38 ガルディアスはサンリラに到着した
女の子というのは、扱いが難しいものらしい。王妃自ら俺にくどくどと説教してきた。
『いいかしら、ガルディ? あなたは優しくていい子だけど、普通じゃない育ち方をしているのも事実なのよ。あなたはいつだって自分を抑制してきたし、可愛がることができたのはエリーだけだったけれど、それは普通じゃないの。アレナフィルちゃんはある意味でとても大人よ。ここはもう子供の体をした大人なんだと思って過ごしてらっしゃい』
『ご自分が、母親としても教えを請いたいと頼まれたからって絆されてどうするんですか。あいつは何も考えてませんよ。大体、同い年の妹を母親のように思う男子がいるわけないでしょう』
『大切なのは努力する気持ちと、相手を思う愛よ。お母様がいない兄を思って母親代わりになろうとしたなんていい子じゃないの』
『大切なのは結果と、相手との継続可能な未来関係です。肝心の兄は妹を母親のようにどころか、手間のかかる子分としか思ってませんよ』
『んもうっ。どうしてあなたは優しい子なのに、そういうところはクールなの』
『父上と母上に似たのでしょう』
俺の名前はサルトス・フォリ・ラルドーラ・ガルディアス。軍では中尉として在籍している。
オマケが多いものの、ウェスギニー・インドウェイ・アレナフィルと共に夏の長期休暇を貿易都市サンリラで過ごすことになっていた。
クラセン講師、つまりバーレミアスとアレナフィルは、こっそりサンリラでバイトをするつもりらしいので昼間は別行動ということにしてある。俺とてずっと一緒にいて機嫌を取れなどと要求する気はない。
けれども家族が一緒にいないせいだろうか。途中での観光にははしゃぎながらも、アレナフィルはちょっと元気がなくなっていた。
『クラセン殿。アレナフィル嬢が少しばかり元気がないようだ。体調を崩しているかもしれん』
『あー、フィルちゃん。どうせフェリルもルード君もいないから寂しいだけじゃないのかな。何か甘いもん食べさせておけば治るよ』
『甘いものか。どこかそんな店があったかな』
『自分で作らせればいいんじゃないの?』
父親の信頼を受けてアレナフィルに同行してきたくせに、とてもいい加減な対応だが、単にこの男は古城のオーナーとの交流を優先したいだけではなかろうか。
俺は知っている。
古城に残っていた過去の資料などに目を輝かせ、このバーレミアスは改めてここを訪れて長期逗留したいと話していたことを。
オーナーは、夏しかこの古城で宿泊客を受け付けていないのでと、来年の宿泊を勧めながら、きちんと返却してくれるならば貸し出してもいいということを言っていたようだ。
(古文書なんてまさに彼の大好物だったのかもな。既にオーナーと共同研究もしくは協力者として発表の場がどうこうって何を言ってるんだか)
辺鄙な場所なので、近くに喫茶を楽しめるような店もない。
俺はグラスフォリオンの運転する大型移動車内でアレナフィルに声をかけてみた。
「アレナフィル嬢。今まで何かと休憩を挟んできたから必要なかっただろうが、棚にはシロップも揃ってるし、冷凍庫や冷蔵庫にもミルクやクリーム、ゼリーなどが入ってる。さっきの古城はどうしても決まった料理しか出てこなかったから、ちょっと物足りないだろう。何か自分で作って食べたらどうだ?」
「えっと自分で?」
「ああ。湯沸かしもできるし、ネトシル少尉の運転技術は優れたもんだ。そうそう揺れることもない」
「そーいえばこの移動車、全然揺れない」
ミニキッチンスペースは申し訳程度についているだけだと思っていたらしいアレナフィルは、そこで棚の扉を開けて探検し始めた。
「うわぁ、お酒もあるっ。シロップもいっぱいっ。あ、真空パックケーキやゼリーもっ」
アレナフィルは、運転しているグラスフォリオンの為に赤いゼリーをがつがつとクラッシュさせてから濃縮ぶどうジュースを注いで炭酸を加えた。そして太いストローを突き刺して持っていく。
ちょうど彼には太陽光がかなり当たっていた。しばらくはルート的にそれが続くだろう。
「リオンお兄さん。たしか出発前にアイスコーヒー飲んでましたよね。だから葡萄ジュースの炭酸割りです。ここに置いておきますね」
「ああ。ありがとね、アレナフィルちゃん。ははっ、これって赤い氷?」
「ノーッ、ゼリーでぇっす」
「・・・おおっ、炭酸が口の中で弾けるっ」
「えへっ。運転って単調だと飽きますよね」
座席の横部分の斜め下にあるスイッチを押してからミニテーブルを引き出したアレナフィルだが、さて次は自分の分とばかりに戻ってきたところでボーデヴェインが声をかけた。
「アレナフィルお嬢さん、よくあの場所知ってましたね。俺なんてあんな所にミニテーブルが入ってるなんて知らずに半年以上経過してたってのに」
「へへーっ。リオンお兄さんに教えてもらったんです」
「ああ、道理で」
「凄いんですよっ。リオンお兄さん、教習所の先生にも転職できるぐらいに教えるの上手なんですっ。おかげで私、蛇行運転だってできちゃうんですからねっ」
「んー。酔っぱらいや子供でも蛇行運転はできますからねぇ。そりゃ自慢になりませんて」
簡易的なカップホルダーがあるので、収納式ミニテーブルまで把握していない奴が多いのだ。大抵は膝の上に置いて食べるから必要なかったりもする。
運転しているグラスフォリオンがモニター越しに指で合図してきた。やはりそうか。
あのな、アレナフィル。本人を前にして嘘を言うな。彼はお前に教えてないって言ってるぞ。
仕方ない。きっと手乗りインコは鳥だけにトリ頭なのだ。
「ではっ、手がふさがっているリオンお兄さんと違ってみんなはスプーンも使えるから、ラブリーコーヒーを作りましょうっ。アイスコーヒーにキャラメルシロップ四匙入れて、バニラアイスクリームと生クリーム浮かべてチョコレート削って散らしてキャラメルソースたっぷりかける奴っ」
「あー、フィルちゃん。俺には濃いめのホットコーヒーに砂糖ひと匙、甘くないクリームを二匙で頼む。そーゆのは要らない」
「レン兄様ったら遠慮しなくていいのに」
「してない」
なるほど。きっぱり伝えるのが大事なんだな。
「俺はアイスコーヒーでいいが、ナッツフラワーシロップはひと匙、甘くないクリームを浮かべて塩スパイスキャラメルを軽く十字にかけてくれ」
「んもう。フォリ先生もそんなのあまり甘くないですよ」
文句を言いつつも、てきぱきとグラスを用意するところは手慣れた様子だ。あえてアレナフィルがクラブルームにも置いていなかったシロップとソースを指定したので、自分もそれを試してみようかなと、どうやら瓶を掴んで悩んでいるらしい。
「どんな味になるのかなぁ。フォリ先生、この味、試したことあるんですか?」
潜入工作の際に戦闘で負傷したというボーデヴェインは今も療養中ということらしいが、やはり怪我をしている様子を感じさせない動きで、
「で、このシロップ入れると、どんな味になるんすかね」
と、興味津々である。
「甘さはほんのり程度で十分だ。ついでにアレナフィル嬢。今はまだ人が少ないからいいが、サンリラについたら全員、兄という呼び方にしておけ。先生と呼ばれる男達に囲まれた少女が一人だなんて何事かと通報されるぞ。俺達は金に困ってはないが、バイトなんて金銭搾取されているんじゃないかと保護観点から禁止命令が出るだろうな」
「ひゃっ。禁止命令っ?」
「あー、そうそう。あのな、フィルちゃん。子供が働くというのは学業に影響しない程度というのが基本だし、その理由は家庭内における生活費の足しとかはやばくて、自分が欲しいものが贅沢だからバイトして買うといった程度しか許されないんだ。誰かにそのお金を取り上げられているなら人身売買の法に抵触する。ましてや先生と呼ばれる成人男性がその立場を利用して、分別のつかない未成年を騙している疑いを掛けられた日には、まず保護命令が出るぞ」
