42 バーレミアスは副業をする
世の中、独身者が結婚してまず直面することは何か。金銭問題だ。
独身の内は半人前として免除されていたことが、結婚したらいきなり一人前として立派に行うことを要求される。最初は結婚披露パーティだ。誰もが祝福してくれるようなものにしなくてはならないのだが、足腰が弱っている人には座りやすい椅子を用意するし、出す食事だって客の年齢層を考えて決めなくてはならない。そして美味しくて誰もが満足してくれるパーティにしようと思ったらお金がかかる。
それが始まりだ。
次に二人で暮らす以上は、そこそこ質のいい家具や小物を揃えなきゃいけない。地味にこの出費が痛い。お互いの家族や親戚の目というチェックが入るからだ。
そこで「お金がないなら実家に甘えればいいじゃないか」が通じなくなるのが結婚だ。一家を構える以上、実家も「これで跡取り一家に集中できる」という思惑が見え隠れする。
それまでは実家に行ってもにこにこ笑って美味しい食事を出してくれていたのが、きちんと挨拶して滞在中の食費に相当するであろう手土産と、それから気を遣ってもてなしてくれる跡取りの嫁に対して心ばかりの贈り物とやらをこっそり渡すのが礼儀となるのだ。
結婚を機に切り離される、跡継ぎ息子以外の子供達。同じ兄弟でもこの扱いの落差が、何かと長男に対する敵愾心を次男以降に育むのだろう。血の絆を維持しようと思ったら資本力が欠かせない。
それまでは甥や姪と会えば頭を撫でてやって遊んであげていれば感謝されたが、結婚したならそうもいかない。一人前の大人として甥や姪にとっての思慮ある相談相手となり、場合によっては自分の所に引き取って面倒を見たりもする。やってられないと思うのが次男以降の分家だろう。
そういったことを考えなくてすむ自分の生き方に、俺は自画自賛するしかない。何故なら俺は講師の道を選び、あまり一般的な思考や生き方をしなくても周囲から「あの人はああいう人だから」が通じるようになっていたからだ。
それはともかく、何度でも言おう。一般的な新婚夫婦における最初の挫折が金銭問題だと。
デートの時だけ彼女の分も支払っていい顔をしてすんでいたことが、結婚後はそれを毎日続けることになる。そこで生活が変わらない程の稼ぎがある男は決して多くない。
一番かかるのが交際費で、それまでは一緒に酒場で飲んだり、互いの家に酒瓶やつまみを手土産に持っていったりすればそれですんだ話が、結婚した以上、自宅には客室を整え、常に「客がいきなりやってきたところで、食べる物がないだなんてみっともないことをしてはならない」とされるわけだ。独身時代なら食べる物がないと思えば外に食べに行けばよかっただけなのに、結婚した途端、常に食料や古くなっていない茶葉などを揃えておかねばならないのである。
生活費が一気に二倍というのも納得だ。
(そして独身時代には遠慮なく買い漁ることができた物でも、結婚したら出費は常に夫婦で相談してからとなる。ゆえに買いたいと思っても買えない)
そういった人生の悲哀を嚙み締めているのが、俺、クラセン・ヴェイク・バーレミアスだ。
別に結婚を後悔しているわけじゃない。今も夫婦二人、仲良く暮らしている。真面目すぎた人生によってちょろくも俺の罠にかかった妻を、これでも大切にしているつもりだ。
妻は今も、俺という手のかかる夫を自分が管理しておかなきゃいけないと信じていた。
だが、独身時代は給料一ヶ月分とか二ヶ月分とかを注ぎこめたことが、結婚後には全て夫婦で話し合わなくてはならなくなる。そして却下される。
勿論、俺とて妻に理解してもらう為の努力をしなかったわけではない。
『史上最高の駄作とされた本なんだ。あそこまで美しく金と手間のかかった装丁、それでいて中身はカス、いやゴミ。本という形になるまで一年かかったというのは、一文字ごとに全てが装飾されているからなんだ。職人技がここぞとばかりに使われている。それでいて作品としてはゴミ。歴史上に名を遺す駄作を買わせてくれっ。百十三年前、こんなアホなものに金を費やしたっていうので放逐された領主の息子の本なんだっ』
『駄目です。そんなものに給料半年分を費やすだなんて認められませんっ』
『君だってあの美しさを見れば納得するっ。本としての中身はゴミでも、他の全てが美しいんだっ』
『買ったら終わりじゃないでしょうっ。湿度や手入れに至るまで、買ってからもお金がかかるそんなもの、保管部屋だって必要になるじゃないっ』
『そこは改装するっ』
『結局はもっとお金がかかるんじゃないっ。そして保管室なんて作ったら、更にお金と手間のかかる本、あなた買い始めちゃうでしょっ。絶対に認めませんっ』
そんな感じで却下されたことだってあった。
独身時代は給料を注ぎこんだところで実家に行って、
「金がない。腹減った」
と、言えば飯ぐらい出てきたことが、結婚したら妻によって、
「ご実家へのたかりは許しません。私が妻としてどうしようもないって思われるじゃありませんか」
と、止められるようになってしまった。
つまり俺がアレナフィルに付き合ってサンリラにやってきたのは、妻に内緒のへそくりを作る為だ。
普段の生活でへそくりを貯めようにも、買い物とか支払いとかそういう煩わしいことはほとんど妻に任せている。毎月の小遣いの残りを貯めた程度の自己資金なんてまさに雀の涙だ。
だが、アレナフィルが妻へ無料チケットをプレゼントしたことにより、長期休暇を楽しむ為の旅行に行く必要がなくなったので、その分の予算が浮いた。家計にとって大助かりだ。
俺はこうしてサンリラに来たわけだが、あまり財布を開く必要がない。
(食費と宿泊のお礼を購入するお金はちゃんと持ってきたが、出す必要なさそうだな)
俺とて滞在費用に見合う手土産を渡す程度の常識は持っているが、俺の立場はアレナフィルの保護者だ。いくらフェリルドでも娘を狙っている小僧達の中にアレナフィルを一人で放り込みはしない。
俺というお目付け役がいなければ彼らはアレナフィルとの旅行ができない。つまり俺の滞在費を持つのは、彼らの望みを叶える為の必要経費だ。
どうせあちらはお貴族様なんだし、遠慮なくたかっておこう。
何よりフォリ中尉とかフォリ先生とかガルディお兄様とか呼ばれてる青年って、・・・・・・ガルディアス様だろ。あまりにも雰囲気が違いすぎて人違いだろうと信じたかったが、俺、不敬もいいところじゃないか、おい。
だけど本人から、
「普通に男子寮の寮監、もしくはウェスギニー大佐の部下の士官として扱ってくれ」
と、言われたので、俺は普通に接している。どうやらアレナフィルが殿下のことを全く知らなかったのが、笑いの真ん中をどぉんと突いてきたそうだ。
