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3 その喪失が示すこと


 記憶を失い、言葉も失ったアレナフィル。

 双子の兄アレンルードは自分を覚えていないアレナフィルに苛立(いらだ)ち、

「フィルをなおして」

と、泣いてばかりだった。

 それでもアレナフィルの瞳には知性があって、言葉を覚えようとする意思も感じられた。


「ルード。私達がいない間、フィルはとってもとっても怖い思いをしてしまったんだ。それで言葉も何もかも分からなくなる、恐ろしくてひどい魔法にかけられてしまったんだよ。だけどフィルは戻ってきた。・・・ルード、全てを忘れてしまう魔法にかけられたフィルを、お前は見捨てるのかい?」

「そんなことしないよっ」

「じゃあ、フィルを守ってあげなさい。今のフィルはね、4才じゃなくて0才の赤ちゃんなんだ。ルードは0才のフィルに言葉を教えて、そして手を引いて面倒を見られるかい?」

「できるっ」

「・・・いい子だね、ルード。フィルは今、お前の言葉も分からない。乱暴なことはしちゃ駄目だよ」


 絵本の読み聞かせから始めて言葉を覚えさせようとしてみたが、私には気がかりなことがあった。

 それはアレナフィルが口にする意味不明な声の羅列だ。


(まるで普通の言語に思える。そう、ちゃんとした法則性のある外国語のように)


 私はこっそりアレナフィルの言葉を録音してみた。

 引っ越してきたこの家には、ここぞとばかりに使用人を寄越(よこ)そうと父が画策していたが、今は双子を一緒にしておく方がいい。母親のお腹の中にいた頃から一緒だった二人だ。何かの拍子で不意に記憶が戻るかもしれない。

 だから買い出し及び料理をする者を一人、洗濯と掃除をする者を一人、子守りを一人、通いで寄越すように言っておいた。


「お前はっ、父に感謝することを知らんのかっ」

「別に普通に家政婦ぐらい雇えます。押し売りの何に感謝しろと?」


 初孫が気になる父の所へ子供達の盗み撮りフォトを持ち帰ると分かっている使用人達を受け入れてあげるのだから、感謝してほしいものだ。

 そしてアレナフィルが呟いていた言葉を、変声装置で若い男の声にして録音し直し、言語学の講師をしている友人・バーレミアスの所へ出かけた。

 軍ならば暗号情報解析部もあるが、そちらを使う選択肢はない。誰がバイゲル侯爵家と繋がっているかなど分からないのだ。

 習得専門学校で講師をしている友人はあっさりと答えを教えてくれた。


「なんだ。ファレンディア人のお客さんでもあったのかい? 言葉が通じないと思って、色々と言われてしまったんだな」

「え?」


 てっきりどこかで聞いた不穏な言葉を、オウムのように呟いているのではないかと思っていた私に向かって、バーレミアスは辞書を広げながら、たどたどしく通訳してくれた。

 彼も軽く学びはしたが、そこまで詳しくないそうだ。それでもファレンディア語ならではの特徴があったので目星をつけ、何度も再生し、辞書をめくれば大体の意味を訳することはできる。


「えーっと、これは、【子供、世話、理解、しない。子供、全て、食べる】だ。フェリルのとこ、子供がいたのか? 大人が見ていない時に、子供が何かを食べていたんだろう。ちゃんと子供のことをみておけって言いたかったんじゃないか?」

「・・・心当たりはある」


 だが、それを話していたのは数の数え方も忘れたアレナフィルなのだ。自分の名前も覚えていない4才の子供が、双子の兄の盗み食いに言及するのはおかしくないだろうか。


「で、次は【顔、無駄、駄目。大人、男、似合う、襟、シャツ】か。そこに誰か男性がいて、襟のないシャツが似合っていないと言いたかったようだ。言葉が分かってないと思って言いたい放題だな」

「・・・そうだな」


 私のシャツで鼻水を拭いていた娘に言われたくはない。

 それでもボタンで鼻を(こす)ったら痛いだろうと、襟のないシャツを着るようにしていた父の愛を何だと思っているのだ。

 あの子はもう私のシャツで鼻水を拭いていたことなど覚えていないけれど。


「で、性犯罪者さんよ。俺は通報すべきか? お前はいい友人だと思っていたが、いつから宗旨替えした? 男を襲う趣味があったとは、それを俺に聞かせてどうしたいんだ?」

「はあっ!?」

「次の叫びはこれだ。【服っ、脱がないでっ。僕の服、脱がせないでっ。入浴はっ、一人っ。いい体をしてるっ、セクシー。だけど駄目っ、いやだ、裸っ、犯罪者っ、性的犯罪者、駄目っ】だが、てめえ、何しやがった?」

「・・・・・・」

「フェリル、たしか結婚していたよな? そしてこれはお前の家の客なんだよな? この声、若い男だよな?」

「ちょっと待ってくれ、バーレン。それは変声装置にかけただけで、本当の声はこっちだ。実はうちの娘が目を離した途端、意味の分からないことを言うようになって、理解不可能となった」


