2 喪失はいつだって突然で
その日、私達はフォグロ基地祭に出かけていた。
基地祭は、一般人にもその基地内への立ち入りを許し、見学してもらうお祭りだ。様々な出店も出ているし、色々な催しもある。
これは軍人の家族サービスというより、何かと不規則な出動や突発事態にも家族の理解を得てもらう為に行われているのだ。一般人には苛酷すぎる毎日のトレーニング内容なども分かりやすく表示され、こういう基地祭の後は家族が優しくなったりする。そしてたまに、除隊を強く勧められるということもある。
(上官の娘や同僚の妹と親しくなるチャンスでもあるんだよな)
いかに厳しい規律の下で働いているかを実感してもらい、心身ともに家族に支えてもらう為の一環だ。軍服ではない女性も多くやってくるので、基地内も華やかになる。あちこちで笑い声が響いていた。
屋外に設置された、「君も触ってみようコーナー」では、弾の入っていない銃を持たせてもらえるとあって、針葉樹林の深い緑色の瞳を輝かせたアレンルードはそこから離れない。
今朝は赤いフェニックス刺繍が左胸に入った水色のシャツと紺色の半ズボンで、
「ボク、かっこいいんだぞ」
と、威張っていたが、もっとわくわくする物を見つけてしまってもう夢中だ。
男の子はそんなものだろう。
十代の少年が、自分の背丈よりも長さのある携帯撃銃を持たせてもらってよろけていたが、アレンルードはどうやら一番小さいサイズの物が気になるようだ。
「パパ、あれ、かっこいい。ロックとおなじの」
「じゃあ持たせてもらおうか。ルードが重くて持てない時は手伝ってあげるよ」
「もてるもんっ」
ロックというのは、子供向けヒーローらしい。小さいサイズでも幼児の手には重すぎるだろう。
コーナーでは一つの撃銃に一人から二人の兵士がついているので、
「じゃあ、行っておいで」
と、私はアレンルードの背を押した。
「こんにちは。ボクにもロックのそれ、もたせてください」
「はい、坊や。こんにちは。次のヒーローは君だな。ほら、持てるかい?」
「おもっ」
「はは、大丈夫。大きくなったら坊やだってこんな風に軽々持てるんだぞ」
「うわぁ」
兵士が片手でくるくると腰に装着したり、瞬時に構えたりするのを見せてもらって、アレンルードはぴょんぴょんと飛び跳ねながらその兵士を見上げた。
「ボクもっ、ボクもするっ」
「よぉーっしっ。ほら、こうだっ」
「わぁっ」
アレンルードに気づかれぬよう銃の端っこを持ってあげながら、兵士がアレンルードに銃を構えさせたり、腰に装着するフリをさせたりしたものだから、これはもう当分の話題は決まったと、私は覚悟した。
(将来は兵士になると言い出すな。海賊になって世界の財宝を見つけに行くのはやめるのか)
活発なアレンルードとは反対に、双子のアレナフィルはかなり怖がりだ。
大きな物音だけでもびくびくして部屋の隅っこに逃げてしまう。だが、お昼寝したりしている時とか、何かをじーっと見ている時とか、遊びに夢中になっている時にはどんな物音がしても気にしない。
ちょっとしたことですぐに泣きだすが、何かに気を取られていたらどうでもいいと思うあたりが単純な生き物だ。
あれはもう、アレナフィルという世界で一番可愛い生き物として新種登録すべきではないかと、私は本気で悩み中だ。
今日もあちこちで響いている空砲の音に驚いて、ふぇっふぇっと瞳を潤ませていた。
そしてアレンルードが一緒に撃銃を見に行こうと手を引っ張ったところで、屈強で背の高い兵士達が揃っているのを見てしまい、怯えてびぇええーんと泣きだし、私のシャツを涙と鼻水でぐしょぐしょにしてくれたのだ。
どうにか泣き止ませたところで、リンデリーナが屋内にある休憩ラウンジに連れて行ったが、おかげで私はアレンルードを連れて更衣室に行く羽目になった。こういう時は引き離しておかないと、アレンルードはアレナフィルの手を引っ張って自分の行きたい所へ強引に連れていってしまう。
アレンルードは本来は立ち入りできない筈のエリアにまで入ることができて喜んでいたが、まさか娘の鼻水でシャツを汚されたからという理由で着替えに行く羽目になるとは思わず、同僚達には笑われてしまった。
(性格が違いすぎて、一緒においておくとフィルだけが泣かされっぱなしになるからなぁ。どうしてフィルはハンカチじゃなく私のシャツで鼻を拭こうとするんだろう。泣く時はいつも私のシャツを使ってないか? リーナに言わせればそれだけ甘えてるそうだが、どうして鼻をかむことになるんだ?)