『ああ、そうでしたか。社交界には出さないということでしたので、私も彼女に対して王侯貴族のことを教えておりませんでした。申し訳ございません』
『いや、知っているかどうかはどうでもよくて、あの自論が面白いのだ。教育者としての視点を語ってくるところも興味深い。クラセン講師と共にいたことで身についたと聞いたが、その克己心を別の角度から観察できるところがいい』
『恐れ入ります』
それは俺、関係ないんだが。
かつて前世とやらでファレンディア人だったと語る彼女は、必要あって教員としての単位を取ったと言っていた。
勿論、俺とアレナフィルとは互いの国の教育レベルや方法、科目などがあまりにも違うことに発狂しそうになりつつ内容をすり合わせたから、その情報が混乱していることもあるかもしれないが。教育者の倫理に関しても、ボーダーやシステム、様々な違いについて熱く語り合ったものだ。
しかし、そんなことを言うわけにはいかない。
だから俺はその評価を遠慮なくもらっておいた。今の彼に高く評価されようがされまいが、俺の人生に関係ない。
『この旅行中は普通に、そうだな、そこらの後輩みたいに接してくれ。私のことを意識しないでほしい。アレナフィル嬢がその気配を感じ取ったら即座に貴族令嬢としての礼を取るだろう。私の前で居眠りしていようが、だらしなく寝転がっていようが、そんなのは基地でも見慣れている。クラセン講師はあくまでアレナフィル嬢の旅行仲間として楽しんでいてほしい』
『そういうことでしたら遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます。礼儀が必要な時にはお伝えください』
『分かった』
俺は緩衝材みたいなものか。いくらざっくばらんに接していても他の士官達はやはり彼に対して遠慮が出るし、まずはその意向を尋ねる。
俺は遠慮なく一番にアレナフィルの手料理や飲み物を注文し、手伝わせる。テーブルを占領することも日常茶飯事だ。そういう傍若無人さが、アレナフィルのリラックスする気持ちを呼んでいる。
貴族令嬢としては色々と不出来なアレナフィルを士官達は面白がりながらも教育しようとしていた。遠慮なく反発して口でやりこめてくるアレナフィルに、皆が振り回されている。
それが楽しそうで、青春だなぁと俺は思った。今が咲き初めの乙女達がいたらもっと甘い空気が流れていたのだろうが、これはもうアレナフィルワールドだ。
(なあ、フェリル。貴族の同級生に何かあったらまずいと思って市立行かせて、更に一般部進学させたのに、大物ばかりと縁繋いでるのってどうすんだよ。そりゃお前でもどうにもできなかったってのは分かるんだけどさ)
サンリラで合流したフェリルドにそのあたりを尋ねたら、
「ここまで来たらもう知らん」
と、投げていた。
アパートメントの四階で寝泊まりしている四人の士官達が、アレナフィルの矯正をしようとしているから、それが無駄だと理解したら家の力も使ってアレナフィルを王子妃にはさせないだろうという認識らしい。
今、王子エインレイドに一番近い女子生徒はアレナフィルだとか。どこから絡み合った糸をほぐせばいいのかが分からない。
(レミジェス殿は結局知らないんだろうな。学生時代、フェリルが読書のついでに弟に熱い視線や妬む気持ちを向けていた奴らをチェックしてたの。レミジェス殿に嫌がらせしようとしたその瞬間、そいつらをずぶぬれにして失敗させる完全犯罪してたっけ)
何故それを俺が知っているかと言えば、角度と位置、証拠隠滅の予行練習を手伝わされたからだ。そして事をし遂げた後、俺達を疑う者はいなかった。
思えばフェリルドは昔から眺めているだけの奴だった。そして最後の最後にしか動かないのだ。
人当たりがよく、穏やかに寄り添ってくれるような言動が多いから騙される奴が続出するが、フェリルドは基本的に、本人が努力しないことに対して手を差し伸べる優しさなんぞ持ち合わせていない奴だ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
貿易都市サンリラは大きな港町だ。
税関事務所に資料をもらいに行ったら、その場でバイト採用された俺達はとても運がいい。俺だと本業でも国から雇われているから、国民信用情報が共有される。税金を計算してから引かれた金額がバイト代として振り込まれるだろう。
つまり、煩わしい手続きをする必要がない。また、休暇中の副業にも色々あるだろうが、こういったところで働いていたというのは俺にとってマイナスにはならない。
体は子供、心は家族ラブ、思考は残念無念なアレナフィルも、輸入会社で倉庫整理するよりも書類仕事の方が疲れないし楽だと思ったようだ。
俺としては肉体労働で体力を削られてくれていて構わない。アレナフィルは毎朝ランニングしたりしているが、その為、早起きだ。あのアダルト向けファレンディア小説にはまっていてくれれば朝もそこまで早くない筈なのに、同行者の目があるから読み耽ることができないらしい。
倉庫整理で疲労していれば、そこまで朝も早くならないだろうに。
俺は大人だから起こされたら「ありがとう」と、朝の栄養ドリンクを飲んで起きることにしているが、若さが羨ましい限りだ。他の青年達も自分達のペースで体を動かしてるが、俺にはついていけない。ついていく気など全くない。そんなレベルだった。
バイト一日目の昼食は職員専用の特別食堂で食べた。職員以外はいないので遠慮なくお喋りに興じたが、あちらもどうして俺とアレナフィルの組み合わせなのかが疑問だったらしい。
「クラセンさん、本当に仲がいいんですね。もしかして親戚ですか? アレナフィルちゃんのご両親はどちらに?」
「親戚じゃなく、親友の娘さんなんですよ。こぉんな小さい頃から見てるから、もう俺の娘って気分ですけどね。アレナフィルだから、学校のお友達にはアレルって呼ばれてますが、俺みたいに舌足らずな頃から見てる大人はフィルちゃんって呼びます。ほら、アレルって、小さいと舌が回らなかったんですよ」
「んもうっ。レン兄様はいつまでも私を子供と思いすぎっ」
「いや、まだ子供だし」
両親の保護はついていないのかと尋ねられたので、父親は軍人で母親は亡くなっていることを伝えると、納得された。
「子供から目を離すと誘拐が心配ですからね。だから俺がよく預かってたんです。とはいえ、今は結婚していてもその頃の俺は独身。子供の遊ばせ方なんて分からないから、本の整理を手伝ってもらったり、書類を束ねていくのを手伝ってもらったりしていたんですよ。妻と結婚してからそれを言ったら呆れられましたけどね」
「そういえば奥様は?」
「実家に里帰り中です。フィルちゃんを連れてサンリラに行ってくるよと言ったら、この際とばかりに羽を伸ばす気でしたよ。結婚したらどうしても俺の親戚付き合いがメインになる。俺の母も気が強いタイプだから逃がしておいてあげたいんですよ」