「なんとっ。分かりました、レン兄様、ガルディお兄様。・・・だけど生活費の足しとかならいいことなのでは?」
バーレミアスの説明を受けて目を丸くしたアレナフィルには想像もつかないのだろう。
現国王がそういった施策を浸透させるまで、どれ程に努力したのかを。
我がサルートス国は様々な国を攻め落としている為、他国からは悪の国とも呼ばれている。だが、我が国を悪と呼ぶよその国の民が幸せかどうかなど分かるまい。
「子供を働かせなくちゃ食べていけないというのであれば、その子供は施設で養育されるんだよ、フィルちゃん。まあ、家族と離れたくないあまり、生活費に入れている家庭はあるだろうけどね。それでも通報されたら調査は入るし、その間、子供は保護される。サルートスは法治国家だ」
さすがは腐っても習得専門学校講師。
「だけどこのメンバー的に生活に困ってないのはすぐ分かるでしょ? うちだって子爵家」
「どこにでも法の抜け穴はある。たとえば養子に迎えた貴族の子どもにそれなりの持参金をつけて結婚させたとして、それは婚姻という形を取った資金移動かもしれない。誰もが金に困っていない貴族であろうと、子供をいたぶって楽しむ性格破綻者の集まりかもしれない。俺は何かとフェリルから君を預かるからこそ、滅多に頭を撫でたり頬にキスしたりしないようにしている。いざという時に君を保護する為にも、厳格な態度で接していたという実績が必要だからさ」
なるほどと、俺は思った。
言われてみれば一番長い付き合いでありながら、朝のおはようも夜のおやすみも、バーレミアスはアレナフィルに対して口で伝えて手を振る程度だ。
我が子のように可愛がっていたというのが劣情ゆえかもしれないと考慮されるリスクを、彼は慎重に取り除いていたのだろう。
「そっか。レン兄様、単に姉様に対するのと一緒で、ツンツン冷たく突き放しては相手が気弱になったところで優しくして惑わせる飴と鞭な鬼畜テクニックだと思ってたけど、そうじゃなかったんだ。
どうせレン兄様、私の好みじゃないから無駄なのにって思っててごめんなさい。ありがとう、レン兄様」
「・・・今度、子爵にお会いした時にはよく伝えておこう。まさか子爵も男八人に囲まれての旅行になるとは思っておられなかっただろうからな。口裏を合わせればいかがわしい夜をいくら重ねたところでばれやしないメンバーだ。きっと夫人も孫娘の不品行に寝こまれることだろう」
何故、そこで勝てない喧嘩を売るのか。
アレナフィルの恋愛的な視野と洞察と思考に感心すればいいのか、あまりの無情さを軽蔑すればいいのかが分からない。
そして言われた方も決して子供の増長を許すタイプではなかった。
「ああっ、ごめんなさい、レン兄様っ。寝ぼけて昨日のスクリーンドラマのお話言ってしまっただけなのっ。レン兄様程、頼りになる大人の男なんていないって、フィル知ってるぅっ」
がばあっと父親の親友に腰に抱きついて上目遣いでご機嫌取りし始める珍獣の姿は、ちょっと可愛いが情けない。向かい側に座っていた俺とボーデヴェインの顔から気力が抜けていく。
(頭はいいのかもしれんが馬鹿なんだな。見てる分には楽しいが、たしかにこれは社交界に出せん)
運転しているグラスフォリオンも軽く溜め息をついていた。
健やかに成長しているアレナフィルを社交界に出す気もなく令嬢教育をしていなかったウェスギニー家のフェリルドを、娘に対する虐待だと主張していた母や女官達の顔が浮かぶ。
(いい婿候補なんぞ、アレンと気が合う奴を見繕えばいいだけだって割り切ればなんてことないもんなぁ)
着飾って微笑みながら美しさと会話術を披露する姫君集団の中に入れておくより、これは自宅で好きに囀らせておく方がいいと思った家族の気持ちに俺は共感を覚えた。
社交界など集団お見合いのようなものだ。いい相手を見つける為にも知り合う人数は多くて困らないという思惑が根底にある。
けれども社交界デビューする前に目をつけた令嬢がいるのなら、そのデビューの夜会に一回だけ出して、後はもう誰も手が出せないように囲い込んだ方がいいというのが男の気持ちだった。
婚約届はその為にある。
(生活費ぐらい負担するっつーの。それなのにあの子爵、どこまでも国王を味方につけやがるし)
バーレミアスという保護者がいるから俺達も自重しているが、アレナフィルは飛んだり跳ねたり好奇心が旺盛な子だ。気づけば何かをやらかしている。
これはもう抱き上げて頬ずりして頭を撫でて笑わせておきたい愛らしさしかないんじゃないのかと、自室に持ち帰りたい衝動に何度駆られたことか。
古城のオーナーも笑いっぱなしだった。
それでいて昔ながらの金具など、今はこういうものが売られているからそっちの方が便利などと言って、形の図を描いて渡していたりしたから、余計に可愛く思われたのだろう。
肝心のバーレミアスも本気でいじめる気はなかったらしい。
「はいはい。じゃ、コーヒー飲んだら手伝え。汚したくないからカップ片づけるまで触るなよ」
「ふわぁい」
そんな感じで軽くアレナフィルの頭を撫でて終わらせた。
俺達の位置からは皆の様子が見えるが、バーレミアスの位置からはミニキッチンやトイレに続く設備が視界の邪魔をして周囲が見えにくい。
彼はどんな優しい表情になっているか、自覚していないのか。
「クラセン先生もそうやって甘えられたらアレナフィルお嬢さん可愛いし、くらっときません?」
「別に。一番可愛い幼児期は終わったからな。しかも手ぇ出せない可愛さなんぞ三日で飽きる。もちょっと育っていいラインになったらちやほやしてやってもいいが、生意気盛りの子どもなんてなぁ」
「レン兄様がひどすぎる。幼児にしか興味ないの、ただのヘンタイ」
「誰が変態だ。だってこんなちんまくて、とてっとてって駆けてきては一生懸命手ぇ伸ばして、これのお名前なぁにって百面相な全身ポーズしてたんだぞ。あれは可愛かった。もう単語なんて覚えずにずっとアレでよかったのに」
「人の苦労を理解しない大人がいる」
文句を言いつつも傷ついた様子などない珍獣はミニキッチンに戻って、近寄ってきたボーデヴェインと一緒にこの味がどうだのこうだのと、お喋りしながら作り始めた。
上司の娘に初対面では敬語だった彼も、どんどんとくだけてきている。
古城のオーナーから借りてきた本から必要な部分を抜き出したいらしいバーレミアスが、一人でそれなりのスペースを使っているが、ちょくちょくと紙片を挟んでは積み重ねていった。
「ガルディお兄様、飲んで甘みが足りなかったらちょっとだけアイスクリーム分けてあげます」
「・・・ん。いや、これでいい。ちょうどいいほろ苦さと甘さだ」
たっぷりアイスクリームが入った自分の皿から、
「まだ使ってないスプーンだから」
と、分けてくれようとするアレナフィルは可愛らしいが、子爵家の娘に分けてあげると言われる日が来るとは。
悪気がないと分かるから不快にはならないし、他の男達も笑いを噛み殺しているところを見ると、そこが面白いと彼等も感じているのだろう。
味のバランスを褒めれば、顔をほころばせる。
「へへー。ナッツの風味がダイレクトだったので、コーヒーもストロングにしときましたからね。レン兄様も試験前はその濃さなんですよ。たまに飲むと美味しいでしょう。・・・あ、レン兄様、本を片づけて。こぼしたら大変」
「ああ、分かった」
なるほど。いつも第2調理室で作っているものより味が濃いと思えば、少し大人向けの味にしていたようだ。眠気覚ましにちょうどいい濃さとして覚えているのだろう。
道理でバーレミアスが卒業証書渡して自分の研究室に寄越せと言ったわけだ。