子供の不思議行動を考えながら、私はアレンルードがぺたぺた携帯撃銃に触っている様子を見ていた。
アレナフィルは私の軍服姿も怖いらしい。だから子供達の前ではなるべくラフな格好を心掛けていたし、そういう気配を出さないように気をつけていた。
この兵士達は、私服姿の私が同じ基地に所属している者とは気づいていないだろう。
だが、この「君も触ってみようコーナー」はとても目立つ場所、つまり基地の入り口近くに設けられていた。この基地祭にやってきた誰もが見逃さない場所である。
(あ。見つかった)
私は背中を向けていたが、アレンルードはその顔を思いっきりさらしていた。
駐車場からのゲートを通って、あちこちの屋外展示物を眺めながら徒歩でやってきた淡い黄色の髪をした二人連れが、こちらに向かってやってくる。赤い瞳をした青年の方は士官の恰好をしていたが、彼の所属は違う基地である。
要は軍に所属する息子が、違う基地の見学に父親を案内してきたわけだ。
レスラ基地の軍服を着ている候補生には、兵士達もさっと敬礼する。
「ああ、そのまま続けてくれ」
「はいっ」
なんだかなぁと思っていたら、青い瞳をした方はぷいっと無視してきた。以前から思っていたが大人げない。赤い瞳をした青年は、まだすまなそうな顔で目礼してくるのだが。
「坊や、とてもかっこいいじゃないか。とても似合っている」
初老ながら年よりも若く見える父は、少し腰をかがめてアレンルードに話しかけた。
淡い黄色の髪を少しあそばせ、休日らしいくだけた服装をしているのは、家族連れで賑わう基地内で浮かない為だろう。
「そうだね。ぼくは、こういう撃銃とか好きなのかな?」
「うんっ。ボク、かっこいいんだよ。そっちのおようふくもかっこいいね」
弟の方は威圧感を与えないようにと思ったか、しゃがんで目線を合わせていた。
アレンルードの目は、軍服についている階級章に釘付けだ。かっこいいと思っているのは、そのバッジだろう。
アレナフィルが怖がるという理由もあるが、悪目立ちしたくないこともあって、私はいつも私服で通勤している。つまりアレンルードは私の軍服姿をあまり見たことがなかった。
そして私は行き帰りの僅かな時間しか着ていないシャツを、
「パパー、ルードがいじめたぁ」
と、出迎えたアレナフィルの鼻水でびしょびしょにされるわけである。・・・何なんだろう、これ。泣かせたアレンルードの服につけてやればいいのに。
たまに家庭生活は理不尽だと実感する。そして、そんな家族が愛おしい。
だから排除しておきたいのに、こうして彼らは何かと私達にちょっかいをかけに来るのだ。
「そう? 君も着てみたい?」
何故か三人で会話をし始める。
割りこむ程のことではないが、リンデリーナを悲しませたくはないなと思った。見た目は可愛い顔立ちだが、リンデリーナは喧嘩上等といったそぶりで心を守っている。
彼女は彼女なりに色々な葛藤を抱えて生きているのだ。それを分かっていて、気づかぬふりで苦痛を強いたくない。
アレンルードは知らない人に話しかけられたという認識だが、人見知りはせずに答えた。
「ううん。ボク、おじさんたちのほうがもっとかっこいいからすき。とってもつよいんだよ」
「そ、そうか」
子供は正直だ。軍服の士官より迷彩服の兵士をかっこいいと言ってのけた。
(立場上、笑い出すわけにもいかないんだな。鼻がひくひくしている)
以前はこの二人、アレナフィルにこっそり話しかけて、それで目を開けたまま眠っているような反応にがっくりとして去っていったのだが、盗み撮りだけでは耐えられなくなったのか。