アリアティナのことだ。あの無料チケットで優雅な三食付き休暇を過ごした後は、家でごろごろしていそうだなと俺は思っている。里帰りなんて、実家の方が休めるといった事情があればこそで、今の妻にとっては自宅こそが優雅に過ごせる場所だろう。
俺の食事や洗濯なども考えなくていいし、俺とサンリラまで出かけていることになっているから、俺の実家からの突撃もない。
俺は妻に、うちの母達とうまくやれと要求する気はなかった。
「ああ、休暇中はどうしてもご主人の実家に挨拶に行ったりしなきゃいけませんからね」
「ええ。だけど義理の親族と茶を飲んだり、ちょっとした宴会したりしても、気疲れするだけじゃないですか。それぐらいなら実の母と娘で旅行に行ったり、買い物したり、そういった時間を楽しんだ方が建設的だ。俺だって妻の愚痴を聞かずに済む。だから別行動なんですよ。ああ、俺の実家には妻を連れて子守り旅行に行ったことにしていますけどね」
「ひどい。私、もう子供じゃないもん。子守りならレン兄様の方が大きな子供だもん」
ぷぅっと頬を膨らませるアレナフィルが何やら主張していたが、俺とアレナフィルのサンリラにおける住所はネトシル侯爵家のアパートメントだ。
今日中に身元確認がされていたところで、全く問題はなかった。
(侯爵家との縁故がないと滞在できない住宅。侯爵家の目もあるとなれば、俺とフィルちゃんの間に不適切な関係はあり得ないと納得するだろう)
アレナフィルは分かっていないようだが、血縁のない成人男性が未成年の少女と旅行しているというだけで、本来は通報案件だ。だが、父親がちょくちょく仕事で娘から離れる間の保護者だと言えば、話も違ってくる。
娘の保護者にわざわざ教育者をつけてきているとあれば、親のスタンスも見えてくるというものだ。
「え? お父さんと一緒の旅行なのに、お父さん仕事に行っちゃったんだ?」
「はい。だけど仕方ないです。お仕事内容は教えてもらえないけど、火山の噴火とか、そういった時もずっと帰ってこなかったし、帰ってきたらおねだり聞いてもらうからいいんです」
「へぇ。何をおねだりするの?」
「えへへー。父が留守の間に美味しいお店を見つけて、おしゃれしてデートしてもらうんです」
それ、もうやったんじゃなかったか?
デートというより集団で食事しに行っただけだが。
「そっか。うちの娘なんてデートなんて全然してくれないよ」
「お父さんが毎日帰ってきてくれる幸せがあるから、娘さんもデートしなくても大丈夫なんですよ。うちだと仕事に行ったら普通に数週間戻ってこないですもん」
「そっか。寂しいね」
「慣れました。祖父母や叔父も気にかけて様子を見に来てくれますし、近くに住む小父さんや小母さんもそういう時は泊まりこんでくれるんです」
なんか殊勝なことを言っているお子様がいるが、俺は知っている。ウェスギニー子爵邸で暮らさせると言っている祖父母や叔父の意見を、趣味に没頭したい小娘が嫌がっただけだということを。
(フェリルも娘の中身を知ってるから好きにさせてるしなぁ。子爵邸に預けてしまえば子爵夫人が孫娘の縁談をまとめかねない。弟は信じていても、義母までは信じてないってことだ)
今となってはやんちゃすぎるアレンルードも、思い返せば幼年学校低学年時代は怖がりだった。
幽霊や化け物が出てきて死人がぞろぞろ出るようなのを間違って見てしまった時には、眠ったらおばけに襲われると叔父を呼びつけ、ずっとべったりしていたこともあった筈だ。トイレの時にも外で待機させられ、
「ずっとおはなししてて」
「いなくなっちゃダメだからね」
などと要求された叔父にとっては思いがけない出来事だったらしい。
子供はあちこち探検しては、
「なんだろう」
「なにかなあ」
で見てしまう。叔父はせっせと兄の悪霊だの動く死体だののアレコレを梱包して持ち帰ったそうだ。
あれからだろうか。叔父の方が父親よりも父親らしくなったのは。
肝心の父親は、
「そんなものあったか? ああ、恐怖を煽り立てる小細工の参考にしたんだったか」
と、そんなものだった。軍に所属していてホラーが必要な小細工って何なんだよ。
― ◇ – ★ – ◇ ―
税関職員も外国語は得意だが、仕事で必要な内容に特化している。
ファレンディア国関係の書類作業をメインにしていたアレナフィルと違い、俺は歩く辞書扱いで呼ばれることが多かった。
その場でお互いに辞書をめくりながら対話するより、俺を呼びつけた方がスムーズだからだ。辞書をめくるスピードも俺の方が早い。
「ああ、それは挨拶みたいなもので、何かを言いたかったわけじゃないですよ。話の合間にそういった言葉を入れることで、相手に対して悪意がないことを示すんです」
「そうですか。いつもその意味が分からなくて・・・。辞書にも載ってなかったですし」
「あの国の宗教における決まり文句ですからね。辞書には載せません」
女性職員に対して高圧的な態度に出る男性もいて恐ろしい思いをしていたこともあったそうだ。
「ルドーラ国はたくましさを女性アピールに使いますからね。乱暴な口調だったりする時は、『あなたのことを好意的に見ています』の意味もあるんですよ。ただし、ルドーラだけです。よその国なら警備に突き出した方がいいでしょうね」
「え? そうだったんですか? 私にだけいつも・・・。だから年齢的に侮られているのかと思っていました」
「あの国は、既婚者は両手に同じブレスレットをつけます。両手に同じデザインのブレスレットをつけたら態度も違ってくるかと思いますよ」
変なことで役立つ雑学もあったものだ。
バイトなので俺を呼びつけやすいというのもあったのだろう。何かと呼ばれて大人気すぎるぜ、俺。
そんな感じで夕方まであっという間に過ぎた。
放置していたが、アレナフィルの仕事ぶりも悪くなかったらしい。
『いやあ、アレナフィルちゃん。本当に助かったよ。明日も来るよね?』
『あ、はい』
『うんうん。バイト代は口座に振り込んだ方がいいのかな? それとも現金渡しかい?』
『えーっと、振り込みでお願いします』
恐らく未成年を働かせて搾取しているわけではないという確認が取れたのだろう。
肝心のアレナフィルは手慣れた様子で書類をトントンとまとめ、分類している。なんだかあの机の主になっているな、既に。
けれどももうバイトの時間は終わりだよと言われて立ちあがった。
子供の就労時間にも一日当たりの決まりがあるのだ。
「おーい、誰がファレンディア語、できる奴いるか? 何かを訊かれているのは分かるんだが、意味が分からん」
そこへ総合受付の職員がやってきて、困った顔で室内を見渡した。
