45 その涙を拭くことしかできないけれど
人はいつでも自分にとって正しい判断ができるわけではない。どんなに沢山悩み、死ぬほど考えて出した結論でも、後悔することはあるだろう。
たとえ姉の男女交際を全てぶち壊すようなとんでもない弟であっても、自分の出した手紙を見てこんな遠い異国まで来てくれたと思えばどれ程に嬉しかっただろう。
しかし生まれ変わったなどと言ったところで信じる奴はまずいない。誰だって質の悪いイタズラだと判断する。
どんな夢を見ているのか、眠りながら謝るアレナフィルがいた。
【・・・ウト。私は、ただ・・・】
【分かってる。愛しているよ、アイカ】
耳元で囁けば安心したように深い眠りへと入っていくアレナフィル。夢の中で誰に理解を求めているのか。
【行か、なきゃ・・・】
【ああ。いつかお前をファレンディアに連れていく】
【・・・うん】
腕の中にすっぽりと納まるアレナフィルに、卵を温めながら「早く生まれておいで」と語りかける父親ペンギンの気持ちを私は味わっていた。ペンギンは父親が卵を温めるのだと教えてくれたあの学者は、無事に生き延びたのか。
生きることは時に辛くて寂しい。自分を偽りながら生きているアレナフィルにとっても、出会ってしまえば割りきれない元の家族に対する情があるだろう。
どんな後悔がお前を苦しめているのか。
いつかその悲しい夢の中から明るい外の世界へと出てきてくれ。世界はお前を傷つけるものばかりじゃない。
浮かんだ涙の雫を拭き取りながら、リンデリーナもよく夜中にうなされていたと思い返した。生き残った罪悪感と、家族や村人の変わり果てた姿を何度も思い返しては悲鳴をあげる彼女を、何度抱きしめて落ち着かせただろう。
眠りながら泣きじゃくる夜は、子供達が生まれてからは頻度を減らしていった。
今も昔も、男にできることは温めながらその涙を拭くことだけなのか。
(トオル・トドロキと他数名は帰国した。だが、何名かはまだ残っている。そして残っているメンバーにユウト・トドロキという名前もあった)
同じ軍に所属していても、グラスフォリオンが使えるのは王宮の近衛が使える情報室と、ネトシル侯爵家が持つ情報だ。
そしてガルディアスは王宮の情報室とサラビエ基地の情報室、全く違うそれを使える。だが、アレナフィルのことを考えれば王宮の情報室を使うだろう。サラビエ基地の場合、基地の上層部に報告が行くからだ。
そして私は情報室など使わず、現在療養中の部下を使って見張らせていた。療養中でも血の気は売る程余ってるし、潜入工作慣れしている奴らだ。
番狂わせ候補がレミジェスで、レスラ基地のメンバーと今も付き合いがあったりするのだが、エインレイドのことで再び仲良くなっているようだ。
一番ちゃっかりしているのがアレンルードで、男子寮ではガルディアス達に目を掛けられ、朝はグラスフォリオンと鍛錬し、尾行技術はレスラ基地で学び、サンリラでは王宮所属の近衛に自分の教わった尾行技術を披露しながら貴人の警護との違いを教わり、更にはアレナフィルのバイト時間中はガルディアス達に遊んでもらっていた。グラスフォリオンやボーデヴェインもいるものだから遊びと称して戦闘技術を磨かされていることを分かっているのだろうか。落ちた海からヨットに戻る方法で仕込まれているのは動いている船への侵入手段だ、息子よ。
それら全ての中心にいるのはアレナフィルだ。本人は全く気づいていないが、かなり注目を浴びている。
(元気そうにしていても、目を離すとすぐに落ちこんでしまう。明るく喋っているのに、数秒後には涙を浮かべていたりする。思考が卑屈になって、自分を責めているかのようなことをぽろりと言ったりもする。問題は本人が分かってないことだ。いつも通りに振る舞いながら、今一ついつも通りになりきれない)
無理に心が望んでいることと違うことをするから、体が悲鳴をあげているのだ。
ファレンディアで弟だったという青年は、あの店で私達がゴバイ湖、そしてフォムルに行くことを聞いていた筈だ。彼のポケットに入れていた手から見えたのは小型の録音機器。
(挨拶と簡単なやり取りぐらいはカタコトで話せるようになっていたらしい。それでも日常会話までは無理だ。だが、録音した会話を翻訳してもらうことは金で解決できる)
この別荘は軍関係者しか近づけない上、ゴバイ湖は広く、別荘や滞在できるホテルもあちこちに点在している。反対にフォムルは小さな温泉街だ。
どこに泊まっているのか分からなくても、フォムルならばある程度の目抜き通りを見張っていればすぐに見つけられる。
(もしもお前が全く違う容姿になって再びルードと出会ったとして、ルードが何も感じないなんてことがあるだろうか。ふとした時の表情、言葉、ちょっとした癖にでも、その人らしさは滲むものだ。あの一行はウェスギニーの娘にファレンディア語を教えた人間を知ろうと無駄な依頼を出したよ)
危険ならばと引き離したガルディアスやグラスフォリオンにしても、アレナフィルの様子に色々と考えているようだ。
勿論、事情を理解している私やバーレミアスが何か言ったならば協力してくるだろう。だが、それでは駄目だ。意味がない。
本当にこの子を欲するのなら、この子が外国人だったことも含めて受け入れてもらわねば困る。だからこそ、そこには自分で辿り着いてもらわなくてはならない。それだけの器があるのか。大事なのはアレナフィルという珍種の体だけじゃなく心も守り通せるかどうかだ。
私だってリンデリーナと出会ったのは20代だった。できないとは言わせない。
(しばらくは様子見だ。明日は出かけたついでにルードの様子も見ておくか)
レミジェスのことだ。アレンルードにねだられたら水上モーターすら買ってやりかねない。あいつの経済観念はうちの双子に関する限り永久故障中だ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
このゴバイ湖の別荘にいる管理人や使用人、調理人まで軍に所属する者達だ。王宮とは違う目と耳を考慮し、ガルディアスはアレナフィルを可愛がる様子を見せないようにしていた。
社交とは似て非なる価値観が軍にはあるからだ。彼なりにアレナフィルのことを考えていたのだろう。
『あのね、パピー。フィル、思うんだけど、所詮男の人、プリンキュップリンなお姉さんを連れて歩きたい、それがロマンな気がする』
