5 他人だからこそ言い合えるけど
サルートス語をマスターしたくてバーレミアスの所へ通い始めたアレナフィルだが、当初の目的を忘れて、ファレンディア語でお喋りできることに夢中になっていた。
子供っぽい仕草を心掛けなくていいから気楽だったのかもしれない。
挨拶や、ある程度の言葉は、二人とも書かなくても大体の意味を理解してやり取りできるようになっていて、それは映像を見ている私も同様だった。
「ただいまー。お、いいにおいだ。温めてくれてたんだ」
【おかえりー。窓から姿が見えたから、今、火をつけたの。小さな子供だけで扱ったら危険だからね。一人の時はしないよ。ところでレンさん、朝食はどうしてるの?】
「途中のパン屋で食べてる」
お互いの母国語での会話なので、全てを理解しているわけではない。だけどある程度の単語は分かっているから、大体こんなことを言っているのだろうなと判断し、そうして会話が成り立っている。
言語の習得には生きた会話に触れ続けた方がいいというバーレミアスの考えもあり、なるべく多く二人は会話し続けていた。
【冷凍とかしておかないんだ? 何ならアイスコーヒーとか作っておこうか? 朝、手鍋で温めるだけで飲めるし、ヨーグルトにドライフルーツを夜の内に漬けておけば、朝、美味しいよ】
「何言ってるかよく分からんが、してくれるならありがたく食べる」
一日遅れではあるが持ち帰ってチェックできるよう、バーレミアスは所定の場所に記録映像を置いておく。
そんな彼は、
「別に本人が生まれ変わりと信じているだけだとしても、作られた人格だったとしても、どうでもよくないか? 無害なんだろ? 俺のいない間に毒とか仕込んでないんだろ?」
で、割り切っていた。
どう考えてもアレナフィルがアイスコーヒー、ヨーグルトやゆで卵、そしてパンやチーズやハムなどをカットして夕方の内に保存容器に入れておき、朝はすぐ食べられるようにしてくれている便利さに流されただけだろう。
「パピー、おかいもの、レンにーしゃま、おねがい、いった」
「分かってるよ。一緒に読んでみようか」
「うんっ」
アレナフィルには幼女らしからぬ賢さがあった。
私とバーレミアスの家に向かう途中で、食料品店に引っ張っていき、「買い物リスト」を見せてくるのだ。バーレミアスが買い物リストを書いたように見せかけているが、書き取り練習も兼ねてアレナフィルが書いたものである。
娘を嫁に出した覚えもないのに、娘がよその家で妻みたいなことをしているこの理不尽さは何なのか。
(バーレンはフィルにもファレンディア・サルートス語対比本を渡していた。フィルは棚の後ろに隠しているが、ベッドで隠れて読むのはやめさせないとな。だが、あれは最低限の旅行者用だ。いずれ物足りなくなるだろう)
今のアレナフィルは、普通のサルートスの子供よりも賢くなっている。発音そのものは怪しくても、単語を急速に覚え始めたからだ。
私といる時はシャツの袖を引っ張って、
「パピー。フィル、パピーのシャツ、こっち、にあう、おもう」
とか言っているのに、映像の中でファレンディア語を操るアレナフィルはとても自然体だ。
母国語がそれだけ楽ということか。今も映像の中で、ポットに入れた茶葉にお湯を注いでもらい、いつもの歌を歌っている。
「歌いながら時間をカウントするというのは、本当に興味深い。俺も覚えちまったぞ。学校で歌いそうになって慌てた。怪しげな呪文だと思われるからな」
【サルートス語に訳して歌えば? 文字数を合わせなきゃ駄目だけど、時計がない時は便利だよ。脈拍でリズムをとるから、そこまでずれないんだ】
「耳で覚えたからもう無理。フィルちゃんの歌で俺は覚えた。それ、国民全員がそれを学校で覚えさせられるのか?」
【ううん。小さな子供の内から歌って覚える。親が歌ってるし、子供たち同士でも歌うから覚えられるんだ。リズムが同じじゃないと意味ないからね】
「最初に考えた人の頭がいいのか。ファレンディアならではの知恵だな」
【そういうもんだと思ってた。こっちではそういうのないわけ?】
「聞いた覚えはない」
どこまでいってもバーレミアスは教育者だった。ファレンディア国の教育方法や共和国制度、職業選択について尋ねたりすることに重点を置いている。アレナフィルという仕込みを入れられたと考えて探りを入れる私とは考え方も捉え方も違うのだ。