決まった税関事務関係の内容ならば対応できても、それではすまないことだったのだろう。
その職員の後ろには、淡い金髪と薄い緑の瞳をした若者がついてきている。
何かアレナフィルが「ト」だか何だかの単語を発したような気がしたが、俺には聞き取れなかった。
「どうした、フィルちゃん? ファレンディア語だってよ。・・・行ってやらないのか?」
俺が尋ねても、アレナフィルはその若者の顔を見ている。いつもなら笑顔で通訳ぐらいしてあげそうな彼女がどうしたというのか。
相手は少女に見つめられていると認識しても、ふいっと興味なさげに違う方向を向いた。
自分に見惚れているとでも思ったのか。まあ、顔立ちは悪くない。だが残念なことにアレナフィルの好みは父親だ。彼では線が細すぎるだろう。
【だから、通訳はどこで雇えるのかと聞きたいのだが】
どこか「何度も繰り返して聞いているんだが?」感が満載なファレンディア語。
仕方ないから俺が出ようかと思ったが、通訳なんてどこで調達できるのか、俺だって知らない。
「どうやらファレンディア人の彼、通訳が必要みたいですが、そういう通訳紹介所ってあるんですかね?」
俺は近くにいた職員にそう尋ねた。
そんな俺の視界の端っこで、ふらりと倒れていく少女の姿が映る。
「フィ、フィルちゃんっ?」
俺は焦って、もう一度アレナフィルの姿を確認しようとした。間違いない、床に倒れている。
一気に頭の中が白くなった。
「フィルちゃんっ。しっかりしろっ。誰かっ、医師を呼んでくれっ」
「動かすなっ。頭を打ってるかもしれんっ」
「誰か医務室に連絡をっ」
さっきまで元気にしていた子が、一体どうしたのか。
その場は騒然としたが、彼が通訳を必要としていることはもう伝えてある。カタコトながらもファレンディア国語ができる職員が対応するだろう。
「よろしければ私共が運びましょう。医務室まで案内をお願いします」
「あなた方は?」
「ちょうど通りがかった者です」
「こちらが身分証明カードです。所用で訪れたところでしたが」
その身分証明カードは、サルートス王宮で勤務する士官のものだった。
はっきり言えば王族の護衛を行う近衛隊に属することを示していた。
「すみません。では、こちらへ」
税関職員も信頼できる人達だと、ほっとした顔で案内に立つ。
いや、何も言うまい。
医務室に運ばれたアレナフィルに対し、医師は言った。
「ふむ。色々と検査してみましたが、疲労でしょうな。特に異常もありません。念の為、精神安定剤と栄養剤を投与してありますので、すっきり目覚められるでしょう。起きるまで寝かせてあげれば大丈夫です」
「ありがとうございます」
「いえいえ。初めてのバイトですか。いや、立派だ。ちょっと気張りすぎてしまったのでしょうな。ですが全ての検査値は健康的です。普段から規則正しい生活や栄養のある食生活、適度な運動を心がけているのでしょう」
「そうですね」
緊急時に対応できるよう看護の免許も持っているという通りすがりの親切な人が、通常では持ち歩かないレベルの検査キットを多く持っていて提供してくれた為、医師も必要以上に検査できたらしい。
その親切な人は、王宮で働いているそうだ。
数十もの項目の検査値表をくれたが、何故かその親切な通りすがりの人が回収していった。うん、もう何も言うまい。
「よかったら通りに出るまで私が運びましょう」
「ありがとうございます」
親切な通りすがりの、休暇を楽しんでいたという王宮に勤務する士官が、アレナフィルを抱えてタクシーを捕まえるのにも協力してくれたので、俺はもう任せることにした。
俺なら落っことす自信があったからだ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
滞在中の建物に戻ったら、オーバリ中尉とネトシル少尉が出てきた。
「さすがに俺、怪我人なので運ぶのは頼みますよ。できないわけじゃないっすけど、健康な人がいるならそっちだ」
「ああ。なんかよく寝てる感じだな。顔色もいい」
「フィルちゃん、精神的な疲労だそうだから。栄養剤も投与されてるけど健康状態良好とか言われてたな」
俺が何も言わなくても事情を知っている様子だ。税関事務所、国の機関だもんな。そうだろうよ。
そして乗ってきた移動車に賃金を払おうとしたら受け取らずに去っていった。いいけどな、別に。
(俺達のバイト代より、子タヌキ護衛費用の方が高くないか? 何人揃えてたんだよ)
考えると怖すぎる。全ては監視されているのか。どこまで目をつけられた、アレナフィル。
フェリルドとアレナフィル親子が使っている寝室に行って寝かせたネトシル少尉がそこで手を止めた。
「クラセン殿。こういう場合、侍女を呼んで着替えさせるべきでしょうか」
「いや、それだと病人みたいだからそのままでいいと思うよ。深い眠りだけどすぐに目覚めるってお医者さんも言ってたし、ほっとけば目覚めるんじゃないかな。ま、一人で目覚めるのは寂しいだろうから、俺はフェリルのベッドで寝かせてもらう。さすがに初めての職場は心が疲れた」
俺はそう言ってフェリルドの方のベッドに入ってひと眠りすることにした。
慣れた職場と違い、初めての場所は気が張るのだ。失敗できない。
「かまわねえけど、少しあっち側で寝てくださいよ、クラセン先生。アレナフィルお嬢さんだって目覚めた時、いい男が隣のベッドに座って見守ってくれてたらきゅんってくるって思わないっすか?」
「その煩悩に満ちた思考に敬意を表していいことを教えてあげよう。フィルちゃんが目覚めるのは暮1時頃だ。その頃に目覚ましコーヒーでも持ってきてくれ。それじゃおやすみ」
寝室の扉を開けっぱなしで二人が出ていったのは、起きる頃に来ればいいと判断したからだろう。
そして俺がコーヒーの香りで意識を浮上した時、ベッドの脇には二人の士官が座り、一人は俺の顔の斜め上にトレイを片手で維持し、もう片方の手でパタパタと香りを俺の方に向けていた。
なんだかなと思って起きようとしたら、ネトシル少尉の声が室内に響く。
「目が覚めたかい、アレナフィルちゃん。無理に起き上がらなくていい。初めてのバイトで頑張りすぎちゃったみたいだね」
「リオンお兄さん。・・・後ろに死体があります」
「ああ。それはクラセン殿だ。彼も疲れたとか言って、君についている筈が俺に任せて寝てしまってね」
誰が死体だ、クソガキ。
そしてアレナフィルにきゅんっとしてもらいそこねたオーバリ中尉は、軽く肩をすくめたかと思うとトレイを小机の上に置いた。
俺の目に映る彼の後ろ姿的に、恐らくアレナフィルの額に手でも当てたのだろう。
「やっぱり発熱はしてねえか。お医者さんも、張りきりすぎて疲れたんだろうって言ってたってよ。アレナフィルお嬢さん、どうする? ボスに連絡取るんなら取れるが」
