があまりにも単純すぎて心配でならない。
「大丈夫、お祖母ちゃま。いつかジェス兄様やルードのお嫁さんと折り合い悪くても、フィルと一緒に暮らせばいいの。フィル、お祖母ちゃま、守ってあげる。息子や孫息子なんて、所詮は土壇場でお嫁さんの言いなり。頼れるのは女の子。フィル、とっても頼りになるんだよ」
「あらまあ、ほほほ。気が早いこと」
アレナフィルにとって血の繋がりはあまり重みがなかったらしい。母も気負っていた何かが失せたようだ。
「勝手に僕の結婚とか決めつけるなよ。今までだってフィルが頼りになったことなんて一度もないじゃないか。お祖母様だってフィルなんかより僕の方が頼りになるって分かってるよ」
「男の子って自信過剰な生き物なんだよ、ルード。お祖母ちゃまだって、フィルの方がいいって思ってる。大丈夫、お祖母ちゃま。いつかルードが大きくなったら煩わしいことはそっちに押しつけて、幸せに暮らしましょう? だからとりあえず豪華列車旅行でお出かけするの」
思うにアレナフィル、愛情が変わらないなら血縁問題はどうでもいいと考えた。そしてガルディアスから提案された列車旅行を思い出し、そっちの話を詰めたいだけらしい。
「お祖父様、叔父上。フィルがまた身勝手な話にすり替えてます」
「なんでフィルは資本力に釣られてしまう子なのかな」
「そうだった。ガルディアス様もどこまでフィルを気に入っておられるのか。ルードも一緒だそうだが、その前にエインレイド様とヴェラストールに行くという話もあったではないか。お友達を作って楽しく過ごしてほしいと願ってはいたが、何故フィルはこう・・・。フェリルドも王宮勤務になって家にいる筈が、何をあいつは違う仕事ばかりを・・・!」
今日は、兄に対する恨み言をよく聞く日だ。
父の気持ちはよく分かる。だから言わせてあげようと思っていたら、本気にしたアレナフィルが取りなそうとして言い募り始めた。
「お、お祖父ちゃま、パピー、国の為、頑張ってる。パピー、強いから、きっと頼まれて行くしかなかったんだよ。だってパピー、サンリラで冬のお洋服持ってた。きっと寒い場所、完全に真冬になる前にパピー、頑張ってる。仕方ないと思うの」
「なんだと? そうなのか、フィル?」
「うん。だってパピー、前は火山対策行ってた。だけど今度、寒い所行ってた。あの後、少しいてくれたけど、またいなくなった。おうちから持ってった荷物も沢山。だからパピー、収穫後に攻められるの、対策しに行ったと思う。だからパピー、責めちゃ駄目っ」
実は父だけではなく私も、兄は娘の後始末の道筋もつけたことだしと、面倒になって後はこちらに押しつけて出て行ったのかと思っていたのである。
王宮勤務の人間が王宮を離れて何をやっているのかと言いたかった。言えないが。
「フィル。その話を誰かにしたかい? たとえば学校のお友達とか、エインレイド様とか、警備棟の人とか」
「ううん、誰にも言ってない。だってパピー、無言で留守にする人。いなくてもみんな、『またか』で終わる。だからユウトに、ウミヘビ持ってきてもパピー留守だって言った。そしたらユウト、言ってた。今年のカットフェックのユィンミェン、収穫が悪かったからサルートスの収穫した倉庫、攻めてくるんじゃないかって。カットフェック、外貨で稼ぐの、かなり疲弊してるって。ユィンミェンってどこって聞いたら、カットフェックの平野って教えてくれた」
「色々と言いたいことはあるが、どうしてユウト殿がカットフェックの事情を知っているんだい?」
「スパイが来てたんだって。カットフェック、高いお金払って兵器買うのは嫌なの。技術盗んで自分のものにしたいの。ファレンディアでね、なりすましてたカットフェック人、沢山捕まったの。だから怖いねって」
はああっと父が苦悩の溜め息をつく。
「怖いのはお前だ。その情報、何故この祖父やレミジェスに言わなかった」
「え? だってこーゆーの、一般人、知っちゃうのいけない。パピーが無事に帰るの、フィルも信じて待つの」
「ガルディアス様にも言わなかったのか」
「うん。時に味方が足を引っ張るから、誰にも言っちゃいけないの。だけどお祖父ちゃま達、言わないでしょ? だからパピー、悪くないよ。パピー、みんなの為、頑張ってる」
任務遂行の為、味方にも情報を漏らさないのは鉄則だ。
だからアレナフィルはファレンディアからの情報を得ても黙っていたのだろう。だが、父が変な誤解をするのはよくないと思い、ここでその話を出してきた。
アレナフィルは、ただ家族仲良く暮らしていたいだけなのだ。
「分かってますよ、フィル。大丈夫、本気でお祖父様も責めてたわけじゃないのよ。あなたのお父様は無事に帰るわ。まさか遠い国の方がそこまで把握しているだなんてと、驚いただけ」
「お祖母ちゃま。だけどパピーいなくて、フィル、寂しい。だからね、寂しいフィルと豪華列車、乗るの」
うちの姪、優しくされたら何かしてもらえる合図だと思いこんでないだろうか。
「なんでそこに戻るかなぁ。フィルって本当に自分勝手だよね」
「自分勝手じゃないもん。ルードだって行きたいくせに、そーゆーこと言うの、よくない」
「何言ってるんだよ、僕の手下の分際で」
「フィル、手下じゃないもん」
「生意気なんだよ、フィルのくせに」
「ルード、フィルの方がお姉さんだからって悔しいだけのくせに」
もう一緒に歯を磨いて顔を洗ってシャワーを浴びて着替えて先に寝ておきなさいと、二人を私は追い出すことにした。
三人ぐらいつけておけば、おとなしく寝るだろう。
どうせベッドで喧嘩していても、しばらくしたら手を繋いで一緒に寝てしまう双子だ。そろそろ年齢的にまずいのかもしれないが。
「おやすみなさい、お祖父様、お祖母様、叔父上」
「おやすみなさいなの。お祖父ちゃまも旅行行くの。お祖母ちゃまも侍女連れてっていいって。でね、ジェス兄様もフィルとフォト撮るの」
子供達がいなくなった後、私達は小さなリビングルームに移動し、今日のことについてかなり長く話すことになった。
ガイアロス家の縁戚関係とその繋がりの太さも、我が家では分からない。
「あら? フィルったらどこに向かってるのかしら」
話し込んでいる途中、窓の向こうにある廊下をアレナフィルが歩いているのが見えた。
「恐らく通話通信装置でしょう。手に持った表を、あちらに送信するのでしょうね。見なかったフリしてあげてください、母上」
「本当に婚約は解消されるのであろうな。だが、婚約解消されたとして、本当の婚約をどうすればいいのだ。トレンフィエラ様がフィルの味方でいてくださっても、フィル自身は単純な子供にすぎぬ。賢かろうが、あの性格ではどうしようもないというのに」
「父上。全ては兄上の言葉足らずです。もう戻ってきたら一度とことん話し合わないと」
「そうだな」
父もファレンディアの兵器など誰かに押しつけて知らん顔したいのだ。
普通ならばアレナフィルみたいな金の卵を産む鳥が一族の娘ならばとことん利用するのだろう。
けれどウェスギニー家にとって、アレナフィルは金の卵を産む鳥ではなく、あの子そのものが可愛く囀る黄金の鳥だった。




