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44 バーレミアスはうっかり子ダヌキをどうしよう


 会っても名乗り出ることができないぐらいにやばい弟をもった姉の気分ってものを、男の俺が理解することは困難だ。

 姉を愛するあまりに姉だった存在をそうと知らずに殺そうとするかもしれない弟とやらの思考と倫理観が分からない俺は、クラセン・ヴェイク・バーレミアス。

 現在、親友の娘の安全をどう確保すればいいのか悩みながらも、相手の様子を見るに殺意は抱いていなさそうだなと感じていたことを言えずにいる。


(容姿や何もかもが変わってしまっても感じるものってのはあるんじゃないか? そこまで愛していたのならば余計にだ)


 アレナフィルは彼がどう出るか分からないと怯えてもいたが、それでも弟だった存在が食生活で不自由な目に遭っていたと知ってしまったら自分の手料理を振るまうお人好しっぷりだ。

 怯えていたことを思い出せと言いたいが、仕方ない。


(そこまでしちまう姉だから、弟だってシスコンだったんだろうよ。お前にも原因はあるだろ)


 その弟とやらは淡い金髪に薄い緑の瞳をしたホワイトアスパラガスな青年だった。

 最初はうすら寒い愛想笑いを浮かべていたが、アレナフィルの野菜ジュースや料理を口にしてから様子が変わっていったが、・・・俺は、アレナフィルは馬鹿だと改めて思った。

 亡くなった姉が弟によく作ってあげていた味を外国人の少女が再現したなら、そりゃ誰だって様子がおかしくなりもするだろう。

 本人は、

「そんなことないもんっ。だって調味料が違ったら味ってけっこう違ってくるんだよっ。メーカー違うしっ。使ってる砂糖だって違ってたしっ」

と、反論していたが、もうアホにつける薬はないと俺は投げた。

 問題は、彼の話によると姉は今も生きていることか。

 アレナフィルは、弟の育った姿に混乱中だ。あれからずっと落ちこんでいる。

「あんな手紙の小細工までするようになっちゃったなんて。なんであんな風に育っちゃったの」とか。

「ううん。元気に育ったんだし、もう成人してるんだから本人が本人なりに生きてくだけだよ」とか。

「ちゃんとご飯食べてるの。お肉が辛い時には違う蛋白質を取るようにって言ってあったのに」とか。

 そんなに気になるならもう仲良くなれよと思うが、それは生命の危機だとしつこい。

「研究内容を目的として数年がかりで近づいてくる人なんてざらだったんだよ。殺されちゃう」だと。

 そんならその研究内容とやらをもう盗んでこい。ちまちまバイトしているより余程金になるだろう。

 あんなにも弟は、自分よりも年下の少女を抱きしめたいといった顔で見ていたじゃないか。誘惑して貢がせろよ。

 だから仕方なかったのかもしれない。俺が、送っていったホテルで別れ際に呟いてしまったのは。


【あの子はみんなに愛されているように見えます。ですが本当は、あの子はただみんなを愛しているだけなのです】

【また、・・・会いに行ってもいいでしょうか】

【喜ぶでしょう。あの子はお友達が少ないのです】


 だけどそれから彼は現れなかった。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 フェリルドから連絡があったので、俺は公衆の有料通話装置から連絡を入れ直した。

 事情を説明したところ、さすがにフェリルドも困ってしまったようだ。


『たとえばルードがフィルを失って、だけど全く外見や名前も違う外国人の女の子としてフィルと再会したようなものか。そこでほいほいルードが好きだった肉料理だの甘い飲み物だのを出されたらそりゃ変な顔になるだろうな』

『俺は自信を失ったよ。ファレンディア語は得意になってたつもりが、フィルちゃんの方が上手だって言われたんだぜ? 俺が教えてたってのは嘘だと見抜かれたんだ。仕方ないから俺の後はファレンディア人から教わったって説明しといたが、大して会話してないのにどこで見抜かれたんだ』


 これでもファレンディア人そのものだとアレナフィルちゃんに太鼓判を押されていたのだが、やはり母国語とする者にしか分からない不自然さがあったのか。


『なんにせよ、成人した男が初めて会う女の子に料理を作らせるものでもないだろう。フィルがそれを強行したにせよ、普通は店を利用する』

『フィルちゃんが作るって言い張ったんだ。肉と内臓料理続きだったって聞いたからって』

『それでも店で魚を注文すればいい。そこでフィルを疑っていたなら、その男だって相手のホームまで行って食事を口にしないだろう。その男、行動がおかしいな』


 怪しいとか殺したいとか、そんな物騒なことを考えていたのなら、一人で乗りこむことはしない。顔を覚えられていいことなど一つもない。その通りだ。

 最初の思惑は知らないが、アレナフィルと出会った時に何らかの方針転換があったのではないかと、俺は見ていた。


『うーん。もしかしてフィルちゃんと接触した時点で、何かを感じちゃったかねぇ』 

『かもな。大体、肉料理はともかく内臓料理なんてそこまで出てくるもんじゃない。わざと同情を買おうとしたか。それこそ彼がそういう料理を苦手とすることを知っているかどうかをも含めて試されたか』

『あまりこねくり回して考えてもなぁ。フィルちゃんは考えていることが表情に出やすい。自分を心配していることは通じてたんじゃないかって思うけどね。ああ、フィルちゃんと買い物して帰った時、ネトシル君達が抱き上げて頬にキスしてお帰りの挨拶してたんだが、かなりショックを受けた顔してたぞ。普通の挨拶なのか尋ねられたから、家族限定だって言っといた』

『なんでそいつがショックを受けるんだ。フィルの弟だったんならルードみたいに慣れてそうだがな』

『女の子はおさわり厳禁主義だったんじゃないか?』


 しかし次の日から全く姿を見せないことを告げたら、フェリルドはなんてことないかのように言った。


『ああ、聞いている。誰も彼もが幾つかの会社を使って商談を持ちこませたんだろう? 思ったより高性能なものを扱っていたそうだな。レミジェスが手配した所なんて小さかったから蹴り飛ばされてどこかが本格的に乗り出したと聞いたぞ』

『へー。ああ、だから研究内容目当てがどうこうってフィルちゃん言ってたのか』

『らしいな。一行の中にそういった義肢を使っている奴がいて、外国という環境下で精神的な負荷がかかっても普通に使えるかどうか、周囲に義肢だと気づかれないかどうかも試していたそうだ。実物を見て、一気に冷やかしが本気になったらしいぞ』

『なるほど。そんなに高機能だったのか?』

『ああ。ただでさえフォリ中尉の庇護下にあるフィルが税関で今までの損失を暴いたと思ったら、次はフォリ中尉が調査と接触を命じた外国人。これは何かあると思って高官達も子飼いに商談を装わせて動けば、かなり優秀な技術者だ。これはフォリ中尉による王位への野心か、優秀であることを見せつけ始めたか、あまりにも人材を見出す能力が卓越していると騒ぎになったらしい』

『大変だねぇ。疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)(しょう)ずってか』

『だからフィルをそろそろ抑えとけ。俺がそっちに合流したら移動しよう』

『了解』


 俺達はバイト代アップを狙っていただけだった。そして、手紙一つで海を越えた青年がいただけだった。

 疑わしく思えば、全く関係ないことですら意味合いを持つ。

 幽霊の正体見たり()尾花(おばな)だ。疑いの目で見てしまえば、枯れ草ですら恐ろしい幽霊に見えてしまう。怖いな、権力社会。




― ◇ – ★ – ◇ ―




 元気のないアレナフィルに動揺していたのは俺以外の全員だった。

 20代の青年達は、10代の女の子がどうすれば元気を取り戻すのかが分からない。無理して明るく振る舞っているというのは分かるし、その原因があのファレンディア人というのも分かるのだが、何をすれば元通りに明るく楽しいアレナフィルに戻るのかが分からないのだ。