『そりゃ幼児にロマンを求められたら通報モノだが、お前はたまに空回りしていることがあるよ、フィル』
『そんなことない。フィル、とても公平で冷静。そんな気がする』
『・・・そうか』
だが、今まではおはようとおやすみの時には頭を撫でて頬にキスしてくるのが恒例だったのにおかしいぞと思ったアレナフィルは、自分がみんなに飽きられたのだと決めつけた。ガルディアスの状況に同情し、ボーデヴェインとグラスフォリオンも抱き上げて頬にキスするのを自粛していたからだ。
バーレミアスはアレナフィルによそよそしくなった青年達の事情を言われずとも察していたようだ。
「俺はなんとなく分かるけどなぁ。しかし本人達から何も聞いていない以上は憶測にすぎないわけだ。どーすりゃいいんだ、フェリル?」
「子供同士のことだろう。放っておけ。大人が乗りこんで裁くより、自分達で試行錯誤しなけりゃ経験値は育たん」
父親として優しく甘やかしはするが、人間関係のことは自分で乗り越えるしかないと、私は娘に対して口を出さない。たとえ勘違いが爆走しているだけであっても。
「フィルちゃん以外は大人・・・。いや、中身は全員大人か」
「どれもヒヨコだ。ああ、子ウサギが一羽紛れこんでるが」
「タヌキだろ」
「ウサギだ」
そしてアレナフィルは物わかりのいい子だった。
やはりゴバイ湖で泳いでいるセクシーなお姉さん達を見た後では、子供の相手などしたくないのだろうと、そう考えたのである。
そこらの勘違いはどうでも良かったが、アレナフィルはとてもサービスがいい子だった。放っておけば何かやらかす。
真っ先に飛びこんできたのはボーデヴェインだ。
「聞いてくださいよ、ボス。いきなり三階の俺達の部屋、気づいたらベッド脇にフォトブックが置かれてたんっすよ。それもめちゃめちゃうっふんあっはんなの。差し入れですとか書かれて」
「よかったな。それで?」
「いや、ありがたいっすけどね。ありがたいんだけどそれがまたどの部屋のフォトブックも違う奴なんすけど、俺達、そーゆーのが好みって思われてるわけっすかっ? 俺はめっちゃドォンキュンッバインだからいいっすけど、ドルトリ中尉なんて悲壮感溢れる美女特集で、フォリ中尉のなんて中性的っつーか可愛い系な美青年特集っすよっ。エロいフォトブックっつってもサルートス語じゃないから犯人ばればれっすけど、今アレ、一堂に集めたらどのタイプも網羅してんじゃね? でどうしようっすよ」
私と一緒にいたバーレミアスは、
「俺じゃない」
とだけ言った。
「何を悩むんだ?」
「ここに置いてったらそういうのが趣味なんだって情報が出回りかねねえし、けど持ち帰ったらそれもそれでメイドさんらもあのフォトブックもう見てるわけで、そんだけお気に入りっつー情報が回っても困るじゃないっすか。俺は気にしませんけどね。ほら、あの人達はそうもいかないでしょ。全く俺、今までささやか系に興味なかったっすけど、あれ見たらちょっとたまにはつまみ食いもいいかもって思っちゃいましたね。女より色っぽい男がいるなんて初めて知っちゃいましたよ」
「出てけ」
私はバーレミアスと今後の娘の進路や学校側とのそれについて話していたのである。くだらんことに時間を割く価値はない。
「ひでぇっ。聞いてくださいよ、ボスッ」
全ての窓や扉は開けっぱなしで風を通りやすくしていた。そこで何やら噂の主が話している声が外から聞こえてくる。
『これ、販売が許されないけど外国のフォトブックで、だからみんなにプレゼントしてるんです。お好きなのどーぞ。お兄様方には私の独断で置いてきたんですけど』
『まあ、お嬢様。こんなの、・・・恥ずかしいじゃありませんか』
『そうですわ。・・・けれど、綺麗な体ですわね』
『えーっと、私にもあるのですか。いえ、良家のお嬢さんがこんなものを見てはいけません。これは没収・・・って、それは受け取ったことになってしまうのですかな。それもそれでまずいような、いえ、持たせておくよりもいいような・・・』
『そこはもう厳選してありますっ。セクシーな男を見てないと女はセクシーを忘れちゃうし、セクシーな女を見てないと男もセクシーじゃなくなっちゃうのっ。こーゆー人の隣に立っても恥ずかしくない自分って思ったらおしゃれにも気合いが入るよねっ』
バーレミアスとボーデヴェインは、窓から上半身を乗り出すようにして裏庭の向こうを見下ろした。
「おい、フェリル。あそこで布教活動してる子タヌキがいるぞ」
「思うんですがボス。いくら初老でも若い女の方がいいんじゃないっすかね。熟女の良さは、若い時からはまる奴ははまると思うんっすよ。そして熟女好みじゃない奴は年食ってもその良さを理解しねえっつーのか」
「知るか」
管理人には熟女特集、そして使用人の女性達には美青年特集のフォトブックを渡している子ウサギの精霊がいる。色気のある空気は小娘なんぞに出せないというマニアック事情を語る未成年がいるのだが、父親はこういう時どうするものなんだろう。聞かなかったことにすればいいか。
『あらまあ。お嬢様、こんなフォトに頼らなくても皆様いい殿方ばかりじゃありませんの』
『そうですわ。そりゃお目付け役の大佐がお連れになったにせよ、中尉や少尉の方々はとても人気ですのよ』
『お嬢様はどなたが本命ですの?』
聞き出しにかかっているのはアレナフィルを潰す前哨戦といったところか。彼女達にもそれぞれの息がかかっている。
実行に至った時点で全員排除するかと思いながら、私はその会話だけ聞いていた。
女というものはどうしてああもつるんで潰しにかかるのだろう。いや、男も同じか。
ここでガルディアスを少しでも憧れているとか言おうものなら、身の程を教えてくれようと豹変しただろう。
しかし無駄だ。残念ながらアレナフィルにはそこらの貴族令嬢よりふてぶてしいところがあった。
『本命なんてうちの父に決まってるじゃないですか。童顔なのに毒舌というアンバランスな魅力が自立している女性を惹きつけるレン兄様と、ちょっと甘えん坊で年上美女に可愛がられていそうなのに実は脱いだら凄いんですなリオンお兄様を侍らせて、お買い物は妹ポジションキープ。そして一日の終わりはうちの父の魅惑ボイス。娘特権は、その為にあるのです』
うちのアレナフィルは欲しいプレゼントもロマンチックな愛の言葉も、どんな風に渡してほしいか、言ってほしいかを全て指定してくる。たまに私は、自分は都合のいい男なのかと、娘に問いかけたくなる程だ。