バランス的にバーレミアス側の座席に座るアレナフィルだが、一人だけ深皿に入ったコーヒーゼリー入りアイスコーヒーを食べ始める。アイスクリームに突き刺してあるチョコレートなど、ぱくっと食べては「んーっ」と、ご満悦だ。
室内側モニターをちらちらチェックしているグラスフォリオンの肩が、たまに揺れていた。
(こんな時間もたまにはいいか。あまりに平和だがな)
虎の種の印を持つ男が三人も揃って、眺めているのは上等学校一年生の少女。
好奇心たっぷりな小動物を思わせる貴族令嬢は、スプーンをくわえながらお小遣い帳を取り出して、古城や観光地で買ったお土産を差し引いた金額的に、これから何が買えるか買えないかを熟考中である。
「クラブのみんなには絵葉書出したし、なんか優雅っぽい。これぞお嬢様の休日」
「オーナーに教わった『迷子になった時の方法』なんて書かれてもみんなコメントしづらいと思うぞ、フィルちゃん。女の子からの絵葉書というものにはもっとラブなロマンをちりばめないとな。それを見た家族だって、どこの男友達だって思うだけだろうに」
「いいの。性別を超えた友情があるんだよ」
なんだか立派なことを言っている手乗りインコがいるが、俺は知っている。
差出人のサインを、アレナフィルがわざと名前部分はイニシャルにしていたことを。Aだけじゃアレナフィルだかアレンルードだか分からないじゃないか。家族だって、これは双子の兄の方から届いたのかもしれないと、あの内容では考えてしまうだろう。
そういう小賢しさがアレナフィルにはあって、ゆえにそのアンバランスさが俺達の興味をくいっと引っ掛けていく。
「調子こいておなか壊すんじゃないぞ、フィルちゃん」
「大丈夫ですよっ。食べたら動けば証拠隠滅っ」
「そうしてくれ。俺が預かってる間にぷくぷくになられたら、俺が何でもかんでも甘いものを好きに食べさせていたと思われる」
「思うんだけど、レン兄様、人の評価気にしすぎ。最初から鬼畜ってみんな知ってる。評価なんてもう落ちようがない。・・・あぁああっ、最後のゼリーッ」
学習能力が抜け落ちた手乗りインコはピーチクパーチク囀りすぎるようだ。痛い目に遭い続けても、あの思ったことを垂れ流す性格が矯正されないことが問題なのかもしれない。
だが、子供が食べている菓子を横取りする大人もどうかと思うのは俺だけか?
「うーん。可哀想に大人の男にいじめられてんなぁって思いたいけど、やっぱりボスの娘ですよね。ハミガキまでしたのは偉いけど、そのまま寝ますかね、普通。こんだけ男に囲まれてたら少しはあざとく可愛い感じで好感度上げてくると思いません?」
「お子様だからな。甘いもの食べたら眠くなるんだろ。お手伝いのことは忘れてるな」
「フィルちゃん、お昼寝忘れない子だからねぇ。朝だけど。適当に栞挟んどいて、後でやってもらうさ。時間はたっぷりある」
コーヒーと呼んでいいのか分からないものをスプーンで食べ終わったアレナフィルは歯磨きをした後、バーレミアスの横に座ってお手伝いする筈がすやすやと眠っていた。
起こさないようにゆっくりと上半身を横にさせて、バーレミアスが上着をかける。
娘のようなものなのか、年の離れた妹気分なのか。名前のつかない優しさがバーレミアスの眼差しに宿っているのを、俺は見た気がした。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
貿易都市サンリラ。海に面しており、様々な外国人が訪れるばかりか、色々な文化も持ち込まれ、活気のある街だ。住宅街と倉庫通り、そして事務所が立ち並ぶ界隈が混在している。
俺が使うことのできる住まいだと一人一人に侍女がつくといったことになる為、ネトシル侯爵家のアパートメントを使うことになっていたが、アレナフィルはこの街にウェスギニー家の別宅があることも知らないアホ娘だった。
いや、全てにおいて悪いのは娘に何も教えていない父親だ。
そう思っていた俺達だったが、ウェスギニー大佐フェリルドは考えた上で娘に何も教えていなかったのかもしれないと気づくのは早かった。
(こんな手乗りインコでも子爵家の令嬢。自由にできる別宅があると知ってしまったら何をやらかすか分からん。使用人が主人を止められる筈がないんだからな)
相手が俺達だから遠慮しているが、これで自分の家の使用人に囲まれていたならアレナフィルの天下だ。
普通は使用人がいないと何もできない貴族の娘な筈が、アレナフィルはとてもたくましかった。
「荷物を下ろしたら自室で荷物を解いておくといいよ。一休みしていてもいいしね。清掃は終わっている筈だ」
「はーい」
「夕食は二階に降りてきてくれれば、ディナーボックスを買ってきておくよ。明日の朝からは、トーストと卵とコーヒーぐらいは二階で出せるかな」
「了解です。それってリオンお兄さんが作るんですか?」
「いや、パンと卵とコーヒーぐらいは管理人が買ってきてくれる。だから勝手に食べればいいってところか? 昼食と夕食は各自好きにすればいいけど、何なら美味しいところも調べてあるし、予定が合えばみんなで行こう」
「はいっ。あ、だけどディナーボックス買いに行くなら、私も買い物行きたいです。お部屋でのおやつとか」
「それなら後で迎えに来るよ。一緒に買いに行こう。部屋にいてくれるかい?」
「分かりましたっ」
ネトシル侯爵家の持ち物なので、グラスフォリオンがてきぱきと指示していく。
一階は管理人のいる管理人室や物置などといったスペースで、ほとんど通過するというよりも、そのまま階段で二階に上がるだけだ。
二階は皆が共同で使うことのできるキッチンルームやダイニングルーム、多目的室、遊戯室などといったスペースになっていた。
そして三階より上が各自に割り当てられた住宅となるのだが、各戸にダイニング・キッチンルーム、リビングルーム、バスルーム、そして二つの寝室といった配分だ。二つの寝室にはそれぞれベッドが二台入っていて、広々と使いたければくっつければいいらしい。
ネトシル侯爵家は軍関係に強い家系で、縁戚もそういった分野に偏っている。それを考えれば、二人もしくは四人で宿泊することを考えて部屋を用意してあるのだろう。
縁戚関係や交際関係のある人にもそれなりに貸し出しているに違いない。
そこは普通に小ぢんまりとした別宅を持つウェスギニー子爵家との差か。
(アレンにも適当なところで顔を出しておくか。妹のことだし、やはり男に囲まれているとあっては不安だろう。同行してれば一緒に遊んでやったのに)
301号室をバーレミアスが一人で使用、302号室をウェスギニー親子、303号室をグラスフォリオンとボーデヴェイン、そして304号室を俺一人という割り当てでグラスフォリオンは考えていた。
慌てて四階に急遽増えたマレイニアル、アドルフォン、ボンファリオ、レオカディオの部屋を用意させたようだが、
「あー、四階は適当に使ってください。一人一部屋でも二人一部屋でも四人一部屋でも」
という投げやりなものだった。
どうやらグラスフォリオンは、食事や団欒は二階で、そして三階の部屋は睡眠や休息に使う程度を想定していたらしい。
侍女や調理人を用意しなかっただけでも、かなり手を抜いたつもりのようだ。調理人を置けば、外食をためらうことになるからだろう。
だが、301号室を確認したバーレミアスは荷物を持ってそのまま302号室へ行き、そちらで寝泊まりすることを決めてしまった。
アレナフィルも、どうせ自分は父親と同じ寝室を使うからもう一つの寝室は空いているしいいかと、そんな感じで受け入れたとか。
(なんでまだ父親と同じ寝室を使おうと思うんだ? 女の子なんて、もう父親と一緒の時間すら避けるもんだろうが。ついでに父親が到着しない間、鍵のかかる302号室で妻帯者と二人きりって分かってるか?)