 仕方なく私は、雑音や周囲の会話も入り混じった本来のそれを聞かせた。

 私とアレンルードの声が入っているおかげで、今度は前後の言葉と照らし合わせて、彼の翻訳もそれっぽくなった。

 翻訳とは、前後のニュアンスに応じて行われるものだからだ。


「こらっ、フィル、体を洗わないと綺麗にならないんだぞっ」

【やだっ、何を下着まで脱いでるのぉーっ】

「フィル、おようふくぬがないと、おふろ、はいれないよ」

【私の服を脱がせないでーっ】

「ほら、愚図(ぐず)ってないで。はい、万歳(ばんざい)しようね」

【お風呂なら一人で入る―っ】

「お湯が怖いのかな。だけどね、お水は冷たいんだよ。さ、おいで。ルードだって待ってるじゃないか」

【そりゃ眼福ないい体だけどぉーっ】

「はいはい。入れば気持ちいいよ」

「パパ、シャワーだして。フィル、あらってあげるの」

「ああ。いい子だな、ルード。フィルがお湯を怖がってるからシャワーは足先からにしてあげなさい。お前が先に浴びてみせた方がいいのかな。ほら、滑らないよう、二人とも座って。ちゃんとヒヨコさんとアヒルさんも浮かべてあげるからね」

【あああーっ。見せないでぇーっ。私っ、痴女じゃないのにーっ】


 私とアレンルードにその気配がなく、しかも幼い女の子の声なので、

「おませさんなんだな」

と、友人による通報は免れた。


「なあ、フェリル。たしかお前さん、反対される相手と結婚して勘当されたって話だったよな。もしかして娘さん、誘拐でもされてファレンディア人に育てられていたのか?」

「よく分からん。目を離したら、こんなことになっていた。そして妻は亡くなった。詳細は不明だ」

「・・・・・・そうか。お気の毒に」


 声を変えていた理由を問われ、

「君を危険に巻きこみたくなかった。秘密を知る者は少ない方がいい」

と、妻が殺された途端、娘がおかしくなったことを告げればそちらの理解はすぐに得られた。

 誰だって異常な事態だと分かる。


「そうか。疑って悪かった。ごめん、フェリル。たしかに軍事機密が絡む恐れがあれば、知らない方がいい」

「ああ。だが娘もこの国で孤立するような外国語教育をされただけなら、そこまでではないだろう。何をされたのか、まだ分かっていないんだ。サルートス語を全く理解しなくなり、喋るのはこの変な言葉だけだ。てっきり言葉を理解できない損傷を脳に与えられたのかと思ったが、間違いなくファレンディア語なんだな?」

「ああ。だが、これはとんでもないことだ。そこまでではないなんて、それでお前はすませるのか? これはとんでもない事件じゃないかっ。こんな幼い子を連れ去り、外国人に渡したとでもいうのか・・・!」


 バーレミアスは双子の内の一人が誘拐されて、外国人に育てられたと判断したようだ。誰だってそうとしか思うまい。

 私は否定せず、あの空白の四日間でこれらがどうやったら可能になるのかを考えていた。


「命があれば、明日は来る。妻は亡くなったが、娘は取り戻した。バーレン、どんな時でもまずは命を拾ってからのことだ。今は娘を、普通に生きることができるようにしてやらなくてはならない」

「それはそうだが・・・。お前、何に巻き込まれたんだ」

「分からない。そもそも恨まれる覚えもないし、仕掛けられなくてはならない覚えもなかった。目的も黒幕も全く見当がつかない。今、やっとあの呪文が外国語だったと分かった程度だ」

「フェリル・・・」


 ファレンディア語の辞書がどこで売っているか、発音をどう聞き取ればいいのかを聞けば、初心者向けの辞書を購入しておくと、バーレミアスが自分の持っている辞書を見ながら、これは使いにくいだろうからと呟いた。更に商売でやり取りする人用の、サルートス語対比本も取り寄せてくれると言った。

  

「4才にしては賢い子じゃないか。サルートス語から隔離されて育ってしまったとしても、今からでも大丈夫だ」

「ああ。だが、この件は内密に頼む。うちでも厄介な、つまり太刀打ちできない相手が絡んでいる可能性がある。妻を殺したのは侯爵家の人間だ」

「・・・なんてことだ」

「それよりバーレン。ファレンディア語しか喋れない子でも、今からでもサルートス語習得は可能なんだな?」

「大丈夫だ。子供は覚えが早い。そして誰にも言わないよ。安心してくれ」

「頼む」


 バーレミアスは平民の父親と貴族の母親の間に生まれている。子爵家の私が厄介だという以上、他言したら身に危険が迫るかもしれないことをすぐ理解した。

 それでも録音したものを渡せば大体の翻訳はしてくれるそうだ。その文字数による翻訳料金を払うことで、話は決まった。

  

(問題は、フィルの脳にとんでもないことをされたかもしれないことだ。いくら何でも4才の子供の思考ではない。別人格を植え付けられた? いつの間に? あの四日間でか? だが、あの病院はそういう研究をしているところと繋がってはいない)


 バーレミアスは結婚しておらず、子供がいない。

 だから分からなかったのだろう。4才の子供が、成人した男性の裸を見てうろたえるというおかしさを。

 子供は大人の体を見ても、自分達とは違うんだなといった感覚しか持たないのだ。ママは抱き上げてくれても続かないから、パパの方が抱っこやおんぶ時間は長いという程度しか、男女の違いを理解していない。