 俺だって分からない。だけど手を出せないことも分かっている。

 ファレンディア人だった彼女にも家族との時間があったのだ。それなら無理して笑うことなく、折り合いをつけるまで落ちこんでいればいい。


(逃げ出したくなるぐらいに困ったちゃんなシスコン爆裂弟だったって、そこまで愛されていた姉とて憎んでいたわけじゃないだろう。愛していればこそ離れたんじゃないか)


 自分の正体を知られたくないと思いながら、それでも見捨てられない程の情をなかったことにする必要はない。名乗らずとも相手の幸せを祈ることぐらい許される筈だ。


「クラセン先生。教えてください。あのロッキーとやらは一体アレナフィルちゃんの何なんですか」

「えっと、落ち着け、リオン君。フィルちゃんだって女の子なんだ。自分の周りにいないタイプの青年にちょっと心がぐらぐらすることだってあるさ」


 それなのに問答無用で俺に直談判してくる青年もいる。ネトシル家のグラスフォリオンだ。

 俺はアパートメントの外壁の陰に連れこまれた。


「生憎とこれでも恋愛模様はそれなりに見慣れています。アレナフィルちゃんは彼に恋しているわけじゃないことぐらい分かっています。どんな繋がりがあるのか、先生が知っておられることを教えてください。俺はアレナフィルちゃんを守りたいだけです」

「それは分かってる。分かってるんだ。・・・ネトシルさん、言っておくが俺はあなた方を信じていないわけじゃないんですよ。だけど俺は何も言えません。俺はフィルちゃんに寄り添い味方すると、あの子の父親と約束したからです。俺達はトドロキ氏のことなど何も知りません。だが、トドロキ氏がアレナフィルちゃんに大切な人を投影しているのではないかという憶測を持っているし、アレナフィルちゃんもトドロキ氏に何かを投影しているのだろうと見ています。俺達はあの子が浮上してくるまで()かすことなく見守ると決めているだけです」


 青春だな。

 人脈は大事なので、俺も温和な言い方を心がける。それにより、何かしてあげられることなどないのだと、彼も悟ったようだった。


「見守れば、・・・元気になると?」

「なるしかないでしょう。人は食べて動いて寝て起きて、日々を繰り返していくんです。フィルちゃんはとても素直な子だ。してほしいことがあったら口にする。それを受け入れてあげていれば、いずれ元気になりますよ」

「・・・はい」


 二度と会えないと思っていた家族と再会して、だけど名乗り合うことなどできない程に相手が自分に執着していたとあれば、何も告げずにすませようとする罪悪感から逃れることなどできないだろう。

 こればかりは時間をかけて浮上するしかないと、俺は口出ししないことで味方になってやりたかった。

 そんな俺達の視界の隅に、大きな旅行用鞄を持って歩いてきた男の姿が映る。

 淡い緑のシャツにサングラスといった服装を見ると、しばらく滞在できるのだろう。そういえば移動するとか言ってたな。


「やっと来たか」

「密会か? 教育上よろしくないことは違う部屋でやってくれ」

「誰がだよ」


 俺とフェリルドはパンッと軽く手を打ち合わせた。さあ、交代だ。


「ウェスギニー大佐。アレナフィルちゃんですが・・・」

「分かってる。娘が迷惑をかけてすまなかった」

「いえ、迷惑などは・・・。だけどどうすれば元気になるのかが分からず・・・」

「ああ。あの子は色々と考えすぎて落ちこむことがあるんだ。大抵は甘やかしたら元気になる」


 ぽんぽんとネトシル少尉の肩を叩くと、フェリルドがアパートメントの階段へと歩いていく。302号室へ入っていく彼の後をついていけば、リビングルームにいたらしいアレナフィルとの会話が響く。


『ただいま、フィル。可愛い私の妖精。ほら、元気なお顔を見せてくれ。やっとこれから夏の休暇だ』

『パピーッ』


 ウェスギニー大佐が到着したと知り、俺達の後ろにはいつの間にか寮監をしているという士官達、そしてオーバリ中尉がいて、フォリ中尉まで一番後ろにいた。

 一番アレナフィルの世話に慣れているフェリルドのお手並み拝見と、俺は静かにダイニング・キッチンルームの椅子に座ってリビングルームの様子を眺める。

 そこには抱きついてきた娘を抱きしめている父親がいた。


「パピー、会いたかったっ」

「私もだよ、フィル。お前と過ごす塩水湖での時間を捻出する為、仕事も片づけてきたんだ。ところでキセラ学校長から聞いたんだが、ファレンディア国の税関に喧嘩を売ったんだって? うちの妖精さんはほったらかしにしておくと、すぐご機嫌斜めになってしまうんだな。八つ当たりされた税関には同情しておこう」


 赤くなった娘を抱き上げて、

「私がいなかったからって浮気してないね、フィル?」

と、頬にキスをするフェリルドは、いつの間にか自分のサングラスをアレナフィルの頭に載せている。

 むぅっと頬を膨らませたアレナフィルは、ソファに座った父親の上半身を横に押し倒した。

 デニムのズボンに包まれた足は相変わらず長い。けっ。


「八つ当たりなんかしてないもんっ。フィル、悪いことしてないっ。だってわざと外国に出すそれ、嫌がらせ的に作ってたんだよっ。あれは上司に責任とらすべきっ。きっと上司も早めに部下の悪事が分かってホッとしている。フィルは、そう思うっ」


 ソファの上にだらしなく仰向けになったフェリルドの腹に馬乗りになって高らかに主張しているお子様の背中を眺めながら俺は思った。

 フェリルドは人に見られていようがいまいが気にしない性格だが、アレナフィルは周りが見えていないと。

 既にダイニング・キッチンルームには、皆が椅子に座ってその様子を見物している。


「はいはい。それで含有量のチェックまでして、改定させたわけか。我が国にとってはいいことだがね。まあ、目立つようなマネは程々にしておこうな? 私はお前をずっとおうちに置いておきたいのに、こんなに可愛くてしかも有能なんじゃ、みんながお前を誘拐しに来てしまうじゃないか」


 困った子だね、どうやったら私のポケットの中に隠せるのかなと、甘く囁きながら腹筋だけで上半身を起こして娘の耳元にキスする父親がいた。

 あいつがいる限り、アレナフィルは恋愛ができない気がしてならない。


「誘拐はイヤ。フィル、パピーと一緒にいるの」

「そうだな。玄関に山積みされていた本も頑張って片づけなくちゃいけないもんな。やっぱりお前の居場所はうちだけだ」

「うんっ」


 どうして娘の髪ゴムを外して髪を手で梳いているのかが俺には分からない。

 そこで何故怒らないのだ、アレナフィル。お前はせっかくまとめた髪をまたブラシで梳かしてまとめなきゃいけないと、怒るべきところだろう。

 アレンルードがいたずらして髪ゴムを外した時は、もぅーっと牛のように怒ったくせして、アレナフィルは家族間差別をしていた。

 

「愛しているよ、フィル。お前をペンダントに閉じこめて連れていけたらいいのに。だけど大事なお前を危ない所へ連れてはいけない。ちゃんと安全に暮らしていたかい?」

「うん」

「よかった。お前に何かあったら、どうして私はお前を鉄格子のなかに閉じこめておかなかったのかと悔やんでも悔やみきれないからね」

「フィ、フィル、危ないことしないの」

「ああ。信じているよ。おうちから出られないような鎖は重くてお前には似合わないからね」


 妻と娘の区別がついていない男が、口説いているのか釘を刺しているのか分からないことを言いながらあそこにいるのだが、俺はどうすればいいのだ。

 しかも娘の髪をゆっくりと手で梳きながら瞼にキスしているのだが、他の奴が言ったなら「それは監禁です。人権無視です」ぐらい言いかねないくせして、アレナフィルよ、お前はフェリルドが相手なら言わないのか。


