40 グラスフォリオンはウェスギニー家を考える
友人達からの「お子様の警備は疲れるだろ? 長期休暇中は久しぶりに気晴らししようぜ」な誘いを次の機会に回し、やってきた貿易都市サンリラだが、その判断は間違っていなかったと言えるだろう。
あいつらを信じていないわけじゃないが、探りを入れられるのは分かっていた。
交際というものはお互いの情報交換や根回しの融通が必要不可欠で、今、エインレイド王子の学友について洩らすわけにはいかない。そして友人達も俺と会ってしまえば、やはり俺からフレッシュな情報を聞き出せなかったことで上司や身内に責められるわけだ。なかなか世知辛い人間関係だよ。
俺の名前はネトシル・ファミアレ・グラスフォリオン。夏の長期休暇にあたり、このサンリラにあるアパートメントまで皆を案内してきた。
到着したその足で夕食を外ですませ、買い物をし、そして今、302号室でアレナフィルちゃんが酒に色々なものをブレンドする様子を見ている。
アレナフィルちゃんはとても可愛い。
自分で自分の攻略法を教えてくれちゃう嘘のヘタクソな小さい女神様だ。
「オレンジを絞って氷とウォッカとシロップをシェイクシェイクシェイク。グラスに注いだらかなり上から生姜をさっとすりおろして振りかけることでピリッとした刺激がほんのり出ます。大人のお酒。だけどこれは女の人を油断させる罠っ。強いお酒が隠れていることを隠す為のオレンジのフレッシュな香りと酸味っ、ジンジャーの刺激っ。そして甘さで飲みやすさをごまかすシロップが、一気に女の人を酔わせる目的のお酒を、その赤い唇に侵入させるのですっ」
最初は普通に説明していたが、ヒートアップしていく内にジャジャーンとばかりに糾弾姿勢に入っていた。
アレナフィルちゃん、そんな現場でも見たことあるの?
「へぇ。だけど飲みやすいっすけどね。あ、俺、ザルなんでお構いなく。結構きつくて嫌がられるウォッカだけど、こうすりゃ飲みやすいか。ま、酔わされたぐらいで文句言うなら脈無しだって」
「リオンお兄さん。そこに女の敵がいます」
「そうだね。近づいちゃ駄目だよ、アレナフィルちゃん」
「失礼な。俺はちゃんと相手を選ぶって。お子様にゃ用はない。大きくなったら出直してくださいよ」
さっとすりおろした生姜がグラスのあちこちにもついているが、そういう見苦しいのが嫌ならば先に混ぜた方がいいらしい。だが、こういう振りかけ方が香りを強く引き出すのだとか。
見た目と味なら味を取る。それがアレナフィルちゃんのポリシーらしい。
深く濃い群青色の前髪で諦めたような表情を隠したドネリア少尉が、飛び散った生姜をグラスの外側やテーブルなどから拭き取っていた。
「そしてヴェインお兄さんは女の人を酔わせてしまう気ですねっ。だからこーゆーのを出されたら警戒しなくてはならないのですっ。口当たりがさっぱりでつい飲みすぎてしまい、騙されるのは純粋な女の子っ。こーゆーのを出してくる男は遊び人ですっ」
めっちゃ決めつけてるアレナフィルちゃん。その通りだが、警戒するも何もこの場に女の子はアレナフィルちゃん一人だ。
なるほど。アレナフィルちゃんには出してはいけない酒なんだな。いや、出さねえよ。
傾向と対策の為、俺はアレナフィルちゃんが作る酒の分量と彼女の説明をメモしているが、感心したのはその為に自分用計量グッズを持っているところだ。常に同じ味を作る為らしいが、アレナフィルちゃんはかなりこだわりのある子だった。
デートの時に勧めてほしいものまでペラペラ喋っている。おしゃれでアルコール分は低いものがいいらしい。ついでにフレッシュな果物を使っていてほしいそうだ。
自分で頼んでくれ、会計は持つ。その前に種の印が出ていない子にお酒を出す店はない。
「アレナフィルちゃん。そんなお酒を俺達に出してくるのは何故かな? ほら、寮監してるお兄さん達の目が冷たくなってるよ」
並んだグラスの上方で生姜を軽くすりおろして散らばせるやり方は、たしかにそのフレッシュな香りが周囲にも広がって、悪くはなかった。だが、味としてもガツンとくる。
お子さまの舌にはピリピリしすぎて合わないと思うのだが、何故これを作ったのか。そりゃ本人は飲まないが。
「大丈夫。リオンお兄さんが潰れたら、ヴェインお兄さんとしっぽり二人きりの夜っ、熱くめくるめく夜をお過ごしぶみゃっ、・・・・・・いたっ。ひどいですっ、ガルディお兄様っ」
俺が止める前にフォリ中尉の親指と人差し指が、アレナフィルちゃんの頬をぐいっと挟んですぐに解放した。
すりすりと自分の手で頬を撫でているアレナフィルちゃんは涙目である。
「どこで覚えてきたんだ、そんなセリフ」
「えっと、・・・たしか『背徳の夜は夢と消えて』の一巻っ。そこで偶然同じ部屋に泊まった二人は・・・っ、痛いっ、頭ぐりぐりはいけないですっ」
学生時代、フォリ中尉は品行方正で知られていた。思えば苦労人な人生を歩んでいる人だ。
「何を子供のくせに読んでるんだ、何をっ」
「だってっ。普段は全く違う所属、育った環境も違う二人がそれで反発しながらも、その一夜を境に・・・、やぁんっ、リオンお兄さんっ、ガルディお兄様がいじめぶふぅっ」
フォリ中尉が指先でアレナフィルちゃんのほっぺたをぐにゅっと広げているが、俺に助けを求めるってとこも何もかもが可愛すぎてキスしたくなるからやめたげようよ。
「まあまあ。そう怒らなくてもいいじゃありませんか」
「怒れっ。お前のことなんだぞっ」
「いや、だって別に俺達、同じ部屋じゃないですし」
「そっすね。俺、301譲ってもらいましたから」
真面目に聞いてりゃ腹も立つだろうが、オーバリ中尉も平然としたものだ。
そこはエインレイド王子を清く正しく美しく育てたいフォリ中尉との温度差だろう。アレナフィルちゃんはエインレイド王子と仲がいい。現在、一番の親友だ。
そしてハニートラップを仕掛けられるにせよ、未遂で防がれては報告だけ受けとるフォリ中尉と、自力でそれを潜り抜けてきた俺とオーバリ中尉とでは感覚が違った。
アレナフィルちゃんみたいに、
「これは酔いやすくてお持ち帰りされやすいお酒レシピなのですっ」
などと先に教えてくれるハニートラップなど存在しない。勝手に薬が混ぜられているか、嗅がされる。
つまり実行に移されることのない口先だけのお喋りなど何の害もないのだ。
うん、もう可愛らしすぎて本気で俺がアレナフィルちゃんを持ち帰りたい。ポケットに仕舞い仕舞いする手はないものか。
肝心のアレナフィルちゃんは、オレンジの絞り汁にちょっぴりすりおろし生姜、ヨーグルトとアイスクリームにハニーシロップをミキサーにかけたものを自分用に作っていた。勿論、お酒は入っていない。
(それにカラ元気ってのもあるんだよな。やっぱり元気ないのをごまかしてる)
明るく喋ることで自分の気を紛らわせているようなところがアレナフィルちゃんにはある。
レミジェス殿によると夜にはウェスギニー大佐もサンリラに戻ってくるということだったし、戻りが遅いようならばレミジェス殿が来ると言っていた。
せめて寂しい思いを忘れられるようにと、折角だからアレナフィルちゃんに酒の混ぜ方やミキシングするやり方を教わっていると、なんだかじっと俺の手を見てくる。
「いいなぁ。やっぱり大きな手」
「いくらでも使ってくれていいよ。ごつごつしてるだけの手だけどね」
「リオンお兄さんの手、長くてセクシーですよ。ねー、レン兄様」
「生憎と俺は小さくて握り締められるサイズの柔らかな手に色気を求める男なんでね」
「えー。大人は、小さなおてての子に手を出しちゃいけないんですよ」