(これからフィルの前では気をつけなきゃな。だけどね、フィル。パパは娘に体を品定めされたことがショックだよ。それはまだ十年以上先のことじゃないのかな)


 4才のアレナフィルに、なぜか性別を正しく学んだ者ならではの羞恥心(しゅうちしん)が生じていた。



― ◇ – ★ – ◇ ―



 妻の死を悼むよりも子供達のことを考えて動く私は薄情な夫だろう。良くも悪くも私は悲しみも放心も後回しにするくせがついていた。


(うちからよこされる子守りは駄目だ。ご機嫌にさせる為ならなんでもしかねない。あまりにも責任感がなさすぎる)


 甘いと子供が喜ぶからと、牛乳も水も全て砂糖を入れて飲ませていたのだ。たまにならいいだろうが、食事の代わりにお菓子を食べてもいいという感覚に、私は危機感を抱いた。

 子供には母親のような存在が必要だ。父が(たくら)んでいるような貴族令嬢ではなく、子供のことを親身になって考えてくれる女性が。


(再婚なんぞまっぴらだ。この子達をどうして辛い環境に落とせる)


 私に女として迫ってこないであろう女性は誰がいるかを考え、血の繋がらない従姉(いとこ)の存在を思い出した。

 叔母が嫁いだ男性には先妻の産んだ娘・エイルマーサがいた筈だと。

 ウェスギニー家とは全く血縁のない存在だが、縁戚関係は存在している。たしかどこぞの役人と結婚して息子がいた筈だが、とっくに息子も成人しているだろう。

 昔の記憶ではかなり家庭的な女性だった。何か祝い事で親戚関係が一気に集まった時、はしゃぎまわる私達、恐らく子供8人ぐらいだったと思うが、まとめて世話をしてくれたのだ。てっきり使用人かと思って私達は色々とねだり倒したが、にこにことしてお菓子を作って味見させてくれたり、危険なことをしたら叱りつけたり、それでいながら汚してしまった服をこっそり洗ってくれたり、綺麗な服を手配してくれたりしていた。

 訪ねていけば、エイルマーサは目を丸くして家に迎え入れてくれた。


「まあまあ、お久しぶりですこと。あのフェリルド様がこんなにご立派になって」

従姉弟(いとこ)同士なんだから、様は不要です。ちょうど所用でこの辺りまで来たものですから、久しぶりにお会いしたいなと思いまして」

「まあ。それでもいずれ子爵様になるフェリルド様ですもの。お願いですから、私を礼儀知らずにさせないでくださいな」


 とても温かみのある家だと思ったが、今は色々な物を処分している途中だとかで、部屋の隅に積み上げられている処分物の見苦しさを謝られた。


「この家を売るんですか?」

「ええ。だって二人で暮らすには広すぎますもの。今までは息子達の気配を感じながら暮らしていましたけど、こうしていなくなられてしまうと、寂しいだけですのよ」


 私の脳裏にこの間まで暮らしていた借家での日々がよぎる。


「分かります。慣れ親しんだ家で、失った存在を突きつけられるのは辛いことです。そろそろ起きただろうか、帰ってくるだろうかと思っては、もうそれがないのだと自分に言い聞かせるのは」

「ええ。取り残されるのは、辛いことですわ」


 手土産に持っていったのは有名店の菓子だったが、

「こんな高いものを」

と、恐縮されてしまった。

 とても恰幅(かっぷく)の良くなったエイルマーサだが、息子はみな独立して家を出たのだとか。


「同居は難しいって言いますものね。寂しいけれど仕方ありませんわ」

「・・・私もうちを出ましたよ。義母にしても弟にしてもその方が気楽だろうと思いまして。エイルマーサ殿も、叔母に気を遣ったのではありませんか? 叔母が、エイルマーサ殿が早く結婚を決めたのは自分に気兼ねしたのではないかと、何かの際に悔やんでいたのを聞いた覚えがあります」

「いえいえ、私はそんなことありませんわ。母というより実の姉のようにも思っておりますもの。だけどうちと違って、フェリルド様は・・・。お辛かったでしょうに。それでもこうしてご立派になられたんですもの。幸せになった者勝ちです。そうでしょう?」

「その通りです」


 微妙な違いはあるものの、それでも私達には幾つかの共通点があった。

 休日だったせいか、しばらくしたら夫であるローグスロッドも帰ってくる。休みの日には色々な借家の物件を見に行っているそうだ。

 次は広さよりも便利さを重視するつもりらしい。

 資料を見せてもらったら、今住んでいる家の近くの物件もあった。


「へえ。もしここに引っ越してきたらご近所になりますね」

「それはそれは。で、この辺りの治安はどうですか? 乗り合い路面車停が近いようですが、事故とかは多くないですか?」

「さあ。私も数日前に越してきたもので。・・・前に住んでいた時は、家賃が要らない寝る為の家でした」


 その時の、二人の呆れたような顔はとても雄弁だった。通常は利便性や治安といったことを考えて家を選ぶそうだ。子爵邸を出て使用人がいない生活をしているならば、社会には危険がいっぱいだと考えて生活しなきゃいけないと、何故か言い聞かされた。