『まあ。ですが他にも皆様、魅力的でいらっしゃるじゃないですか』
『そうですわ、お嬢様。やはりネトシル様が一番お好きですの?』
『あら。実は本当に憧れている方にはそうそう声もかけられませんわよね?』
『うーん。ヴェインお兄さんは、うちの父が本命だからライバルだし、ガルディお兄様以下は、可愛がってほしけりゃその価値を見せろ的なところがちょっと・・・。私、いつだって甘やかされて愛されていたいんです、女の子だから。愛が足りないとしおしおになっちゃう。女はいつだって愛されてこそ輝くそれぞれの花』
今日のアレナフィルは、髪を二つに分けて編みこんでからフリル付きリボンをつけていた。よく見れば花の水玉模様のワンピース姿で、子供っぽさと愛らしさを前面に出している。
そういうことを言うのは十年早い。
私達がいたのは二階だが、三階にいたらしいグラスフォリオンがひょいひょいと手すりを掴んで飛び降りていくのが見えた。そしてアレナフィルの背後へと近づく。
『そうなんだ? 年上美女に可愛がられるっていうけど、俺の所にあったのはきりっとした制服やスーツ姿の女性特集だったね。だけど俺より年上じゃないよねぇ、あれは。過激すぎて鼻血出すかと思ったよ、俺は』
意訳:子供があんなふしだらな物を触っていいわけないでしょう。反省して保護者に怒られてきなさい。
『あ、リオンお兄様』
わぁいっと振り返るアレナフィルにとっては、自分の味方がやってきた気分なのか。
怒られていることに気づけ、娘よ。
『だって外見と中身は別。前髪をそう流しているとふとした時の微笑の甘さが年上美女の心をぐっと掴みそう。だけどリオンお兄様ってば、実はクールでホットだから自立して仕事している女性を評価する感じがするの。自分の秘書してくれる女の子とか、頑張ってる女性をさりげなく手助けするっぽい感じがするから、ワーキングウーマン特集なの』
『うーん。子供があんなのを・・・って怒ろうと思ったけど、そんなこと言われたら怒れなくなっちゃったぞ。さてどうしよう』
サルートス王国の未来を担う青年層はどうしようもないと、私は知った。
その程度で怒れなくなるのか、駄目な奴。第二王子が非行に走った時に指導する立場でもあることを忘れていないか? 何の為の近衛だ。
『そうでしょ? ちらりと見える足首とか、ふとした時の胸の狭間にときめいちゃう? だけどお堅く見えて、実は脱いだらその下着も中身・・・って、いやぁんっ』
がつんっとアレナフィルの頭を掴んだのはガルディアスだった。
グラスフォリオンを真似して廊下を使わず飛び降りたらしい。他の士官達は礼儀正しく階段を使うことにしたようだ。
彼等の介入で、アレナフィルへの態度を決めかねていた使用人達が揃って礼を取る。
『子供が何を言ってる、このアホ娘』
『アホじゃないです。だって恋人とかがいない若い男性はどうしてもムラムラするから・・・って痛いっ、痛いですっ』
『せっかくだからあれらは喜びそうな奴に渡すとして、本当に困ったお嬢さんだな。おとなしく令嬢らしいこともできんのか』
『失礼な。ちゃんとお嬢様っぽいことは今からやるのです。ほらっ』
アレナフィルが二人に何かの本を見せた。
『へー。石鹸を彫刻するんだ?』
『そうなんです。塩入りの石鹸ってば真っ白だったでしょ? だから何か彫って、今年のターラの日の贈り物にしようかなって。ほら、飾り彫りをした石鹸。なんかとってもお嬢様っぽい感じが漂ってるじゃないですか。ね? ね?』
『令嬢は、そんなくだらんことに同意を求めん』
『えー。ガルディお兄様が素直じゃなさすぎる。綺麗で可愛いじゃないですか』
ぶーっと頬を膨らませているが、ガルディアスは至極当然なことを言っている。
令嬢というのは美しい模様が彫られた石鹸を贈られる側なので、自分で彫ろうとは考えない。
だからこそ、そんなアレナフィルに振り回されるのを楽しんでしまうのか。この部屋から見下ろしているボーデヴェインも柔らかい微笑を浮かべていた。
『だそうですよ、フォリ中尉。そう怒らなくてもたかが本じゃないですか。アレナフィルちゃんにベッドで襲われたわけじゃなし、そう怒らないであげてください』
『俺の愛読書とか思われたらどうしてくれる。一体何の謎かけかと、俺はあれを見て考えこんだぞ』
『みんなもらってるんだから、そんな愉快な誤解をする奴なんていませんよ。可愛いいたずらじゃないですか。さ、アレナフィルちゃん。何を彫るんだい?』
グラスフォリオンとてこれがネトシル一族に属する少女がやったことなら説教しただろうが、アレナフィルが貴族令嬢としての価値観を全く持っていないことを知っている。
だからお子様扱いですませた。ガルディアスも同様だ。
『なるべく簡単で、素敵なのがいいです。だから細いナイフが欲しいんだけど、危ないからまずは父に買ってもいいか聞かなくっちゃ』
『簡単と素敵は両立できるものなのか?』
『まあまあ。そんなのなら買わなくてもありそうだけどな。ちょっと本を見せてくれる? どんなナイフなのかな』
『彫刻用のナイフじゃないのか? 俺達なら普通のナイフでできそうだが』
『言いましたね? 自信たっぷりな人に限って実は不器用だったりするんですよ? ナイフなんて無理に決まってるじゃないですか』
『それこそアレナフィル嬢の自信がどこから生まれてくるのかを知りたいものだ』
『このピュアなハートからです』
先程までアレナフィルと話していた使用人達に、ボンファリオがキリやヤスリ、そして刃先が細いナイフ、そして彫刻が失敗しても惜しくない練習用の石鹸を探してきてくれと伝えていた。
『一体、私の好みはどういうものだと思われているのでしょうね、アレルちゃん?』
『マレイニアルお兄様は、ほら、相手をいじめて楽しみそうじゃないですか。だから、そういう不幸ですら美に変えてしまうような幸薄い系が、その性癖にぴった・・・んぎゃっ』
『失礼。蚊がいたものですから』
『蚊がいてもほっぺた引っ張らないもんっ』
まあまあと割って入ったアドルフォンが、冷たいお茶を持ってきてくれと、使用人に頼んでいる。
(他の令嬢ならばどんな仕掛けかと思うところだが、所詮はフィルだからな。あいつらもフィルに対しては甘やかした方が情報を取れると思い始めたか)