「ちょっと待ってくれ。俺はそこまでの小ささは求めてない」
妻帯者をいじめているアレナフィルちゃんも、これはこれで可愛い。うん、良し。
酒なんて店で飲むものだと思っていたし、自宅や友人宅で飲む時はせいぜい水で割った程度だ。こういった様々なものを混ぜ合わせるような酒を自宅で飲むのはあまり推奨されない。
あまりにも酒好きなのは恥ずべきことだからだ。
だけどアレナフィルちゃんを見ていると、全てにおいて生きていることを楽しみたいんだなと微笑ましい気になる。
男の手などに色気を感じる男はいないだろうが、アレナフィルちゃんがそう思ってくれるなら嬉しく思えるのは何故だろう。
「フィルちゃん。そこのリオン君にかなり懐いてないかい? あんなに可愛がってあげたのにお兄さんは悲しいよ」
「だってリオンお兄さん、優しい人。何より職業倫理、立派」
「職業倫理ね。フィルちゃんらしいな」
クラセン講師の言葉に、アレナフィルちゃんは頷いた。
「そーなの。やっぱりちょっとにこにこしただけで、
『お前が誘ってきたんだ』
とか言うのはお断りってゆーか、一昨日いらっしゃいってゆーか。リオンお兄さん、子供の激情をいなせる意識、常に持ってる。だから勘違いしない。理性、大事」
「だけど普通は上等学校生がそういった人物評価をしているとは思わない。そこのリオン君の理性が酒でハードル下がっても勘違いしないようなレベルに留めておいた方がいい。平たく言えば、くっつきすぎだ」
さすが父親の親友。
放置しているように見えても、クラセン講師はさっきからアルコールを全く飲んでいない。
「そーなの? だけどフィ・・・私、リオンお兄さんの手を取ってすりすりして、
『ふふ、これからどーだね?』
なんて言ってないし、ほっぺたすりすりして
『若い子の精気はいいわねー』
も言ってないよ?」
「読書傾向がばれるからそれ以上は言わない方がいいと思うな、フィルちゃん」
きょとんとした顔で問いかけるアレナフィルちゃんへの忠告はもう遅かった。寮監業務に就いている士官達の目が険しくなっている。
「心配しなくても未成年の女の子を傷つけるような人間ではないつもりですよ、クラセンさん。たとえ酔っていても、それぐらいで理性を飛ばすようならばとっくに俺は結婚に持ちこまれてます」
「それならいいけどね。気を悪くしたなら申し訳ないが、フィルちゃんは昔から信頼できると思ったらすぐ懐いてしまう子だから、それだけに危なっかしいんだ」
「分かります。俺だってたまに持ち帰りたくなる可愛さですからね。だけど俺は、アレナフィルちゃんが大佐やルード君を恋しがって泣くと分かっていてそんなひどいことはしません。アレナフィルちゃんは大佐と一緒にいる時が一番幸せそうだ」
今、この部屋には独身の貴族令嬢ならば恋人候補として悪くないメンバーが揃った状態だ。
貴族としての教育を受けていないアレナフィルちゃんに、その価値は分からない。
何かと「ルード、好きかも」「ルード、喜びそう」などと双子の兄にも思いを馳せる様子を見ていた俺は、自分だけ楽しんでいることに罪悪感を抱いているのではないかと思っていた。
そしてアレナフィルちゃんはまだまだ親を恋しがる子供なのだ。
俺の口調に、クラセン講師が保護者としての対応をこなしているだけだと理解していることが伝わったのか、表情が少し和らいだ。
「ああ。フィルちゃん、ちょっとおかしいぐらいに父親大好きなんだよ。フィルちゃんの目には、フェリルに対して変なフィルターがかかってる」
「そうですね。あそこまで娘に好かれている父親がいていいのかって思いますよ。俺としてはレミジェス殿の方がよほど気を配ってると思うんですけど」
これでも俺はアレナフィルちゃんを連れ出す時、かなり気を遣っている。
家政婦のヴィーリン夫人にも行き先と帰宅予定時刻を伝え、飲食店の候補を挙げてどこがいいと思うかも相談し、アレナフィルちゃんが喜びそうな雑貨店や文房具店にも連れていく。何故か板金屋を指定された時には目が点になったが。
だが、それらについて常に参考になる情報を寄越してきたのは父親ではなく叔父の方だった。
ウェスギニー大佐はもう少し父親としての自覚を持つべきだ。
「そうだな。彼のことも大好きなんだが、もちょっと身内以外の男の評価も上げるべきだよな。主に俺とか俺とか俺とか俺とか俺とか」
「クラセンさんは十分に守っておいでですよ。俺は、アレナフィルちゃんは微笑んで茶会をこなすような貴族令嬢ではないからうちの研究室に寄越せと先生が啖呵を切った時、心が痺れました。あれでアレナフィルちゃんを正しく見つめ直した者も多かったでしょう」
「・・・・・・リオン君は一番見どころがある。フェリルにもそう伝えておこう」
「ありがとうございます」
そうして俺とクラセン講師は、「あんなソトヅラだけの男がどうしてモテる。それはまだ許せても、年頃の娘は父親をそろそろ嫌いになる頃だろう。それなのにここまで愛されているのは許せん」な意見の一致を見た。
何故俺とクラセン講師だけだったのか。それはフォリ中尉達がアレナフィルちゃんの手元を見ていたからだ。
「魚って面倒なだけだろ。骨も小さいし」
「だからすり身っていうのがあるんですよ」
「病人食だろ。料理ならふんわりと泡立てるもんだ」
「違いますって。ガルディお兄様だって食べたら分かりますよ」
「ちょっと待ってください。先に味見させてくださいよ、アレルちゃん」
「ちょっとアドルフォンお兄様っ。生で食べちゃいけませんっ。焼きあがるまで待ってくださいっ」
肝心のアレナフィルちゃんはおつまみを作りながらコツをフォリ中尉達に説明していたので、俺達の会話を全く聞いていない。
(大佐が到着するまで酒は飲まない、ねえ。かなり自己抑制が効いている人だよな)
酒には依存性があるから友や家族と語り合う時しか飲まないというポリシーのクラセン講師は、アレナフィルちゃんの作った酒に興味を示しながらも飲まずにいた。それは親友の娘を預かっている以上、酔わないようにしているだけではないかと、俺は睨んでいる。
クラセン・ヴェイク・バーレミアス。平民だが、母はヴェイク子爵家の娘だ。親友だからこそ立場の違いに嫉妬心も生まれそうなものだが、実際に再び親しくなったのはどうやらアレナフィルちゃんが言葉と記憶を失ってかららしい。
聞き込み調査によると、幼いアレナフィルちゃんと手を繋いで出かけることもあったようだ。近所では、腹違いの妹ではないかと噂されていた。
それによると、こうだ。
バーレミアスの父であるクラセン家の当主は、若い後妻が女の子、つまりアレナフィルを産んだものの出産が原因で亡くなった。だが、若くもない父親が子育ては難しい。
女の子は母親の兄、つまり伯父であるフェリルドを父親だと信じてそちらで育っている。
しかし腹違いでも兄妹の交流はさせておいた方がいいだろうと、母親の兄であるフェリルドは、アレナフィルをちょくちょく連れてきてバーレミアスを兄と呼ばせているのだ。
恐らくアレナフィルちゃんがウェスギニー大佐をパピーと呼び、同じ年のクラセン講師をレン兄様と呼んでいることから、そういう話になったのだろう。
尚、クラセン講師は近所の人に尋ねられても「友人の娘です」しか言わなかったそうだ。
おかげで、
「感じ悪い」とか、
「愛想がない」とか、
「だからずっと嫁ももらえなかったのよ」とか、
「父親が若い後妻もらって自分は結婚できなかったからってねぇ」とか、色々と言われていた。人格否定もいいところだ。