 持っている家に越しただけで、普通の賃貸契約と違うのだから仕方ないだろうに。

 どうやら二人にとって、私は使用人がいないと生活もままならぬ貴族令息のイメージで固まっていたようだ。


「治安はよく分かりませんが、何ならうちでしばらく暮らしてみますか? 便利そうならそこにしてもいいと思いますけどね。今、うちは私と子供二人の三人暮らしなんです。不便そうなら違う所にすればいいでしょう。ああ、別に今、うちは通いの使用人がいますから、何をさせようとかは考えていません」

「まあ、離婚なさいましたの?」

「いいえ、亡くなりました」


 私は、妻がとある事件に巻きこまれて亡くなり、その場に居合わせた4才の娘は記憶と言葉を失ったのだと説明した。


「エイルマーサ殿はとても家庭的な方だったと思い出しまして、よければ質のいい子守りや家政婦の心当たりを教えていただければと思ったのです。実は子供を手懐けようとする不審者といったそれが、既に六件程ありまして。今はもう門に鍵をかけさせています」

「んまあ、なんてこと。まさか今、子供だけでお留守番させていらっしゃいますの?」

「子供だけじゃありません。使用人が三名ほどいます」

「使用人は使用人じゃありませんか。家族じゃありませんのよ、フェリルド様っ」


 そんなことは分かっている。だからもう子育て経験のある人間を子守りに寄越すよう弟に伝えたのだ。

 エイルマーサの反応は、やはり使用人が年端もいかない貴族の子供をいいように利用するケースを知っているからだろう。

 信頼できる使用人を得るのは本当に難しい。


「別に私もそれで育っています。何より今の休暇が終われば、私はほとんど家にいられません」

「落ち着きなさい、マーサ。そういうことならちょっとお邪魔してもいいでしょうか? いえ、のんびりと家を探す予定でしたが、ご近所になるならお子さんの顔も見てみたいですしね」


 なんだかローグスロッドの方が私に不信感を抱いていた。何故だ。彼だって仕事をしていればそこまで子育てなどしていないだろうに。


「はは。うちの子達は妻にそっくりなんですよ。色合いは私に似ましたけど」

「素敵ですわね。可愛い盛りですもの。・・・本当にお気の毒に」


 うちの双子はとても可愛い。親の欲目だけではない。

 顔立ちは妻によく似ているが、あの勝気な性格は受け継がなかったからだろう。父が盗み撮りフォトだけでは満足できずに接触したがるようになったぐらいに可愛い。


「この一階の部屋を子供部屋にしてあります。裏庭にも出ていけますし、階段で転んだら危ないですから」

「んまあ。なんて可愛いんでしょう」


 うちに二人を連れてきたところ、絨毯(じゅうたん)を敷いてある部屋で子供達は沢山のクッションの上でころんころんと転がる遊びをしていた。

 だが、アレナフィルの方はなんだか諦めの表情にも見える。

 アレナフィルは頑張って絵本を広げようとしていたのだが、アレンルードが邪魔していたようだ。


「二人とも仲良く遊んでいたんだね」

「パパ、しらないひとがきた」

「どんな人?」

「ふわふわしたひと。それでね、ボクたちのあたらしいかぞくだっていったの。あわてて、おうちのなかにはいりなさいって。フィルね、このおかおならつかえるんだって」


 ふわふわした服、つまり薄物だったのだろうか? それともリボンがひらひらしていたのか。家の中に入れと言われたのか、それとも案内しろと言われたのか。アレナフィルの顔を見ていった?


「門は閉めていた筈だが、そんな礼儀を知らない人が入ってきたのかい?」

「えーっとね、もんのむこうがわっ。おかしをあげるって。だけどフィル、ボクをひっぱって、ウォレンをひっぱったの。ウォレン、ボクにおうちにはいりなさいって」

「そうか。お菓子はおうちで出される物しか食べちゃ駄目だよ。その人は悪い人で、嘘を言ってルード達を怖いところへ連れて行こうとしていたんだ。お菓子といわれても我慢しておうちに入って、偉かったね、ルード、フィル。・・・・・・はあ、仕方ない。門は二重にすべきか」


 今の門の内側にもう一つ門をつけるべきかと、私は工事所要日数を考えた。

 この家を知る人はまだ少ない筈なのだが、どうしたものか。

 エイルマーサはおろおろとしながら私を見上げてきた。


「あの、フェリルド様。これはもう子爵邸で育てていただいた方が・・・」

「そちらだと今度は普通に客としてやってくることが可能なのです。ここは貴族の家でも何でもないから門番を置かずに門に鍵をかけていても問題ありませんが、子爵邸なら訪問伺いを出されたら受け入れなくてはならず、家の者として来客に挨拶をしなくてはなりません」

「パパ、このひとたち、だぁれ? あそんでくれるひと?」


 アレナフィルを抱きしめながらもクッションの間から好奇心たっぷりに見上げてくるアレンルードは、その期待に瞳を輝かせている。

 実家から寄越される使用人達は、子供と一緒になって泥団子を作ったり、草の汁で服を汚されたりするのを嫌がったので、遊んでくれる人に飢えているのだ。


(それでも可愛いから誰も怒れないんだな。怒られる筋合いもないが)


 特に意識していなくても、顔立ちが何かをおねだりしているように見える子供達だ。絨毯の上でクッションと一緒にコロコロしている様子は、二匹の子狸が絡まり合っているかのように愛くるしい。きょとんとして大人を見上げる姿は、誰もが抱きしめたくなる可愛さだ。