「パピー。もうフィル、一人で寝るの、寂しかったよ。パピーのベッド、いつも空っぽ」


 おい、そこのバカ娘。それは父親に言うセリフじゃない。お前はまだサルートス語を覚えてないのか。


「ごめんな。今夜は一緒に寝よう。私もフィルやルードは何をしているかなと思いながら、土埃が舞う空を眺めていたよ。ほら、ご機嫌を直して。お前が見つけたお店はあるのかな? まだ私とディナーデートぐらいしてくれるんだろう?」

「うんっ。やっぱりフィル、パピーとのデートが一番なのっ」

「私もだ。可愛いフィル」


 ネトシル少尉が、

「甘やかすってアレかよ。喜んでやりたいが、それした途端、俺の命日」

と、机に両肘をついて暗く俯いていた。


「それで行きたいお店はあるのかい?」

「えーっと、それならね、会社のお姉さん達が教えてくれたんだよ。ファレンディアっぽいお料理だけど、サルートスっぽくもあるの。美味しいんだって」

「へえ。なんてお店? 予約を入れなきゃな」

「早めに行けば予約なくても大丈夫って。あのね、税関事務所の裏の通りで、青い旗が目印らしいの。シンボルツリーが赤い葉っぱの木なんだって。たしかね、ソボリントボリンって名前だった。ソボリンはフォークの神様で、トボリンはスプーンの神様らしいの」

「ナイフの神様はなんて名前なんだろうな。じゃあ、日が暮れかけたら出かけようか」

「うん」


 フェリルドはソファに座り直してアレナフィルを横座りさせながら、テーブルにあったアイスティーのコップを持たせる。


「あ。パピー、パピーは何飲みたい?」

()らない。お前の笑顔が何よりものご馳走だし、お前の声が私の全てを潤すよ、フィル。ずっと会いたかったからね。さあ、可愛いお喋りを聞かせてくれ」

「フィルもパピー会いたかったの」

「いい子だ。他になんて目を向けず、ずっと私の腕の中においで」

「うんっ」


 お前はこれだけの観客がいて平気なのか、フェリルド。お前は俺達に気づいているだろう。

 玉蜀黍の黄熟色(メイズイエロー)の髪を指先にくるくると絡ませながら頭にキスしてくる父親に、アレナフィルはうっとり状態だ。


「少し髪が伸びたね。フィルは花のように可愛いから、今日の夕食には髪にリボンをつけてお出かけしてくれるかい?」

「うん。何色のリボンがいいかなぁ」

「フィルは似合わない色がないから難しいな。ああ、だけど蝶みたいに広がる幅広のリボンがいい。私にとってフィルはいつだって綺麗に咲いている花のお姫様だからね」


 周囲の青年達が虚ろな眼差しになっていた。自分の父親が、娘に対してあんな言葉をかけたりしないことを改めて思い返しているのかもしれない。

 俺は知っている。フェリルドは、何を着ていようとあまり気にしないことを。

 単に娘の持っているリボンの色など覚えていないだけだ。


「パピー、しばらくは一緒?」

「ああ。やっとお前と過ごせる」

「嬉しい。フィルね、パピー、ずっと待ってた」

「寂しい思いをさせたね。ごめんな、フィル」

「いいの」


 父親に頭や背中をよしよしと撫でられているアレナフィルは、心ゆくまで愛の言葉を言わせていた。

 そして満足したところでやっと周囲の様子を見渡し、アレナフィルは俺達に気づいたらしい。


「あれ?」

「よ」


 俺はアレナフィルに向かって手を軽く挙げてやった。

 アレナフィルの表情が固まる。そこで小さく、1、2、3、4、5とカウントし始めたのはオーバリ中尉か。

 8のところで、アレナフィルがこほんと咳払いした。

 すっと父親の膝から立ち上がる。表情も先程までの甘えっ子モードを止めて、きりっとしたものだ。


「えーっと、それじゃあ皆さん、今日の夜はお外に食べに行きましょう。お父様、私、バイト先で美味しいお店を教えていただいたんです」


 こいつ、さっきまでの自分をなかったことにしやがった。清々しいまでの都合のいい思考と行動っぷりに、どうするんだろうと見ていた青年達もびっくりだ。


「なあ、フィルちゃん。もう取り繕っても遅いものってあると思うぞ」

「何のことですか? 意味わかりません、レン兄様」


 何か言われる前に、

「さ、お着替えしてこなくっちゃ」

と、頭にサングラスを載せたまま寝室に消えていったアレナフィル。その場を逃げさえすれば全てはなかったことになると思っているんだが、ファレンディア人というのはそういう民族なのか。

 お説教なんて大っ嫌い、都合の悪いことは笑ってごまかす、それを地で行ってやがる。怒れよ、父親。躾けろよ、少しは。


「アレナフィルちゃん。そういえばリボン一緒に買ってきたの、俺のバッグに入ったままだった。取ってこようか」

 

 どこまでも甘いネトシル少尉が追いかけていった。

 俺達の会話にアレナフィルが聞き耳を立てないようにすることもあるのだろうが、あんな甘っちょろい坊ちゃんで大丈夫なのか。


「だから子供の見守りに抜擢されたんだな」


 フェリルドが身も蓋もないことを言った。

 俺はアイスコーヒーのピッチャーを取り出す。コップに注いでからフェリルドに差し出せば、彼は一気に飲んだ。


「お前なぁ、フェリル。親子で危ない会話してるんじゃないよ。皆が耳を疑ってたぞ。娘は娘で、恋人や妻じゃない」


 うんうんと、椅子に座っていたほぼ全員が頷く。フェリルドはきょとんとしたものだった。


「何を疑うんだ? 娘など愛情を降るように浴びせて育てるものだ。愛の言葉に慣れておかないと、薄っぺらい口説き言葉であっさり陥落するからな。それに俺は妻と娘を混同したりしない。あいつはいつも、たまには甘い言葉が欲しいとかぼやいてたからな」

「釣った魚にエサぐらいやれよ」


 亡くなった奥方に心から同情する。だけどそういうことをはっきり言える関係でもあったのだろう。

 妻相手に取り繕うこともなく、フェリルドも素の自分を見せていたのか。


「あいつは俺の顔を気に入ってたが、性格は諦めてた。振り回される日々でちょうどよかったのさ。全ての女が甘い言葉を喜ぶわけじゃない」

「さよか」


 そういう意味でフェリルドは変わらない。

 不在の間に何があろうが、戻ってきた以上、娘を掌中の珠として愛おしむ。

 フェリルドがメモをオーバリ中尉に渡し、声を出さずに吐息だけで命じた。


『ヴェイン、この連絡先に今日、ソボリントボリンで食事をすることを伝えろ。我々の分の予約を入れさせるんだ。そいつがトドロキとかいう男を連れてくるだろうし、店も近くのテーブルを用意するだろう』

『了解、ボス』


 オーバリ中尉が音を立てずに出ていく。フォリ中尉がやはり声を出さずに吐息だけで尋ねた。


『まさか可愛い娘に手を出したと喧嘩を売るわけじゃありませんね?』

『顔を見ておくだけですよ』

『ですが大佐。どうやってそんな食事に誘い出すのですか? あなたはずっとこちらにいらっしゃらなかった』


 ドルトリ中尉が、今まで不在だったくせにどこまで手を回しているのかといった顔で問いかける。


『ウェスギニーの姓を名乗らせた男が資料をもらえないか問い合わせをしたら食いついてきたそうだ。渡していい情報は伝えてある。ウェスギニー家の縁戚でお互いの情報は知っているが、顔は合わせたことがないという前提だ。そいつが夕食に誘えばついてくるだろう。フィルの情報を聞き出すにはちょうど良く、そのことがフィルに知られる可能性は低い。疎遠な理由は爵位がもらえなかったことにしてある』