結婚相手にも左右される貴族令嬢より、いずれ自分達を支えてくれる貴族子弟をチェックしていた筈の彼等だが、今、アレナフィルには変な存在感が出ていた。あの子は何も考えていないのに。
レミジェスも、子爵家の経営にいずれ噛ませてもいいのではないかと考え始めている。
「なあ、フェリル。なんで俺らにはそんな差し入れなかったんだろな」
「自分にかまってもらえなくなるからじゃないか? 寝る直前まで喋り続けてるじゃないか」
「本当に自分の欲望に正直だねえ」
恐らくバーレミアスに渡さなかったのは、アリアティナのことを考えたからだろう。
アレナフィルはバーレミアスの妻から妹のように可愛がられながら、自分自身は叔母か姉の気分でいるらしい。未だにバーレミアスじゃない男と結婚した方が幸せだったのではないかと悩み中だ。二人が幸せそうならそれでいいだろうに。
「なぁんかずるいっすよねぇ。俺が上等学校の頃なんざ服着た女の子が笑ってるフォトブックだけでも親父にぶっとばされたっつーのに。なんでケタ違いに過激なエロエロ本持ってるお嬢さんが許されるのか。ねー、ボス?」
「お前はその頃ガキだった。うちの娘の精神年齢は、もう大人なんだ」
バーレミアスとボーデヴェインは即座に、「それはない」「そりゃねえよ」と、声を合わせて言った。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
休暇は休暇であって、任務でもなければ業務でもない。だらだらと過ごすのが休暇の正しい在り方だ。
それなのに、バーレミアスとアレナフィルがボーデヴェインと一緒に、エイルマーサやアリアティナの為に女性に喜ばれそうな小物や菓子を探しに行ったというので、
「私のことはかまわず、そちらで勝手にやっててくれていいのだが」
という私の主張に耳を貸さない青二才共により、私はレミジェスとアレンルードが滞在している貸別荘へと連れていかれた。
上官を何だと思っているのか。しかし今はプライベートだと反論してくる。
レミジェス達に会いたいならわざわざ陸路を行かなくても、湖を泳いでいけばいいだけなのだが、それでは溺れたと勘違いされて捜索されても面倒だそうだ。
私一人ならそんなこともないから巻きこまないでほしい。
「兄上こそが一番取り乱しそうなことなのに、どうしてそんなに気にしないでいられるんですか。皆様、あの子のことを心配してくださっているのに。娘が訳の分からない外国人の男を連れこんだというのに気にならないんですか」
「落ち着け、レミジェス。別に気になるならそっちで勝手にしろと言っただろう」
笑顔で出迎えたレミジェスは、皆の分の飲み物を用意させた後、私への苦情から始めた。
昔は父と私の間で困った顔をしながら仲介しようと頑張っていたのに、強くなったものだ。
「その落ち着きぶりが何か知っているんじゃないかとしか思えないからこうなっているのです。兄上、一体彼はフィルとどんな関係があるのですか。帰国はしたものの、まだメンバー数人は残っています。まさかと思いますが、一度帰国して本格的にフィルへ会いに来るわけじゃありませんよね?」
「父上。バーレンさんが好意的っぽいからフィルに対して安全なんだろうなって思います。ですが僕は彼に見覚えがありません。フィルがファレンディア語を習った人に関係があるのですか?」
ガルディアスやその取り巻き達、そしてグラスフォリオンが焦れた結果、レミジェスとアレンルードを焚きつけたのではないかと思えてならない。
アレナフィルがあの外国人に会ってからとても落ちこんでいる。カラ元気で笑ってみせるが、どこか空虚なところがあった。
つまりアレナフィルではなくこちらから聞き出そうと決め、そしてバーレミアスは口を割らないと判断したのだろう。
ゆったりと紅茶を飲みながら、それでいて彼等の瞳は真剣に私の反応を見ている。
「顔しか見てないのにそこまで分かるわけがないだろう」
「だけどフィルからなら父上、聞き出せますよね?」
いつの間にか父ではなく男子寮の寮監達を信じる息子がいた。薄情なものだ。
せっかくだから父の膝の上にお座りと言っても、息子はもうそんな年じゃありませんと拒否してくる。
娘なら喜んで座った上で私に甘えてくるのに、息子とは冷たい生き物だ。
「何も聞く必要などないだろう。フィルはお前と違っていつもより甘えて私にくっついてくるし、その青年とやらは優秀という話じゃないか」
「父上。フィルがいつまでも甘ったれてるのは、父上に責任があると思います。駄目な子を育てるのも虐待だって習いました」
「お前だってフィルと二人なら同じことしてるだろ」
「僕は双子だからいいんです。そして優秀なのとどういう関係があるんですか」
同い年の兄妹で抱っこしているより、父と娘の方が自然だと思うのだが。
いずれアレナフィルも成人してしまえば、今の異常さも普通に見えてくるだろう。それまで私はどうにかごまかせないかと考えている。
「あちらはサルートス国へ進出するならば税関手続きもできるアレナフィルをサルートス支社に配属しようと、今から青田刈りしているのかもしれないってことだ。あの子も役人より給料が良くて残業がなくて仕事内容が性に合ったら検討するだろう」
姑息だと言われてもいい。私は新しい切り口を語ってみた。
「ええっ!? フィル、もしかしてもう就職活動してたんですかっ?」
「ちょっと待ってください、兄上。冗談じゃありませんよ。外国人が経営する会社だなんて、あまりの可愛さにフィルが襲われたらどうするんですっ。まさかフィル、いい条件を出されてふらふらついてったとかいう理由じゃありませんねっ?」
「落ち着け、二人共。そういう可能性もあるという話をしただけだ。それに私は、別にフィルが話さない限り、娘の交友関係に口出しする気もないわけでな」
もしも亡くなった姉を彷彿とさせる外国人の少女に出会い、そしてその少女が貴族令嬢でお近づきになるのが難しい場合、人はどうするか。
それこそ「ファレンディア語が堪能だから」という理由で自分が勤務している会社に勧誘してくることは十分に考えられる。
親の保護下にあるアレナフィルと違い、その弟とやらはもう成人しているのだ。たかが手紙一つで外国に乗りこんでくるだけの実行力と経済力もあった。
多少の不自然さはごまかしてでも、私はアレナフィルが孤独に泣く夜を続けさせるつもりはない。