現在、クラセン講師は結婚しているが、その妻も習得専門学校で講師をしているので、どちらにしても近所づきあいしている余裕はないらしい。
そんなことを思い返していたら、アレナフィルちゃんがみんなにつまみを配り終えて俺の所へ戻ってきた。部屋で静かに飲みたい時の水割りの仕方を教えてくれるそうだ。そのまま飲めばいいんじゃないのと、俺は要らんことは言わない。
「リオンお兄さん。これはですね、こんな風に持ってリズムはシュルルン、フワンって感じで混ぜて音を立てずにすっと引き抜き、こんな感じでこう注ぐと、ほら、大きな手が斜め向かいからだとめっちゃセクシーに見えるんですよ。ねー、アドルフォンお兄様もそう思うでしょう?」
俺に酒の混ぜ方を伝授してくるアレナフィルちゃんはとても可愛いが、君は俺の隣にいる。それなら是非斜め向かいに行ってほしい。
「いや、別に男の手なんてただの手だけど。アレナフィルちゃんの手は可愛いけどね、ネトシル少尉のは普通に作業してるだけにしか見えないな」
「んもう。分かってない」
アレナフィルちゃんのぷんぷんと膨らんだほっぺたをフォリ中尉が指先でぽすっとつついた。
「ぷひゅ」
唇が小さく破裂するついでに、可愛い声が出る。永久に保存しておきたい一瞬だったが、やられた方は憤然としてフォリ中尉を睨もうとした。
それなのに彼はさっと自分のグラスを持ってリビングルームへ行ってしまう。
かすかな玄関からの音に気づいたからだ。
そこへガチャリという音がして、扉が開けられる。
「おとなしく寝ているとは思っていなかったが、だからといってフィル、まさか私は娘がバーメイドをしているとは思ってもみなかったよ」
「違うもんっ。ちゃんと食後のコーヒー、淹れようとしたもんっ。だけどみんな、お酒がいいって言うからっ」
やっと到着したウェスギニー大佐は、どうしてこの部屋に全員が集まっているのかと、口に出さずして初っ端から俺達に問うた。
そして俺に色々と指先の位置や持ち方についてコメントしていたアレナフィルちゃんの行動はとても速かったと言えるだろう。
アレナフィルちゃんは自分のグラスを持って、俺から少し離れた椅子にさっと座り、あくまで「見ていただけですよ」なフリをしようとしたのである。
(アレナフィルちゃん。大佐、見た時点でその状況を記憶していると思うんだが)
父親の所属している部隊を考えれば無駄なことである。オーバリ中尉もまた「愚かなことを」と言わんばかりの顔になっていた。
娘は後で叱るつもりなのか、ウェスギニー大佐がリビングルームの方に移動していたクラセン講師とフォリ中尉に対して問いかける。クラセン講師もフォリ中尉の動きに察したか、すぐに移動していたのだが、なんというか引き際のいい人だ。
「たしかこの部屋は私と娘だけが使うと聞いた覚えがあるのだが」
「あ、フェリル。寝室二つあるし、ベッド二つずつ入ってるから俺もここ泊まるわ。お前、フィルちゃんと一緒の寝室な」
「そうか。だが私はお前が保護者として機能しなかったことが残念だよ」
「別に俺とフィルちゃんが同室でもいいけど」
「そこの窓から飛び降りてみるか?」
リビングルームのソファに座ったウェスギニー大佐は、娘に尋ねるよりも友人に確認した方がいいという判断があったのか。
お茶かコーヒーを淹れようとしたもののテーブルを見渡して諦めたらしいアレナフィルちゃんは、グラスに大きな氷を入れ、ウィスキーを注いでから運んでいった。子供なりに父親の為に作ってみました感が漂っている。
「あのね、お父様。お酒に氷、入れてみたの」
ウェスギニー大佐は、そんなアレナフィルちゃんを自分の膝の上に座らせた。
――― えへっ。フィル、子供だから。お酒には氷を入れるのしか分かんなぁい。
そんな声なき声が聞こえてきそうな甘えっぷりで父親の胸元に頬をすりすりさせている。
俺達には分かった。アレナフィルちゃんは自分がお酒を作っていたことをなかったことにしようとしているのだと。
上官として尋ねられたなら、俺達は正しくありのままを報告しなくてはならない立場である。偽証はできない。
なんという無駄なことをしているのだろう。
うん、仕方ないよ。女神様、まだ小さいから人間世界の上下関係分かってないんだよ。
「ありがとう、フィル。だけどどうしてこの部屋には冷凍庫と冷蔵庫が二つずつあるんだろうな。しかもリビングルームの棚になんであそこまでの酒が並んでるんだ」
「みんなが一台ずつ、お酒専用で運んできたから。炭酸やライムとか、お酒用に入ってるの」
こくこくと自分のロングタンブラーに入っているドリンクを飲んでいるアレナフィルちゃんは、ストローは勿体ないから使わない派だそうだ。
単にコップで自分の表情を隠す為じゃないのか?
「フォリ中尉。酒は自分の部屋で飲むものだと思いませんか?」
「その通りですが、ウェスギニー大佐。こちらとてクラセン殿と鍵の掛けられる部屋で二人きりと言われてしまえば心配にもなります。我々といった護衛がいた方が、アレナフィル嬢の名誉の為にも安心でしょう」
「酒を楽しむ男達八人に囲まれているこの状況に、どんな娘の名誉を見出せというのでしょうね」
言葉を覚えさせる為だろうが、クラセン講師にアレナフィルちゃんを夜まで預けることも多かったと、調査報告書にはあった。
恐らくウェスギニー大佐にとって、彼とアレナフィルちゃんが二人きりでも心配することではないのだろう。だが、年齢が上がるにつれてそれも心配しなくてはいけないような気がするのは俺だけだろうか。
「諦めろ、フェリル。フィルちゃん、みんなの要望聞いて、いろんなカクテル作ってたぞ。俺のは野菜と果物だが。フィルちゃんのこれ、目の疲れが楽になるんだよ」
「レン兄様、おめめ使いすぎ。ずっとご本読んでた。赤いお野菜と緑のお野菜、大事なの」
ずばっと報告してしまうクラセン講師だが、一応はフォローしている。
ウェスギニー大佐は娘が持ってきたグラスの香りを楽しんでから一口飲んだ。少し表情が緩む。
「あのね、それね、ちょっとリンゴの香りがする筈なの。たまにはいいかなって」
「そうだな。少し軽やかで、気分が変わる。帰りに買っていってもいいか。で、フィル。お前が飲んでるのは何かな? ちょっと甘そうな香りがしてるね」
ああ、アレナフィルちゃん。君はやりすぎたのだ。どうして自宅にないもので、父親の好みラインにある蒸留酒を選ぶことができたのか。子供だから分からない路線で行くなら、そこは外しておくべきだったのだよ。
優し気な問いかけに騙されちゃいけない、アレナフィルちゃん。
そんな俺の心の声は届かなかった。
「ミルクシェイク。卵1個にお砂糖2杯、ミルクを加えてシェイクしたら出来上がり。甘そうな香りはバニラペーストをちょっとだけ入れたからなの。お父様も飲む? お酒が入ってる方がいいならブランデー入れて作ったげる」
あ、駄目だ。
アレナフィルちゃんが覚えているレシピ数は賢い限りだが、行動が愚かすぎて見ているのが辛い。
「いや、いいよ。全く、我が家の妖精さんは、どうしてお酒を飲まないのにお酒をブレンドできてしまうんだろうね?」
甘い眼差しで顎を持ち上げられながら問いかけられたアレナフィルちゃんは、やっと己の危機に気づいたらしい。
慌ててその頭脳をフル回転させて言い訳した。
「レ、レン兄様が飲むからっ」
「なんでここで俺の名を出す」
ミルクシェイクにブランデーだのと言い出した時点で、クラセン講師はダイニング・キッチンルームへと移動してきていた。愚かな子供を見捨てる判断力のなせる業か。
アレナフィルちゃん、君は父親の友人を責任転嫁の生贄だと思っているだろう?