『それならアレルちゃんにトドロキ氏が気づいても、あちらから声はかけられませんね。それでいて大佐は観察できるというわけですか』

『そういうことだ。フィルはそのテーブルに背を向ける位置に座らせてくれると助かる』


 ドネリア少尉に頷いたフェリルドだが、こんな男のどこがいいのだろう、アレナフィルは。

 こんな親を持っていたら、俺は家族不信に陥るね。


『心配ではないのですか。ネトシル少尉は彼に注意しろと、アレルちゃんに忠告されています』

『微笑みながら人を殺せる奴と渡り合ってきたヴェインが、殺意も狂気もなかったと判断した。ヴェインの判断と娘の決めつけならヴェインの意見を採用する。娘の意見を採用する奴は適性に問題ありだ、辞職しろ』


 メラノ少尉をフェリルドが見返した。

 どんなに娘を甘やかし、その希望を叶えていても、フェリルドは無条件に信頼したりはしない。娘の人格が変わったと理解した時から何年にも渡って観察し続けてきた男だ。


(あそこまで可愛がっててそれ言っちゃうのかよ)


 だから信じられる。フェリルドはいつも自分の愛情を抱いたまま、それを決断するのだから。

 しれっと娘の報告なんぞ取り合っていないことを自白したフェリルドだが、皆は俺を見てフェリルドを見直し、何やら納得した顔になると、それ以上の質問もなく解散した。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 フェリルドが食事で誘い出したのは、その一行全員のフォトを手に入れたいということもあったらしい。他にも客で配置し、隠し撮りさせていたようだ。


「フィルが本当に気になるようだったな。私とフィルとの会話にも聞き耳を立てていたようだが、殺意というよりもあれは片思いに近くないか? フィルの頭を撫でる私を羨ましそうに見てたぞ」

「やっぱり分かるもんってあるんじゃないのかねぇ」


 工作員で送り込まれたならばあんな接触や表情はあり得ない。

 二重人格の路線はこれで完全消滅かと言い合ってしまう俺達にも情けの心はあった。姉の男女交際を全てぶち壊すようなシスコン少年だったところで、今はもう成人しているのだ。

 どうしても同世代の親友など作りにくい状況のアレナフィル。それならばと。


「引き取るとか馬鹿なことを言わないでくれるならある程度の交流に目を瞑る気はあるが、・・・ルードが荒れるか。もう少し大きくなって、それからフィルがルードに相談して交流を始めるというのが一番望ましい。だが、度を越したシスコンだったというのが気になるな」

「本気で周囲の男を排除してたらしいからねぇ」

「弟ならいずれ姉は誰かを選ぶことぐらい分かってるだろうに」


 アレナフィルがシャワーを浴びている間に、俺達はそんなことを話し合った。

 それでも全てはアレナフィルの判断に任せようと考えるフェリルドは情報を集め、そして甘やかしはするが何も言わない。


(そこがフェリルの残酷さだな。その意思決定を尊重するからこそ、決めてやる優しさなんぞ持たない。あいつが決定してくれたなら迷うことも揺れることもせずにすむんだろうに)


 父親が合流したことで明るくなったアレナフィルだが、それでも時々不安定な言動があって、フェリルドはそんな娘に何も指摘せず受け入れていた。

 父親としてアレンルードの心も考えるからこそ、今は引き離しておくことを選択しながら、ファレンディア人の情報だけは集めておく。弟とやらがあの若さなら焦ることはないと判断していた。

 そうしてやってきたのはゴバイ湖。淡水ではないことで知られる塩水湖だ。

 溺れない湖として観光地としても有名である。


『うわぁ。海っぽい景色が広がってるのに、潮風じゃない』


 二階の客室から見える湖にアレナフィルが嬉しそうな歓声をあげていた。窓と扉が開きっぱなしな上、隣の部屋なのでよく聞こえる。


『風向きの問題だね。この時間は高地から低地へと風が流れるんだ』

『へえ。リオンお兄さん、本当に物知りですね』

『こういうのは体感で覚えちゃうね。来年またやってきたら、それこそアレンルード君にアレナフィルちゃんが説明するんじゃないかな』

『うふっ。偉そうに教えてあげなくっちゃ』


 ここは軍人とその家族が予約制で使える別荘だそうだが、使用人もいる。貴族らしい休暇が過ごせることには間違いないだろう。

 フェリルドとアレナフィルの荷物をネトシル少尉が運んでくれたからだが、俺は自分にあてがわれたダブルベッドの部屋にしばし考えた。

 恐らくあの親子の部屋はツインベッドだ。

 問題はフェリルドだ。アレナフィルに添い寝したまま眠ることもあれば、俺と語り合ってそのまま寝ていくこともある。

 ゆえに俺はダブルベッドをもう一度見た。


『湖も広いからね。ここからじゃ漁船や採水船は見えないけど、あっちまで歩いて行ったら見えるよ。この別荘が面しているそこはプライベートな遊泳エリアだ。人目を気にせずのびのびと過ごせる』

『なんて贅沢。リオンお兄さん、泳げますか?』

『勿論。何なら教えてあげるよ?』


 ネトシル少尉の口説き文句は、面倒見のいいお兄さんと化して久しい。


『私も泳ぎには自信があるのですっ。見ているがいいですよっ。あのバイト先でゲットしてきた秘密兵器をっ。ふっふっふ、きっと私は誰よりも速く鮮やかにっ、魚のように泳いでみせますっ』

『・・・アレナフィルちゃん。君、バイト代以上に色々ともらってきてないかな? クラセン殿も色々と買いこんでいたようだけど、君の荷物、凄い量だったね』


 やっとネトシル少尉はそこを追求しようとしたらしいが、アレナフィルはどうやら強気で行く構えだ。


『それだけ持て余していた物が多いってことですよね。私はガラクタを引き取ってあげたのです』


 見なくても分かる。きっとぺったんこな胸を張って偉そうにしているのだろう。

 その内、おでこをつんとつつかれて、後ろに倒れるに違いない。

 俺は旅行用鞄を持って隣の部屋へ顔を出した。


「おーい、フィルちゃん。なんかさぁ、俺の部屋、ダブルベッドなんだよね。部屋、交換しないか? どうせ寝る時はフェリルと一緒だろ? そんならベッド、一つでいいだろ? でもって俺、フェリルと一緒のベッドで寝たくねえし」

「むっ。つまり私の父を横取りする気ですねっ、レン兄様。姉様に言いつけますよっ。だけど私はとても親切な子なので、部屋なら交換してあげましょう」

「何言ってやがる。何なら取り下げてもいいんだぞ? 俺は広々とダブルベッドで寝よう」


 強気の方向性を間違っている子タヌキに、俺はなけなしの親切心を引っ込める。

 俺は有言実行の男だ。


「レン兄様ったら本当に頼りになるところが素敵。だから世界で一番信頼できちゃう。ティナ姉様に会ったら、レン兄様がどれ程頼もしかったか、じっくりお話するの」

「最初っからそう言ってりゃいいんだよ」


 アレナフィルが未婚令嬢なので保護者である俺達と一緒に二階の客室、他は三階の客室なのだが、どの部屋にもシャワーブース、そして洗面所はついていて、小さな冷蔵冷凍庫もあった。だが、使用人もいるので基本的には一階にあるリビングルームやダイニングルームなどで団欒し、食事をすることになるだろう。

 大切なガルディアス殿下に子爵家の娘が手を出さないように見張っている使用人もいる筈だと、フェリルドが言っていた。


「部屋も決まったことだし、お茶でも飲もう。アレナフィルお嬢様、まずは私にエスコートさせていただけませんか?」

「喜んで、リオンお兄様」


 猫をかぶるには遅すぎる。

 すまし顔でネトシル少尉の腕に手をかけているアレナフィルだが、多分肩に担がれていった方が早い。肩車でいいんじゃないか?