(私達とて何年もかけて敵側に仕込む。子供が利用されることも珍しくない)
絆されることなどあってはならない。それでもあの子は私の娘だ。
たとえ「パピー」と笑顔で私を振り返るその姿が、「パパぁ」と泣きじゃくりながら駆け寄ってきた姿とあまりにも遠くても。
バーレミアスの前では成人したファレンディア人として振る舞うアレナフィルも、サルートス国だとどれくらいが平均的な学歴なのか、一般人の平均収入や生活レベルなどを聞こうとする。
バーレミアスは、アレナフィルを幼児の姿をした同世代の外国人だと思って対応していた。
食事が終わればマンツーマンレッスンだ。
会話しながら、それらを書き出し、お互いに辞書をめくったり、相手の辞書をめくってあげたりしながら、違う単語でも説明したりして、どんどんと語彙を増やそうとしている。
「フェリルは家を継ぐ気はないようだが、やはり子爵家の令嬢である以上、正しい言葉遣いは必要だ。だが、普通の生活でそれをやったら、お高く留まっているとか、何様だとか言われる。しかし相手が自分よりも身分が高い時、できなければ礼儀知らずと責められる。中身が大人なら、もう普通に敬語を覚えていけ」
【おおっ。レンさんがとても頼りがいのある男の人に見える】
「頼りがいがあるんだが?」
アレナフィルの中にある人格は、いつもその一言が多かった。悪意はないらしく、バーレミアスも本気で怒ったりはしない。
それなりにひねくれた性格のバーレミアスだが、アレナフィルにあの意地悪さを出すことはなかった。
【だけどさぁ、よく母性本能がくすぐられるって言われない?】
「はっ、幼女の分際で何が母性本能だ。中身ババアが」
【けっ、老化しない顔と思って偉そうに。私がババアならお宅もジジイだっての】
いや、勘違いか。お互いに同じレベルでやり合っていた。不思議なことに、悪口だけは書きもせず、辞書をめくらなくても通じている。
「年頃になって不安になったら言ってこい。うちの母に礼儀作法を教えてもらえばいい。家の格で考えるなら、うちの母でちょうどいい筈だ」
【ありがと。よく分からないけど助かる】
父親は平民だが、バーレミアスの母親は子爵家の娘だ。行儀見習いとして、王城で働いていたこともある。
バーレミアスの提案は、アレナフィルに母親がいないことが影響していただろう。私も淑女教育など専門外だ。
「まずは正しい姿勢からだ。ほら、この吊り棒のように姿勢をまっすぐする。それから瞼を伏せがちにして,ワン、ツー、スリーで、腕をこうして、『はじめまして。わたくしはウェスギニー・インドウェイ・アレナフィルと申します』だ。それから場に応じて下がるか、もしくは更にワン、ツー、スリーで、『お会いできてとても光栄に存じます』だ」
「はじめまして。わたくしはウェスギニー・インドウェイ・アレナフィルともうします。・・・おあいできてとてもこうえいにぞんじます」
「顔をあげるのが早い。そして上半身をその角度で維持。目を合わさないっ」
【貴族、大変。・・・私、やっぱり一般庶民で生きていく】
礼儀作法と言葉遣いだけで、アレナフィルは遠い道のりを察したようだ。諦めが早い。
するとバーレミアスが釘を刺した。
「食べていける職業に就きたいなら、王族や貴族が通う学校を出ておいた方がいいんだぞ。それとも安月給や肉体労働で頑張るか?」
【レン先生。頼もしいです。まさに賢者の風格。もう先生についていきます。どうか私に貴族のマナーを教えてください】
「うむ。ついてくるがよい。どうせ幼年学校なんて生徒がサルートス語も分からんアホだろうが、マヌケだろうが大したことではない。そっちは捨てていけ。大事なのは上等学校、修得専門学校での成績と人間関係だ」
貴族であれば幼年学校時代も大事だと言うだろう。だが、バーレミアスは幼年学校時代のことなど上等学校時代、習得専門学校時代になれば忘れ去るものだと切り捨てた。
習得専門学校で講師をしていればこその生きた意見だ。
【最後が一番リスキーな気がしてならない。私、こっちのその身分制度ってのがよく分からないんだよね】
「覚えろ。それだけだ」