俺とグラスフォリオンは304号室でアレンルードのことも含めて打ち合わせていたのだが、何やら音がするなと思って廊下を見てみたら、バーレミアスとアレナフィルが301号室のダイニングテーブルやチェアを302号室へ運び入れていたのだ。
その際の会話を聞く限り、どうやら二人は302号室でのんびりだらだら過ごそうという意見の一致を見たらしい。
年頃の娘として、あいつはとても大切なことを分かっていない。
― ◇ – ★ – ◇ ―
到着したばかりなのでディナーボックスを買ってきて二階のダイニングルームで食べればいいだろうと、全員で散策も兼ねて買いに行ったところ、アレナフィルがとある食堂の前で立ち止まった。
「ここっ、多分美味しい気がしますっ。どうせなら食べていきましょうっ」
「それでもいいけど。なんだ、アレナフィルちゃん。ガイドマップでも見てたのかな?」
「ううん、なんかこの新鮮そうな油とかガーリックとか魚っぽい匂いが、美味しいよって言ってる気がするっ」
お前の鼻はどんな特別仕様なんだ?
グラスフォリオンはアレナフィルに甘い。俺達に全く了解を取ることなく了承していた。
俺達とて別に外食だろうが持ち帰りだろうがどうでもいいのでその店に入ったところ、どうやらそこは海鮮料理を得意としていたらしい。
「ほら、アレルちゃん。君が食べてみたいって言ってたお魚が来たよ。だけど塩で焼いただけなんて、本当にソース要らないのかい?」
「まずは塩ですよ、塩。ソースは次。レオカディオお兄様も食べれば分かりますっ」
アレナフィルはたちまちご機嫌になっていたが、俺達は野菜なども揚げてソースを絡めた方がボリュームもあるだろうにと、その魚だけというメニューを選ぶ気持ちがいささか理解できずにいた。
まあ、本人が幸せそうだからいいんだが。
「このお魚、美味しーっ。ちゃんと塩振りして臭みを取ってから焼いてるっ。このプリッとした身が何とも言えないっ」
「俺はこっちの貝の方がいい。うん、シンプルなのにガーリックが効いてる」
「レン兄様、分かったようなこと言ってるけど、単に骨を取り除くのが面倒なだけっ。私はお見通しだっ」
貝料理を注文したバーレミアスは、トーストしたパンと一緒に食べている。それぞれに大皿で注文したが、アレナフィルの焼いただけの魚は一人分しか注文していなかった。何故なら他に食べたいという奴がいなかったからである。
俺としてはオイル煮の方が美味だと思う。
ある程度食べたところで、俺はアレナフィルに切り出した。
「なんでわざわざ別室だったってのに、同室にしてんだ。分かってるか? まだウェスギニー大佐は到着してなくて、こんなのでも未婚の貴族令嬢で、それがどうして男と同室ってことになるんだ」
「そうなんですが、フォリ先せ・・・、いえ、ガルディアスお兄様。これには深い理由があるのです」
きりっとした表情で反論するが、アレナフィルの主張はその場限りのいい加減なものだと、俺は知っている。
いや、知らない奴の方がいない。
「どんな深い理由だよ」
「朝、レン兄様か私が寝坊してもすぐに起こせるってことと、父がやってきてもレン兄様と気兼ねなく飲めるということと、何より私が朝ご飯作るのが楽だという切実な理由です」
「朝食は二階で取るのだったと思ったがな」
たしか朝食は二階にある共用のキッチンルームやダイニングルームを使い、パンとコーヒーと卵料理ぐらいは出せるようにしておくという話だった。
お前は階段を下りるのすら面倒だとでも言うのか。屋内階段だろ。ウェスギニー子爵邸より歩数は少ないだろ。
そんな俺の表情を見抜いたのか、アレナフィルは自信満々だ。
「予言しましょう、ガルディアスお兄様。わざわざ二階に行かず、ドアを開けたらすぐそこのドアである私の部屋にやってきて、あなた方は朝食を要求するのだと・・・! 大体、朝ご飯作るのだけに着替えて用意するのって面倒じゃないですか。パジャマでささっと作って、食後のコーヒー飲んでから私、朝の用意はしたいんですよねー」
別に不自由な生活をさせたいわけではないのだ。仰々しくなると気に病むだろうと思って使用人を動かしていないだけである。
アレナフィルにわざわざ朝食を作らせるぐらいなら、それぐらいは調理人なり家政婦なりを手配する。
「それならメイドを外注させよう」
「あ、いいです。私、メイドとかに部屋に入られるの、嫌いなんで」
アレナフィルはそれを断ってきた。どうやら本気で使用人を入れたくないらしい。
上等学校一年生の子供にそんな家事をさせるのはどうかといった顔になった俺達だが、ボーデヴェインだけはアレナフィルに味方した。
「そこは仕方ないんじゃないっすかね。ボスも自分のこたぁ自分でやれってクチだし。アレナフィルお嬢さんはしっかりしてると思いますよ」
「だけどねえ、アレナフィルちゃん。いくら大佐の友人でも男と同じ部屋というのは・・・」
グラスフォリオンもそこが引っかかっているらしい。
朝食そのものはモーニングメニューを出している店に食べに行ってもいいが、やはり男と同じ部屋で夜を過ごすというのは看過できないと考えたようだ。
それなのにバーレミアスは平然としたものだ。
「俺の部屋、空いたから、どちらか一人が入ったらどうですか? その方が気楽でしょう。寝室は分かれてるけど、バスルームの使用時間とか、どっちが早いとかって」
「あ、じゃあ俺、そっちに移ります」
ボーデヴェインが303号室から301号室に移ると言い出し、見切りをつけた俺はウェスギニー家に連絡しておくようマレイニアルに合図した。
ここはやはり保護者が反省すべきところだ。
「酒は戻ってから飲めばいいか。たしか二階に揃ってたな。つまみを買っていきたいところだ」
どう見ても未成年の女の子が一人混じっているメンバーだ。俺達は通報されないよう、ワインなども頼まずにウォーター系や炭酸系の飲み物に徹していた。
「飲むのはいいですけど、ガルディお兄様、ちゃんと大事に飲んだ方がいいですよ。二階のスペース、高いお酒が並んでましたよ。ガバガバ飲むなら安酒で十分。あそこの蒸留酒一本で普通にテーブルワインが十本買えます。せめて毎晩ショットグラス一杯程度にしておくべきです」
アレナフィルは俺だけではなく、他の奴にも親指と人差し指でショットグラス程度の長さを示し、
「これぐらいですよ、皆さん。それが礼儀正しい酒飲みの限度というものです」
などと見渡している。
正直、高い酒なんぞ不要で、もっと楽しく飲める酒がいいのだが。
そんな俺の思いは皆にも共通だったらしく、なんだかアレナフィル以外の視線が泳いでいた。
何が悲しくて飲む量までちびちびと子供に管理されねばならんのか。
「分かった。帰りに酒屋にも寄っていこう。ついでにその安酒とやらを教えてくれ。買ったことないから俺には分からん」
「何故だろう。ちょっとムカってきました。自分が飲むものすら買ったことがないとは」
そんなものを俺が自分で買いに行くなら、何の為に酒を管理して相応しい銘柄を出してくる者を雇用しているのかという話になる。
酒の管理や選択を任せられる人間を雇う者がいるからこそ、彼等もまたそういった知識を学んで雇われるのだ。そして酒類の知識や作法も系統立てて確立し、銘柄もまた生産維持が可能な金額で取引されていくことになる。
全ては人々の営みとなる為に循環しているのだ。
けれどもここは貿易都市サンリラ。
誕生日会でぺらぺらとつまみと酒について語っていた珍獣もいることだし、ちょっと変わった経験をしてもいいかと俺は思うことにした。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
アレナフィルは生きる娯楽だ。
俺はアレナフィルがどんな酒を購入するのかを見たかったし、他の奴らはアレナフィルが父親の為にどんな酒を買うのかといった程度の思惑だっただろう。
「子供にお酒は・・・」
「えっと、私、子供なので親戚のお兄さん達についてきてもらってるんです。それでも買えないですか?」
「そちらの皆さんが、このお嬢さんの保護者ですか?」