「で、ふざけた会話が廊下まで聞こえてたが、あのな、フィルちゃん。秘密兵器も何も、一人だけグッズを使うんじゃ泳ぎの競争にはならんだろ。そん時には他の奴にもその秘密兵器を使わせるんだろうな?」

「なんてことを言うのですっ、レン兄様っ。一人だけ使うからこそ秘密兵器なのですよっ。だって私はまだ子供。みんなは体力が自慢の軍人さん。そこは当然のハンディキャップじゃないですか」


 安心しろ。大人になってからもお前はハンディキャップとやらを要求するだろう。

 リビングルームには使用人の女性がいたので、ネトシル少尉が軽く手を挙げて用事があることを合図する。


「お前さんが卑怯な奴なのはよく分かった」

「すまないが、冷たいお茶を人数分持ってきてくれないか」

「かしこまりました」

「うわぁ、ちょうど湖が目の前にある」


 ダンスもできそうなぐらいに広いリビングルームだが、アレナフィルはレンガ造りのテラスに出て、湖と空が広がる景色に感動し始めた。

 そこへこの別荘の管理人と話していた筈のフェリルドとオーバリ中尉がやってくる。フェリルドが不在の時はアレナフィルを構いながら遊んでいるオーバリ中尉だが、フェリルドが戻ってきたらそっちにくっつきまくりだ。

 

「フィル、ここはまず部外者は入ってこないそうだ。外にシャワー専用ハウスもあるそうだし、あの赤いポールより外側ならモーターも乗っていいそうだよ」 

「うわぁ、本当に? モーターってあっちの沖で白い飛沫(しぶき)立ててる奴でしょっ? 私、ああいうのも乗ってみたいっ。あそこまでレースしなくていいからっ」


 尚、免許を持っていないアレナフィルは同乗することはできても運転は許されない。誰がその時には乗せるんだろなと、俺は思った。


「レースじゃなくて、あの先頭の水上モーターが煽り立てたんだろう。ああいう手合いは女の子が同乗していると見たらすぐに挑発するのさ。ガールフレンドにいいところを見せたくて、だから追いかけ始めたんだろうね」

「女の子にモテなくて、水上を走ることでやりきれなさを紛らわせる。なんて可哀想」


 この子タヌキは、自分の父親が世界で一番セクシーだと常日頃から言っているが、何故こんな世辞の一つも言えない小娘が人気なのか。そこが俺には大いなる疑問だ。

 ネトシル少尉も軽く両肩を上下させてみせた。


「同情しながらこき下ろしているところがアレナフィルちゃんだね」

「フィルちゃんは昔からそういう子ですよ、ネトシルさん。それを面白がることができるかどうかが分かれ目というものでしょう。だからフェリルは社交界に出すつもりがなかったんです」

「そうですね。段々私もクセになり始めました」


 どうやら彼はアレナフィルちゃんを正しく理解しようとしているようなので、俺も塩を送る。

 この子に手を出すならフェリルドを倒していけと言いたいのは山々だが、これでも頑張る若者に肩入れする程度には枯れていないのだよ。


「ボス。何人乗りのモーター用意しときます?」

「運転する奴とフィルを固定する奴とで三人乗りか? 並走できるよう数台あるといいだろうが」


 フェリルドがやってきたらその斜め後ろに控えるようになったオーバリ中尉だが、一体あれは何なのだろう。とても生き生きしているように見えるんだが。


「だけどお父様。乗ってる女の子、レースになるの、嬉しいのかなぁ。怖いだけだよね?」

「自分の為に煽ってきたのを負かしてくれるのが嬉しいんじゃないか?」


 自分の為に颯爽とモーターを疾走させる姿が見たいなら、父親ではなく叔父を選べと俺は言いたい。

 どうせ貸し切りの別荘なので扉も窓も開けっぱなしだ。


「もうこちらに来ていたんですね」

「ええ。おかげさまで、娘も湖の景色に感動していたようです」


 フォリ中尉達がやってきたが、さすがに五人も入ってくると広いリビングルームが狭く感じる。

 この別荘に滞在する間、あくまでみんなから妹のように可愛がられているだけで、面倒を見るのが父親しかいないからアレナフィルを連れてきたという形になるそうだ。アパートメントの時と違い、ここでは食事も全てあちらが用意すると聞かされている。

 俺は不自由な立場というそれを目の当たりにしていた。普段なら一言ぐらい軽口を叩いたであろうに、メイドの目がある以上、最初に声をかける相手が少女であることなど彼はしなかった。


「あのスピードなら、私達の誰であろうと十分ぶっちぎれるから心配しなくていいですよ、アレルちゃん。何なら颯爽と登場して、ノロマな亀だと笑ってやりますか?」

「ボンファリオお兄様。所詮、いきがることしかできない一般人のプライドを打ちのめすのはどうかなって思います」


 淡紫混じりの桃色(シクラメンピンク)の髪をしたマシリアン少尉が紫の瞳を細めて誘うが、アレナフィルは彼の暴走を見抜いたらしい。

 誰だって怖い思いはしたくないのである。

 

「少しは悔しい思いをしないと、ああいう手合いは反省しませんからねえ。とはいえ、私達も横に乗る女性がいないのでは、モテない男の八つ当たりと思われかねない。ここは性別的にまだ女の子のアレルちゃんを横に乗せることで手を打ってもいいところでしょう」

「マレイニアルお兄様。そういう女性は現地調達してください」


 柔らかな水色(ベビーブルー)の髪をしたドルトリ中尉に対し、アレナフィルは目線だけでアイスティーのグラスが載ったカートを押してきた女性を示した。

 卑怯者は自分じゃない女性を盾にする気だ。

 自分に対して甘い相手とそうじゃない相手を、アレナフィルは嗅ぎ分けている。


「アレナフィルちゃんは、俺と水泳競争するって約束してますからね。何でしたらウェスギニー大佐もいかがです? アレナフィルちゃん、秘密兵器を使って、俺を負かしてくれるそうですよ」


 運ばれてきたアイスティーのタンブラーグラスの内、一つにはオレンジリキュールを垂らし、そしてもう一つにはシュガーシロップを混ぜてネトシル少尉はフェリルドとアレナフィルに一つずつ渡した。

 ついさっさとグラスを取ってしまったが、放置しておいたら俺にも入れてくれるつもりだったらしい。

 目で尋ねられたが、もう飲んでしまったので眼差しだけで断れば軽く頷いた。

 こうして比較するとやはり彼が一番いいような気がしてならない。


「ありがとうございます、リオンお兄さん」

「ネトシル少尉、別にそんな気を遣わなくていい。いつからそんな給仕を覚えた」

「アレナフィルちゃんが何かと作ってくれていたので覚えました。大佐に任せるとブランデーを入れすぎるので、アレナフィルちゃんは柑橘系リキュールを少し入れてから先に渡すそうですね」


 要はフェリルドに(おもね)ったのではなく、アレナフィルの代わりにしただけといった認識だったと。


「お父様。リオンお兄さん、かなり器用。ステアの仕方がとてもサマになるの。今だって見た? さらっと掻き混ぜて、自然に渡してきたでしょ? もうリオンお兄さん、女の人と二人きりでアレやったら一気に恋の激流が二人を包むと思うの。真面目なのにちょっと突っ張っている不器用な青年に見せかけて、いきなりの甲斐甲斐しさ。この意外性に、レッドプリズンの香りが甘く狂おしい魅力を引き立てている」


 自分より年上の、しかもよそ様の大切な息子さんを仕込んでいる子タヌキがいる。

 俺も昔は香水や髪形、服や小物を見立ててもらったことがあるが、それで妻を捕まえたと思い返せば懐かしい。そしてアレナフィルの見立ては悪くないのだが、本人の性格を丸ごと無視している傾向がある。