あまり強力に排除してエスカレートされても面倒だから、盗み撮りやこっそりと物陰から見ている程度は放置していたのだが、とうとう接触し始めた。
「とてもかっこいいから、ちょっとフォトを撮ろうか」
「うんっ。パパもっ」
「あー、ルード。パパはいいからそこの見たこともない、知らないおじいさんと撮りなさい。だけどついてっちゃ駄目だぞ」
「はーいっ」
何が悲しくて一緒に納まらなくてはならないのか。
それでも保護者としてはとても寛大な姿勢を私は見せた。
おずおずと抱き上げられれば、えへへと笑うアレンルードは可愛らしい。二人はアレンルードと一緒に同じポーズで撃銃を持ったり、甘い飴をあげたりして、ひとしきり遊んでいた。
その間、私は放置されていた。
「坊や。よかったらおじいちゃんと呼んでくれないかい?」
「んーん、だめ。ボクのおじいちゃんはしんじゃったから、もういないの。だけどさびしくないんだよ。だってね、おじいちゃんもおばあちゃんもおほしさまになって、とおいせかいでしあわせにくらしてるんだ」
「・・・そ、そうか」
恨めし気な顔で父が振り返ってきたが、私はそっぽを向く。
兵士達も一連のやりとりで察していたらしい。複雑そうな表情を浮かべた。
分かっていないのはアレンルードだけだ。
「そうだね、ルード。お前にはパパとママとフィルがいるもんな?」
「うんっ。パパ、あっちのおおきいのもさわりたい」
「じゃあ、あっちの兵士さんにお願いしておいで。ルードの背よりも大きな銃だって、兵士さんは軽々と持てるんだぞ。ルードよりも強いんだぞ」
「パパよりっ?」
「ああ、パパより強い」
「すごーいっ」
駆け出していくアレンルードは、とてもすばしっこい。アレナフィルと違って、好奇心が旺盛だ。
久しぶりに間近で見る青い瞳が、睨みつけてくる。
「少しは自分から折れようとは思わんのか」
「その必要性を感じたことが一度もないもので。うちの可愛い子供達に近づかないでください。誘拐罪で訴えますよ。知らないおじいさん?」
「ああ、もう・・・。二人ともどうしてそう意地を張るんですか。少しは建設的に話をしましょう」
理解できないという顔をしているが、それは彼の実の母親が爵位のある貴族の家に生まれていないことがあるだろう。父親の気持ちを、彼が本質的に理解する日は来ない。
「さっさと連れていった方がいい。子供はママが大好きだ。ママをいじめる人だと思ったら、一気に嫌われてしまうだろう?」
「せっかくだから顔を見に来ただけです。お元気そうでよかった。それでは失礼します、兄上」
「ふんっ。全くいつまでも生意気なっ」
最後まで憎まれ口を叩きながら、父は弟と去っていった。
何故、私の親切を理解しないのだろう。
(リーナと顔を合わせようものなら炎に油を投下し続けて騒ぎになるだけじゃないか。・・・帰るか)
リンデリーナ達に合流したら、甘いものでも食べに行こう。あまり食べすぎるとお腹を壊してしまうから、公園で食べた方がいいだろうか。
基地内の喫茶室よりも、一般の店の方が美味しいものが揃っているだろうと、そんなことを考えながら、私は次々と大きな銃を触らせてもらっているアレンルードを、適当なところで回収した。
「パパッ。ボクね、へいしさんになるんだよっ」
「そうか。じゃあ体を鍛えなきゃな。兵士さん達は力持ちだし、走るのも早いし、とても強いんだぞ。まずは毎日、お庭を走らないといけないんだぞ」
「はしるっ。パパ、ボクもへいしさんのおようふくほしいっ」
「・・・子供用は売ってないんじゃないか?」
リンデリーナとアレナフィルは、尉官用の休憩ラウンジにいる筈だ。