だが、身代わりの生贄にも逃げ出す権利はあった。それだけだ。
「レ、レン兄様、だっておうち大好きだから、フィルに作らせるんだもんっ。だからフィル、覚えちゃったんだもんっ」
「だからどうして親子のそれに俺の名を出すんだ」
生贄は、愚かな子供が助けを求めて伸ばした手を叩き落とす。
「レン兄様の裏切り者ぉっ」
「何故、俺が責められる。まあ、いい。フェリル、そろそろフィルちゃん、寝かした方がいいだろ」
ウェスギニー家の祖父母世代でなければ庇う気もないらしいクラセン講師ははっきりした性格なのだろう。軽く顎でテーブルに並んだ酒瓶をウェスギニー大佐に示した。
まあね。ここまで並んでたらもう何を言っても空しい。
「そうだな。フィル、シャワーを浴びてもう寝なさい。挨拶には来なくていいよ。私達はまだ話しているから」
「はい、お父様。それでは皆様、おやすみなさい」
就寝の挨拶に来なくていいと言われたのは、要は寝間着姿を見せるなということだが、そそくさと逃げていくアレナフィルちゃんがいた。
礼儀正しくアレナフィルちゃんは挨拶して出ていったが、父親がいる時だけ貴族令嬢っぽくふるまうことに意味があるのだろうか。
アレナフィルちゃんがダイニング・キッチンルームから廊下に続く厚い扉を閉めると、もうこちらの音はあちらに響かない。
「バーレン。お前もどうして止めなかった」
「なんかフィルちゃん、人気ぽかったし。後から、イメージが違ったとか言われる前にお付き合いする相手は排除しといた方がいいと思ってな。あの年でこういうのができる子なんて身持ちが悪いんじゃないかとか、お育ちが悪いんじゃないかとか、結構ぼろくそ言われるもんだ。貴族の結婚相手には向かないんだから手を引けってことさ。それに自分は面白いと思っても、自分の母親や姉妹には眉を顰められることぐらい、誰だって子供じゃないんだから分かるだろう」
俺達の前で堂々と思惑を語るクラセン講師は、突き放した言い方で俺達の甘さを抉ってくる。
貴族の家に嫁いでも幸せにならないと思っているからだろう。
「ウェスギニー子爵。そう嘆かれなくてもアレナフィル嬢は健全なものしか飲みませんでしたし、私達にも悪酔いしないようにつまむものや水を出してくるいい子でしたよ?」
フォリ中尉が言葉を選んでいるものの、彼の場合は家族じゃない奴らがうるさいというものだ。俺みたいに家出しますなんて言えない立場に同情することもないわけでもない。
「そうです、大佐。結果としてアレナフィルちゃんは自分でお酒を作ることができるんですから、変な男に変なものを飲まされることもないわけです。何より俺は家族よりもアレナフィルちゃんを取ります」
「えっと、ボス。そういうお貴族様にはお貴族様に相応しいお人形さんみたいな貴族令嬢がいるってもんです。アレナフィルお嬢さんはめっちゃいい女になる予備軍ですよ? 美人は劣化しますけど、中身の面白さは変わりませんって」
俺がリードするつもりが、オーバリ中尉が要らんことを言いやがった。
「家族と離れて元気がない子に手を焼いて、やっぱりお子様の相手は無理だと諦めてくれると信じていたものを」
「ボス、聞こえてます、聞こえてます。ってか、自分で運転してきたんじゃ休めなかったっしょ。疲れてるんっすよ。だから口から有毒ガス出ちゃうんですって。心配しなくてもお嬢さんの警護は完璧っ。アレナフィルお嬢さん、ヘビだって石で追い払うし、空中遊泳楽しんじゃうし、ネトシル少尉と大型の無免許運転やらかしてましたよ。女をこっそり泥酔させる酒だって作ってましたからね。心配しなくてもお上品なお貴族様の方が逃げてきますって」
甘いな、オーバリ中尉。
ミディタル大公ご夫妻はそんなことを気にしないばかりか、国王陛下とてあのミディタル大公という弟を生まれた時から見てきた方だ。
俺だって全く気にしない。貴族でも虎の種の印が出た奴っていうのは陰で無茶もしているもんだ。
「そんなことよりウェスギニー子爵。アレナフィル嬢を迎えに行った際にお宅を見せていただいたのだが、三階には使われていない客室があるとか。下宿を受け入れる気になればできるのでは?」
「できてもする気がないのですよ」
「裏庭も見せていただいたが、なかなかの設備でしたね。あれならばたしかにアレンの身が軽いのも頷けるというものです。よければ三階の空いている部屋を借り上げますから、エリーも一緒に下宿させてもらえませんか?」
「お断りします」
「ちょっと待ってくださいっ。そういうことなら俺だって下宿したいですっ。勿論その際は護衛仕事も無料でさせていただきますっ」
「ネトシル少尉も落ち着くように。うちは下宿人を募集する予定などない。未婚の娘が暮らす家に、男を下宿させる筈などないだろう」
それなら今からでも婚約届出していいから同居したい・・・というのは国王陛下の命令があるからできなかった。
未成年の内は妹として溺愛し、成人後に結婚してからは妻として大切にするのに。
化粧っ気のない女の子でありながら、アレナフィルちゃんは変なところで心が大人だ。
なんであの子は未成年なのだろう。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ホームシックにかかっているようならば、サンリラにあるウェスギニー子爵家の持ち家に引き取るという話だったが、アレナフィルちゃんは一晩で元気になってしまった。
待っているであろうレミジェス殿の所へそのことを告げに行ってみれば、どうやら二人はそれを察していたらしい。
「フィルってば父上がいればいいんだよね。いつも一緒なのは僕だったのにさ」
「そうだね。だけどフィルなりにここでバイトしたかったみたいだし、これでいいんじゃないかな。兄上もちょこちょこ抜けるだろうし、好きにするだろう」
「アレナフィルちゃんなら、なんだか砂浜でデートしたかったらしいのに砂浜がないって言われてショック受けてたみたいですよ。大佐が代わりに女性に好まれるような夜景の店を探してくれとか言ってましたからね。だけどそういうのはまだ早いんじゃないかなぁ」
いくらお行儀よくできても親子二人でロマンチックも何もないだろう。
そう思ったが、客層や雰囲気のいい店を調べてウェスギニー大佐に直接連絡しておくように、管理人には命じておいた。
「フィルは気にしないと思うけど。ねー、叔父上?」
「そうだな。フィルは大人びた店でもご機嫌なだけだろうが、問題はそこでフィルを甘やかす兄上かもな。口説いてると思われて通報されなきゃいいが。まあ、会話を聞いてればすぐ親子って分かるから大丈夫だろう」
「そうかなぁ。フィル、父上におめかしさせてお祖母様達への花束買いに行く度に、悪い魔王様がお姫様をさらってしまったのですごっこさせるものだから、何かと通報されてたよ。フィル、通報されたところで実は何とも思ってないよ。ついにはお祖父様のお誕生日、双子を連れた男がいても拘束する必要はないって治安警備隊の掲示板に父上と僕達のフォトが貼られたよね」
その魔王と姫ごっことやらをしなければ通報されなかったのではないかと思うのだが、子供が主導なのか。
父親としてそれをやめさせようとは思わなかったのかと、俺は大きな疑問を抱いた。
俺なら小さなアレナフィルちゃんが可愛いお姫様のドレスを着て、俺に悪い魔王様の役をやれと言ったらそこは毅然とことわ・・・・・・付き合うな。うん、そんなおねだりぐらい全力で叶える。
そして魔王のお城にお姫様を連れて帰って、幸せに暮らしたのです。めでたしめでたし。
「ああいう遊び人みたいな服装でなければ問題なかったと思うんだけどね。・・・あ、そうだ。リオンさん、ちょっと兄の服を取ってくるので持って行ってもらっていいですか? 昨夜戻ってこなかった時点でもう詰めておいたんです。あ、大丈夫です。どれも新しいものを一度洗っただけですからフィルにはばれません」
「そのつもりで来たので勿論お待ちします。大佐は疲れてるだろうから今日は休ませるって、アレナフィルちゃんが宣言してましたよ」
「フィルはいつも全力で生きてる子なんですよ」
立ち上がって部屋を出ていったレミジェス殿だが、そうか、アレナフィルちゃんは遊び人みたいな・・・。
いや、ちょっと待て。幼年学校生の頃の話だろ? あの年頃でそんな趣味ってあまりにも渋すぎないか?