 モテる為には自分を捨てろと、子タヌキは言うのだ。


「フィル、お前の世界に巻きこむのは程々にしておきなさい。まさかと思うが、その髪型までお前が口を出したんじゃないだろうな」

「だってリオンお兄さん、いつもお任せって言ってた。今はフィルのお任せなの」


 さすがのフェリルドも、いつも整髪料でまとめている彼が、柔らかく前髪をカールさせて少しおろし、その上で流れるようなラインを横に持ってきていたことに気づいていたようだ。

 真面目な雰囲気が少し甘くなったと、俺も感じていた。

 それなのに生きたお人形を手に入れた子タヌキが反論する。


「彼の普段の仕事を考えなさい。地味にしておかなきゃいけないのが、色気を漂わせてどうする」

「・・・お父様。男も女も色気を失ったら老化が早まっちゃう。リオンお兄さん、きりっとしていたのが少し甘さを見せて、マーケットでも女の人が、

『あら、おひとりかしら? どちらからいらしたの?』

って、モテモテだった」

「アレナフィルちゃんと一緒にいたんですけどね」


 二十代で老化を考えている筈もないネトシル少尉が苦笑するのだが、彼も話しかけやすい雰囲気が自分に生まれていることには気づいていたようだ。


「仕方ないの。リオンお兄さん、そうしていると、どこか女の人の庇護欲をつついちゃうんだよ。甘さが滲むから、女の人は手折りたくなってしまうの。罪な人なんだね」


 有罪なのはお前だ。

 ほぅっと悲し気に溜め息をついている子タヌキに向かって、誰もが冷たい視線を向ける。

 未成年の少女の相手をしているよりも、今の彼は年上の美女に愛でられている方が似合いそうだ。本人の性格を全く考えなければの話ながらも。


「まあ、いい。ネトシル少尉もいずれ目が覚めるだろう。・・・それで水泳競争とは大きく出たな、フィル。まさかと思うが、

『可愛い私に嫌われたくないなら、私より先に進んじゃ駄目っ』とかいう奴じゃないだろうな? あれが効くのはレミジェスぐらいだぞ」

「いつまでもそんな子供じゃないもんっ。・・・いいでしょうっ、お父様も参加していいのですっ。私はお父様とリオンお兄さんを正々堂々、見事に負かしてあげますっ」


 体格も筋肉も運動神経も全てが劣る子タヌキが身の程知らずにも勝利宣言しているので、別荘の管理人や使用人達が同情するような眼差しを向けていた。

 子供だから馬鹿でも仕方がないと思っているのだろう。


「秘密兵器とやらを使ってだろ。競争ってのは同じ条件下でやるもんだぞ、フィルちゃん。最初からイカサマに近い状態で何が正々堂々だ」

「レン兄様は黙っててくださいっ」

「はいはい。だけどその秘密兵器とやら、俺にも使わせてくれ。どんなもんか知りたいしな」


 それでも普通の子供とは違う。アレナフィルは分かった上で言っている筈だ。さて、何が出てくるのやら。


「くっ、仕方ありません。ならばレンタル料は、途中にあったお菓子屋さんで手を打ってあげましょう」

「ほとんどタダでもらってきといて金取んじゃねえっ」

「んもう。レン兄様が我が儘すぎる」


 移動車の中では普通だったが、この別荘に到着してからアレナフィルと距離を取っているフォリ中尉がそこで話しかけてくる。


「アレナフィル嬢。さっき連絡が来たんだが、ファレンディア税関と君がやり合った結果、今年に入ってのそれは遡って見直された分の差額が我が国に入るそうだ。・・・ご褒美というわけではないが、まとまった謝礼が入るそうだぞ。振込用の口座は、税関でバイトしていた口座でいいのか?」

「えっと、それって税金かかりますよね? パ、・・・お父様。どうしよう」

「別にどうもしない。その口座をレミジェスに見せて、手続きしておいてもらえばいい。だが、あれはお前のお小遣い用の口座だから、まとまったお金が入るなら、お前の資産用の口座に振り込んでもらった方がいいかもな」


 フェリルドの辞書には、弟イコール雑用係と書かれているに違いない。

 俺はそれを確信した。


「資産用口座? そういうの、作らなきゃいけないの?」

「お前が結婚しなくても一生、生活できる程度にはしておくと言っただろう? その口座がある」

「そうなんだ。だけどそれ、お父様がしてくれてた口座。だけど今回のは私のバイトの臨時収入。じゃあ、お小遣い用の口座でいいと思う」

「そうだな。好きに使いなさい」

「うん。おうちは長く住んでると傷むの。だから積み立てておいて、修繕費用に()てるの」


 アレナフィルが堅実的だからよかったものの、普通の娘の育て方として考えるならフェリルドはどう見ても落第父親だ。

 子供の為にある程度の資産を分けておく親もいないわけではないが、そういうのは成人後、それもある程度の社会人経験を積んでからじゃないと教えない。若者はすぐにどんな大金も湯水のごとく使い果たしてしまえるからだ。

 フォリ中尉は軽く眉を上げた。


「家の修繕費用? 一体、それは・・・?」

「ああ、大したことではありません。今、私と子供達が住んでいる家は、私の個人的な持ち物ですからね。息子はウェスギニーの家を継ぎますが、娘は好きなことをして生きていけるように、あの家をあげる予定なのです。小さくてもあの家は、色々と維持費用がかかるシロモノなのですよ。娘はその費用が決して安くはつかないと理解しているのでしょう」

「そうなの。おうちは見えない所から傷んでいく。長持ちさせようと思ったら、お金は必要」


 うんうんと頷くアレナフィルは、ファレンディア人だった時、祖父母の家を相続していたそうだ。だから一軒家の維持費が決して安くないことを知っている。

 たまに見に行って手入れしていたそうだが、そんな前情報など誰も持たない。

 フェリルドに心酔しているオーバリ中尉を除き、

「いくら留守がちだからって、今からこんな子供に家の管理までさせているのか」といった思いをその表情に浮かべ、皆がフェリルドを見た。

 気にするような男ではない。


「そうだね、フィル。さあ、水着に着替えておいで。秘密兵器とやらの力を見せてもらおう。私が負けたら、お前の好きなお菓子を買ってあげるよ」

「やったっ。なんかね、お塩入りのお菓子とかが名物なんだってっ。ルードにも買ってってあげたいけど、無理そうならおうちで作ってあげたいなって」

「そうか。きっとルードも同じことを考えていそうだ。あの子もどこかに行くとすぐにフィルへのお土産を買うからね」

「そーなの。だけどチームのユニフォームもらっても、結局、ルードが着てる気がする」


 それは二人共、お土産と称して自分が欲しい物を買っているからだ。

 俺は知っている。アレナフィルはどこかに行くと味見と称してまずは買ってもらって食べる。それからお土産と称して自分と兄の分、家政婦の分を買ってもらう。そして帰宅したら、渡したお土産を一緒に食べるのだと。

 俺と妻はそんなアレナフィルの土産を一緒に食べさせてもらうから文句は言わないが、ウェスギニー家は誰も彼もが身勝手だ。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 ゴバイ湖はその気になればぷかぷか浮きながら本を読める塩水湖だ。ゆえに遊泳客も多い。

 なんで肉体に自信のありまくる奴らとそんなところで水着にならなきゃならんのだと言いたいが、アレナフィルが俺に見立てた水着は、あえて淡いパステルカラーの水着用長パンツに、白を基調とした水中でも着ていられる上着だった。

 上着と言っても太腿近くまでの丈があって、線が細くないと似合わないデザインだ。筋肉がつきすぎているとみっともなく見える。

 ホント、プライドを捨てろと言うだけあって、アレナフィルの見立ては悪くないんだ。予算も考え無しだが。普段の俺なら絶対にこんな高い水着は買わない。恥をかきたくないからここは妥協するが。