映像の中、バーレミアスはそれで片づける。
中身が女性でも子供なので恋愛対象外、更にはかなりふてぶてしい性格のようだと判断したバーレミアスも普段の猫を全くかぶらなくなっていた。
私と三人で会う時は三人それぞれに演じているわけだが、二人共別人かと言いたくなる程だ。
「とりあえず目立たないようにそうやって礼を取り、そそくさと逃げろ。後は目立ちたがりの令嬢に、男の相手なんぞ任せときゃいい。つまり、これ一つで終わる」
【おおうっ、レンさん素敵っ。相手に分からないように手を抜き、全てを操ってみせる裏の帝王っ】
子供なので姿勢のバランスがまだまだだが、アレナフィルは熱心に覚えようとしていた。
バーレミアスはアレナフィルに伊達眼鏡を勧められ、教える時にはそれをかけている。今まで同じ服をずっと買い続けていれば、コーディネイトの手間もかからないという考え方だったバーレミアスが、いきなりイメージチェンジだ。
アレナフィルの中身はかなり外見を気にしてアレコレやりたがる。
【本当はねー、ファレンディアの眼鏡グッズがあるといいんだけどぉ。レンさんの目なら濃い藍色に見えるからクールだよ。でね、ちょっと高い奴だとね、更に違う色に見せかけるのもあるんだ。そっちはジョーク用だからあまりおしゃれじゃないけど。そしてね、髪にパールホワイトのを塗りつけると、髪が淡く見えるの。優しい雰囲気に変わるよ。誰かにほわほわした優しい人に見てもらいたい時に印象変わるって奴。やっぱりさ、意外性が大事だよね】
「今更、この俺に何の意外性が必要なんだ。知的なところは変わらん。まあ、その商品の名前は書いておけ。ただ、ファレンディアの商品ならそこらへんの店では売ってないだろうな」
【そっかぁ。やっぱり外国製品は希少で割高なんだね。だけどちょっと、クセになるでしょ? 普段と違う自分なんておしゃれ、他人の為じゃなく自分が楽しんでするもんだよ】
よく分からないが、バーレミアスに眼鏡をかけさせるのは優等生っぽくてチャーミングだとか、そんな理由らしい。
あの性格にそんなものがある筈ないと何故分からないのだ、アレナフィル。
― ◇ – ★ – ◇ ―
アレナフィルは、やはりアレナフィルではなくなったらしい。
病院で目覚めた時点でアレナフィルの記憶は一つも残っていなかったと、きっぱり映像の中で断言していたことは私の心を重くした。
あの外国人の人格を持ったその奥に、私の小さなアレナフィルが残っているかもしれない。いや、何かきっかけがあれば戻ってくるのではないかと、祈りにも似た気持ちを心に隠し、私は日々を過ごしていた。
だから私の小さなアレナフィルに思い入れなどないバーレミアスで良かったのだろう。
彼は何かと不自由なことがないか、アレナフィルに尋ねていた。
【たしかにお魚メニューが少ないのは感じてるかな。海が近くにないからなんだろうけど】
「魚が好きなら配慮ぐらいさせてやるけど?」
【ううん。おうちの味を食べ続けている方が記憶も戻るかもしれないし。そりゃ子供の記憶なんて戻っても大したことないかもしれないけど、やっぱり何も覚えていないってのは辛い。小物とかにしても、どれがお気に入りだったのか、全然分からないんだよ】
「うーん。いつの間にかふっと思い出してるもんじゃないのかねえ」
【全然かな。私だって生まれ変わるとかって、異国の土着信仰の思想だと思ってたもん。それぐらいなら睡眠時に暗示をかけられたって方がよほど説得力があるってね。そういう意味ではレンさんが信じてくれてよかったよ】
「俺は別にどうでもよかったし。前のフィルちゃん見たことないから飯の支度してくれてファレンディア語教えてくれたらそれでいいよ」
【なんてこった。欲望に正直すぎる大人がいる。・・・だけど私も幼女。力がないのは辛い】
「なんかしたいことでもあるのか?」
【そりゃね。いきなり外国の幼女だよ? ファレンディアでの私物の行方があまりにも気になる。人間、ある程度の覚悟で人生の整理をし終えてたらいいけど、そうじゃない場合ってどんだけ人に見られたくない、渡したくない物がてんこ盛りだと思ってるの。最悪だよ。全部燃やしてくればよかったよ。私が死んで何年経ったのかも分からないなんて最悪だよ。だけど旅費ってかなりかかりそうだよねぇ】