「兄上。ですがどうしてそう落ち着いていられるんです? 子供達の為に門を二重にし、付近のならず者達を掃除し、侵入を許さない塀を更に強固にしたあなたが、どうしてその外国人にだけは手ぬるいことを仰るんです? しかもグラスフォリオン殿にも気をつけるようにとフィル自身が忠告したような男を」
「アレナフィルが望んでいるからだ」
私は静かに答えた。
そして家庭内のことなので口出しできずにいる面々は黙って聞く構えだ。ギャラリーは不要なんだが。
「一生、全ての危険を取り除いてやれるなら親はどれ程安心していられるだろう。だが、親は先に逝くものだ。親が生きている内に子供達にはそれだけの経験を積ませ、力をつけさせなくてはならない。だから私は息子をお前に預けるんだ、レミジェス」
「・・・父上。僕、それ、父上の手抜きだと思ってました」
「それもある。普通、まだ上等学校生の息子など親が全面管理するものだ。しかしガルディアス様以下、誰がこの子を仕込もうと黙認していたのは、アレンルードが望んでいたからだ。私は息子が強くなりたいと望んで勝手に動いていることを制限する気はない。
止めるのは簡単だ。だが、それで失敗しようが何だろうが、それは息子が自分で挫折して学ばなくてはならない。今は強くなれると喜んでやっていても、数年後にはその義理だの何だのに挟まれて後悔するとしてもだ」
「え。父上、それはないです。ひどいです。ちょっと待ってください。義理に挟まれてって何なんですか」
「あ、安心しろ、アレン。別に俺はお前にそんな義理とか言い出さないぞっ。大体、俺にしてみればお前がどんな道に進もうがサルートス国にとって全く無駄にならないと思ってるからなっ」
慌ててガルディアスが身を乗り出している。よかったと頷き、アレンルードは胸をなでおろした。
「ガルディアス様がそう仰っても、他の取り巻きがお前を責めるさ。あれ程世話になっておいて、ガルディアス様旗下に入らないとは忘恩の輩だとな。そういう二枚舌が平然と行われる。お前の自主的な行動として、だけど選ばされる道は一つだけだ」
「・・・え」
「ちょっと待てっ。いや、アレンッ。俺はお前が個人的に気に入ってるからやってるだけだぞっ。何よりここまでアレナフィル嬢が自分の価値を見せつけといて、お前に手を出されるのも困るんだっ。大体お前がどんな道に進もうとその性格が曲がったことを許さないのは分かってるっ。俺は縛りつける気はないからなっ」
「安心しろ、ルード。常に高みに立つ方は慈悲と自由を口にするが、その下の人間が締めつける。そうやって秩序が保たれているのさ」
「ウェスギニー大佐っ」
まぜっかえす私に彼も怒り始めたが、本気ではない。ガルディアスは十分にそれを分かっているから慎重なのだ。
「冗談ですよ、ガルディアス様。結局は優しいあなたは息子に強要などなさらないでしょう。そしてエインレイド様を欲しがっている者達がアレンルードを囲い込もうとする。
学生時代は仲良くできても、アレナフィルとて年頃になったらエインレイド様と距離を置かねばなりません。他愛ないお喋りや愚痴の言い合いですら許されなくなります。
その時、アレンルードと繋がっていればまだたまには気兼ねなくお喋りもできますよと、エサにしたい者達が動くのではありませんか」
「父上。エリー王子にしてもフィルにしても、そんなのに乗るとはとても思えないんですけど」
「そうだな。フィルのことだ。今よりも強かに育ったフィルならばお前に変装したり、伯爵家のクラブメンバーを利用したりして何とでもするだろう。だが、既にフィルをいずれ王宮勤務の女官にという声はしつこくなっている」
「フィルが女官? そんなの無理です、父上」
「そうだな。だけどルード、考えなさい。どうしてレミジェスがガルディアス様とのそれを止めなかったのか。
既にフィルには養子縁組が持ちこまれてきている。相続権はやれないが、我が家の娘として公爵家、侯爵家、伯爵家の由緒ある家名を名乗っていいという偉そうな威張りくさった養子縁組ばかりだ。
勿論、丁重に全てお断りしているが、レミジェスはフィルの目くらましにお前を据えようとしている」
「叔父上が計算高いかのようなこと言わないでください、父上。それに僕、そういうことなら叔父上に全面協力します。当たり前じゃないですか」
「そうか」
以前から思っていたが、アレンルードは困難なことがある度に伸びるタイプだ。
好きにさせておけば自分なりに色々と工夫して楽しみを見つけて成長しようとするアレナフィルは、反対に困難なことがあると委縮してしまう。
同じ顔をしていながら、子供とは本当に全く違う生き物だ。
「父上」
「何だ?」
「さっきから適当なことを言ってごまかさないでください。僕は、あの外国人とフィルの関係を知りたいんです。どうして父上は何もしないんですか。フィルだってとっても落ちこんでるっていうのに」
「だからちゃんと慰めてるじゃないか。好きな物を買ってやって、望むことをしてやってもいる。それ以上に何ができるというんだ?」
「なんで父上は何も動かないんですか。そんなにあの外国人が怖いとかいうんですか」
「別に知らん男を怖がる必要もないだろう」
「じゃあ、どうしてフィルに何も聞きださないんですっ」
誰もがアレンルードの言葉にうなずいている。
何故か私に味方が一人もいない。
「ルード、落ち着きなさい。お前だって今まで初対面で意気投合したりしたお友達はいただろう。フィルは十分に我慢している。そんなあの子を責めてどうする。お前はフィルを苦しめたいのか? 私は何も聞かない。フィルだってそれを望んでいる。あの子はあれでとても怖がりなんだ」
「我慢って、・・・フィルが?」
「そうだ。遠くからでも見ていて気づかなかったのか?」
「気づくって言われても、何をですか?」
「お前ならフィルの表情を誰よりも見抜けるだろう、ルード。フィルはその外国人と親しくなるのは不自然だと思った。だから我慢して距離を置いたんだ。そして自分の心を裏切ったから落ちこんでいる」
「そりゃ落ちこんでるらしいのは分かりますけど、それ以上なんて分かりません」
いつも可愛いパステルカラーのシャツとズボンを着ているアレンルードだが、ここでは濃いブルーの半袖シャツを肩までまくり上げて水色のデニム半ズボンといったところに、周囲の影響を感じる。
慣例的に髪が長く、それなりに体を覆う服なら可愛い女の子が腕白そうな恰好をしているとしか見えないのに、腕や足を露出しているせいで筋肉がそれなりに見えてしまい、女の子と言い張るのは無理な状態だ。