「ああ。こっちに到着したら年寄り好みの酒しか揃ってなくてね、みんなで買いに来たんだ。子供は置いてきたかったんだが、ご老体は説教臭いのでこの子も逃げ出したいらしくてね」
悪い男達に囲まれている少女ではないかという目で見られたが、アレナフィルの頭を撫でるグラスフォリオンの様子に、店員も安心したらしい。
侯爵家への配達が可能かを問うたこともあるだろう。
俺達に任せておけば大丈夫だと思ったのか、アレナフィルはさっさと棚の所へ行って色々な酒瓶を見比べている。
「あとで父が合流するんです。父は甘くない、辛そうなお酒をよく飲んでいるんですけど、このお酒って、こっちのお酒に比べてどう違いますか?」
「こっちのお酒とですか」
くっついてきた子供が一番熱心に酒を見比べてどうするんだという疑問が、その店員の顔にはありありと浮かんでいた。
レオカディオ達がこそこそと、
「こーゆーの、こうやって売られてるのか」
「酒なんて店で注文するか、保存室に並んでるもんだと思ってたな」
などという会話をしていたからかもしれない。
大体、どうして希少でもない酒の値段を俺達が知っているというのか。
「はい。これ、ちょっとスモーキーだけど、コクのある濃いコーヒーと割ると悪くないんですよね。だけどまだこの町でコーヒー豆買ってないから、合うかどうか分からないんです。酸味が強い豆だと合わないですし。それなら氷だけで飲みやすいのかどうかなって思ったんですけど」
「ちょっと待ってください。親父を呼んできます。そのまま飲むんじゃないんですね?」
普通に酒の味を比較するのではなく、コーヒー豆の種類にまで及んだ質問とは店員も思わなかったらしい。アレナフィルがコーヒー豆の地域や種別まで語るに至っては、腰が引けていた。
「はい。そのまま飲むなら高いお酒がいいんでしょうけど、私にもお小遣いの予算があって・・・。父も、たまには変わった味のお酒を出したなら喜んでくれるんじゃないかなって・・・。父ってばいつも頑張って働いているから、せめてたまには旅行を楽しんでほしくて、私のお小遣いで買えるだけ買ってあげたいなって・・・」
可愛らしく父親思いの娘であることをアピールしているが、誰が聞いても「どこの飲食店の回し者だ?」レベルな話である。
呼ばれて出てきた店長もまた、アレナフィルに色々なスパイスやジュースと混ぜるそれを聞いて、
「酒ってのはストレートが基本で・・・」
と、言いかけていたが、そこでアレナフィルによるアルコール濃度と吸収率と酔いによる味覚の減退などを説明された上に、そのスパイスを入れ始める文化のエピソードまで披露されては、もう語る言葉もなかったらしい。
「そもそもお酒は酩酊感、鼻に抜ける香り、そしてのどを通るその味わいを楽しむものです。飲み方を固定するのは作り手へのリスペクトと称したただの自己満足です。いくら手塩にかけた野菜だからって、いつもいつも生のサラダで出されるべきだと主張するようなものですね」
「む・・・」
「その証拠に、まず一口は水を飲んで口の中を洗い流し、その上でこれを一口飲む。僅かなモミの木スモークを思わせる香りが鼻を抜けていっても、三口目からはそれも弱まってしまう。そんな時、また水を飲むなんてせせこましいだけ。そこでこのスパイスを軽く潰すか、折ってグラスにポン。すると森林スモークを思わせる香りが一気に広がるのです」
「・・・はあ」
「その飲み方は数百年前の文献にもあるんです。当時、命を懸けて海に船を出し、持ち帰った船長へのリスペクトもあったのでしょう。歴史を感じながら味わう、それこそが今生きる人の贅沢というものなのです。問題は合うお酒が限られることですね」
ぺらぺらと喋っている上等学校一年生。
偉そうにお前はナニサマだ。
(あのな、店主。だからって味見させてどうするよ)
子供の飲酒はよくない。だから舌先でスプーンに取った酒を舐めてすぐに水ですすげばいい。
そんな抜け道みたいな方法でアレナフィルに舐めさせれば、アレナフィルもまた、
「あ。新鮮さが違うかも。もっと古くなったのならアップルサイダーで割るといいけど、これなら林檎すりおろしがいい」
などと言ったりして、店主はそれを途中からメモしていた。
そのおかげだろう。
アレナフィルが買うことにした酒瓶は30本近くあって、かなり値引きした金額が提示された。
「ありがとうございます、店長さん。父も、・・・喜んでくれるかな」
「大丈夫さ。こんな可愛い娘にここまで大事に思われるなんざ、親父さんもうれし泣きしちまうってもんよ」
なんか美談にしてるが、肝心の父親はそこまで酒に変化を求めてないと思うぞ。
「あー、店主。すまんが、この子がさっき買うのをやめてた酒って、ナツメグ散らすとか言ってたが、そんなの入れるもんなのか? 酒だろう?」
「あーっと、こっちのお嬢さんはそう言ってましたけどねえ。その親父さん、かなりお酒を楽しまれてんでしょうな。まあ、かなり鼻にくる酒なんで、そういう変化をつけるってのは悪くないかもしれませんがねぇ」
「ふむ。じゃあ、これは俺が買っていこう」
メモはしていたが、今までやったことのない飲み方だからなのか、店主もまだ懐疑的だ。
とりあえず俺はアレナフィルが予算的に諦めた酒も含めて買うことにした。配達させるまでもなく、これだけの人数がいると買い物も大した問題ではない。
ついでにマーケットにも寄って色々と買いこんだのだが、隠れて警護している奴らが悲し気な顔をしているのがちらりと見えた。
(エリーの初めての外出についてった兵士達と一緒か)
俺が荷物持ちするなんて思わなかったんだな。だが、冷凍食品や果物やヨーグルト、ハーブやスパイスなど、マーケットでの買い物はまさにアレナフィルの独壇場だった。
「あ、これこれ。うちの近くだと売ってないんだよね」
「これこれ、フィルちゃん。おうちで料理はしないだろ? そんなに買ってどうするよ。絶対余るぞ」
「大丈夫。その為にクラブがある」
果汁や牛乳、炭酸といった飲料のボトルや卵やハムなどはたっぷり用意されていたが、食事は食べに行くか、配達といった形を取るだろうと思われていたのだ。それを知らないアレナフィルは、ここぞとばかりに自炊する為の買い物をしたのである。
思えば五人のクラブでもあれだけ買いこんだ娘だ。予想しておくべきだった。
― ◇ – ★ – ◇ ―
アレナフィルが何かと第2調理室で作っているのは知っていたが、父親の友人であるバーレミアスがここまで甘えきっているとは思わなかった。
結果として俺達は301号室にあった冷凍庫や冷蔵庫、ソファなども302号室に運び、二階にあったボトルなども302号室に補充した。
双子の誕生日会に行かなかった士官達とて、なんか酒屋で偉そうに言っていたし、ちょっと飲ませてもらおうか程度の気分だったが、アレナフィルはかなりのうっかりウサギだったのだ。
「なぜうちがたまり場になっているのか疑問ですが、せっかくだから食後のコーヒーぐらいは淹れてあげましょう」
「食後のコーヒーはいらない。なんか適当に冷たいドリンク出してくれ。あ、酒じゃなくていい。俺はフェリルが来てから飲むよ。だけどそっちの兄ちゃん達には軽く酒でも飲ましておいた方がいいかもな」
「レン兄様、何度引き離してもしつこくご本読みすぎ。おめめにいいジュース飲む」
「あー、それそれ。それ頼む」
アレナフィルはそのつもりだったのか、かなり濃い色合いの野菜や果物をミキサーにかけて冷凍果汁もそれに足してシャーベット状にしたものを作り、ガラスの器に盛ってバーレミアスに差し出した。
「みんなも食べますか? おめめにいいんですよ」
「じゃ、俺もらおっかなぁ。運転したし」
グラスフォリオンが手を挙げて少しもらっていたが、「めっちゃ野菜だね」という感想だった。
「レン兄様。残りは冷凍庫入れておくから、自分でもちょっとしゃりしゃりかき混ぜて食べる」
「んー、分かった」
そう言いながら砂時計をセットしたアレナフィルに理由を問えば、冷凍庫に入れてからも何回かかき混ぜるとふんわりした状態を維持できるのだとか。