「少なくとも成人してないと出国前に保護されるし、それなりに旅費も必要だな。大人になって働いて、半年分の給料まるまる使えば行けるんじゃないか?」
【やっぱりそうだよね。高いよね。そんな気はしてた】
バーレミアスと二人きりの時と、私を交えた三人で出かける時と、アレナフィルの言動が違いすぎて、父としては娘に距離をおかれているようで辛い。
それでも何も知らず、娘を娘だと信じている父親を演じている方が楽だった。
少なくとも言葉を覚えようと努力している娘を見守っている父というスタンスでいる方が、この心を見せなくて済む。娘に笑いかけながら、怪しい行動に出た時点でその子を処理するのもやむなしと考えているこの心を。
バーレミアスは平然としているが、内心ではどう思っていたのか。
映像の中で筆記しながら語り合うアレナフィルは、あの難しいファレンディア語を完璧に使いこなしていた。
「なあ、ファレンディアでの名前、教えてくれない理由でもあるわけか? 三人で出かける時は可愛いフィルちゃんなのはいいが、今の大人なフィルちゃんと違いすぎてるだろ。できれば名前も分けておきたいんだが」
バーレミアスもどっちがどっちかで混乱していたのか。
私と三人でいる時には「レンにーしゃま」と、たどたどしくも愛らしい笑顔で呼びかけているのに、二人きりでいる時にはぶっきらぼうに「レンさん」呼びだ。
アレナフィルはすまなそうな顔でぽりぽりと頬を掻いた。
【ごめん。言いたくないというよりさ、言ったら夢になりそうで怖いんだよ】
「夢?」
【うん。私ね、いつかファレンディアに行って、私が生きていたってことをたしかめたい。だけどその時、それが私の妄想だったらどうしようって、そっちも怖い。不安なんだよ。自分の名前を言った途端、このアレナフィルの夢が終わって、私は死んでしまうのかもって】
バーレミアスの表情がしかめっ面になる。言葉の意味を理解しようとして、失敗したようだ。
そしてアレナフィルはアレナフィルなりに言い表すにふさわしい言葉をたぐろうとしては見つからず、眉根を寄せていた。
「これが夢に思える?」
【だって、普通じゃない。何より、アレナフィルの記憶を持たない私は本当にアレナフィルなのかって思う。どうして私はアレナフィルとしての記憶がないの? 私はアレナフィルとして扱ってもらうことで、どうにか自分を繋ぎとめてる感じなの】
考えながら発した言葉だけに、書くのもちょっと時間がかかっていた。書く時は分かりやすく書くからだろう。
それを訳したバーレミアスは困ったような顔になった。
「本当も何も、元々が4才の子供だ。そこまで記憶なぞなかろうがよ」
【そうだろうけど、やっぱり違うよ。だって病院で目が覚めた時、ルード、泣いたもん。私がアレナフィルじゃないって、ずっと泣いてた。今までずっと一緒だった存在が消え失せたって、分かったからなんだよね。私も思い出せるかなって思ってたけど、全く思い出せない。どんなにアレナフィルとして暮らしていても、この体の中身はファレンディア人の亡霊だよ】
ずっと罪悪感を抱いていたのだろうか。アレナフィルはまるで生活に疲れきったような表情を浮かべている。
バーレミアスは何かを言いかけて、だけど自分なりに状況を整理したのだろう、少し優し気な口調となった。
「それ、フェリルに相談しようと思わないのか? 本当はあいつがまず相談される立場だぜ?」
【それはもう何度も相談しようと思った。何度も言いかけた。だけどさぁ、あの父親ってば人間ができすぎてない? あの人、本当に最高な父親だよね?】
「は?」
バーレミアスが面食らう。
アレナフィルは私を父親だと思ってはいるが、同時に他人のような一線を引いていた。
そんなバーレミアスに対し、アレナフィルが身を乗り出して説明し始める。
【だってさ、あの人、凄いんだよ。私の悪口言った人とか、ルードの反応で察したと思うと全部スマートに排除してんの。めっちゃ子供のこと考えてるの。
しかもさ、レンさん、実は偉い先生だよね? だって言語学なんて通常の基礎教育じゃしないでしょ? それだけ専門的なものを教えてる先生を、たかが4才の子供が言葉を忘れたからって家庭教師にお願いするって凄くない?