普段はエイルマーサが用意した服を着ていても、現地で適当に選んで買うとなると、やはり彼等みたいなチョイスとなるのだろう。
アレナフィルも裏庭で体を動かしているので同世代と比べてそれなりに筋肉がついているのだが、やはりアレンルードに比べたら全然である。ただしあの子は見かけよりも実は動ける。
「もしもフィルが成人していて一人暮らしだったなら、あの子はその外国人ともっと親しい時間をもったことだろう。だが、親に扶養されている未成年が外国の成人男性と仲良くなるのはまずいと思い、距離を置いたんだ。手料理を食べさせたのは、それでも我慢しきれなかったからだろう。・・・その男とどういう関係なのかを聞き出すことに意味はない。フィルはちゃんと理解している。だから本当は引き留めたくても引き留めず、二人きりで話したくても話さず、ただ自分の料理を食べる姿を見ることで我慢したんだ」
どれ程にシスコンが爆走している弟だろうと、姉がその弟を憎んでいたわけじゃない。愛していなかったわけじゃない。何かと子育て論を語っていたアレナフィルは、アレンルードの世話をしながらかつての弟を思い出していたのだろうに。
レミジェスが苦し気にその赤い瞳を何度か瞬かせた。
「兄上。つまりフィルは、あの男に・・・えっと」
「恋愛感情はないと思うぞ、レミジェス」
「どうしてそう言いきれるんです」
「今もあの子の恋人候補は私とお前だからな。そこは全く揺らいでいない。まともに食べてないと聞いたならご飯を食べさせたくなっても、ボーイフレンドとしては接触したくないタイプなんだろう」
「・・・あ、はあ。そうですか。え、じゃあ、どうして・・・。まさかフィルが愛読していた本の作者だったとか?」
初めてサルートス王国にやってきた外国人。アレナフィルとの接点などある筈がなく、それでいてアレナフィルとの接点を考えたならそういうことを考えたのか。
実はアレナフィルの不届きな趣味は、知られていないようで知られている。
「さあな。・・・ルード、きっとその外国人とフィルの気持ちが分かるのは、この中でお前だけだろう。私とて分からん」
「それは僕ならフィルから聞き出せるということですか?」
「いや。フィルは何も言わない。聞き出そうとするのはやめておいてあげなさい、ルード。その上で自分なりに真実を掴めばいい。時間はたっぷりあるんだ。どうせその外国人はフィルにとって危険じゃない」
「何故そんなことが言いきれるんです、父上。リオンさんだって気をつけなきゃいけなかったのに」
「それを言うならここにいるのは誰もが殺人ぐらいできる者ばかりだ。だが、フィルが怖がることはしないだろ? ルード、お前が武器を持っていてもフィルにとって危険じゃないように」
私はカップの中の茶を飲み干すと立ち上がった。
アレンルードは、私からクイズを与えられたかのような表情で考え始めている。
「さて、私はもう戻ろう。戻ってきたフィルが、誰もいないと拗ねるからね」
「それなら兄上、お菓子を持って帰ってください。冷凍庫に入れておけば、帰ってきたフィルが食べるでしょう。ちゃんとあの子が大好きな果実入りです」
人払いしていた為、自分で取りに行ったレミジェスが持ってきたのはかなり大きめな肩掛けベルト付き保冷箱だった。
あの子がお腹を壊したらどうするのか。食べる人間は沢山いるからいいのか。だがきっと大人好みの味は入っていないだろう。
「凄い量だな、レミジェス」
「ルードがフィルが好きそうな味を選んだんです。アイスクリーム、あの子は大好きでしょう」
保冷箱を渡された私は、やはり弟に娘を預けなくて正解だと知った。子ウサギや子タヌキどころか、レミジェスの管理下で子ブタか子ウシができていたに違いない。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ゴバイ湖からフォムルまでは近い。
先に中型移動車を移動させたのは、下見の意味もあったのだろう。フォムルでは一軒を貸し切りにしてあるので、階を別にしておけばアレンルードがいてもアレナフィルは気づかないんじゃないかと、そんなことになったらしい。
同じ建物内にいても姿を見られない訓練とか言っていたが、フォムルは山間にある温泉地だ。同じ建物内にいた方がアレンルードと出かけやすいだけだろうと、私は思った。
(フィルは健康維持程度の運動しかしたがらない子だからな。ルードの方が仕込み甲斐があるってか)
どうやら私がアレンルードを外国に連れて行った時のことを聞きだしたらしく、ボーデヴェインに実戦部隊はどんな武器を扱っているのかと、士官達がかなり興味をもって質問攻めにしたらしい。
やはり自分の肉体と運動神経に自信があればこそやってみたいと思うのか。
山を立ち入り禁止にするから、空中を飛ぶかのように移動できるというそれを戻ったら一度使わせてもらえないかと、ガルディアスより頼みこまれた。
基地などでは触らせてもらえないからだろう。
「仕方ありませんね。じゃあ二人分貸し出しますが、ヴェインの指示に従って無茶はしないように。仲良く交代で使ってください。そして使ったことがあることは口外禁止です」
「持ってきていたのか。もしかしてと思っていたが、子爵はけっこう話が分かるのだろうか」
ガルディアスの瞳に私はどう映っているのか。私以上に話の分かる奴がいたら、それは罠だ。
「ただの我が儘なら放り出しますが、責任という意味を知っている人間が頼み込んできたなら反対するよりもやらせてあげて、後始末しておく方が簡単ですからね。勝手に動かれる方が面倒なのですよ。それに空中を飛ぶ程度なら、それなりの運動神経があれば大丈夫です。武器まで使うとなれば訓練が必要ですし、そこらの山などでは認められません。ですが使用したことがばれないよう、プロテクターはきちんとつけて怪我はなさらないように。それだけはくれぐれもお忘れなく」
ミディタル大公と違って話が通じるだけマシである。
何かあった時の為にと持ってきていたレミジェスとボーデヴェイン用の大人用サイズを二つ、そしてアレンルード用の少年サイズを一つ、私は渡した。
「何故、アレンの分まで? どこに置いてあったんだ?」