「アレナフィルお嬢さん。俺さぁ、違いの分かる男ってな感じの酒が飲みたい。飲んでたらモテモテな感じの」
「一時的に女の人にモテたいなら、ヴェインお兄さんは札束を持ち歩けばいいと思う。それをちらりとみせればイチコロ」
「うーん。一時の気分良さと引き換えに有り金むしり取られるのはなぁ」
そう言いながらアレナフィルはグレープフルーツジュースと辛口穀物蒸留酒を混ぜた。
「周囲のテーブル見て、皆が頼んでない色合いにすればいいですよ。好きなリキュール選んでください」
青や緑、紫に赤やオレンジといったリキュールをその前に並べられたボーデヴェインは、
「んじゃ、緑。お嬢さんの瞳に乾杯っつーことで」
と、緑を選ぶ。
緑のリキュールを足してかき混ぜたものをグラスに注いだアレナフィルは、グラスの縁にカットしたパイナップルを飾って出した。
「アレナフィルちゃん。わざわざそんな計量グラス持ってきてたんだ? ここにあった奴じゃないよね?」
「はい。コーヒーも紅茶もお酒も安定した味の為には正しく量ることが大事なんですよね。だからこれは私がセレクトしたマイドリンクグッズなのです」
えっへんと威張る珍獣は、自分専用の2~3人対応の調理グッズも持ってきていた。クラセン家にしか持っていくことのない、自分なりの出張クッキング用グッズだそうだが、子供の手に対応した小ぶりサイズながらも使いこまれた道具が入っている。
軍でも個人用調理グッズがあるが、それよりは家庭的だ。ポータブル熱源は固形燃料を使うものだったが缶入りなので自然発火の危険性もない。
「プライベートですからうるさいことは言わないようにしましょう。アレルちゃん、それならあまり度数の高くないものを作ってもらってもいいでしょうか?」
「ボンファリオお兄様はどんな味が好みですか? 辛口? 甘口? スパイシー? それともアルコール無し?」
「そうですねぇ。まだ酔いたくないけれど、アルコールに弱いわけではないですよ。特に味の好みもありません」
「では爽やかなオレンジジュースにしておきましょう」
アレナフィルはオレンジをカットしてぐりぐりとスクイーザーで果汁を絞り、少し大きめな氷を入れたグラスに注いでからストロベリーのリキュールを加えた。
香りづけのリキュールなので、酒と言う程でもない。
「甘い香りとさっぱりしたオレンジジュース。男の人って氷を噛むの、大好きですよね。これは恋人にも作ってあげるといいですよ。特にコツも何もいらないですから」
「・・・ありがとう。だけどアレルちゃん、一年生でしたよね?」
「はい。うちのアレンルードと同い年ですよ。嫌ですねぇ、マシリアン先生ったら」
父と兄の三人家族で育った女の子が、どうして女性にウケのいいレシピを伝授するのかと、ボンファリオだって言いたくなるのだろう。言わなかったが。
「私はちょっと辛口でもらいたいですね。何かいいのはありますか?」
「じゃあ、このリキュールが柑橘系とハーブで作られていてかなり辛口です。茶色にも見える橙色ですが、薄暗いところでは血の色にも見えて、だからオリーブを落としてもダークっぽいんです。マレイニアルお兄様にはぴったりでしょう」
そう言ってアレナフィルは、グラスの縁を軽く濡らしてほんの少し塩を、それから砂糖をまぶした。
「普通は塩か砂糖のどちらかでは?」
「砂糖で甘く、だけどちょっと塩が分からない程度に混じっていると甘さが際立つんです」
「なるほど」
そのリキュールは焦げ茶に近かったが、辛口穀物蒸留酒を混ぜることで濃い橙色になる。
ピックフォークを縦に突き刺した小さい胡瓜のピクルスを、スノースタイルにしたグラスに渡すようにしてセットし、アレナフィルは差し出した。
「これも女性好みですか?」
「辛さがくるのであまり喜ばれないと思います。だけどマレイニアルお兄様、性格を反映してひねりのあるこーゆーのが似合うかなって」
頬を桃色にうっすら染めて可愛らし気に語っているが、要は「性格悪いから甘そうなのはフェイクで辛口にしてみました」だ。
何かと探りを入れられるのを不快に思っていたらしいアレナフィルは、さりげなく仕返ししていた。
「そうですか。私としては子供のあなたがどうしてこういうものを手早く作れるのかが疑問なんですがね」
「世の中には本という先人の知識を詰め込んだ素晴らしいものが存在するのです。文句があるなら自分で作ればいいのです」
俺の為にまず毒見をしようというマレイニアル達の気持ちは嬉しいが、相手にあわせてレシピを選んでくるアレナフィルである。しかもそれらが頭の中にあるのでは意味がない。
一人一人に違う酒を提供する気なのか。
「飲めれば何でもいい。適当に作ってくれないか? 甘かろうが辛かろうが気にしない」
「ふむ。ではガルディお兄様にはこれにしましょう」
アレナフィルは濾過蒸留酒とサクランボのブランデーの瓶を手に取った。それまでがジンだったので、おやと、皆の目が向けられる。
「これはですね、トナミさんちの息子さんが、パパの飲んでるお酒をジュースだと信じて飲みたがって仕方なかったんですけど、ちょっと舐めさせたらその後からはパパの持ってるジュースを絶対に飲みたがらなくなったというものなのです」
「トーナミさんって誰だ?」
「細かいことは気にしないでください。だからレイドも一度舐めさせたら欲しがらなくなりますよ」
お前と一緒にするな。うちのエインレイドは人が飲んでいるものを飲みたがる子じゃない。
アレナフィルはグラスにまず粒状の氷を入れて、シロップにレモン果汁を足して甘酸っぱくしたものをとろりと注いだ。それからサクランボのブランデーとウォッカを軽く混ぜたものを静かに加えていく。
「飲む速度とグラスの揺らし具合によって甘さが浮かんだりアルコールが薄まったりしますから、好きな感じで飲んでください」
「なるほど。そのトーナミさんとやらの子供はシロップの甘酸っぱさがない酒の味にむせたんだな」
「そーゆーことです。それ以来、お酒は子供にとって良くないものだって絶対に飲まなかったそうですよ。結果的に大人になってもお酒を飲まなくなっちゃったみたいですけどね」
「そーか」
リビングルームのソファや、ダイニング・キッチンルームの椅子など、思い思いの場所に腰かけながらこうして飲んでいると、アレナフィルは話していても楽しいことに気づく。
魚のすり身に刻んだ野菜を混ぜたものを薄く平べったい形にしてから焼いただけのものを切り分け、つまみと言って出された時には、まともな食べ物かと誰もが軍のまずい携帯食料を思い浮かべたが、食べてみたらたしかに酒のつまみにぴったりだった。
「おつまみっていうとハムやチーズですけど、塩分がきつすぎる時ってあるでしょう? これならマイルドなんです。冷えても別にまずくならないでしょう?」
軽くトーストした薄切りパンの上に載せられているので、食べやすくもあった。
悪酔いしないようにと、氷水もいつの間にか皆に出されている。普段は愚かな珍獣だが、受け答えを聞いていると口説かれてもはぐらかすことに慣れているかのようなところがあった。
「うーん。やっぱりアレナフィルお嬢さん、俺と結婚しません?」
「ヴェインお兄さんは自分でお料理覚えるといいですよ。もしくは料理店の隣のおうちに引っ越すといいですよ。半周回って料理上手な同僚と恋に落ちればいつでも一緒で幸せですよ」
「いや、職場結婚は心が荒むから遠慮したい」
かわされると分かっているから遠慮なく口説く空気を楽しめる。
「こういう時間を提供してくれるだけでも嬉しいものだな。アレルちゃん、卒業したらうちにお嫁に来るというのはどうだろう?」
「ごめんなさい、レオカディオお兄様。私、大きくなったらパパと結婚するってお花畑でおままごとしながら約束したんです」
「そこは大人になることにして」
「そうなんです。大人になると現実が見えてくる。今、私が考えなきゃいけないことは父の老後問題」
「・・・飛躍しすぎだ」
うん、おかしい。お前、上等学校一年生だよな?