 エイルマーサもしゃがみこんで、二人に微笑んだ。


「ふふ。まあ、なんて可愛いんでしょうね。お名前は? 幾つ?」

「ウェスギニー・インドウェイ・アレンルードです。4さいです。だけどフィルはいま、おしゃべりできないの」

「そんなこと、全く構いませんのよ。可愛らしいお嬢様じゃありませんか」

「だけどフィル、おかしいこだって・・・」

「・・・誰がそんなこと言いましたの?」


 気色ばんだエイルマーサにびくっとしたアレンルードだが、彼女はすぐに気を取り直して笑顔を作る。


「ごめんなさいね。いえ、いいですわ。・・・こんな小さな子に、もうそんなこと言わせませんっ。フェリルド様っ、しばらくここに住まわせていただきますっ。あなたっ、この近くでおうちを探してくださいなっ」

「そうしよう。これは、・・・まずい。放置は絶対にまずい。ちょっと待っててくれ。すぐに契約してくる」


 二人はうちにやってきて子供達の様子を見た途端、何かを感じたらしい。うちの近所にある家の賃貸契約をその日の内に済ませた。

 そして私の三ヶ月有給が終わる前に、今まで住んでいた家を売り払った。早すぎだろ。


(息子達が使っていた物を一つ一つ処分するだけでも手が止まるとか言っていたのに、なんかとてもスピーディだったな)


 覚悟を決めた女性は強い。うちから使用人を数人出して手伝わせたが、ぽんぽんぽんと処分していったとか。

 たまにうちに来て、二人に親戚のおじさん、おばさんとして、親身になってもらえないかと、その程度のつもりだったが、顔を合わせてからの僅かな時間で、母親代わりとしてエイルマーサは子供達を守ると決心してしまった。

 要は乳母兼家政婦だ。

 とはいえ、うちにはウェスギニー子爵家から寄越(よこ)された使用人もいる。だから私は彼女をマーサ姉さんと呼ぶことにした。

 つまりただの使用人ではなく、彼女は子爵家の使用人よりも上の立場だと分かりやすく示したのだ。


「パパのおにーさんと、おねーさん?」

「ああ、そうだよ。お前にとってはローグおじさん、マーサおばさんだな」

「はっはっは。おじいちゃん、おばあちゃんの年だろうけど、よろしくな。ルード君」


 後年、そのことについて酒を飲みながら聞いたら、ローグスロッドは呆れたように言ったものだ。


「あのなあ、フェリルド坊ちゃま? 父親は帰宅も遅く、時には泊まりの仕事をしている。母親はいなくて、幼い子供二人。これはもうウェスギニー子爵家が引き取って育てる流れでしょうが。そして子供達は周囲から母親を悪く言われて育ち、都合のいい教育をされるのも、自明の理だったでしょう。元々、マーサはお宅の境遇に同情していたんですよ。そりゃ乗りこむに決まってます。うちは二人だけで身軽でしたしね」

「別に、実家に渡す気はなかったんですが。子守りと使用人がいればどうにかなるだろうと」

「・・・主人も女主人も不在の家なんて、何をされるか分からんもんです」

 

 その通りだ。貴族でも両親が領地の管理などで忙殺されている家は、子供達も親と顔を合わせたら挨拶する程度で、だからいつの間にか使用人に虐待されていても気づかないケースがあったりする。

 私は卑怯な人間だろう。誰にでも笑顔で接しながら、誰も信じていない。


(可哀想なリーナ。いずれ私が死んだら遺産は一人占めして子供達と幸せになってやるって言ってたのにな)


 あえて使用人を雇わなかったのは、そこで誰かの指示を受けた人間が入りこんでくる恐れを考えたからだ。子爵家で長く働いていた者であれば、思想的に父や義母の影響を受けているにせよ、まだ取りこまれてはいないだろうと、そう考えた。

 そして子供達にとっての母親代わりに、人間性でエイルマーサを選んだ。

 妻を殺された私にとって軍も貴族も、信用などできる存在ではなかったのだ。



― ◇ – ★ – ◇ ―



 血の繋がっていない義理の従姉というエイルマーサを雇うことができて一安心した私は、アレンルードと遊んでやりながらアレナフィルを観察していた。

 アレナフィルはアレナフィルだ。黒子(ほくろ)の位置や指紋、チョコレートを食べ過ぎたら鼻血を出すところも変わらない。

 だからよく似た子供とすり替えられたということはあり得ない。


(四日程度で幼児に成人の人格を植え付けることなど可能なのか?)