「あ、大丈夫です。なんか気が抜けたら、・・・あれ? 私、どうやって帰ってきたんでしょう」
「流し営業のタクシーで戻ってきたんだ。クラセンさんに呼ばれていったら、くかくか寝てるだけって・・・。ボスがいなくなって寂しいならちゃんと寂しいって言えよ、お嬢さん。ボスだってお嬢さんが何も言わねえからそんままにしてっけど、まだ子供なんだ。父親と一緒にいたいんだって言えばどうにでもするぜ。あの人、そん気になりゃあどうにでもできんだからよ」
「・・・ありがとうございます、ヴェインお兄さん。だけどホントに、・・・初めてのバイトで気が張ってたみたいです」
精神的な疲労というのでフェリルドの不在を考慮したのか。
俺は助け舟を出してやるかと、上半身を起こした。
「ふわぁあ、・・・おお、大丈夫か、フィルちゃん? 頭は打ってなかったし、単なる疲労だろうって言われたが」
「あ、・・・うん。なんか頑張りすぎた・・・かも?」
「そっか。じゃ、夕飯はどうすっかな。ディナーボックス買ってこようかって言ってくれてたんだが、食べにいくかい? いや、疲れてんなら買ってきてもらった方がいいか。俺も子供の体力を考えてなかったな、悪い」
俺はベッドから降りてアレナフィルのベッドの脇に立った。二人の士官からアレナフィルの表情を見にくくする為だ。アレナフィルの頭を撫でる俺の手が、更に彼女の顔を隠すだろう。
「レン兄様・・・」
「ん? どうした? 何だ、泣きそうな顔して、体が辛いのか? ん? まあ、かなり書類も扱ってたもんな」
俺だって目を閉じながら色々と考えていたのだ。
彼女の性格からして、あの淡い金髪に薄い緑の瞳をした青年が、お気に入り小説の主人公にそっくりだったというオチだとか、父親とは違うタイプなのに好みだったとか。
だけどあの時、アレナフィルの表情は抜け落ちていた。
なるべく穏やかに優しく語りかけながら、俺は、アレナフィルは本当に張り切りすぎただけなのだという流れに持って行こうと努力するつもりだった。
それなのに。
「仕方がない。私と駆け落ちしましょう」
「・・・は?」
俺に感謝して話を合わせてくる筈の小娘はどこまでも自分勝手だった。
参ったな。俺ってば思ったより疲れが取れていないかもしれん。
外国語を喋りすぎてサルートス語の認識能力が落ちたようだ。
「それしかないっ。ここは私と駆け落ちして、誰も知らない所へ行くのですっ」
「はああっ!? 俺には可愛い妻がもういるんだぞっ。なんでお前なんぞと駆け落ちしなきゃならねえんだっ」
既に扉を開けっぱなしのこの部屋の会話は、あちらも開けっぱなしの扉によってダイニング・キッチンルームにまで筒抜けだ。
(素行調査ばかりか健康状態まで完全チェックっつーぐらいに未来の妃候補となってる奴になんで俺の人生潰されなきゃならねえんだよっ)
俺は自分が始末される未来を恐れて回れ右しようとした。そんな俺の腰に両手をぎゅっと回して縋りついてくるアホがいる。
「大丈夫っ。ティナ姉様も一緒に連れて行きましょうっ。そして三人でひっそりと幸せに暮らすのですっ」
「そんなのを駆け落ちとは言わんわっ」
「だって、レン兄様をおうちに帰すわけにはいかないのぉーっ」
「まだ帰らねえだろっ」
駆け落ちの定義も理解していない愚か者を引き剥がそうと、玉蜀黍の黄熟色の頭を両手で押しのけようとした俺だったが、そんな俺達を見かねたらしいネトシル少尉が、ひょいっとアレナフィルの腰を掴んで持ち上げた。
位置が変わったせいで緩んだ両手の隙を見逃さずに俺が離れれば、ネトシル少尉がアレナフィルを抱っこしながら困った顔で話しかける。
「よく分からんが、まだ寝ぼけてるのかもな。ほら、アレナフィルちゃん。駆け落ちしなくても旅行ならどこにでも連れてってあげるさ。何より駆け落ちというのは結婚したい相手とするものだよ。クラセン殿と結婚したいのかい?」
ずばりと尋ねたネトシル少尉に対する答えによっては、俺はまさに命の危機に直面する事態だ。現在、アレナフィルを結婚相手として考慮している青年が、この302号室には三人もいる。
そして、恐らくはアレナフィルの健康や精神状態に問題があるようならば引き取るつもりで来たのだろう。小さかったがアレンルードの声を夢うつつに聞いた。
「それはないけど。レン兄様、いい人だけど結婚したら最悪」
「おいコラ待てや、クソガキ。俺のアリアティナが最悪な環境にあるとでも言うのか、オラ」
「レン兄様、胸に手を当てて考えるべき。姉様は、レン兄様の卑怯な罠に落ちた哀れな犠牲の乙女っ」
ネトシル少尉に抱っこされている状態ならば安全だと思ったのか。
アレナフィルはびしっと俺に対して言い切った。
「いい根性だ。フェリルにはちゃんと、お前が一人で酒をかっくらっていた結果がアレだと言っておいてやる」
今度ほっぺたにくるくる模様をピンクのペンでいたずら書きしてやると、俺はこっそり決意する。
俺に対する殺気は消えたと信じたいが、俺の名誉が汚されたのだ。誰が何と言おうが、俺はアリアティナに惚れられて結婚してやったのである。罠になどかけていない。
「レン兄様、やっぱり世界で一番素敵な人。姉様、きっと幸せ。だってレン兄様と結婚できたんだもの。今頃はレン兄様の為、体の隅々まで綺麗にお手入れしている最中だと思うの。好きな人の前では一番綺麗な自分でいたいのが女だもの」
「けっ。最初から素直にそう言っとけばいいんだよ」
どちらが偉いのかを教えこんでやったら、アレナフィルが不満そうに頬を膨らませた。
ネトシル少尉がそんな頬をツンツンと指先で撫でている。
「なんだ、びっくりしたよ。そんなの駆け落ちと言わないよ、アレナフィルちゃん」
「男と女の逃避行は駆け落ちと一般的に言うのでは?」
きっとアレナフィル辞典では、暴漢から逃げる男女も駆け落ちしていることになるのだろう。
「何から逃げるんだい?」
「・・・夜空の星が私に囁くのです。きっとこのままだと不幸になるよって。天からのお告げが私にあったのです」
お前は天からのお告げがあれば、俺の幸せと社会的生命を破壊するのか。
たかがバイトにすら護衛をつけられている程に囲われていて、誰かと駆け落ちなんぞ本気でできると思っているのか。
「あまり真面目に取り合うもんじゃないっすよ、ネトシル少尉。要はアレナフィルお嬢さん、寝ぼけてただけっしょ。子供だから」
まるで夢見る狂信者のようなことを言いながら、そっと両手を組み合わせて目を伏せるアレナフィルに対し、二人の士官そして俺は生ぬるい視線を向けた。そのことに本人は気づいていない。
(駆けつけた双子の兄に感動して抱きつくとかはなさそうだな。ルード君の、心配していたがゆえの怒りが見なくても分かるぞ、おい。せめて目覚めた時、フェリルやルード君に会いたいと泣きごとの一つでも言ってみせればよかったものを)