たとえ保護者の監視がワクだけで役立たずだったとしても、酒場で働くことなんてできなかった筈だよな?
なんで顔を赤らめることもなく口説き文句に似たそれらを次から次へとかわしまくることができるんだ?
(せいぜい寝酒を出す程度と思っていたら、こいつどこまで自宅で飲んでたんだ? 深夜の店に本当に出入りしていたんじゃないのか? だが、そんなこと見かけただけでも通報される。保護者無しで深夜に子供が出歩いていたら通報する義務があるんだからな)
俺の思いは皆にも共通だっただろう。
きっちりと耐熱ガラス製の目盛りを見ながら酒を混ぜ合わせるアレナフィルは、スクリュー式蓋のついた容器も持っていて、普段はそれを粉ふるいとして使っているのだとか。
粉をまんべんなく混ぜる為の容器を、酒をシェイクするのに使っているわけだが応用力が凄い。氷がグラスに入らないようにするのも茶こしを使っていた。
見た目はあまりスマートではないが、味には全く問題ない。
「リオンお兄さん。これはですね、こんな風に持ってリズムはシュルルン、フワンって感じで混ぜて音を立てずにすっと引き抜き、こんな感じでこう注ぐと、ほら、大きな手が斜め向かいからセクシーに見えるんですよ。ねー、アドルフォンお兄様もそう思うでしょう?」
「いや、別に男の手なんてただの手だけど。アレナフィルちゃんの手は可愛いけどね、ネトシル少尉のは普通に作業してるだけにしか見えないな」
「んもう。分かってない」
こいつの引き出しはどれだけあるのか。
グラスフォリオンの手さばきなんかよりも、流れるような手つきでくるくると魔法のように飲み物を次から次へと作り上げていく彼女は全てのレシピが頭に入っているとでもいうのか。
平然としているのはバーレミアスだけだ。
そこへガチャリという音がして、扉が開けられる。
「おとなしく寝ているとは思っていなかったが、だからといってフィル、まさか私は娘がバーメイドをしているとは思ってもみなかったよ」
ウェスギニー大佐、つまりフェリルドが到着したわけだが、彼は自分と娘が二人だけで泊まる部屋の筈がどうしてこうなっているのかという疑問をありありとその顔に浮かべていた。
― ◇ – ★ – ◇ ―
何事も、ごまかせない現実というのはあるものだ。
アレナフィルの前にあるテーブル上には使ったそれぞれの瓶が並び、グラスフォリオンが教わりながらレシピをメモしていた。
けれども父親の姿を見つけた途端、アレナフィルはさっと自分の飲んでいたグラスを持って違う場所に移動して、まるで見ているだけといった偽装を行おうとする。
「たしかこの部屋は私と娘だけが使うと聞いた覚えがあるのだが」
「あ、フェリル。寝室二つあるし、ベッド二つずつ入ってるから俺もここ泊まるわ。お前、フィルちゃんと一緒の寝室な」
「そうか。だが私はお前が保護者として機能しなかったことが残念だよ」
「別に俺とフィルちゃんが同室でもいいけど」
「そこの窓から飛び降りてみるか?」
それでも俺やバーレミアスのいるリビングルームに来てソファに腰かけるあたり、やはり話を聞くならこっちだと思ったのか。
色々とごまかそうと思ったらしいアレナフィルは、今からでもお茶やコーヒーを淹れるべきかとケトルを取り出そうとしていたがテーブルなどを見て、無駄な努力だと諦めたらしい。
グラスに大きな氷とウィスキーを入れただけのものを運んできて父親に差し出した。まあ、それぐらいなら子供でも作れる感じか。
自分の飲んでいたロングタンブラーも持ってきているあたり、やはり父親大好き娘だ。
そんなアレナフィルを、フェリルドは自分の膝の上に座らせた。
それを娘に対する溺愛と見るか、尋問の為の身柄確保と見るか、解釈は人それぞれだろう。えへへっと嬉しそうなアレナフィルは前者、不憫さに視線を逸らした俺は後者だ。
「ありがとう、フィル。だけどどうしてこの部屋には冷凍庫と冷蔵庫が二つずつあるんだろうな。しかもリビングルームの棚になんであそこまでの酒が並んでるんだ」
「みんなが一台ずつ、お酒専用で運んできたから。炭酸やライムとか、お酒用に入ってるの」
甘えれば全ては許されると思っているのか、こくこくと自分のタンブラーの中身を飲んでいる様子は可愛らしい。嘘をつかない姿勢も立派だ。今のところは。
「フォリ中尉。酒は自分の部屋で飲むものだと思いませんか?」
「その通りですが、ウェスギニー大佐。こちらとてクラセン殿と鍵の掛けられる部屋で二人きりと言われてしまえば心配にもなります。我々といった護衛がいた方が、アレナフィル嬢の名誉の為にも安心でしょう」
「酒を楽しむ男達八人に囲まれているこの状況に、どんな娘の名誉を見出せというのでしょうね」
気持ちは分かるが、相手は常にお喋りし続けるアレナフィルだ。酔っぱらって礼儀知らずな真似をする者はいなかった。エインレイドやアレンルードにぺらぺら喋る未来が見えている。
どちらかというと寮監をしている士官達はアレナフィルの特技にドン引きしていた。菓子作りや料理作りならなるほどと思ってやれても、ここまで酒に対して知識を持っていたら学校関係者なら誰だって非行を疑う。
「諦めろ、フェリル。フィルちゃん、みんなの要望聞いて、いろんなカクテル作ってたぞ。俺のは野菜と果物だが。フィルちゃんのこれ、目の疲れが楽になるんだよ」
「レン兄様、おめめ使いすぎ。ずっとご本読んでた。赤いお野菜と緑のお野菜、大事なの」
猫かぶりしたいアレナフィルは家族の前では舌足らずになる傾向がある。たまにグラスフォリオンの前でも出ているが、俺達に対しては無駄だと思っているせいか、それがない。
フェリルドはアレナフィルの髪を左手で梳きながら、グラスの中身を傾けた。たしかアレナフィルが家にあるフェリルドの好みから割り出したものだ。
普段飲んでいるものより風味があって、それでいて濃さはそこまでではないとか。
「あのね、それね、ちょっとリンゴの香りがする筈なの。たまにはいいかなって」
「そうだな。少し軽やかで、気分が変わる。帰りに買っていってもいいか。で、フィル。お前が飲んでるのは何かな? ちょっと甘そうな香りがしてるね」
お揃いの色をした髪と瞳を持つ二人だが、顔立ちが違うのと持っている雰囲気が異なるものだから、知らなかったら親子に見えない時がある。
けれども娘限定の優し気な対応は、普段の彼とは全く違うものがあった。
「ミルクシェイク。卵1個にお砂糖2杯、ミルクを加えてシェイクしたら出来上がり。甘そうな香りはバニラペーストをちょっとだけ入れたからなの。お父様も飲む? お酒が入ってる方がいいならブランデー入れて作ったげる」
人前ではお父様と呼ぶアレナフィルが、嬉しそうにアピールし始めた。
もう甘えていいんだよねとばかりに、すりすりと父親の胸元に頭をこすりつけているお子様の様子に、どんなに口説き文句を並べても本気にしてもらえないどころか、顔さえ赤らめてもらえなかったダイニング・キッチンルーム組がいささか恨めしそうな顔になっている。
(俺達の前と父親の前ともう別人だろ。お前、そこまであからさまにやるか?)