手を繋いで、アレンルードが欲しがる兵士の服をどう諦めさせようかと思っている時に、その放送は入った。
「呼び出しを行います。所属32、ウェスギニー大尉、エリア934、番号8686、ゲート72、コード41、総員393。繰り返します。所属32、ウェスギニー大尉、エリア934、番号8686、ゲート72、コード41、総員393」
ざわっと、その放送を聞いた人々が顔色を変える。
即座にアレンルードを抱えてその口内にハンカチを入れこむと、私は走り出した。
― ◇ – ★ – ◇ ―
駆けつけた私が見たのは、血にまみれた白衣をつけた医師と看護師、通された処置室で目を閉じて動かぬ姿となった妻だった。
娘は無傷だが、目の前で母を殺されたショックで気を失い、今は近くにある病院の大部屋に寝かせていると説明される。
まだフォグロ基地内にいた弟もあの放送を聞いてしまったことから駆けつけてきており、その間、アレンルードの子守りをしてくれていた。
「小さなお嬢さんだったので、個室よりも大部屋がいいと判断しました。外傷の入院女性ばかりの大部屋なので、周囲も気をつけて見ていてくれると思います」
「はい」
皆の前で行われた凶行だけに、犯人はすぐに捕まったそうだ。
何が間違っていたというのだろう。妻を、家族を連れてこなければよかったのか。
(何故、バイゲル少佐がリーナを・・・? あの物静かな人がどうしてこんなことをしたんだ? 私は何か恨まれるようなことをしていたか?)
意味が分からなかった。
どうして彼女を狙ったのか。そんな人じゃなかった筈なのに。侯爵家がわざわざ令嬢を使って子爵家などに仕掛ける意味をどこにも見出せなかった。
事情聴取も簡単なもので、だから余計に動機が不明だったのだ。
「バイゲル・ネトシル・アンジェラディータとはどういった関係でしたか?」
「・・・少佐とは、業務の関係でお顔を存じあげております」
「お二人の間に、感情のもつれなどは?」
「恨まれるようなことをした覚えなど・・・。お渡しする資料もきちんと用意し、わざと不足させたりなどした覚えはありません。ライバルどころか、少佐は私よりも出世なさっておいでですし、何より所属が違うので、足を引っ張る必要などありませんでした」
「あ、いいえ。そっちではなく・・・。たとえば個人的に食事に行ったり、お付き合いをしたりなど、そういったことは?」
「いいえ。食堂で相席したことはありますが、その程度です」
やがて明らかになった殺害理由は、妻への嫉妬ということだった。
私が既婚者なので何を望んでもいなかったそうだが、フォグロ基地祭でリンデリーナを見てしまったことで、突発的に襲ったのだと。
それが理解できない。口説きも口説かれもしない関係でどんな恋愛感情があったというのか。
だが、どんな理由を知ったところでリンデリーナは戻ってこない。
(今は子供達のことだ。特例で三ヶ月の休暇扱いにはなったが、リーナの姿を見せるべきじゃない。リーナはお出かけしているということで、どこまでごまかせるのか)
バイゲル侯爵家の力が働いているのだろう。有給で三ヶ月と、破格の扱いだった。妻を失って嘆き悲しむよりも、私は子供達の精神的な影響を最小限にとどめることを優先した。
幼い子供にとって母親がどれ程に大切なことか。子供達が大きくなるまで、その心をどう守るべきか。
「パパ、・・・ママとフィルは?」
「フィルはね、今、ちょっと病気になって病院でおねんねしてるんだよ。ママはそんなフィルを助けようと、遠くまでお出かけ中だ。パパと一緒にルードはフィルの目が覚めるのを待てるかい? ルードは強くないから無理かな」