かすかな物音に、恐らくアレンルード達が帰ったのだろうなと、俺は察した。
ウェスギニー家の跡取り息子は、あれで妹からの愛情に対してプライドが高い。
― ◇ – ★ – ◇ ―
アレナフィルが作った夏野菜の冷製スープと、四階の士官達が買ってきたディナーボックスで夕食にした俺達だが、通常のディナーボックスが恥じ入って物陰に隠れそうなぐらいに豪勢なディナーボックスだった。
「おいっしーぃっ。うわぁ、このちっちゃなパンもフライもとってもとっても美味しいっ。爽やかな香りが鼻にまで吹き抜けていく。オイルに何を漬けこんだんだろう。なんて素敵なお料理っ」
「そうか。食べきれない分は残していいから食べられるだけ食べろ」
たしかに美味だが、20代士官達の食欲に合わせて詰められたディナーボックスは俺とアレナフィルにとって量が多すぎた。
こんなのどう考えても売ってないだろ。高級レストランの特別ディナーボックスか? それとも・・・、いや、考えるまい。
「そんなっ。ここで残したら負けてしまうっ」
「何の勝負だ、何の」
呆れ果てているフォリ中尉が見慣れているのは、ついばむ程度にしか食べない貴族令嬢達だ。軍人に張り合って同じだけ食べようとする馬鹿令嬢はまずいなかっただろう。
全部の味を制覇しなくてはと変な闘志を燃やしているお子様のボックスから勝手に摘まんでいるネトシル少尉はそのあたりをよく見ているようだ。味を噛んで覚えようとするアレナフィルに合わせて、同じ味のものをぱくぱくと摘まんで量を減らしてあげている。
「なんか母カルガモと子アヒルって感じっすね」
「それを言うなら母ダチョウと子カルガモじゃないか?」
オーバリ中尉とフォリ中尉の感想をよそに、俺は察していた。ネトシル少尉は「可愛がることができる女の子、ゲットした!」なのだと。
俺もアレナフィルを見せられた時には、もうはまったものだ。
だって小さくておしゃまで予測つかない動きをする女の子っていう生き物をどんなに可愛がっても嫌がられない。世界から俺へのご褒美だろ。
これがよその女の子を可愛がろうとしたら変質者確定だ。かといって母親に要求したところで叶えてもらえない願いはある。
実際、小さなアレナフィルにはまった際に言おうかと思ったものだが、
「もう年齢的に無理かもしれないが、可愛い女の子を可愛がりたいから妹を産んでくれ」
「誰が育てるの」
「勿論、それは両親だ。俺はただ、たまに可愛く懐く姿を見て頭を撫でたいだけで、日頃の世話をしたいわけじゃない。だからたまにしか姿を見せない兄を大好きな子にしといてくれ。ああ、他の奴にも懐くってのは論外で。誰彼構わず懐くのはむかつく」
といった感じの脳内シミュレーションによって、発言を取りやめた。
俺は自分の首を絞める愚か者ではない。
それこそ反対に母親から、
「そんな都合のいい娘が存在すると思うなら、自分の奥さんに産んでもらいなさい。それより結婚はまだなの。お付き合いしている人はいないの。いつになったら孫ができるの。何をやってるの」
と、まくし立てられたであろうことは間違いなかった。
結婚した今も、俺とアリアティナはあえてまだ子供を作らずにいるが、それでうるさいのがうちの母だ。だから俺も妻をなるべく母に会わせないようにしている。俺ではなく妻を責めるから厄介なのだ。
そういう意味でアレナフィルは俺にとって最高の妹だった。可愛らしく甘えてくるし、よその子だから世話とか考えなくていいし、本の整理もしておいてくれるし、俺の食事の面倒までみてくれた。
その中身を打ち明けられてからは溺愛する気も失せたが、面白い友人を得ることができたからそれでいい。
「さっきまで熟睡してていきなりドカ食いして大丈夫なんだろうな、フィルちゃん。食べすぎの薬なんて多分ここにないぞ」
「だーいじょーぶ。ご飯が私に食べてって言ってる」
大切なことを教えてやろう。食べ物は何も考えていない。ただ存在するだけだ。
だが、俺は何も言わなかった。
代わりに濃い紫の髪をしたメラノ少尉が、赤い瞳をやや眇めるようにしてアレナフィルに声をかける。
「本当に大丈夫ですか、アレルちゃん。勤労はいいことですが、子供が無理に働くのはどうかと思いますよ」
「えっと大丈夫です、先生。いいところを見せようと頑張りすぎちゃったみたいで・・・。えへ、だけどお仕事、面白かったです」
「そうですか。だけどもう明日はやめておいたらどうですか」
気持ちは分からないでもない。いきなり倒れたと聞けば、よほどそのバイトが負担だったのだろうと思うだろう。
消極的ながらもバイトそのものを辞めさせて子供らしく遊んですごしたらどうかという思いが、メラノ少尉の表情に表れていた。
だが、アレナフィルの反応は「へ?」といったもので、バイト継続のやる気満々だ。
「アレルちゃん、何でも血迷ってクラセン殿に駆け落ちを迫ったそうですね。働きたくなくて、だからお嫁さんになれば働かなくてもいいと思ったのではありませんか? そういうことならいい結婚相手を紹介もできると思うのですよ。大丈夫。見栄えもいいですし、性格もいいですよ」
「あのぅ、先生。私、まだ子供だから結婚は考えていないのです」
ドルトリ中尉が紺色の瞳に探るようなものを滲ませながら、柔らかな水色の髪を掻き上げてそんなことを言っている。
アレナフィルに結婚相手を紹介するとは勇気あることだ。余程の実力者でない限り、その男の命運は紹介後に尽きるだろう。
そうとも知らないアレナフィルは、年齢的に至極当然な答えを返した。
「ならばどうして駆け落ちするんです?」
「女の子は、たまに遠くの知らない町を夢見てしまうことがあるんです。遠くに自分の幸せが待っているような、そんな気がして、風と共に去っていきたくなる・・・。少女の時代はとても儚くて傷つきやすい、触れたら壊れてしまうひとときの幻なのです」
アレナフィル辞典によると、駆け落ちとは逃走の意味だ。こいつは、家族への言い訳を俺に任せる気で連れて行こうというただの卑怯者だ。
「儚い幻ですか。倒れたと聞いて、食欲があるのか心配していましたが、もりもり食べてましたよね、アレルちゃん」
「働くとお腹が空くんです。ここのお料理、とても美味しかったです」
「そうっすね。食べられる内は大丈夫っすよ。アレナフィルお嬢さんもたっぷり食べて大きくならないと」
ドルトリ中尉の皮肉は、アレナフィルに全く通じていなかった。オーバリ中尉もそんなものだ。
分からないでもない。
ある筈もないことだが、俺とてフォリ中尉の側に配属されたなら、彼に近づく女性にはどこに出しても恥ずかしくない貴婦人や令嬢としてのマナー、そして思慮深い行動を求めただろう。