 

『童顔で知的なんだぜオーラを出してるレンさんだから着ることができるんだよっ。大丈夫っ、基本的にスポーツ自信ある人、濃い色の水着持ってくるから全く違うグラウンドで勝負だっ』

『童顔言うな』


 アレナフィルはそんなことを言っていたが、何を勝負するのか分からない。

 フェリルドには黒を基調とした水着を選んでいたが、ただの黒じゃなくて濃い紫が入っているようだ。子持ちの男に色気を出させてどうするのか。

 そして何故か香水ばかりではなく水着まで一緒に買いに行ったネトシル少尉は赤を基調とした水着なのだが、模様が白で実はその境目にピンクが入っているから、スポーティに見せかけてどこか柔らかさが感じられる。

 俺達三人、アレナフィルの見立てだというので、どういうのが好みなのかを知ろうとした他の士官達は、どれも全くベクトルが違うというので、駄目だこれはと思ったらしい。


「性的な嫌がらせを言うつもりはないのですが、アレナフィル嬢が一番セクシーなのは父親だと断言するわけが分かったような気がします。鍛えていないわけじゃないのに、鍛えているイメージを持たせず、それでいて全く弛みのない体ですね。たしかに芸術的な肉体だ」

「あの二人を除き、そもそも鍛えていない肉体がここにありますかね?」


 フォリ中尉に答えているフェリルドは、たしかあの頃、蝶の種だと言っていなかっただろうか。蝶といっても行動はおとなしく、長い前髪で顔の上半分を隠しているようなもっさり具合だった。

 だけどどう見てもあの模様は虎の種の印だ。お前、友人にも嘘ついてたのかよ。

 使用人達も皆の筋肉に感心していたが、やはり見惚れているのはフェリルドの肉体だ。男の俺から見ても、彫刻のモデルになれる魅力がそこにある。


「いや、そういう意味でなく。肉の付き方やラインが美しいという意味です。どうやったらそんな体を作れるんです?」

「・・・全くそういう意図がないのが分かるから正直にお答えしましょう。あなた方は少年時代から特定のスポーツに打ちこんで育ったでしょう。筋肉は酷使すればする程、結果を出してきます。私の場合、体ができあがるまではスポーツなどせず、それからバランス的に筋肉をつけましたからね。だから満遍なく、そしてお手本のような形に仕上がったわけです」


 昔のフェリルドは男にも女にも口説かれるのが嫌だっただけだ。愛する相手は自分で見つけると、決めていたのかもしれない。

 なんにせよ脱ぐと男でも見惚れる美しさがあって、だからアレナフィルが父親にメロメロなのだ。


(普通は紅一点に注目するんだろうが、所詮はお子様だからなぁ)


 アレナフィルは女の子なので首から手首、そして足首まで覆う女性用水着だった。ちゃんと胸元や腰回りなどにはフリルがついている。ピンクっぽい地に大胆なグリーンの模様が描かれ、フリルはオレンジに近い。

 みんなから、

「女の子らしくて可愛いね」

と、褒められて、

「救助しやすい色は大事です」

と、威張っていた。

 防御力の高い女の子水着なので、誘惑しているとはとても言い難い。けっこうなことだ。


「えーっと、これを取りつけてっと」

「よくそんなもん持ちこめましたね、アレナフィルお嬢さん」

「ふっふっふ。リオンお兄さんに頼めば運んでくれるのですよ」


 オーバリ中尉の呆れ顔は当然だろう。その二つのケースはそれなりの大きさだった。

 フォリ中尉だと取り巻きの四人に何か言われると思い、一番優しい人を選んだというのがよく分かる。

 保護者であるフェリルドは、面白そうな顔で娘を見守っていた。


「そしてお腹を先に、そして背中側から覆う感じでセットする」


 金属製のそれを上半身の前後から装着するのだが、まるで不出来な翼を前後に取り付けたかのようだ。

 それをしっかりとベルトで固定し、何度も外れないかをチェックする。つまりきちんと装着しておく必要があるのだろう。

 その後、背中の下側部分から引き出した鱗模様のベルトを足首に留めた。やはり外れないかを何度かチェックしてから、ボタンを押せば、足首の周りにも金属の小さな翼みたいなものが飛び出てくる。足の甲を覆うカバーも一緒に出てきていた。

 そしてよたよたと湖へ歩き始める。


「ちょっと動かしてみるね」

「フィル。いくら塩水でもそんなのつけていたら沈むんじゃないだろうな。材質は大丈夫なのか? 錆びるんじゃないか?」

「大丈夫、お父様。これ、錆びない。それに潜水モードじゃなくて水面モードだから沈まない筈」


 一番真面目な顔で見ていたのはフォリ中尉だろう。

 湖の中に入っていったアレナフィルは、水面に上半身をうつぶせ状態で倒すと、何やら操作したらしい。

 そこまで大きくないシュルシュルシュルシュルという音が響き、いきなり水面を直進し始めた。


「え? 浮く道具じゃないのか」

「あの翼はヒレなのか」

「あの小ささで何を動力にしてると・・・」


 驚いているのは見物していた俺達だけで、アレナフィルは楽しそうに水面を滑っていく。蛇行したり、直進したり、くるくると円を描くかのように動いたり、しかもどんどんとスピードが速くなっていった。


「どれくらいの速さだ?」

「始まりは3ローティ。現在は35ローティ前後。瞬間的には50ローティ出てたのは操作ミスかと。手の動きから判断して速度は自分で調節できるものと考えられます」


 フォリ中尉の問いに対し、ドネリア少尉が答えている。


「ボス。お父さんって呼んでもいいですか?」

「断る。欲しけりゃ買い取らせてもらえ」


 そうして戻ってきたアレナフィルは、満足そうだった。


「ふっふっふ。これで勝利はいただきなのです」

「フィルちゃん。それはちょっと卑怯じゃないかな? 水上モーターレベルの速さじゃないか」

「そんなことありません、レン兄様。水上モーターの方が速いです」


 そして子タヌキは、水上モーターは最高速度200ローティ前後で、高性能だともっと速いとか言い出す。これの最高速度はせいぜい100ローティだと。

 

「ちょっと待ってくれ、フィルちゃん。最高速度はどこで分かるんだ? そんな目盛りをどこで見ていた?」

「勘に決まってるじゃないですか。私は計測器じゃありません、人間なのです」


 周囲にいるのは軍関係者ばかり。つまりパワーやスピード至上主義な非常識団体関係者だ。

 俺は唯一の良心として、安全性そして遊び道具に相応しいレベルとしての範囲を考えながら質問した。


「どっちにしても普通の水泳速度を超えている。何なんだ、そりゃ」

「これはですね、あくまで水泳や潜水ができなかったりする人でも、お魚のように泳げるという素敵なものなのです。水上モーターと違って、これは動力だって燃料要らずなんですよ。その代わり、一晩かけて回転させてましたけど。その専用装置があってくれてよかったです」

「何だそりゃ」

「つまり、普通のモーターって燃料で動かしているじゃないですか。だけどこれは最初に逆回転させておくことで、使用時に回転力を発揮するんです。だから燃料要らずで維持も簡単。海や川で遭難した人を探す時にも便利なんですよ。移動は全部これがやってくれるから、後は周囲を見ておくだけ。ただし、使用時間が限られるのがネックかなと」