普通は絵本に出てくるような正統派な王子様だと思うんだが、何故に魔王。
向かい側のソファに座っていたアレンルード君が、そこで俺をまっすぐに見つめてくる。
「リオンさん」
「何だい? やっぱりアレナフィルちゃんと一緒がいいなら部屋は空いてるよ」
「そうじゃなくて、・・・蝶の種ってそんなに価値があるんですか? あの時、フォリ先生、形式上みたいなこと言ってましたけど、フォリ先生、殿下ですよね? そんな人がわざわざ形式上なんてないですよね? フィルに蝶の種の印が出たら、・・・そんなにも価値があるんですか?」
双子の妹と同じ針葉樹林の深い緑色の瞳。同じ髪の色と同じ顔。
それなのに表情はあまりにも違う。
「さて、何と言うべきだろう。レミジェス殿はどう言ってた?」
「そういうのは相手次第でどこまでも意味が上下するって。リオンさんだって本当はフィルじゃなくても相手は十分いるって聞きました。ヴェインさんはなんか可哀想だからほっといて、フォリ先生とリオンさんってフィルとやっぱり結婚すること考えてるんでしょう?」
「アレナフィルちゃんばかりかルード君にまで憐れまれてるオーバリ中尉に同情する。さて、どう答えた方がいいのかな」
俺は少し悩んだ。
「ごまかすから?」
「違うよ。正しく理解してもらわないと困るからだ。思いこみで変な解釈をされたら何も言わない方がマシだったってことになるからね。そうなるとルード君のお父上や叔父上の目を盗んで話した俺が全てにおいて悪い。そうなる。今、俺は責任問題も含めてルード君の解釈能力について悩んでいる」
「僕が聞いたのに?」
「成人と未成年者がいて何かが起きたなら、成人している方が責任を取る。それが社会の常識だ」
「だけど解釈能力って」
アレンルード君が困ったような顔になる。
「ま、堅苦しい前提はそこまでにして、ルード君はチーム応援仲間、つまり俺の同志だ。ゆえに同志としてここは語ろう」
「そうこなくっちゃ。リオンさんなら分かってくれると思ってた」
俺は向かいのソファに移って、アレンルード君の隣に座った。内緒話はこそこそするものって決まってるからね。
「蝶の種ってのは、それだけなら価値はあると言えばある、ないと言えばない。それは貴族でもその立場によって変化するんだ。たとえば俺は侯爵家の三男だ。仮の話として長男の兄がまだ独身で、蝶の種が見合いの候補一覧の中にいたとしよう。兄はまずその人と会う。他の樹の種よりも率先して会う。それだけの価値がある」
「はい」
「だが、次男の兄や俺とかで、もし蝶の種と樹の種の見合い相手がいたら、蝶の種であるかどうかよりも、その相手の家格と系図、資産状況をチェックしてから会う順番を考慮する。つまりあまり蝶の種であることの価値はない」
「どうしてですか?」
俺を見上げてくる表情はやはり妹と似ている。いや、ホント持ち帰るわ。誰だってこんな生き物が持ち運びサイズだったらポケット仕舞い仕舞いしてしまうだろ。
「なあ、ルード君。アレナフィルちゃんと一緒にナップザックに入って運ばれてみないか?」
「行軍練習ですか?」
「・・・ごめん。俺の心が汚れすぎていた。俺は自分を恥じる」
「何故」
アレンルード君もウサギのパジャマを着るのだろうか。
俺はアレンルード君の頭を撫でることで落ち着きを取り戻した。
「蝶の種の娘が生まれてもあまりメリットがない。というより、蝶の種の娘を育て終わったら本家に取られるだけだと分かっていて受け入れられるかって話になるわけだ。次男、三男でもプライドがないわけじゃないからね。種の印が出るのは18前後。それまで可愛がって育てた娘が、蝶の種の印が出たばかりに兄の家に取られて、そちらが親として娘の縁談も全て整えていくわけだ。やってられないだろ?」
「え? 取られちゃうんですか?」
「そ。それまで育てた思い出も何もかも養育費を一気にもらってそれで終わり。可愛い娘と会っても、その時には叔父と姪扱いで何も言えない立場になるんだ。お金に困ってればそれも嬉しいだろうけどね」
親族間の養子縁組は、一般の養子縁組に比べてとても軽く行われる。
本家の子供が不出来すぎて、表に出せないからと分家に押しつけられることもよくある。
「蝶の種の印を持つ娘がそんな見合いに長男以外の相手と会うぐらい長く名前を連ねていることはそうそうないから、あくまで仮の話さ。そんな事例があるとしたら、よほど難ありってことだしね。だけど長男の為に尽くさなきゃいけない次男、三男ならそこはもう希少価値のある相手を狙っていくだろう。だから価値があると言えばある、ないと言えばない。そこは職業や一族の中での立場も関係してくる」
「職業や立場」
「そうさ。俺みたいに何かと泊まりこみで留守がちな夫だと妻に浮気されるかもしれなくて、しかもその妻が蝶の種だったりしたら、おちおち仕事にも行けないじゃないか。世の中、大佐が留守でもいい子で暮らしている君達みたいな子ばかりじゃない」
「留守がちなのと浮気するのって関係あるんですか?」
「・・・関係ある時はあるし、ない時はない」
アレンルード君は考えこんでしまった。
そこへいつの間にか戻ってきていたレミジェス殿が、先程まで俺が座っていた場所に座る。
俺のカップとレミジェス殿のカップの位置を交換するあたりが、空気を壊さないタイプだ。
「ルードにはまだ分からないかな。よくあるのが、不在が長くて寂しかったというケースだ。留守がちな夫だと妻も秘密の恋人を作りやすいのさ。だけど寂しいからってそんな浮気をせずに待つ妻だっている。反対に毎日帰宅する夫がいれば浮気しないかといえば、日中の隙間時間に浮気する妻だっている。それこそその女性それぞれなんだよ。勿論、同じことが男性にも言える」
「叔父上もそういうケースを知ってるの?」
「よくある話だからね。ちょっと任務で行った先で現地妻を作っている夫もいれば、妻のフォトを大事にポケットに入れて浮気せずに戻る夫もいる。はたまた毎日帰宅する仕事内容でも、仕事で遅くなるとか嘘をついて浮気する夫もいれば、そんなことしない夫もいる。とはいえ、不在が長いと浮気される傾向は高くなるのも事実だ」
かなりあけすけにレミジェス殿は説明してしまった。
「そっか。父上が何週間も戻らないとフィルが叔父上を呼びつけるようなもんだね。フィル、僕だけじゃ満足しない浮気な子だから」
「・・・そうだね」
「えーっと、ルード君。この場合、家族愛は別なんだよ、別。レミジェス殿もそこはちゃんとアレナフィルちゃんを庇ってあげてくださいよ」
「いや、何がどうして浮気の話になってたのかよく分からなくて。フィルが大好きなのはルードですが、本命の恋人はうちの兄ですからね。私はおねだりする時の浮気相手にすぎないというのは間違ってませんよ」
くすくすと笑うレミジェス殿にしてみれば、今から浮気の心配かといったところか。