「ボクつよいもんっ。いいよっ、パパといっしょにまってあげるっ」
病院に運ばれたアレナフィルは四日程、目を覚まさなかった。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
リンデリーナは、ウェスギニー子爵家の墓地に埋葬された。父はリンデリーナが亡くなったことで、勘当した事実を忘れることにしたらしい。
勘当すると喚くから、ちょっと行方をくらませておくかと、私が一人で使っていた家を出てやったが、職場近くで借りた小さな家は徒歩で出勤できて便利だった。勘当されて良いことはあっても、悪いことは何一つなかったからこのままでいいと言ったら、父はブチ切れていた。
今の家はあまりにも不用心なので、元々私が一人で使っていた小さな別宅を使うようにと、父は言ってきた。高い塀があり、門を閉めてしまえば子供も誘拐されにくい。
余計なお世話だと思いはしたが、子供達のこれからを考えるならたしかにそっちの方が良かった。別宅と言っても亡くなった母の持ち家なので、とっくに私に譲られていたものだ。
母が亡くなった後はしばらく空き家だったが、私は入隊した時点でウェスギニー子爵邸を出てその家に移ったのだ。勘当と喚くからその家も出たが、あの時は仕方なかった。子爵邸にも合鍵はある。
鍵を交換するよりも、あの時の私は手っ取り早く静かになる解決法を選んだのだ。
引っ越し作業は、父が寄越してきた使用人達に任せた。
リンデリーナの小物一つでも勝手に捨てることは許さないと言っておいたせいか、彼女の荷物は箱詰めのままで部屋に運ばれていたが、それでよかった。
(リーナと、幼年学校への入学あたりで引っ越そうかと話してはいたが・・・。まさかこんな形での引っ越しになるとは思わなかった)
まだ現実感がない。妻が殺されたというのに、怒りも悲しみも凍結されている。
これが虎ということか。走り出すその瞬間まで、凪いだ心で周囲を探り続ける種。
私は、自分がまだ必要な情報を集めていないことに気づいていた。
病院から連絡が入ったのは、アレンルードを連れて今日もアレナフィルの病室へ行こうとしていた時だ。
『お嬢さんが、アレナフィルちゃんが目を覚ましました。ですが、ちょっと心が・・・。少し混乱しているようです』
『・・・うちの娘はそれが普通です』
アレナフィルは、ぼーっと草を見ていたかと思うと、「川からね、どんぶらこっこ」とか言い出す子だ。どこにも川なんてなくても。
通話装置の向こうでは、何やらぐだぐだと説明しようとしていたようだったが、やっと目が覚めたのであればと病院に駆けつければ、ちゃんとアレナフィルは食事もしたという。
普通、起きたばかりで固形食はまずいのではないかと思ったが、眠っていた間も、上半身を起こさせてから唇にスプーンを持っていけばもぐもぐと寝たまま食べていた子だ。
・・・・・・たまに娘の生態が分からない。
「ですが、おかしいのです。普通のサルートス語を話しません」
「うちの娘はそれが通常です。起きながら寝ていて、寝ながら床の上で泳ぐ子です」
「フィル、いつもぼんやりしてるんだよ」
大部屋のままでいいとしたのは、そこがある。気づくと、本人も気づかない内にどこか部屋の隅っこにいて、
「わたし、なんでここにいるの?」
とか言い出す子なのだ。戸棚の中で寝ていたこともある。
家族がそう言うのであればと、医師も変な顔をしていたが、それならまずは会いに行かれてはいかがかと勧めてきた。
たしかに病室にいるのは知らない人ばかりだ。あの怖がりなアレナフィルがどれ程に恐ろしい思いをしていることだろう。