子供なんてほっとけば言葉ぐらい覚えるよ。オーバースペックもいいところだよ。あの人、子供のことにはおかしいぐらいに愛情とお金と人材を使いまくりだよ。申し訳なさすぎて、止めたいのに止められない幼さが辛い】
「うむ。俺が優秀なのは否定しない。だが、それと相談しないこととどう関係するんだ?」
少しは謙遜したらどうなんだ、バーレミアス。
だけどやっと、私にもあのアレナフィルの困ったような表情の意味が分かったような気がする。
私を見上げていた時、自分の悪口を陰で言われていたことに傷ついていたのではなく、自分が傷ついただろうと判断した父親がその元凶を取り除くだけの非情さを振るうであろうことに戸惑っていたのか。
だけどアレナフィル。君が私の子供である以上、私に守られるのは当然のことだ。
【もしもさ、あの人に相談したら私の前世とか調べてくれそうじゃない? ファレンディアに調査入れそう。だけどね、ファレンディアは外国人をスパイと考える国なの。調べようとしてもお金だけ取られて何も分からないのがオチ。外国人なんて警戒されて何も教えてもらえないわけ。現地の人を雇っても、その地域の人じゃない時点で不審人物。小さな言葉のニュアンスでも出身が分かるからね】
「何だそりゃ。本気でそこまで閉鎖してる国なのか?」
アレナフィルは首肯した。
【そう。私、レンさんには今、標準的なファレンディア語で話してるけど、地元では少し言い回し方法や発音も変更するよ。地域ごとの方言を使えない人なんて受け入れてもらえないからさ。外国人が住所を尋ねても嘘を教えられるし、聞かれたことを知っていても知らないって言うだろうね。いつかファレンディア人と親しくなったら聞いてみるといいよ。親しくない内は教えてくれないけど】
「親しくなったらって、・・・なんて面倒な国なんだ」
ファレンディア国は島国なので、交通手段がとても限られる。
行くだけでかなり費用がかかるのだ。そしてファレンディア人は、外国ではあまり見かけない。
【仕方ないよ。だって優秀な製品を生み出す国だからね。みんな、ファレンディアの技術や技術者も財産だって分かってる。そこらの小さな建物で、実はすごい製品を作ったりしてるの。発音がおかしいと思ったら一気に警戒して嘘を教えるし、泊まっている宿も要注意人物としてその情報をその地域の人に回すよ。観光地はいいけど、観光地を外れたら一気に不親切地帯。だけどさ、父親に相談してそんなファレンディア情報言ったら、調べられたくない為の嘘だと思われるだけじゃない】
「まあ、普通は嘘だと思われるな。だが、機密を扱う所ではそういう警戒心など、どこだって持っている」
バーレミアスも、研究成果を発表する前に盗まれる事例など、よくあることだと語っていた。
だからだろう。アレナフィルの話にそこまで疑問を表さない。
(なるほど。信じてもらえるかどうかじゃなく、その先を考えていたのか)
アレナフィルは私がどういう行動に出るかを冷静に考えていたのだろう。もしかしたら何度も言おうと思っては、その会話の流れを自分なりにシミュレーションしていたのか。
【そういう地域を知らない人は、自分の経験でしか物事を見られないからね。ファレンディアから出ていった人はよそで暮らしてその不便さにファレンディアに戻るって言うけど、外国人こそファレンディアには居つかない。あそこは外国人にとって住みにくく、とても嫌な土地だからなの。あれだけ便利なものを輸出している国なのに、そこに移住した人っていないでしょ?】
「うーむ、実は熟慮した上での判断だったか。言われてみればあそこは取り引きするだけの国だな」
てっきり言葉の問題だけかと思っていたバーレミアスが、なるほどと頷く。
私もその排他性については後でファレンディア語を教えてくれている彼に尋ねてみようと思った。
【それにさ、4才って可愛い盛りだよね? 奥さんだけじゃなく娘までその年で失ったなんてひどいこと言えないよ。言ってどうにかなることなら相談するけど、これを相談したところで前のフィルちゃんに戻れるわけじゃないんでしょ? 私も一人で抱えているのが辛かったからレンさんに相談しちゃったけど、それってレンさんが関係ない他人だからだよ。それにレンさん、頭よさそうだし、フィルちゃんの記憶を取り戻せる手段があるならその方法を教えてくれるかなって期待してた】
「さらりと薄情なことを言いやがったな、こいつ」
見た目は幼く甘えるような表情の子供なのに、アレナフィルはドライだ。
その認識を知ってバーレミアスもがっくりときたらしい。
【娘が言葉も記憶も忘れたんだよ? 普通は荒れるし、八つ当たりするよ。だけどあの人、いつも笑顔で子供達にそんな苦悩をちらりとも見せないの。凄い精神力だよね。
そんな耐えている人に自分が楽になりたいからって、あなたの娘は心を破壊されて前世で生きて死んだ魂とチェンジしましたって、どうしようもない重荷をぶちこむの? 自分を責めるだけなのに?