それでなくては、自分達が叱責される。
「まあ、いい。俺達がいたら休めないだろう。眠くないかもしれないが、体を横にしておくだけでも違うものだ。今日はゆっくり休め」
「はい、ガルディお兄様。だけど眠くないんですよね。もう朝起きたって気分で」
「それでも横になってたら心も休まるものさ。だけど少しでも具合が悪くなったら夜中でもいいから起こしてくれ。俺はそういうのも慣れている。いいね、アレナフィルちゃん」
「はい、リオンお兄さん。えへ、おやすみなさい」
「じゃあ俺、先にシャワールーム使わせてもらいます。後がつかえてると早めにすましちゃうもんだ。アレナフィルお嬢さん、低めの湯でのんびり入るといいですよ。どうせまだ眠くないっしょ」
「全然眠くないんですよ、これがまた。お星さまを数えたら眠くなるかなぁ」
そうして皆がいなくなった後、オーバリ中尉がシャワーを浴びている間に、俺とアレナフィルは屋上に行った。
洗濯物を干す為の屋上だが、屋外用ベンチやテーブルも置かれているので星を眺めるのにはぴったりだ。
「ああ。パピーとここでお星さまを眺めた時にはロマンチックにドキドキさせてくれたのに、レン兄様と一緒だとなんだか取り調べ気分」
「いや、その父親こそがお前の敵だと気づけ。娘の指先にキスして甘く囁きながらエスコートしてくる父親見てて、それより口説き下手な奴にその気になるか? あいつは娘に恋人を作らせる気がない自己満足男だ」
「いやん、パピーったらフィルのこと好きすぎて困っちゃう。フィル、浮気しないのにぃ」
「喜ぶな」
心なんて体に引きずられるものだ。
それなのにアレナフィルが同世代に目を向けずにいるのは、本人の精神年齢もあるだろうが、俺はフェリルドの行動も大きく関与しているだろうと思っていた。留守が多いとはいえ、同じ家に住む保護者の気持ちは伝わるものだ。
「だってぇ。これはアレでしょ。俺よりいい男じゃないと許さんって奴」
そうだろう。フェリルドは変なところで不器用だ。あれで弟のことを大事にしているつもりだなんて、肝心の弟以外信じないだろう。
今だって誰が娘を一番幸せにするかを考えているに違いない。普通なら一番身分や地位の高い相手を選ぶだろうが、フェリルドは娘の幸せという、あやふやなものを見極めようとしている。
俺は昼寝用のリクライニングチェアに寝そべるのではなく腰かけた状態で、アレナフィルを見つめた。
「で? お前さんがあんな書類程度で疲れるわけねえよな。あのファレンディア人か?」
「・・・うん。私、まだこれが現実って分かってなかったんだね。それが分かった気がする。本当はさ、手紙を出しても、そんな人はいなかったって言われるかもしれないって、これはまだ妄想なのかもしれないって、そんな気持ちもあったんだ」
やはりそうだったかと、俺は思った。倒れる前、アレナフィルはあの外国人を見ていたからだ。
恐らく知り合いだったのだろう。それは俺にとって、アレナフィルがファレンディアで生きてきた人生がどうのこうのといったものを裏付ける一つの要因になるものだった。
いや、思いこみという線を俺達はまだ捨ててはいない。一人の証言だけを盲信することなど、俺もフェリルドもしないのだ。それでもアレナフィルの言葉を信じている。そうでなくてはおかしすぎるからだ。二重人格でも説明がつかない。
この矛盾と葛藤を、俺達は保留しながら見守ってきた。
「誰だってそうだろ。現実を認識するのは、実感があってこそだ。記憶だけで実体験とできる能力を持つ者がいないとは言わん。だが、一般的ではない」
記憶というものがいかにあやふやなものか、それは研究でも出ている。人は記憶を思いこみで改竄してしまう生き物だ。
それは脳による救済とも言われている。
「うん。・・・あのね、あの人、弟なの。まさか彼がわざわざあんな手紙でこっちに来るだなんて思わなかった。レンさん、彼、通訳の人、探してたでしょ? 恐らく貨物船の方が早く到着するってんで、それに乗ってきたんだと思う。あまり旅客船の行き来ってないもん。多分、通訳を雇ったらレンさんちに行く。恐らく私への手紙を書いたアレナフィルを探して」
「弟なんだろ? なんでそれがまずいんだ? 会えばいいじゃないか。名乗り合わなくても、お前さんにとっては懐かしい人だろうが」
数ヶ月に一度のファレンディア国からの旅客船は数日後に到着予定だった筈だ。サルートス王国からファレンディア国に出発する便も数ヶ月に一度で、それはその到着した便がこちらで点検や補給などを終えてからとなる。
その旅客船は、あまりにも人気がない乗客率なので、貨物も運ぶことで採算を取っているらしい。
だから貨物船に乗せてきてもらったのだろうと判断したアレナフィルは正しい。そして弟を見て感動のあまり泣き出すならともかく、気を失ったアレナフィルは何かが間違っている。
「弟だけど、ちょっとおかしいんだよ。あのさ、私、結婚する気なかったって言ってたじゃない?」
「ああ。言ってたな」
美人だったと自称するのは、本人なりの見栄かとも思っていたが、その割には恋人や結婚にも興味がなかったらしい。
「それってあの子が原因なんだよ。何とか離れて暮らしてはいたんだけど、お付き合いとか結婚とかしようものなら何をされるか分からなくて・・・。父に手紙が届くと思ってたのに、まさかあの子が受け取ったなんて。・・・もう、あの家のことは諦めるからいい。多分、疑ってるんだと思う。それこそ自分の所に仕掛けられたスパイだと思って探りにきたんだよ」
「・・・なあ。お前さんち、一体何をやってたんだ?」
あそこまで家族愛を炸裂させているアレナフィルが、どうして弟にここまで恐れを抱いているのかが俺には分からない。
それを言うのなら今の双子の兄だって、アレナフィルが本気で恋だの何だのを言い出したなら荒れそうなものだ。
そしてたかが「亡くなった家族の古い友人の娘が、旅行の際には訪問していいかと尋ねてきた手紙でスパイを疑う」ってどんな家なんだと、俺は言いたい。
「だから小さな建物でも色々な技術があるって言ったじゃない。私はそーゆーの、あまりタッチしてなかったからよく知らないけど、あの子が出てきたってことは、姉の名前を使って入りこむ手段だと思ったんじゃないかって思うの。もう、見つかっても日記は既に汚して捨てちゃったし、旅行に行く気もないって言おう。見つかったらそう言って終わらせよう? だって、そうじゃないと何するか分かんない」
「・・・・・・お前さんの弟、実はかなりヤバイ奴なのか?」
父親より弟が危険だということなのか? だが、そんなこと今まで言っていなかった。
何よりあの体つきはフェリルドやあの士官達と違い、鍛えていないのが丸わかりだ。そんな奴が危険だとしたら、それは思考か?