 そこが分からなかった。

 それができるなら歴史が変わる。成人相手に行えるなら洗脳どころではない。

 

(洗脳で考えるとしたら、あまりにも間抜けすぎる人格だ。だが、テストケースと考えるなら恐るべき事態だ)


 なりすまして被害を与える役割だというのであれば、可愛い子供を装って油断しているところで破壊や暗殺行為に及ぶケースが考えられる。

 それなのにアレナフィルの姿をしたこの人格は、サルートス語をマスターすることに全ての時間を傾けていた。

 アレンルードと一緒のベッドで眠るアレナフィルは、寝落ちするまで発音練習をし、数も何度も口にして覚えようとしていた。書き取り練習も、絵本がぼろぼろになる程に繰り返して手で文字をなぞっている。

 工作員の人格ならば、サルートス語を理解している筈だ。

 しかし幼女の舌が回らないのか、本当にサルートス語を理解していないのか。どうしてもパパをパッパと発音するし、ローグ、マーサはローゥ、マーシャとなってしまう。そういうことならと、パパはパピー、ローゥパパ、マーシャママと、覚えさせてみた。


(言葉の練習に使っている相手がルードだからなぁ)


 自分のことを私ではなく、アレンルードみたいにボクと覚えようとしていたので、フィルと呼ばせてみた。

 エイルマーサが、自分の名前を覚えてもらおうと、

「さあ、フィルお嬢ちゃま、マーサが起こしにきましたよ」

などと、自分のことを名前で呼んでいたので、彼女はこう理解したようだ。


【そっか。この国の女の人は、自分のことを名前で呼ぶんだねっ】


 翻訳してくれたバーレミアスが、水色の瞳に涙を浮かべて大笑いしていた。


「こうして異文化への誤解が進むんだなっ。ははっ、よく分かるっ」

「うるさい」


 言語学の講師をしている彼は休日になるとうちにやってきて、自分はサルートス語で話しかけながら、アレナフィルのファレンディア語を聞いて楽しんでいる。

 アレナフィルにしても、彼がやってくると、サルートス語を教えてくれるし、何度でも発音を手伝ってくれるので、言葉を教えてくれるいい人だと認識していた。


「フィルちゃん。これは『手』、『親指』、『人差し指』、『中指』、『薬指』、『小指』。さあ、言ってみよう」

「て。おやゆび、ひとしゃーゆび、なやゆび、くうりゆび、おゆび」

「うん、ちょっと発音がおかしい。もう一度」


 分かりやすく教えてくれて、おかしい発音は根気強く何度でも繰り返してくれるので、アレナフィルはかなり彼を気に入ったようだ。

 言葉が通じないと思って、アレナフィルは言いたい放題だったと、後で彼は教えてくれた。


「面白いな。ファレンディアの品はそれなりに出回っているが、あまりあそこの言葉は知られていない。ファレンディア人が他国の言葉を覚えるからな。どうやら数字は一覧表を作って壁に貼って覚えるらしいぞ」

「どうやって聞き出した?」


 アレナフィルが欲しがる一覧表を作ってやり、バーレミアスはアレナフィルを観察して楽しんでいたようだ。

 どうやら教育者として、教育システムの違いに目をつけたらしい。


「ある程度は身振りで通じるし、ちゃんと紙に見本を書ける子だからな。ついでに俺のことを値踏みしてくるところも面白い」

「何だそれは」

「細かいニュアンスはよく分からんが、録音したからまた調べてみよう。どうやら俺が講師だと分かったようだ。なんか【童顔で、実は学者。そのギャップがいい】とか言われた。・・・なあ、あの子、一体どんな年増女に変な言葉を吹きこまれて育てられたんだ?」

「・・・分からん」


 アレナフィルは見た目も可愛い幼女だが、精神年齢はいささかどころではなく上のようだ。

 彼がやってくる日は、アレンルードをウェスギニー子爵邸に遊びに行かせていた。

 勿論、子供の成長にとって親を尊敬できないのは心の歪みを生じさせるから、私とリンデリーナ、そしてアレナフィルへの悪口を立ち聞きでも何でも、一言でもアレンルードに聞かせた日には二度と行かせないと父には伝えておいた。

 そしてリンデリーナが亡くなっていることは教えるなとも。


『お前はっ、この父がそんな卑怯な人間だと思っているのかっ』

『使用人は主人一家の鏡ですからね。けっこう陰でこそこそ悪口言っていることは多いんですよ。子供だから分からないと思って、フィルを馬鹿にされたルードがどれ程傷ついていたか聞きたいですか? フィルはおかしくなんかないって、ずっとフィルを抱きしめて寝るまで泣いてましたよ』

『・・・徹底させよう。決して悪口は言わせぬ』


 既にアレナフィルに対して

「何言ってるのかしら。おかしい子」

と、口走った使用人がいたことから、しばらくウェスギニー子爵家関係者は立ち入り禁止にしていたこともあり、父はその条件を呑んだ。

 義母のマリアンローゼは、邪魔な長男を追い出せてほっとしていたところをその子供がやってくるというので警戒していたようだが、

「ボクのおばあさま?」

と、言われてその気になったらしい。実際、アレンルード達に生きている祖母はいないのだ。今は様子見といったところか。

 異母弟のレミジェスはアレンルードをグラススケート場や屋内プールなどに連れていってあげたようで、とても懐かれている。

 父には私の態度が大きすぎると文句を言われているが、それで家族が仲良くできているのだから感謝してほしい。


(母親としては自分の産んだ息子にウェスギニー子爵となってほしいが、肝心の息子にその気がないのではどうしようもないんだな。次善策で、アレンルードと血が繋がっていないことを伏せ、仲良くやることを選んだようだ。・・・レミジェスが子爵になるかならないかで、かなり違ってくるとあっては、なかなか見合いも進むまい。父上はあまりにもアレンルードを気に入りすぎてしまった)