フィルちゃんが私に完全チェンジしたのって、それだけ強いショックをこの小さな体で受けたからでしょ? ・・・私が親なら自分を憎むよ。大切な子供を守れなかった自分を一生許せない】
「え? だけどフィルちゃん、生きてるじゃないか。単に、前に生きていた記憶を思い出しただけだろ」
バーレミアスはアレナフィルの味方というスタンスを崩さなかった。
それは以前のアレナフィルを知らないこともあるだろう。彼にとってアレナフィルは今のアレナフィルだけなのだ。
だけどどうして・・・。
あのアレナフィルを全く知らない君が、私の心を知るのか。
(君こそが、私のフィルを奪ったのだろうに)
彼女が悪いわけじゃない。そんなことは分かっている。
だが、そうでなければあのアレナフィルは今も私の腕の中にあったのではないか。私のアレナフィルは、どこに消えたというのか。
――― パパぁ、おばけがでたぁ。
――― おやおや、怖い夢を見ちゃったのかい。もう大丈夫だ。ほら、おいで。
――― パパ、だいすきー。
やりきれない思いが、不意に湧きおこる。あの子にとって私は怖いものを全て打ち払う存在だっただろうに。
泣かされてはいつも私に駆けてきたアレナフィル。どれ程にあの子の心は私を呼んでいただろう。
映像の中で、二人の筆談と並行した会話は続いていた。
【心が違ったら、体は一緒でもそれは別人だよ。一緒に重ねた思い出が家族の絆を作るの。そして救えなかった家族は一生の傷になる。私がそうだった。失った痛みを紛らわす為に違う人を代用にしても、違和感が大きくなるだけなんだよ。いずれ私の違和感に、二人は耐えられなくなるのかもしれない】
「・・・・・・」
【人はまっさらな状態で生まれてくる。そして自分だけの関係を作るの。・・・フィルちゃんの凄まじい恐怖は、私ならちょっと驚く程度の恐怖にすぎなかった。フィルちゃんだって大きくなっていたら、耐えられたかもしれない。だけど、どうやったらフィルちゃんに戻れるのか、私には分からない】
「自分が転落死したことは覚えてるんだろ? そして目が覚めたら病院のベッドか。亡くなった君の頭脳をフィルちゃんに移植したとかさ」
実は犯罪行為が行われたんじゃないのかと、バーレミアスが別の角度から指摘する。動揺するかと思われたアレナフィルだが、力なく首を横に振った。
【それはもう疑った。髪の間にある傷跡も探した。変な薬を混ぜられてないかと、食べ物の味も調理もお手伝いを装ってチェックした。だけど大人の脳と子供の脳って大きさも違うでしょ。無理があるんだよ】
「しっかりしてるな。だから前世の記憶という結論に達したのか」
あのファレンディア人の人格もまた何らかの犯罪行為が行われたのではないかと疑っていたのか。
アレナフィルはテーブルに両肘をつき、組んだ手首に額を当てて疲れた様子で目を閉じる。
【うん。他に思いつかなくて・・・。フィルちゃんが私の記憶とチェンジしたことで、家族の優しい絆は消滅しちゃったんだよ。今までのフィルちゃんじゃあり得ない言動で、本当は二人とも傷ついてる。言葉や記憶を忘れても、せめて今までのアレナフィルの性格が残っていれば救いもあったのに、恐らく私は違うんだね。ルード君、たまに傷ついた顔してるもん】
アレナフィルは自分を疎んじているのだろうか。
私はそんなことを、ふと思った。
生まれ変わったという話が本当であれ、そういう役割を演じているだけであれ、偽りの記憶と人格を本当のことだと思いこんでいるのであれ、通常は自分を肯定する意識が大事だ。
(己を否定する存在は兵器になり得ない。何かを目論んで仕掛けてきたにせよ、あれでは使えん)
私はそんなことを、頭の隅で冷静に考える。
「君はいい子だよ。できる限りの努力をした上で、周りの人を思いやれるいい子だ。そんな君に、誰かが傷ついてることなんてない」
【・・・ありがとう。レンさん、いい人だよね。だけどね、私、これでも社会人経験のある大人なんだよ。記憶がないにしても、その生きてきた四才足したら私の方があなた達より年上。私が慰める立場なんだよ。だけどこの体じゃ・・・。ああ、年上なんだか年下なんだか分からないイイ男がパパで、せめて可愛い娘を演じて甘える羞恥プレイって何なのコレ】
悶絶しているアレナフィルにも葛藤があったようだ。
だが、そいつはいい人も何も、親子のことは親子で考えろとばかりに、君から情報を引き出しはするものの、私には何も言わずに映像だけ渡してくる放置人間だぞ、おい。