 一晩かけてというのが半日という意味なのかと尋ねれば、そうではなかったらしい。


「夜にセットして、後で見に行こうと思ってたら忘れて朝になってたから、どれくらいの時間がかかるのかは分かんない?」

「つまりもっと早い可能性もあるんだな?」

「そうかもしれないけど、レン兄様、大切なのは放っておいたら勝手に終わってることなのです」


 不用品や余った物をくれたなら分かる。だが、売ればそれなりの値段で売れただろう。

 どうしてガラクタとしてもらってくることになったのか。俺はそれが分からなかった。


「こんな便利なもん、どうしてフィルちゃんにくれたんだろうな。高く売れただろうに」

「私の魅力のなせる(わざ)じゃないかなって・・・」

「正直に言ったらどうだ、フィルちゃん?」


 照れてもじもじしている子タヌキに向かって、俺はクールに尋ねる。

 すると観念して白状した。

 どうやらその逆回転させる専用装置がなくなっていたらしい。動かす為に必要な専用装置がなければ、道具だってただのガラクタが二台だ。

 そして全く別の会社の倉庫で使い道が分からずに放置されていた専用装置が転がっているのを見つけたアレナフィルは、それももらってきたのである。


「つまり使い方が分からなかっただけ。処分したくても使われている金属も分からなくて、金属名が不明だと処分費用がかかるだけだったんだよね」

「道理でな」


 専用装置は、最大4つまで逆回転させることができるらしい。

 せっかくだから俺はそれを使わせてもらうことにした。


「あのね、レン兄様。このレバーを倒しっぱなしにすると、止まりたくても止まれない。場合によっては水底に激突。だからちゃんと止まりたいときは中心に戻す。それができなかったら、手を離したら中央に戻るから止まる。いい? 激突しても止まってくれないから、そこは気をつける。これ、安全装置ついてないバッタ品なの」

「まずはやってみよう。ここのスイッチを入れて、音がし始めて少し体が浮くような感じがしたら、後はレバーを倒せば動くと」


 その倒し具合がスピードに直結するらしい。


「そうそう。じゃ、行ってらっしゃい。だけどここの段階で、潜水モードに入っちゃうから、潜水しないのなら、いつでもここは0にしておくこと。数字が増える度に、水面下に潜っていくから」

「分かった」


 移動車の運転より簡単だ。子供でもすぐ覚えてしまうだろう。

 俺は普通に泳げる程度だったが、泳ぐ必要もなく水面を滑っていく上、モーターと違って自分自身の体で動いている気分になる。

 気づけばオーバリ中尉が同じ物を使ってもっと速く水面を滑り、更には水中まで潜っていっていた。

 彼は骨折していると聞いた覚えがあるのだが?

 一通り楽しんでから戻れば、俺が外したそれを皆が装着して試し始めた。


「ヴェインはいつになったら戻ってくるんだろうな」

「思うにヴェインお兄さん、きっとこの中で一番お子様なんだね」


 体格や身長が違っても対応できるものの、さすがに幼児には不向きだとアレナフィルが説明する。


「フィル。今の内に分かってることを教えてくれないか」

「えーっとね、お父様。どれくらい使えるかは自分で調べてみないと分からないの。これはね、たとえば溺れている人を助けに行ったり、体が不自由な人でも水泳を楽しめたりするものなんだよ。今、ヴェインお兄さんが潜ってるけど、それもメモリを1から多くすればする程、深いところまで潜れるの。空気を持って行けば、水底の捜索もできるんだよ」


 相手は軍人だ。

そんな平和利用より先に考えるものがあるだろうなと、俺は思った。


「へぇ。これはたしかに面白いですね」

「そうだな。連続駆動時間が限られるが、数があれば問題ない。だが、アレナフィル嬢。よく使い方が分かったな」

「だって中に刻まれてますから」

「は?」

「あ。さすがにもう動かなくなったか。やっぱり使えるようになるまで時間かかるのかな、アレルちゃん?」

「短時間だけ動かしたいなら、足で踏み踏みしながら逆回転させておけば、ある程度は使えますよ」


 あくまで応急的に使いたい時にはと、アレナフィルが取り付けた装置を外して示した。


「ほら、ここを踏むと少し逆回転するんです。だから踏み続ければ大丈夫。・・・専用装置使って逆回転させて、その間お茶してる方がいいですけど」

「つまり、アレルちゃん。駆動時間もはっきりしてないんですね?」

「動かなくなったら終わりだと思えばいいのでは? 今、初めて使うのに知るわけないじゃないですか」


 所詮、水泳競争にさえ使えればいいと思っているアレナフィルだ。かなりいい加減だった。

 ドルトリ中尉の質問が失望を隠していない。


「そして逆回転させておく為の時間も計っていなかったと」

「睡眠不足はよくないのです。子供は夜更かししちゃいけません」

「人力でもできると言いましたね?」

「できるできないと、やるやらないは別ですよ、マレイニアルお兄様。私がするわけないじゃないですか」


 アレナフィルが装置の裏側を指さして説明する。


「ほら、ここに使い方が刻印されているんです。ファレンディア語が読めないと分からないですけど、もしかしたら模様だと思われたのかもしれません。けれどもこういう救助用のものっていうのは、いざという時に誰でも使えるように、消えない説明書がついてるってわけなんです」

「なるほど。アレルちゃんのお母さんは、本当に優秀だったのですね。ファレンディアまで行ってお友達を作り、こういう製品の見方まで日記に書き残していたとは」


 ドネリア少尉が好意的な眼差しでアレナフィルを見つめたが、(やま)しいことのある子タヌキは目を伏せる。まるで控えめな貴族令嬢のように。


「顔も覚えていない母なので、どんな人だったのかは分かりません。だけど、・・・母の日記があったから、私もレン兄様に教わって、ファレンディア語の勉強を始めたんです」

「妻の独身時代のことはよく知らないのですよ。だけどそれが娘の役に立っているならよかったというところですね。さて、フィル。どうするのかな? 今から水泳競争をするかい?」


 フェリルドがくすくす笑いながら動かなくなった玩具を前にして娘に尋ねる。

 勝利宣言をしていた筈の娘は澄まして答えた。


「勝負は明日に持ち越しなのです、お父様」

「仕方ない。だけど面白い物を見せてくれたからお菓子は買いに行こう。こんなの見せられたら、ルードが喜びそうだ」

「そんな気がするの。きっとルード、壊れるまで使い倒す。そして網だけで魚を捕まえようってしそう」

「そういうこともできるか」


 アレナフィルは、フェリルドなら自分を追い詰めないと知っている。勝手に順延を決めて、押し通す気だ。卑怯者だな。


(魚を捕まえるだけかねぇ。救助と言うがそれだけか、本当に?)


 ファレンディア国は兵器を他国にも売りつけている国だ。こういったものを作ったとして、その使い道は救助用だけだろうか。


「アレルちゃん。これ、ちょっとその逆回転の専用装置と一緒に借りてもいいかな?」

「どうぞ? 私は少し泳いだらお菓子を買いに行くのです。どうせならボンファリオお兄様、逆回転させてから返してください」

「了解」


 俺は、あの言葉をフォリ中尉の取り巻き達が聞き逃したと信じたかった。


――― あのね、レン兄様。このレバーを倒しっぱなしにすると、止まりたくても止まれない。場合によっては水底に激突。だからちゃんと止まりたいときは中心に戻す。それができなかったら、手を離したら中央に戻るから止まる。いい? 激突しても止まってくれないから、そこは気をつける。これ、安全装置ついてないバッタ品なの。


 では、安全装置がついている物だったらどうだったのか。それをアレナフィルは知っているのか。

 俺とフェリルドは、勿論その本来の物をアレナフィルが知っているのだと理解している。

 だが、ここにいた士官達はどう思っただろう。


(トール・トドロキと名乗ったファレンディア人は、義肢や生活を手助けする製品を作る技術者だと言っていた。そして泳げない人でも泳げるという道具をアレナフィルが知っていて、本当にあれが初対面だと思うだろうか)


 アレナフィルが不自然な反応を見せていたかつての弟。彼に会ってからアレナフィルはかなり情緒不安定だ。

 二人が初めて会ったのはたしかだが、もうそれは通じなくなっているかもしれない。

 彼らに考える頭があるのならば。




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