「娘が変な外国人に目をつけられたと聞きましたからね。いざという時には娘に変装させた息子に相手をさせ、トラブルになったら息子には自力脱出してこさせるつもりだったのです。そうなれば支援に暇な部下ぐらい連れてきて荷物持ちさせておくというものでしょう」
「以前から思っていたのだが、子爵はもう少しアレンに優しくしてあげてもいいのではないか」
以前から思っていたのだが、皆はもう少し私の家族愛を評価してあげてもいいのではないか。
― ◇ – ★ – ◇ ―
温泉町フォムルに向かう大型移動車の中には、寮監をしている士官達もいた。中型移動車を持って行ったついでにあちらで待っていればよかったのではないか。
そう思っていたら、どうやらアレナフィルを見ていたかったらしい。
「お父様、煙がもくもくしてるよっ。あれじゃ火事と間違えちゃうっ」
人前ではお父様と呼ぶアレナフィルは、アレナフィルなりに貴族令嬢をしているつもりだ。
惜しい、娘よ。貴族令嬢はそんな窓にぴたっと貼りつきはしない。礼儀正しく席に座り、顔を傾げて眺めるだけだ。
「フィル。そうかぶりついていなくても、フォムルは逃げないよ」
「だってお父様、どこに面白そうな温泉があるか見つけておかなくっちゃっ」
「見て分かるもんなのか? 頼むから通り道にあった筈とか思って迷子にならないでくれよ?」
道路の両脇を同じような山の景色があったり、対向車がいなかったりすることから分かりにくいが、実はかなりスピードが出ている。
宿泊予定の宿から歩いてくることは無理なぐらいにまだ離れていた。
「大丈夫ですよ、ウェスギニー大佐。フォムルは看板も多いですから、そうそう迷子にはなりません」
「メラノ少尉。うちの娘は言われたらすぐ信じてしまう純粋な子なんだ」
「いえ、本当に大丈夫ですって。フォムルには何度か行ったことがありますが、すぐに覚えてしまうぐらいに小さな町です。あちこちに道案内の看板もあります」
「看板を見ずに歩いていても迷子にならないものなのか?」
「・・・迷子案内の町内放送もあるから大丈夫ですよ」
メラノ少尉・アドルフォンは、街角にある一斉放送で、「迷子のお知らせをいたします。お名前は泣いてて言えませんが、黄緑色のスカートをはいた紫色の髪に灰色のおめめをしたお嬢さんをお預かりしています。保護者の方は、中央観光案内所までお越しください」みたいに流れるのだと、説明した。
そうなると、「迷子のお知らせをいたします。黄色い髪に緑の目をしたアレナフィルちゃんをお預かりしています」などと一斉放送されるのか。皆が大笑いしそうだ。
「お父様、アドルフォンお兄様。私、迷子になる程、子供じゃありません。全くもう、これだから酔っぱらいは。昼間っからお酒を飲んでいるから正しい認識能力を失ってるんですよ」
子ウサギの精霊が顔を真っ赤にして何やらプンプンしている。
皆にいきわたっているタンブラーグラスはどれも酒だからだろう。休日らしい時間が流れていた。
「酒を飲んでと言うが、作ったのはアレナフィル嬢、君だろう。どこまでカクテルのレシピを覚えてるんだ」
「適当に混ぜておけば何らかの名前はついてるものですよ、ガルディお兄様。大体、私が作ったのを甘いと文句を言いつつ、レシピを覚えようとするのって、何かおかしくないですか?」
アレナフィルは甘いお菓子が大好きだ。コーヒーも甘くして飲む。紅茶にも砂糖を一杯入れる。
それなのにアレナフィルが作る酒は辛口とは言い難いが、言う程甘いわけでもない。女性が飲みそうな味ではあるが、甘さ重視ではないのだ。
アレナフィルが大喜びする菓子を一緒につまんでいた士官達は、何かがおかしいと感じ始めた。
そして今、アレナフィルの観察に勤しんでいる。
私にしてみれば、酒の好みは大人だった時のレシピを覚えているだけで、未成年の今は子供ならではの味覚で菓子を食べているだけだろうと、そんなものだ。だけど皆にとっては知れば知る程、アレナフィルは矛盾した生き物にしか見えなくなるのだろう。
「つまりアレナフィル嬢の覚えているレシピは女性ウケするってことだろう? そりゃ誰だって後学のために覚えておこうと思うさ」
「はっ、もしかして私は女性の敵を増産していた・・・!? だっ、駄目ですよっ。酔わせてどうするつもりなのですかっ。そういうのはいけませんっ」
「安心しろ。酔わせてどうするつもりもこうするつもりも、どこにも女性はいないからな」
「ここにいますが?」
「お子様は女じゃない」
にやりと笑うガルディアスは、どうやら調子を取り戻したらしい。エインレイドと同い年の少女の落ち込みをどうすればいいのかと、内心はおろおろしていたらしいが、私がアレンルードに「自分で観察して正解に辿り着け」と、それですませたことから彼なりに考えたのだろう。
問題が起きたら対処はするが、好きに動かしておいた方が良い結果が出るのではないかと、人材育成及び確保に努めるガルディアスは考えたのだ。
そうしてアレナフィルの真価を見抜くべく、まずはどこまでできるのかを試し続けている。石鹸彫刻に関してはアレナフィルより彼の方が才能はあったようだ。
「何故だろう。何か釈然としないのです」
「アレナフィルちゃんは可愛い女の子だよ。だけどお酒を無理に飲ませたいなんて誰も思わないさ。これはとても飲みやすかったな。氷がきんきんで頭がすぅっとした」
「よかったです。運転し続けてると眠くなりますよね。氷、ガリガリ噛むだけで眠気が飛ぶかなって」
ネトシル少尉・グラスフォリオンがいい人そうなセリフで、眉間にしわを寄せているアレナフィルの気分を浮上させてきた。
運転中の彼は酒を飲むわけにはいかないので、ライムシロップでうっすらと緑色にしたジンジャーエールをアレナフィルは渡していた筈だ。氷をたっぷり入れて。
「運転したことない筈なのによく知っていますね、アレルちゃん」
「うふふ、レオカディオお兄様ったら。想像力を使えば分かることなのです」
「そうですか。いえ、本当に、たまにアレルちゃんの中身が気になります」
「女の子の中身はいつだって夢と希望で作られたフェアリーですよ」
ドネリア少尉・レオカディオは生真面目にせっせとガルディアスの世話をしているような奴だが、アレナフィルとはちょくちょく会話している。
以前は女との会話が苦手で融通の利かない青年だったのだが、同じ世代の女性にからかわれるよりも、アレナフィルに翻弄される方が楽しくなったのか。
「夢と希望ねぇ。んで、フィルちゃん。そろそろフォムルだろ。どんな夢と希望があるんだ?」