そう思って病室に向かえば、ずっと眠り続けていたアレナフィルがベッドで上半身を起こしていて、こちらを見た。
「パパ。フィル、おきてる」
「そうだな」
泣いていないのはよかったが、怖がりすぎてパニックに陥っているだけかもしれない。
そう思って私はアレナフィルを抱きしめた。アレンルードも、やっと目を覚ましたアレナフィルに抱きつく。
「目が覚めたんだな。ぼんやりしているとお医者さんには言われたが、お前ならいつものことだ。目を開けたまま寝ていないね、フィル? 怖かっただろう。もう心配いらないよ」
アレナフィルの瞳を覗きこんだ時、いつものまっすぐ私を見つめてくる瞳がうろうろと彷徨い、ちょっと頬を赤らめて困ったような表情を作った。
(フィル・・・? いや、リーナが殺されるのを見てしまったんだ。まずは連れ帰って、あれは夢だと言い聞かせなくては。ルードと一緒にいさせた方がいいだろう。ここは、他人しかいない)
いつもみたいにえぐえぐと泣いて私のシャツで鼻をかむのかと思えば、アレナフィルはしがみつくことなく口を開く。
【#БRД+L EЖNЛ・・・?
(えーっと、あなたは・・・?)】
いつもの「何言ってるか分からん」レベルをぶっちぎっていた。
私も血の気が引く。
「ねえ、パパ。やっぱりフィルおかしいよ。めをあけて、ねごといってる」
「いつものことだろう。お前はお兄ちゃんなんだからそんな妹の面倒を見てあげなきゃね」
アレンルードが騒ぎ出さないようにあえてそういう言葉に留めたが、気が遠くなりそうな事態だ。
どこか頭を打っておかしくなったのか。それとも・・・。
先程からアレナフィルは、私とアレンルードに他人を見るような目を向けていた。
そのことにアレンルードも気づいていたのか。
「まさかふたごのボクをわすれたとかいわないよねっ。いくらぼんやりでもっ」
生まれた時から一緒だったアレンルードだ。信じたくないと、怒って泣きじゃくりながら取りすがる。
そんなアレナフィルは嫌悪感こそ抱いていないようだが、知らない子供を見る眼差しのままだった。
どうしたものかと思っていれば、同じ病室の他の入院患者が声をかけてくる。
「あのう、お嬢さん、目覚めた時から心が戻ってない感じでしたよ」
「そうですよ。まるで言葉が分からないかのように」
「ああ、この子はいつもぼんやりしているんです。体を洗って寝間着に着替えさせた後、ベッドに入ってから、そういえばいつお風呂に入ったっけと、言い出すぐらいでして」
おかしい状態なのは分かっている。だが、それがもしバイゲル侯爵家のしたことによる影響ならば、今、それを明らかにすべきではない。彼女達が危険だ。
(まさか凶器だけじゃなく、薬も使われたのか? フィルにだけか? 見てはならないものを見てしまったのか? いや、犯行は皆のいる場で行われている。幼児など何を見聞きしようとも理解できないというのに)
通常、薬を使われたら思考能力が落ちるものだ。
アレナフィルはかなり意識がはっきりしているように見える。あの子には似つかわしくない表情だ。
戸惑っているかのように口をぱくぱくさせていたが、意を決したらしくアレナフィルは言葉を出した。
【MЦ#L WЙPИ ЁGZФЩ QЮKЫ VЭLЯL
(あのう、私、言葉が分からないんです)】
魔女の呪文か? 単語一つすら全くサルートス語ではない。
「うわぁあん、フィル、おかしくなっちゃったぁっ」
「おかしいのはいつものことだろう。取り乱すんじゃない、ルード」
よし、とりあえず医者を呼びに行こう。
まずは事情を把握することが大切だ。
そうしてアレナフィルは言葉も含めた記憶喪失と診断された。