 だからたまにアレンルードを実家に預けているが、アレナフィルはアレンルードがいない方が邪魔されずに言葉を覚えられると思っているらしく、全く寂しがらない。

 かえって帰宅したアレンルードがアレナフィルから離れないので、よしよしとアレンルードを撫でながら絵本の読み聞かせ練習をしているぐらいだ。

 私とバーレミアスは、アレナフィルと過ごしながら観察を続けていた。中身があまりにも子供ではない。それでもぺらぺら垂れ流している間抜けな人格だ。 

 

「あれはもう可愛すぎるぞ。どうするんだ、フェリル。子供っぽく、

『レンにーしゃま、あーん』

と、苦手な野菜をパンに包んで食べさせたように見せかけながら、ファレンディア語で、

【ちゃんと栄養とらないと。どんないい男も肌荒れしてる時点で幻滅ね。まったく、私が子供じゃなければ人参ジュース作って流しこんだのに】

とか言ってるんだぞ。実は俺、愛されちゃってる? いやあ、もう、友人の娘にいい男とかって、俺ってば罪な男すぎだろっ」

「何がレン兄様だ。変な単語を覚えさせるな。フィルはお兄さんが、おじさんの意味だと信じてるんだぞ。うちの弟がお兄様呼びされて、目を丸くしていた」


 何をテーブル叩いて喜んでやがる。と思ったら、いきなりきりっとした顔になる。


「分かった。責任取って嫁にもらおう。いいよなぁ、幼な妻」

「二度とうちに来るな。フィルに近づくな。お前は家政婦を雇え」


 何が幼な妻だ、うっとりするな、気持ち悪い。

 本気でうちのアレナフィルを嫁にもらおうと考えているんじゃなかろうなと、危機意識が芽生えたのは、奴の目が本気だったせいだ。

 それは勿論、以前からうちの子は可愛いと思っていた。うちの妻も息子も娘も、表情豊かなアライグマのようにくりくりおめめな顔立ちだ。かつて三人がベッドの上で仲良くお座りしていた時なんて、菓子で餌付けしたくなった程だった。


(なんかリーナは、人を野生動物の餌付け扱いすんじゃないわよって怒鳴ってたな)


 そして今、双子は本当にそっくりだ。小さいからこそ余計に愛らしい。

 しかし貴族の家に生まれながら言葉も記憶も失った子供など、通常は欠陥品だ。

 未婚時代の醜聞は全て瑕疵(かし)となる、それが現実だ。

 ウェスギニー子爵家でもその気配は濃厚だった。アレンルードはいいが、アレナフィルはダメといったそれだ。

 それなのにある日、予定になくアレンルードを誘いに来たレミジェスが、勝手に玄関を入ってきたところで、二人の着替えごっこを見てしまった。

 それは部屋にいる私が、廊下で服をとっかえひっかえした双子のどちらがどちらかを当てるというゲームだったのだが、同じ服を着るにしてもズボンかスカートかワンピースかで、二人が廊下に服を散らかしまくって着替えっこやリボンを結んだりしているのを、レミジェスは見てしまったのである。

 勝手に鍵を開けて入ってきたものだから、

「おにーしゃま、だぁれ?」

「あ、おじうえだ」

で、自分を見上げてくるアレナフィルに、レミジェスは心の何かをずきゅんっと射抜かれたらしい。

 ひょいっとアレナフィルを抱き上げ、

「レミジェス兄様だよ、アレナフィル。さあ、兄様とおうちに帰ろうね」

と、回れ右しようとした。


『れーじぇしゅにしゃま?』

『その子の家はここだ。何を誘拐しようとしている、レミジェス』

『あっ、兄上っ。だけどっ、この子こんなに可愛いんですよっ!? 持って帰らないと危ないじゃないですかっ』

『危ないのはお前だ』


 うちの弟も要注意(ヤバイ)

 ちゃんと返却されてくるアレンルードしか遊びに行かせないようにしているが、アレナフィルはやることなすこと可愛すぎるのが罪なのか。弟の赤い瞳はアレナフィルを狙っている。


(同じ顔なのに何が違うんだろうな。以前からそういう傾向はあったが。アレナフィルは男に好かれやすい)


 ある日、バーレミアスと三人でお出かけしながら、アレナフィルが指差すものの単語を教えてあげていた時のことだ。

 

「レンにーしゃま。あれのおなまえ、なぁに?」

「ん? ああ、トーストだよ。上に色々と載せてあるんだ。食べてみようか」


 アレナフィルが、屋台で売られているメニューを示す。スライスしたパンを軽く鉄板で焼き、その上にレタスや揚げ魚、トマトソースを載せて提供するものだ。


「ちがう。ちがうの。えーっとね、フィルはあれのおなまえ、しりたい。フィルはね、たべたいのはちがって、おかいものするの、おなまえをしりたい」

「パンが欲しいのかな?」

「んーとね、フィルはパンをしってるの」


 何と言えば分かってくれるのか分からずに困ったらしいアレナフィルは、私達の前で腰をかがめて上半身を水平にし、腰の両脇で両手首をひらひらさせて、次におしりの後ろに手をやって手首をひらひらとしてみせた。


「あのね、これのおなまえ。おみず、しゅいしゅい。おなまえ、なあに?」

「どうしよう、フェリル。フィルちゃんの正体は魚のお姫様だ。世界で一番可愛い魚として水族館に永久展示されてしまうじゃないか」

「落ち着け、バーレン。この場合、聞きたいのは魚という単語か? それとも(タラ)という単語か?」


 あっけにとられた私達だったが、真面目な顔でお魚ポーズをするアレナフィルを見て、周囲の通行人もぷっと噴き出していた。本人は一生懸命だと分かっているから、私達も笑うのを本気で我慢した。