「ルード君に、蝶の種の印を持つ女の子の価値はどれぐらいかと問われたので、生まれる娘を政略結婚の駒として使う立場かどうかによっても変わってくるというのを説明しようとしていたところですよ。そして蝶の種の印が出る人間は魅力的なことが多い。ゆえにまずは浮気の心配ということも話していたわけで・・・。言っておきますが一般的な話で、アレナフィルちゃんのことじゃありません」
「いやいや、そこは心配してません。うちのフィルは巣ごもり上手な子ですからね。あの子は潔癖なところがあるから、浮気そのものが成立しないでしょう」
「そうかなぁ。フィル、顔と体が良くて、お金持ちで物腰がスマートな男の人がいたらついてっちゃうと思う」
叔父と兄には違う視点があるようだ。
後でさりげなく、ついていった実例があるのかを聞き出さなくては。
「相手にも選ぶ権利があるからね。フィルは可愛いけど、人によっては生意気だと思うだろう。ついてっても、ぽんっと返品されてくるかもしれないよ?」
「フォリ先生とリオンさんは生意気だと思わないわけ?」
「二人はフィルを生意気だと思う前に、自分の方が優れていると思っているから怒る理由がないのさ」
「へ?」
ずばっと言いきるレミジェス殿にとって、俺はどう見えているのか。
いきなり捏造された話がアレンルード君に吹きこまれていた。
「いいかい、ルード。たしかにフィルは変なことを知ってる賢い子だし、成績もいいし、ちょこまかと面白いことをやらかすが、その実態は自分のポリシーを押しつけてくる可愛い独裁者だ」
「うん。たまに迷惑だよね。しかも僕のこと、父上に言いつければいいと思ってるし。あれは卑怯だ」
双子は双子なりに色々とあるらしい。
「だけどガルディアス様にしてもネトシル少尉にしても、賢さなんて金で買える人達だ。自分ができなかったり知らなかったりすることは、それが可能な人材を雇えばいいと思っている。それが王侯貴族の視野というものだ」
「いや、あの、俺、そんな傲慢なことは思ってないんですが」
たしかにフォリ中尉はそうだろうが、俺は違う。一緒にしないでくれ。
そしてそれ、レミジェス殿の考え方だろ? ウェスギニー子爵家、調べさせればどんだけだよ。アレナフィルちゃんが結婚するなら叔父だと言ったのも当然で、前子爵と現子爵と子爵弟と名義を分散しているから分かりにくかったが、黙っていても金が入ってくるシステムを構築済みだ。
「別にリオンさん、謙遜しなくていいのに。ネトシル侯爵家って言ったら名門です。僕だって知ってます」
「いや、俺は三男でどうでもいい存在だから」
「そう言えるのもリオンさんだからだよ。大人の余裕をよく学ばせてもらいなさい、ルード」
「はい、叔父上」
ああ、何故こうもハードルを上げてくるのだ。
純粋な少年の眼差しがとても痛い。これを人は罪悪感と呼ぶのだろうか。
「そして虎の種の印を持つ者にとっては、力が基準だ。フィルの運動神経は悪くないが、虎の印を持つ者にとっては文字通り児戯レベル。フィルの賢さはお金で買えるし、身体能力は足元にも及ばない。ゆえに二人はフィルを生意気だと思う必要もない。ルードは自分の片手に載っちゃうような小さな子猫が自分の手を甘噛みしたからって本気で怒るかい?」
「そんな小さい猫なら生まれたてだよね。噛まれても痛くないか。可愛いなら許せるかな」
玉蜀黍の黄熟色の毛並みに針葉樹林の深い緑色の瞳をした子猫か。
大丈夫。俺の両手からはみ出る大きさでも甘噛み許せる。喜んで噛まれる。
「そういうことだ。だが、世の中には子猫にすら従順であることを求める人もいる。余裕の容量は人それぞれだ。フィルの生意気さは、時に誰かの心をバリバリ引っ掻いて怒らせるだろう」
「そっか。やっぱりフィル、おうちにいるのが一番安全だね」
「そうだね。あの子は自分に正直すぎるから」
「いや、アレナフィルちゃんいい子ですよ。いえ、そうじゃなくてですね」
そんな感じで色々と脱線したものの、元通りの話に戻すことに俺は成功した。
結婚することで蝶の種の印を持つ子が生まれて欲しいと願う意味では、恐らくエインレイド王子にこそ蝶の種の印を持つ妃が欲しいというのが客観的な意見であることを説明した時点で、アレンルード君の顔は固まってしまったけれど。
「え。なんでエリー王子」
「ああ、大丈夫。エインレイド様には色々と思惑のある令嬢が列をなしてるからアレナフィルちゃんまで回ってこないよ。お偉い人達だって王子様の妃に自分の娘をねじこみたいからね。同時に国のことを考えるなら、やはり樹の令嬢より蝶の令嬢が望ましいっていうのはある」
その理由も、外国の王室との政略結婚、つまりサルートス王国が領土とした土地の姫君と結婚させるならば蝶の種の印を持つ王子が望ましいという事情を説明した日には余計に衝撃が強かったらしい。
「それって、ある意味危険なんじゃ?」
「まあね。暗殺の危機もあると言えばあるけれど、サルートスが強い国である限りは大事にされる。子供が生まれた時点で一気にパワーバランス争いになるが、それはもう臣下の話だ。ウェスギニー大佐は外国の実情を知っておられる。だから王族に近づけまいとしたのかもね。いずれ大きくなった我が子やその子供がそういった所へ行くことになったらとんでもないと思っておられたかもしれない」
それはあくまで国としての話であって、肝心の国王やエインレイド王子が考えていることではない。だが、武力ではなく結婚で手に入れる方法もあるということだ。
「だから父上、フィルをお外に出さなかったのかな」
「関係ないだろう。別にあの子じゃなくても、蝶の出やすい家系だってあるんだ。それにまだフィルに蝶が出ると決まったわけじゃないよ、ルード。フィルの予想はいつだって外れてるからね」
落ち込み始めたアレンルード君に、レミジェス殿がやや明るい声で気分を浮上させようとした。
俺は卑怯だろう。王族に見初められるのは令嬢にとって誉れだ。しかし、イコール幸せではない。その現実をあえて教えることで、自分の立ち位置を確保している。
「それもそっか。フィル、当てるのヘタだし」
「そうそう。勝負を確率論で当てようとして毎回外してただろ。そんなものだよ」
「フィルの敗因は選手が一年の間に強くもなれば弱くもなること、監督の気合い、全員のモチベーションを考慮できなかったことだって父上言ってた」
「ルードみたいに本気でスポーツに打ちこんだことがフィルはないからね。その勝負に必死になるそれが分かってないのさ。だからフィルには報告させても、兄上が動かすのはルードだろう? 得意不得意は双子でも違うんだよ」
フォリ中尉も俺も、アレナフィルちゃんに蝶の種の印が出なくても気にしないのだが、今、何かを言うのは藪をつついて蛇を出すようなものだ。俺は沈黙した。
依存性が出ないよう自制しているが、やはりアレナフィルちゃんの頭を撫でたりするとふんわりとしたぬくもりが心に満ちる。
それが蝶の種の印が出る者が持つ力なのだと言われたら、俺は信じるだけだ。だって誰も傷つけないし、お互いに幸せでいられるならそれで構わないだろう?