「それは勿論っ、温泉と言えば美肌っ。やはりここは塩水で荒れたお肌をしっとりすべすべに磨かなくっちゃいけませんっ」
別に温泉で磨かなくても、アレナフィルのほっぺたはぷっちりむにむにだ。うっかりウサギは、自分をいくつだと思っているのだろう。食べて遊んでよく寝ているお前に肌荒れは無縁だ。
何にしてもバーレミアスとアレナフィルが言い合い始めたら、休憩を入れるタイミングまで待つのが一番である。
いつも負けるのはアレナフィルだが、そんなアレナフィルにバーレミアスは何かと融通してあげているから、試合に負けて勝負には勝っているのかもしれない。
「ああ、言うのを忘れていた。バーレン、フィルや皆の買い物とかを持って行かせたついでにお前の家にも寄るように頼んであったんだ。あの宿泊プランも終わってるだろうし、彼女もそれでこっちに来るんじゃないか? だからお前達には別のホテルを用意しておくように言っておいた。ここまで長く離れてたんだ。二人きりで過ごしたいだろ?」
何かと探りを入れられて、気の休まる時もなかったことはよく分かる。
せめて夫婦水入らず、ゆっくり休んでもらいたい。だから私はあえて少し離れた宿を選んで手配した。
(フィルがエインレイド様にとってかなり近しい学友となり、ガルディアス様から休暇を利用して思考、思想のチェックを受けたと説明した筈だからな)
アリアティナとて夫がよその少女と旅行というのは案じる気持ちだって持ってしまうだろう。だからわざわざ近衛を行かせたのだ。
――― ウェスギニー子爵家のお嬢様も女の子ですのであらぬ勘繰りを受けぬよう、学校関係者でもあり保護者にもなり得るクラセン講師が抜擢されてご同行いただきました。内々のことでしたので終了するまではご家族にも本当の事情をお伝えできず、申し訳ございません。終了いたしましたので、後はもうフォムルでごゆっくりしていただければと存じます。ガルディアス様には交代で警備を行っており、連絡事項もございますので常に行き来しております。フォムルまでお送りいたしますので、どうぞ。
王宮所属の近衛ならではの制服を着た士官達はそれだけで説得力がある。
時に若さが変な思想にかぶれさせ、それを広げることもあった。そういう危険性がないかをチェックする為だったと説明されてしまえば、アリアティナも安心できただろう。
それだけ王族の背負うものは大きいからだ。
独身で亡くなったというアレナフィルは分かっていないが、妻帯者なら相手が子供であろうと、夫と一緒に少女が旅行に行ったら色々と疑うものだ。今までの仲が良すぎて疑っていないにせよ、周囲からだってそれを指摘される。
だが、その女の子に王族が目をつけたが為のチェックだったと聞けば、アレナフィルに同情するだけだろう。公爵家、侯爵家の令嬢ではない子爵家令嬢だから、そこまでの丹念な調査が行われたのだと。
「お前はいい奴だって知ってたよ、フェリル」
その思いが伝わったのか、バーレミアスが屈託ない表情で笑う。
私とて友人の家庭は円満であってほしい。あとは二人で楽しく過ごしてくれ。
「パピーッ、それティナ姉様の危機―っ。レン兄様に食べられちゃうーっ」
「・・・フィル。バーレンとアリアティナ殿は夫婦だからな。寂しいのは分かるが、二人のどっちが食べられようが、そこは他人が口出しすることじゃない。もしかしたら食べられるのはバーレンかもしれないだろう?」
私達の思いも知らず、アレナフィルは全く違うことを考えて青くなっていた。
顔や全身のマッサージ、そして髮の手入れなどされて、美味しい食事を楽しんで過ごしていた彼女が、バーレン狼の前の子羊に思えたのだろう。
「だってパピーッ、姉様、今、まさに剥き立て卵のお肌っ。情欲に燃え上がったレン兄様が放してくれないっ。ああっ、あんなこととか、こんなこととかされて、姉様、もうお嫁に行けなくなっちゃうっ」
「全くお前は眠くなると変なことを言い出す。ほら、おいで。外ばかり見てるんじゃ私が寂しいじゃないか」
向かい側の席に座っていた娘に両手を広げれば、とすんと抱きついてくる。
違うホテルというのが寂しいだけだと分かっているバーレミアスは、アレナフィルから見えない位置で苦笑していた。
「よしよし。やっぱりルードを連れてくるべきだったかな。大丈夫だ、お前には私がいる。そうだろう?」
「・・・うん」
いつもぎゅーっとするアレンルードがいないアレナフィルは、ちょっと情緒が不安定だ。だからその髪にキスして、頭を撫でて、いい子だねと囁いて、よしよしと背中を撫でている内に眠ってしまう。
ガルディアスはそのあたりを察していたようだ。
「いつも賑やかなのに、アレナフィル嬢は身近な人に対してとても寂しがり屋だな」
「フィルちゃんは昔からそうですよ。いい子で頑張ろうとして、不意にいっぱいいっぱいになっちゃうんです。ま、寝て起きて美味しいもの食べたら忘れますけどね」
「そう言いながらここまで懐かれると可愛いのでは?」
「そりゃあ、まあ。血が繋がってなくても、俺にとっては年の離れた妹です。あの頃はフェリルに何かあったら引き取って育てようとすら考えたこともありましたね」
バーレミアスの脳裏に浮かぶのは5才の頃のアレナフィルだろうか。言葉も記憶も失い、バーレミアスから必死に言葉を覚えようとして・・・。
アレンルードは可愛い男の子だったが、アレナフィルには愛おしさを感じ、いつしか父性愛とはこういうものかと、バーレミアスは感じていたそうだ。ローグスロッドとエイルマーサをパパ、ママと呼び始めた幼女を観察しながら、いつしか兄ポジションが確立されていた。
アレナフィルは彼を悪友だと思っているようだが、やはり外見上の問題もあり、バーレミアスにとっては可愛いおもちゃな妹と化している。
(あの頃はともかく、私に何かあっても今はレミジェスが手放さないだろうからなぁ)
やがてバーレミアスの為のホテルに着いたが、アレナフィルはよく眠っていた。
「やれやれ。起こすのも可哀想か。それに二人きりの所に乱入されてもアレだしな。じゃあな、フェリル」
「ああ。アリアティナ殿によろしく。明後日ぐらいに皆で食事でもしよう」
「分かった」
バーレミアスがアレナフィルの頭を撫でて降りていく。
私と彼と娘との関係を言い表す言葉などないが、それでもいつしかかけがえのない絆が生まれていた。