 せっかくだからと、魚の図鑑を買ってあげたらとても喜んでいた。その後、魚の缶詰と図鑑の名前を照らし合わせていたから、向上心はとても高い。

 バーレミアスも予定の空いている休日しか来ないが、やはり専門分野だけにアレナフィルのおかしさには気づいたようだ。


「やっぱりあの子はおかしい。買い物しながら見ていたら、足し算、引き算、掛け算、割り算、サルートスの数字や言葉が分からないだけで、どれも理解している。栄養の概念ばかりか、油性・水性についてもだ。何よりボディ・ランゲージは、その意味を正しく把握していないとできない。天才か。・・・いや、あの年であそこまで計算できてファレンディア語を身につけておきながら、ここまで時間をかけてもサルートス語はそこまでじゃないから天才ではない。まるでファレンディア語を話せる人間の知識を丸ごと植えつけられたかのようだ」

「・・・やっぱりお前もその結論に達したか」

「ああ。あれは幼児じゃない。その中身はファレンディアの教育を受けた人間だ。だが、どうやったらそんなことができる?」

「分からん」


 言葉を覚えようとしていたのはアレナフィルだけではない。私もバーレミアスの伝手(つて)でファレンディア人の父親を持つという人を紹介してもらい、ファレンディア語を教えてもらっていた。


「いいか? フィルはお前に預けるが、決して変なことをするなよ?」

「あのなあ、幼児相手に何をしろと? ま、俺の家の方が色々な資料は揃ってる。ちゃんと天井に映像記録装置も取り付けただろ。気にせず、お前はファレンディア語を学んで来い」


 アレナフィルの為でなければ続かなかったぐらいに面倒くさい言語だったが、知れば知る程、何故こんな面倒な言語を使う人格を選んだのかと、そっちが理解不可能だった。


(わざとマイナー言語でやり取りし、打ち合わせ内容を周囲に知られなくするという手か。だけどどんな打ち合わせをしたとして子供では実行できない。いや、だからこそ中身が成人した大人のような人格なのか)


 そしてバーレミアスの家で、アレナフィルはファレンディアの本をこっそり読みまくり、しかもバーレミアスに誘導されて彼にファレンディア語をぽろぽろと垂れ流していた。


「もっ、可愛いぞっ、フィルちゃんっ。いや、ファレンディアの本なら何でもいいと適当に買ってきてあったんだが、ページをちらっと開けただけで内容を理解したらしく、

【っぎゃーっ、怖い―。開かないでー】とか、

【そっ、そんなの良い子は読まないーっ】とか、青くなったり赤くなったりするんだ。サルートス語の似たような本だと、辞書と格闘しないとなかなか理解しないのにな」


 バーレミアスは、人の娘を実験体だと認識してないだろうか。


「それより食事は外食すると言ってなかったか? 何を一緒にお買い物して料理してるんだ」

「だって作ってくれるんだし。ちゃんと切るのも焼くのも混ぜるのも俺がやったし、お昼寝だってさせたじゃないか。危ないことさせてないだろ? 茶だって淹れてもらいはしたが、湯を注ぐのは俺がやった。俺のこと、生活無能力者だと思ってるから余計に甲斐甲斐(かいがい)しいのな。茶葉が開くまでの時間を計るのに、あの子、歌うんだぞ。なかなか面白い文化の国だ。あ、いや、サルートス語教えるバイト料もらうって話、チャラでいいぞ。俺、ファレンディア語、教えてもらうから」


 全てを疑い、小さな違和感も見逃さぬようにせよ。それが生死を分ける。

 私の愛娘に仕掛けられた罠を、ただ記憶喪失なのだなとしか認識していないフリをして、私はバーレミアスを使って様々な角度から解こうとしている。

 だから私がファレンディア語に気づかないフリをしているのは正しい。

 そして言語学を教えているバーレミアスが、頭でっかちな感じでアレナフィルの違和感に気づかぬフリでサルートス語を教えているのも正しい。

 全ては全くもって問題ない。


(だがムカムカする。本気でムカムカする。その子は私の娘なんだが)


 それなら私がアレナフィルにファレンディア語を教えてもらえばいいんじゃないか?

 そんな誘惑を覚えないわけではなかったが、誰に仕掛けられたにせよ、いざという時に非情な判断を下す為にも、そしてこの手で実行するにも、全ては秘密裏に運ぶ必要があった。


(大丈夫だ。私は殺せる。せめて苦しませないように、そして安らかに眠らせてやれる)


 二人のやりとり映像を見ることで私のファレンディア語マスターも(はかど)りはしたが、やはりバーレミアスには劣る。

 勿論、サルートス語もファレンディア語も自由に操れる人に習う方が分かりやすくはあったが、娘がうんうんと辞書と格闘しながらバーレミアスを使って言葉を覚えようとしているのは、その努力する姿が微笑ましいこともあって、見ている方もファレンディア語を覚えやすい。

 ただ、自分達は何をやっているんだろうと、ちょっと・・・、いや、かなり思った。




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