(うちは虎の種が出るようになるべくそっちと婚姻し続けた家系だからな)
レミジェス殿はああ言っていたが、蝶の種の印が出やすい家系などは存在しない。せいぜい一族の中で第三親等内に二人出たとか、多くてそこまでだ。蝶の種の印が出た者は、大抵強く望まれて色々な相手と結婚する為、その血統が続くも何もないのだ。
レミジェス殿は、甥をこれ以上心配させたくないのだろう。だから俺は話を変えた。
「ああ、そうだ。これがアレナフィルちゃんが俺に教えてくれたお酒のレシピです。大佐の前では水割りしか作れないフリをしてましたけどね」
「フィル、自分が嘘つくのヘタクソってそろそろ知った方がいいと思う」
「悪いことしないならいいさ。作っても飲まないなら問題ないよ。おや、お酒が入ってないのもあるよ。作ってみようか」
「うーん。フィルの、なんか美しいお肌がどうだのこうだので野菜のまずい奴みたいな気がする」
仲良く喋る二人を見ていると、俺はなんだか夢の世界を見ているような気分になる。
自分なら長兄の息子に対してこんなにも親身になれただろうか。いや、なれないだろう。
長男の長男として、いずれ叔父など自分が掌握するネトシル家の構成員にすぎないと考えることが分かっている甥だ。
俺だって甥を可愛いと思いながらも、いつでもその心を切り捨てる用意をしていた。
今は笑顔で駆け寄ってくる甥も、大きくなればそんな叔父を呼びつけて命じる立場だと考え始めるのだ。今の長兄が、昔は仲良かった叔父や叔母に対し偉そうに振る舞い始めたように。
この二人を羨ましいと思うのはそれが手に入らない幻だからか。きっとアレンルード君は成人しても叔父を敬愛したままだろう。
辞去した俺は、アレナフィルちゃんに頼まれていた買い物をすませて戻った。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ウェスギニー大佐がやってきた途端、アレンルード君のことを忘れてしまったかのようなアレナフィルちゃんがクールすぎる。
俺はダイニング・キッチンルームに座ってアレナフィルちゃんとお喋りしていた。ウェスギニー大佐とクラセン講師はリビングルームの方で新聞を広げている。
どうやらレミジェス殿とアレンルード君が一緒の時は、ウェスギニー大佐とアレナフィルちゃんが一緒にいるのがいつものことだったらしい。
普通、反対だろ?
「それだと普通、子爵を継ぐのはアレナフィルちゃんになっちゃわない? 現役子爵と跡継ぎが一緒にいるものだと思うんだけど」
「子爵としてのお仕事は祖父と叔父がやっているから、父は自由生活ってことで私と一緒に無責任ライフなんです」
「ああ、なるほど」
頼むから俺を冷たい眼差しで見ないでほしいです、ウェスギニー大佐。言ったのはあなたのお嬢さんです、俺じゃありません。
「えっと、あ、アレナフィルちゃん。その髪飾り、可愛いね。髪ゴムでシンプルにまとめているのもいいけど、そうしているとちょうちょ模様でワンピースとも似合ってる」
「えへへ、ありがとうございます。えっとこれね、蝶みたいな形なんですけど、こっそりチームのマークが入ってるんです。ほら、ゴラテスフォラムの」
「あ、本当だ。ゴラテスフォラムっていうと、レミジェス殿も応援してたっけ。大佐も応援してるんですか?」
「いや。私は特に贔屓のチームはないな。レミジェスが買ってあげたんだろう」
「ひどいっ。これ、一緒に行った時にお父様、ちょうちょだからって買ってくれたのにっ」
「・・・私だったか?」
「ルードが優勝したお祝いに三人で行った時っ。ルードにはタイ買ってあげてたっ」
「そうか。道理で似合っていると思った」
「心がこもってないっ」
俺はウェスギニー大佐、恋人の誕生日も夫婦の結婚記念日も全て忘れるタイプだなと確信した。長男で爵位を継いだからいいようなものの、次男や三男だったら絶対に女から気が利かな過ぎると言われまくるタイプだ。
「はは。そうそう、ここはそれぞれの異国街もあるんだよ。変わった雑貨も多いんだ。ちょっとガイドマップ取ってくるね」
「リオン君はまめだねえ」
クラセン講師は俺に対してちょっと好意的モードだ。ネトシルさんと呼ばれていないことで俺は察する。
「本当にまめな奴なら上司にもっとゴマすって学校警護なんぞ回避したと思うがな。一人で十分となった理由を調べてみれば、もう一人来る筈だった奴は城で裕福な令嬢を口説きまくりだ」
「それってリオンお兄さんが立派だってことじゃないの、お父様? 用務員さんに変装して雑用しながら見守ってるってとっても大変」
うん、アレナフィルちゃんは人事評価において父親よりも素晴らしい資質の持ち主だ。俺はそれを確信した。
朝食はパジャマのままで作るアレナフィルちゃんだが、食べ終わったら軽くシャワーを浴びて着替えてくる。いつも制服はスラックスだから、こうしてスカート姿を見ると新鮮だ。
リボンのついたヘアバンドをしていたり、編み込んで髪飾りをつけていたりするのだが、どれも父親に買ってもらったものらしく、そんなところがいじらしかったりする。問題は肝心の父親が買ってあげたことを忘れていることだろう。最低だな。
(そーいや古城とかでは俺やフォリ中尉が買ってあげたペンやメモ用紙を使ってたな。そーゆーところが大人っぽいんだが)
小さくて俺達の体にすっぽりと包まれてしまいそうな女の子なのに、話しているとまるで対等な女性に思えてくる。と思ったらやっぱりお子様だったりするアレナフィルちゃん。
俺はちょっと一階に行き、管理人室の奥側にある部屋でちょっと観光客に人気な店をチェックすることにした。
「なんだ、出かけるのか?」
「もしかしたらですけど。大佐がだらだらしてるから分からないんですよね。大佐とクラセンさんが出かけてるならアレナフィルちゃんもお出かけしたがるんですけど、大佐がいるなら一緒にごろごろしたがるんです」
「まだ子供だもんなぁ。そんならクラセン講師に大人向けの店の情報渡しときゃいいんじゃねえの」
先輩達に声をかけられたが、本当にアレナフィルちゃんは読めないけど分かりやすい。ガイドマップを持っていったら喜んで出かけるような気がする。とはいえ、休暇は始まったばかり。慌ててあちこち出かけなくてものんびりこなしていけばいい。
(うーん。外国の雑貨って面白いと言えば面白いが、たまにガラクタにしか見えないこともあるしなぁ)
そんなことを思いながら、それぞれのお店がある通りをチェックした。先輩達が覗いてくるのも、そういう時にはどこから見張るか、周辺の地図を頭に入れておく必要があるからだ。
「あの辺りはちょっとごちゃごちゃしてるからなぁ。ここらは避けとけ。女の子は卑猥な声かけられただけでも怯えちまうだろ」
「さすがに声かけただけで連行はできんしな」
「堂々と後をつけてくか。その方が睨みきかせられっだろ」
「なんだ、ここにいたのか。ネトシル少尉もこういうものに目を通すんだな」
どこぞでどんな売り出しがあるとか、チラシを見ながら頭に入れていると、面白そうな声が響く。やってきたフォリ中尉も、チラシだなんて普段は目にしないからとても興味深そうだ。
「違います。アレナフィルちゃん、あれで結構市販価格が頭に入ってるんですよ。安かったら大喜びで買うかもなと思って頭に入れてるだけです。問題は俺にしても先輩にしても普段の価格が分からないからどれくらいお得なのかがよく分からないことですね」