私とはわざと顔を合わせないようにしていたのだろう。それはこの内容があったからなのか。
ああ、バーレミアス。君はよく分かっている。
こんな思いを、今の私の顔を、バーレミアスは見ずにいてくれた。
私と顔を合わせないように帰宅時刻をずらしているのは、この苦悩を察しているからだ。
「そこは忘れて、もう幼女として生きていきなよ。いいじゃない、可愛い顔してんだし。今後の人生、勝ったも同然だって。何なら嫁に来ていいぞ、十数年後に」
【嫁は断る。私はやることいっぱいなの。まあね、アレナフィルとしての人生を確立していくしかないんだけどさ、それしかないんだけどね。・・・そりゃフィルちゃんは可愛いけど、そこはもう同じ顔のルード君も可愛くて、生意気でもあの顔で全ては許せる。前が可愛い系じゃなかったから、これはもう嬉しすぎて笑いが止まらない】
ぐふふふと、アレナフィルが不気味な笑い声を立てている。
うちの子の顔を気に入ってくれたのは有り難いが、あんな不気味な笑い方、私の小さなアレナフィルはしない。
「へえ? どんな感じだったのさ?」
【記憶にない男に、お前が微笑みかけてきたんじゃないか、誘ったんじゃないかと、いきなり言われることが多い顔とプロポーション。蝶って知られると余計にその傾向があったから、もう今のアレナフィルなんて、笑っても可愛いねって言われるだけで、とても嬉しい。毎日にこにこ笑ってしまうわ、ホント】
「あー。蝶の種か。結婚は?」
【してない。する前に死んだけど、するつもりもなかったよ。・・・顔と体に惚れましたって、嬉しいもん? たとえばレンさんがさ、
『あなたの濃い黄緑色の髪も、水色の目も子供っぽい顔立ちを引き立てていて可愛いわ。私に甘えたいんでしょ。いいのよ、分かってるわ』
って、仕事で挨拶しかしたことない女の人に迫られることを、相手を変えて何回か繰り返したらどう思う? 実はけっこうきつい性格だよね? ところでレンさん、種は?】
「やめてくれ。忘れていたい過去を思い出した。俺は魚」
【ああ、変人が多いという・・・】
「失礼な。それは偏見だ」
いや、魚は変人が多い。
私はアレナフィルの意見を支持した。
【そうでしょ。外見で性格を決めつけられて勝手な思惑を押しつけられるの、本気で迷惑だよね。だが、今は私に愛でられておくがいい、童顔学者よ。安心したまえ。鑑賞はしても接触は求めない。その顔と体を、視覚だけで喜ばせてくれればいいのだよ、ふふふふふ】
「やめろ。その顔と体でそれ言うのやめろ。ダメージが凄い」
【あ、ごめん。
「ごめんね、レンにーしゃま。ゆるして?」
フィルちゃんバージョンでお送りしました】
何なのだろう、あの人格は。
バーレミアスが脱力してテーブルに突っ伏している。
私の小さなアレナフィルではあり得ない思考はやや個性的だった。
「もういいよ。それで、今も真っ先に知りたいのが女性でも生活できる手段か。納得だ」
【まあね。外見と中身は別だよ、当たり前でしょ。セクシーなドレスも綺麗な宝石も美しい花束も必要ないの。私の顔と体はお気に入りだったけど、そいつらを楽しませたいわけじゃなかったんだよ。私は自分が幸せだなと感じて生きていきたい。とりあえずは言葉をマスターして、父親の浪費を止めさせて堅実な生活に持ちこみ、兄を頼りがいのある子に育てなくては】
「別にフェリル、浪費癖はないだろ? 大体、4才児が何を子育て語るか」
【何かというと人を雇い過ぎだよ。人件費を考えなきゃ。お金は裏切らないんだよ? 老後の資金も必要なんだよ? 軍なんて怪我して働けなくなったら一気に生活が困窮だよ? 子供の学費も早めに貯めとかないと、未来なんて分からないんだよ。母親がいないからって甘やかしたらダメな大人一直線だよ。お母さんがいないなら、私しか二人を育てられないじゃない】
「・・・そうか。頑張れ」
たしかにこれはもう一つの人格として完成されすぎている。バーレミアスだけではなく、私も認めるしかなかった。
植え付けられた人格にしてはあまりにも個性が突出していた。
だから受け入れるしかないのか。私の小さなアレナフィルはもう戻ってこない。
恐ろしい絶望に、私は耐えるしかないのだと突きつけられた。
私は誰を恨み、憎めばいいのだろう。小さな体で一生懸命てけてけと駆け寄ってきていたあの子は、私のいない場所でどれ程に恐怖したのか。
――― パパー、パパー。
――― どうしたんだい、フィル?