「私に理解できない程度には変。今、レンさんちに行っても無人だし、それでどうにかなると思うんだけど、普通、手紙をもらったら手紙を返すよねっ? わざわざあんな手紙に、海を越えて乗りこんでこないよねっ? おかしいんだよ、ホント」
「まあ、たしかにあの手紙でわざわざ外国まで行こうと思う奴はいないわな。だがなあ、うちに来られてしまったら、まさかお宅を紹介しないわけにはいかんぞ? 先に手紙を書いたのはお前さんだ」
「その時は諦めて紹介してくれていいよ。だけど名乗り合う気はないし、そこはもう話を合わせてよ。お願い。うまく帰国してもらおう。父はいいけど、あの子は駄目。今の私ならあの子の趣味じゃないからいいかもしれないけど、どっちにしても駄目」
あの子の趣味って何だ? アレナフィルの容姿は、庇護欲を誘う可愛さという意味で十分に男の劣情を誘う。一体、姉として弟と何があったのか。
意味が分からない。
「あの男の趣味ってのは何なんだ?」
「茄子のような黒に近い青紫の髪、そしてバラ色の瞳をした姉に、子供の頃から『大きくなったら結婚して』を言い続け、姉の学生時代の全ての男女交際を破壊し、父親と母親に金銭的なメリットを姉が提示することで何とか弟を引き剝がすことができたという過去を持つ少年が成人したのがあの姿ってことだよ。今の私は全く違う容姿だからいいよ? だけど、執着していた姉の思い出を汚されたとか思ったら、何をするか分かんない」
「・・・後学の為に聞こう。何をやったんだ?」
「分かんない。それでもあの頃は姉に嫌われることだけは、目の前ではやらなかったから、まだどうにかなったけど、今はもうその姉はいないんだよ。何やるか分かんないし、何を考えてるかも分かんない。だって見たことないんだもん。だけど全ての人間関係は壊されたかな。可愛らしい弟を装って、だけど食いついたら離れないんだよ」
つまり理性が乏しくなったアレンルードが、更に実行能力を持ったようなものか。
貴族として妹のマイナスにならないと思い、アレンルードは今のアレナフィルの学校生活を守っている。内心では自分だけ見ていればいいのにと思っていることは間違いないだろう。
それでも妹の幸せの為、いい婚約者を見つける大切さをあの少年は分かっていた。
「オッケー。分かった。ならばあくまでフィルちゃんは将来の可愛い夢として母が昔訪れた外国に行ってみたいと思っていただけで、別にその家族が不快に思うならば取り下げる程度の淡い夢だった。でもって、まさか手紙を受け取った家族がわざわざやってくるとは思わなかったから、面会など言われようものならびびってしまって会えない。そういうことにしよう。・・・ま、そういうことならここにいてよかったってことだ。いくら何でも長期休暇が終わるまで滞在はしないだろう」
「そうだね。うん。・・・ごめん、レンさん。あんだけ協力してもらったのに」
「気にすんな。俺達の仲じゃないか。家族だからって誰もがおてて繋いでラッタラッタ仲良くやれてるわけじゃないさ。ま、うまくやってこうぜ。な、相棒」
「うんっ」
しょんぼりとするアレナフィルに俺は明るく笑いかける。
故郷を懐かしむ気持ちは当たり前だ。だからファレンディアの物を手に入れたいと思う気持ちに寄り添い、フェリルドは俺を通じてアレナフィルがそういった商品を手に入れられるように手配していた。
落ちこませたいわけじゃない。何より弟があの若さとなると・・・。
「それよりさぁ、いい製品出してるからって、ファレンディアの書類、ひどくなかった?」
「だよなあ。遠慮なくそこんとこ、突いてやろうぜ。いやみったらしくな」
「ねーっ」
気分を無理矢理浮上させたらしいアレナフィルが、ぷんぷんしながら気になっていたらしいことを言い始める。
その正体が何だろうが、俺はアレナフィルを気に入っていた。
「うふふ。バイト代、あげてくれるかなぁ」
「じゃねえの? 母国語で毒づきやがってた奴らも遠慮なく黙らせてやったしよ」
「うん、正義の味方ってお腹空くよね」
「程々に、それでいて馬鹿にされん程度にやろうじゃないか」
アレナフィルにバイトなどさせずともという気配が濃厚な若僧共だが、かえってバイトをさせていた方が安全かもしれない。
俺はそう思った。
仕事をしていればアレナフィルが思い付きで変な行動に出ることもない。思い直して弟に接触されたなら、俺の保護など簡単にすり抜けられてしまう。
世話焼きなアレナフィル。それはかつて弟を見ていたからじゃないのか?
「綺麗な夜空だね」
「ああ。明日はちょっとスタミナつくのが食べたいな。だが、暑いと食欲も失せがちっつーのが」
「外国語でやり合うのって体力いるもんねぇ。あっさりめだけど栄養価ばっちりなの用意したげる」
「頼む」
しばらくは食べたい物などリクエストして気を逸らしておこう。
どれ程に姉に対する異常ラブな弟だろうが、アレナフィルは情にもろい。明るくふるまっていても、気にならない筈がなかった。