「俺達よりも子爵家息女の方が頭に入ってちゃいけないことじゃないのか? 近衛だって普段は出歩くわけで、買い物だって普段は自宅に来てくれるのが貴族令嬢だろう?」
「・・・アレナフィルちゃんは貴族令嬢とは仮の姿、地上の全てに興味津々なお空の女神様の子供時代なんです」
「いい加減、現実を見た方がいいのではないかと俺は思うのだが」
先輩方もフォリ中尉がいらした以上はさっと立ち上がって命令を待つ姿勢に入っている。俺は休暇中だから免除されているわけだ。
誘えば出かけるんじゃないかということで、フォリ中尉と俺は出かける用意をしに部屋へと戻ることにした。
そして302号室の玄関扉を開けてみれば、その廊下が交わるエントランススペースでアレナフィルちゃんがいる。お出迎えではない。
なんとアレナフィルちゃんは丸首シャツにズボン姿で、廊下の床にバスタオルを敷き、その上で何やら面妖な踊りなのか、神託を受けた預言者ごっこなのか、風にあおられた洗濯物の動きを再現しているのか、よく分からないポーズをしていた。
出かけようと誘いに来た俺もびっくりだ。
ついにウェスギニー大佐の闇を見てしまっておかしくなったのかと、俺はアレナフィルちゃんを引き取る口説き文句を三つほど考えたぐらいに頭をフル回転させる。
「えーっと、何やってるのかな、アレナフィルちゃん?」
「ははっ、アレナフィルお嬢さん、毛虫踊りっ、ははっ」
「っぷぷ、くっ、何をやってるんだ今度は。ついに部屋を追い出されたか。鍵を開けてもらう呪文踊りとか言わな・・・くくっ」
まずは問いかけた俺と違い、フォリ中尉やオーバリ中尉達は腹を抱えて笑い始めた。どうやらでんぐり返った動きがツボに入ったらしい。
アレナフィルちゃんへの「いい人」的なフォロー役に俺を残して、誰もがもうアレナフィルちゃんで楽しみ始めている。
「体のあちこちを動かす柔軟運動です」
「運動なら庭でも走れるし、こんなところで無理に動かなくても・・・」
せめて俺の前でだけやってくれ。俺は腹筋の運動に励もう。
俺の背後の反応が気に入らないのか、アレナフィルちゃんのほっぺたが膨れていた。
「そういう動きじゃなくて普段は動いてない筋肉を動かす運動だからスペースはあまり要らないんです。ベッドの上は柔らかすぎるので」
「へえ。立派だ。やっぱりそういうのをするとなんかいいことあるんだ?」
「やってみたら分かりますよ。結構いい汗かきます」
俺はちょっと黙りこんだ。
寮監をしている中尉や少尉達が、
「あんなのったりした動きで?」
「病人用の運動か?」
とか呟いていた声がアレナフィルちゃんに届かなかったことを祈るばかりだ。いや、無理か。
「それならやってみるといいです。リビングルームに行きましょう」
自信たっぷりに言うものだからみんなでトライしてみたが、ポーズによってはかなり苦しいものもあったようだ。何人かは失敗するポーズもあった。
そしてリビングルームにいたウェスギニー大佐は、
「牢内での筋肉維持にいいだろう」
と、言い捨てるとクラセン講師とどこかに行ってしまった。
あれって、逃げたって言わないか?
「アレルちゃん。今から牢に放り込まれた時用の運動を心がけてるわけですか? 未成年の飲酒はたしかにいけないことですが、注意されるだけですよ。収監はされません」
「違います。何てこと言うんですか。これは私が、美しいプロポーションを維持する為、今から努力しているだけなのです」
マシリアン少尉に対して答えたアレナフィルちゃんからそっと視線を外したのは俺だけだった。フォリ中尉とオーバリ中尉はぷぷっと噴き出している。
寮監をしている士官達は可愛いすとんとしたアレナフィルちゃんの体を上から下まで再確認するように見て、気分を変えるがごとく窓の外を見て、そしてアレナフィルちゃんを再び見ると、何事もなかったかのように立ち上がった。
彼らは言質を取られないよう沈黙することを知っている貴族である。
「くっ。信じてませんねっ。走るキリギリスポーズもできないくせにっ」
悔しそうなアレナフィルちゃんが可愛かったので、無人の301号室のリビングルームにアレナフィルちゃん専用柔軟体操スペースを作ってあげた。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
クラセン講師と同じ寝室を使っているオーバリ中尉は、どうやら女上司から守ってもらう代わりにアレナフィルちゃんの護衛をしている気分だったらしい。
それを聞いたウェスギニー大佐は、
「夜、窓から抜け出しても気づかないのがうちの娘とバーレンだっただけだろ」
と、全く感動しなかった。
夜遊びなら普通に玄関から出入りしてくれていいのだが、そこは隠したいらしいオーバリ中尉だ。彼は、アレナフィルちゃんから弟扱いされているかのような日々にはまっている。
毎朝ベッドまでコーヒーを運んできてつまみ食いをさせてくれるアレナフィルちゃんを、寝ぼけたふりして抱きしめては頭を撫でて癒され中だ。
それを同じ部屋で見ているクラセン講師は心配にならないのかと思ったが、
「あー、大丈夫大丈夫。お持ち帰りしない程度なら害はないよ」
とか言っていた。思うにアレナフィルちゃん、お持ち帰り事件が多すぎて、保護者の危機意識がおかしくなっている。
「ご飯は体を作るんです。栄養を考えてたっぷり食べて、よく寝て動かないと立派な大人になれないんですよ」
「そして大きくぷりぷりに育った俺を、アレナフィルお嬢さんが食べてしまうわけっすね。数年後を楽しみにお待ちしてます」
「ふぅっ。男の子ってどうして自分を大きく見せたがるんでしょう。お姉ちゃんは困っちゃいますよ」
そんなことを言いながら、アレナフィルちゃんはご飯を作るのだが、ウェスギニー大佐やクラセン講師ではなく俺達の皿に肉や野菜をぽんぽん入れてくる傾向があった。
別に大佐達の肉や野菜が少ないわけではない。ただ、俺達にもっと沢山食べて大きくなれと言うのだ。
(そりゃ食うが、成長期は印が出る前だっつーの)
ウェスギニー大佐とクラセン講師は、
「うちの子は魔法のエプロンをつけたら素敵なお姉さんに変身すると思ってるんだ」
「そういう時はもっとセクシーエプロンを若者は期待してると思うぞ、フェリル。クマさんエプロンじゃどうしようもないだろ」
と、気にせず海流の時間帯と釣りスポットの話をしていた。
アレナフィルちゃんはエプロンをつけた途端、世話焼きお姉さんに変化する。甘えん坊な妹モードから、ちょっと偉そうな姉モードまで具えているとは、これぞ男がメロメロになるという蝶の魅力というものか。
蝶の母を持っていたウェスギニー大佐に、蝶の種とはなりきりプレイもできるのかと尋ねたら、全く関係ないと言われた。ちゃんと世話できないから断念したが、アレンルード君とアレナフィルちゃんは、本当は大きな軍用犬を飼いたかったそうだ。
(ああ、なるほど。犬のお世話か。うん、なるほど。・・・・・・ホントかよ、おい)
先生とかお兄さんとか呼びながら、実はアレナフィルちゃん、自分の方がお姉さんだと思っている。
そしてウェスギニー大佐は俺達のことを、アレナフィルちゃんを遊ばせておく為にあてがった子守り兼ペットだと思っている節があった。ひでえ。