――― ルード、かくれんぼしてたのに、いなくなったー。わたし、さがしてるのに、いないぃー。
――― かくれんぼしていたらいなくなるのは当たり前だろ? ほら、泣かない。フィルが見つけてくれるのを、ルードは待ってる。
――― パパもぉ。
――― ああ、一緒に捜そうか。さあ、ルードはどこかな?
怖がりですぐに泣いてしまうアレナフィル。ぎゅっとしがみついては鼻水を私のシャツで拭うのがお気に入りだった。
いつだって私が大好きだったお姫様。小さなあの子は、その魂を消されてしまった。
私のいない場所でリンデリーナも、そしてアレナフィルも・・・。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
私のベッドには、焦げ茶色したトラのぬいぐるみとピンク色のイヌのぬいぐるみがある。
子供達はそれを抱えて眠るからだ。
二人の部屋はそれぞれにあるが、この家に戻ってからは私の部屋で寝かせていた。母のいない寂しさを感じさせない為だが、三ヶ月の休暇が終わればどうなるのか。
(ルードはフィルと一緒じゃないと眠らないからな)
体を動かして、お腹を空かせて帰ってくるアレンルードだが、入浴して食事をしても、アレナフィルが一緒じゃないと寝ようとしない。
アレンルードがアレナフィルとベッドに入り、私もその横で添い寝して今日の出来事を聞いてやるうちに寝入ってしまう。
だが、すやすやとアレンルードが寝息を立て始めたらアレナフィルはむくっと起きてバーレミアスの家に向かうのだから、いいように転がされているのだろう。
(そんなルードも、リーナはいつ帰ってくるのかと言わなくなった。もう戻らないことを察しているのか。どうしても私がフィルに構っている分、寂しく感じているだろうに)
眠っているアレナフィルを抱いたまま私の寝室に行けば、廊下に置いた椅子に座り、何かを読んでいた使用人が立ち上がる。
「お帰りなさいませ。坊ちゃまはお手洗いに行かれて、またお眠りになりました」
「そうか。泣かなかったか?」
「お嬢様を探そうとなさいましたが、すぐに戻ってくるとお伝えしましたら問題なく・・・。どうやら寝ぼけておられたようです」
「分かった。ありがとう」
寝室の扉は開けてあるので、そのまま入ってアレンルードの隣にアレナフィルを寝かせる。
眠っていてもお互いが分かるのだろうか。こういう時はアレナフィルも自分からアレンルードへと手を伸ばしてくっつこうとする。
使用人は小さな灯りを眩しくない程度に点けると、落ちていたトラのぬいぐるみを拾って軽くパンパンと手で払い、棚の上に置いた。
「今日も遅くまですまない。もう休んでくれ」
「かしこまりました。おやすみなさいませ、若様」
静かに寝室の扉が閉められる。
ぬいぐるみがないと眠れないと言い張る子供達は、いつも寝ている間にぬいぐるみを床に放り投げてしまうのだ。
(気づかないフリをした方がいいのだろう)
寝間着に着替えてベッドに入れば、子供達が眠っていても気づくのか、私の方へと転がってきた。
アレンルードもアレナフィルも、体温で安心感を得ているのかもしれない。
正直、今も疑わないわけではない。
実はあの映像記録装置に気づいていて、無害な人間を装っているだけではないかと。
それこそ突然、違う凶悪な人格を植えつけられて、アレナフィルは誰からも怪しまれない暗殺者として使われるのではないかと。
(私は信じたいのだ。いささか邪な思惑があるにせよ、バーレンの朝食に気を配り、ルードの将来まで考えるこの子に。どうやら私と似たり寄ったりの年らしいが、・・・リーナにちょっと似た性格か)
これがアレナフィルにリンデリーナの魂が宿ったというのであれば・・・。
苦しみながらも私は愛せたのだろうか。
――― 心が違ったら、体は一緒でもそれは別人だよ。
映像の中で頬杖をついていたアレナフィル。その言葉が耳に蘇る。
ああ、そうだ。同じ体でもこの子はもう私のアレナフィルではない。あの子ではないのだ。
私の種は沈黙したまま、何も及ぼしはしない。
(リーナ、フィル・・・。あの日、基地になど連れていかなければ・・・)
今も二人は私と一緒に笑っていただろうに。
私の小さなアレナフィルは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら私に駆け寄ってきたのだろうに。