アレナフィルは好き嫌いがとてもはっきりしている子だった。
なんだかぷふっくふっと幸せな妄想を繰り広げているらしい娘の顎を、フェリルドがくいっと指で持ち上げて視線を合わせる。
にこにことしているが、その眼差しは決して微笑んではいなかった。
「いや、いいよ。全く、我が家の妖精さんは、どうしてお酒を飲まないのにお酒をブレンドできてしまうんだろうね?」
百歩譲って氷の入ったグラスに蒸留酒を注ぐ程度は、家での父親を見ていれば覚えもするだろう。だが、ブランデーを入れたミルクシェイクといったものはごまかしようがない。彼がそんなものを自分で作る筈がないからだ。
フェリルドは俺達が飲んでいる全てのドリンクが、アレナフィルが作ったものと確信したのかもしれない。
アレナフィルは自分からミルクシェイクに合うブランデーを選ぶ知識があることを保護者に暴露してしまった。
父に対するサービス精神を発揮しようとして自分の首を絞めたことに、アレナフィルもハッと気づいたのか。
「レ、レン兄様が飲むからっ」
「なんでここで俺の名を出す」
言外に自分は無関係だと主張するバーレミアスは、とっくにリビングルームからダイニング・キッチンルームの方へと移動していた。グラスフォリオンが飲んでいる味の感想を聞いて、自分にも同じものを作ってくれないかと依頼中だ。
あのな、アレナフィル。どんな親だって娘が男に酒の給仕をしていたと知ったら怒るものだぞ? まだ家族内でのそれならばともかく、ここはしっかり怒られておけ。
ウェスギニー前子爵には庇ってやったバーレミアスも、自分の親友に対しては庇う気にならないらしい。
父親ヘビに睨まれた娘カエルは視線を外せずに硬直しているものの、それでもバーレミアスに責任を押し付けようと鋭意努力中だ。
「レ、レン兄様、だっておうち大好きだから、フィルに作らせるんだもんっ。だからフィル、覚えちゃったんだもんっ」
「だからどうして親子のそれに俺の名を出すんだ」
親友か、娘か。
フェリルドがどちらの言い分を信じたのかは、その顔を見るまでもなかった。
愛は、信頼にはなれない。
「レン兄様の裏切り者ぉっ」
「何故、俺が責められる。まあ、いい。フェリル、そろそろフィルちゃん、寝かした方がいいだろ」
肩をすくめるバーレミアスは軽く顎でテーブル上に並んだ酒瓶を示す。つまみも並んで、せっかくだからと自分で作ってみる奴が続出したものだから隠しようがない。
意訳:もう終わった後だ。なかったことにはならん。
フェリルドも子供は寝る時間だと諦めたようだ。アレナフィルは「見てただけ」を貫こうとしているが、使われている計量グッズはアレナフィルの私物である。
そして俺達は軍事行動している時でも調理は兵士がやってくれる立場の人間で、酒など瓶からグラスに注ぐことぐらいしかやらないものだ。
「そうだな。フィル、シャワーを浴びてもう寝なさい。挨拶には来なくていいよ。私達はまだ話しているから」
「はい、お父様。それでは皆様、おやすみなさい」
就寝の挨拶に来なくていいと言われたので、アレナフィルは貴族令嬢らしい挨拶をしずしずと行う。
だがな、アレナフィル。猫をかぶるには遅すぎた。
「おやすみ、アレナフィルちゃん」
「おやすみ、アレルちゃん」
「ゆっくりおやすみ」
アレナフィルがダイニングルームから廊下に続く扉を閉めると、もうあちらの音は響かない。こちらの物音や人の声があちらに響かないように。
それだけ扉は厚くしっかりしていた。
「バーレン。お前もどうして止めなかった」
「なんかフィルちゃん、人気っぽかったし。後から、イメージが違ったとか言われる前にお付き合いする相手は排除しといた方がいいと思ってな。
あの年でこういうのができる子なんて身持ちが悪いんじゃないかとか、お育ちが悪いんじゃないかとか、結構ぼろくそ言われるもんだ。貴族の結婚相手には向かないんだから手を引けってことさ。
それに自分は面白いと思っても、自分の母親や姉妹には眉を顰められることぐらい、誰だって子供じゃないんだから分かるだろう」
その通りだ。
初対面からアレナフィルを気に入っていた俺を知っている寮監チームは、アレナフィルの意外な特技に頭を抱えていた。
個人的には面白いと思えても周囲の反応を考えると・・・という奴だ。
一般的にはそういうものだ。だが、俺とグラスフォリオン、そしてボーデヴェインは、誕生日会である程度は察していたし、どっちかというと楽しいとしか思っていなかった。
よそに行かなくてもアレナフィル一人いれば全ては事足りる。あの子は本当に面白い。
「ウェスギニー子爵。そう嘆かれなくてもアレナフィル嬢は健全なものしか飲みませんでしたし、私達にも悪酔いしないようにつまむものや水を出してくるいい子でしたよ?」
「そうです、大佐。結果としてアレナフィルちゃんは自分でお酒を作ることができるんですから、変な男に変なものを飲まされることもないわけです。何より俺は家族よりもアレナフィルちゃんを取ります」
「えっと、ボス。そういうお貴族様にはお貴族様に相応しいお人形さんみたいな貴族令嬢がいるってもんです。アレナフィルお嬢さんはめっちゃいい女になる予備軍ですよ? 美人は劣化しますけど、中身の面白さは変わりませんって」
「・・・家族と離れて元気がない子に手を焼いて、やっぱりお子様の相手は無理だと諦めてくれると信じていたものを」
何かと面白いものを発見するたびに、「ルードに見せたかったな」と、呟いていたアレナフィル。
さすがのマレイニアルも、「お嬢様が既婚者を部屋に連れこんでいるから阻止しに来てください」とは言えなかったらしい。
ちょっとホームシックが出ているようでカラ元気で笑ってみせる様子が痛々しいから来てくれと、そんな連絡をウェスギニー家のサンリラ別邸で受けたフェリルドは、レミジェスやアレンルードとも相談してあまり元気がないようなら引き取ってもいいのではないかと、そのつもりで来たのだとか。
そして到着してみれば、父親を見た娘は双子の兄に会いたいと訴えるどころか、父親が来たならそれでいいやと元気になってしまった。
(お前はアレンが恋しかったんじゃないのか、アレナフィル。そりゃ父親にしてみれば嬉しいんだか、娘の現金さに呆れればいいのか、複雑だろうよ)
小さくても女は女。男を振り回す魔性の生き物だ。




