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1 アンジェラディータの回想


 サルートス国において、バイゲル侯爵家は優れた軍人を輩出することで知られていた。世界の人類、10人中8人から9人は樹の印を持つと言われるが、印を持っていたところで何がどうというわけではない。

 どんな種の印を持っていても劣った者はいるし、樹の印でも他の印を(しの)いで優秀な者はいるのだから。

 それでもバイゲル侯爵家は虎の印を持つ者が多く、それは男女を問わない傾向があった。

 実際に私の兄と妹も虎の種だ。そして二人とも優れた運動神経、反射神経を持ち、平然と二階のベランダに地上から飛び上がっては出入りしていたりもする。

 やはり特殊なのだと感じずにはいられない。虎の種を持つ者は、優れた身体機能を持つのだ。

 

「あなただけハズレなのね。可哀想に」


 そう言われることが辛かった。

 比較されることが辛いのならば違う道に進めばよかっただろう。兄妹と同じ土俵で比べられるより、違う世界で生きればよかった。

 実際、一族でもその才能がないと思った者は早めに違う進路を選んで生きていた。

 だけど体に印が出るのは十代後半になってから。直系の娘である以上、虎の種が出るのではないかという期待もあって、私は軍に入るという道を既に敷かれていた。

 それなのに18才を過ぎて体に出た印は「樹」。

 国立サルートス上等学校の経済軍事部、そして国立サルートス修得専門学校の軍事計略部を経て、私は軍に入った。

 たとえ樹の種であるハズレでも、バイゲル侯爵家の娘。

 兄が目覚ましい出世をしていたこともあり、私もとんとん拍子に出世していた。

 たとえ一族の他の人間と違って、優秀さなど全くない凡人であっても。



― ◇ – ★ – ◇ ―



 いくらサルートス軍といったところで、貴族の割合など多くはない。ほとんどは平民だ。

 それだからこそ、人は(おとし)めたくなるのだろう。

 王族や貴族といった特権階級も、それなりの財産や権力、そして非凡な才能があれば諦めがつく。

 私のように高位の貴族令嬢でありながら凡人と変わらぬ者は、陰でこそこそとよく言われていたものだ。


『あれが、バイゲルの駄目だった方か』

『妹の方が優秀なんじゃな』

『それでも侯爵家なら出世するってか』


 たしかに私の出世は早かった。まさに貴族の虎の種を持つ者と同じぐらいに。

 それは妹への配慮だったのだろう。姉よりも妹が上司になってはいけないだろうという気遣いが働いていたのだ。

 祖父やその兄弟、父やその姉弟。一族それぞれの地位もあり、私のこともそこそこ見られる程度には出世させておかねばならないと、私の上司は考えたらしい。


(別に、私の能力に応じたものでよかったのに)


 凡才なら凡才なりに、平均的な人生で十分ではないか。

 だからそんな出世などいらない。妹に負けたところで今更だ。

 あの妹は、とっくの昔に姉より自分が優れていることを知っているのだから。

 だけど世界は、いつだって私の心など知らぬ素振(そぶ)りで過ぎていく。

 そうして私は、いつしかバイゲル少佐と呼ばれていた。


「バイゲル少佐。本日はお忙しいところをご参加いただきましてありがとうございます。どうぞこちらにご着席ください。これが資料になります」

「あ、ああ」


 軍とは基本的に縦割り集団だ。自分が所属する上司と部下の間でしか情報伝達もされない。

 だが、お互いに協力し合えたらいいのではないかということを、酒を飲みながら言い合った中佐だか少佐だか大尉だか知らないが、何人かが意気投合したという理由で、よその部署の会議に呼ばれてしまった。

 断る理由もなかったというのが本音だ。

 そこで私は出会った。玉蜀黍の黄熟色(メイズイエロー)の髪、針葉樹林の深い緑色(フォレストグリーン)の瞳を持つ彼に。


(ウェスギニー先輩。嘘、まさか・・・)


 学生時代よりも精悍(せいかん)になった容姿。

 それでいて、笑顔がとても優しい人。まさか軍に入っているとは思わなかった。何故なら彼はとても物静かで大人しい人だったから。


「あ、あの・・・」

「はい? ・・・何か不明なことがあれば小さなことでも遠慮なくお尋ねください。飲み物をお持ちいたします。何かご希望はありますか?」

「えっと、・・・中尉なのに、そんなことを・・・?」


 部屋の中には少尉だって候補生だっているというのに、どうして中尉の彼がそんな雑用をしているのか。

 階級章を見てそう尋ねれば、彼はその濃い緑の瞳を柔らかく細めて、いたずらっぽい表情でおどけながら答えた。


「実は、これは極秘情報なのですが、我らが中佐が率いる部隊はどうも女性に威圧感を出し過ぎだと不人気なのです。これではまともな連携も取れないと、切実な事情が発生しました。私は既婚者ですのでまだ女性慣れしているだろうと、彼らの見本として本日の会議では雑用係に選抜されております。どうぞよろしくお引き回しのほどを」

「それは、・・・お疲れ様です」

「恐れ入ります、少佐。(ねぎら)いの言葉を頂戴しまして光栄です」


 言われてみれば、会議に呼ばれた他の部署の人間以外、ここには虎の種しかいないような気がする。

 種など印を見せてもらわないと分からないものだが、虎の種を多く輩出してきた一族に生まれ育った私は、そうと見て取った。

 身体能力が優れすぎている彼らは、悪気はないのだろうが普通の人にとって乱暴すぎるのだ。一緒にいるだけで覇気が凄い。

 たしかに虎の種の印を持つ人間は身勝手で傲慢だし連携なんて取れない人種だと、バイゲル家を振り返れば分かる。やればできるとか言われて、子供の頃からどんなひどい目に遭ったことか。

 私達のふざけたような会話が聞こえていたのか、他の席からもくすくすと笑いが零れた。


(道理で椅子まで引いてくれたと・・・。だけどこれ、ほとんどエスコートじゃないの?)


 わざとオーバーな口調で会話してみせたのか。そしてゆっくりと相手に合わせて行動することも実践しながら見せつける。虎の種でも、ちゃんと丁寧に人に接することができるのだと。


「やっぱり腰とか抱いちゃ駄目なんですか?」

「椅子なんて足一本で座れますよね?」

「お前らなぁ。その前にこちらの方々の前でそんな質問するな、恥ずかしい。よその部署だから苦笑ですませてくださってるが、うちに女性の上官がいたら鉄拳制裁でボコボコにされるぞ。ちゃんと失礼にならない距離感とか見てろって言っただろう。女性に二歩分の距離はちゃんと取れって」

「だってうち、男しかいない部署じゃないっすか。よそが羨ましすぎます」

「だからこういう合同会議の時間を設けてくださったんだろう。失礼にならない為にはまず近づきすぎない、筋肉アピールしない、そういったことから始めろ」


 なるほどと、それを見て椅子の引き方を改めて教わっている少尉や候補生達。

 彼らは平民出身なのだろう。女性慣れしていない彼らに、会話での間合いの取り方等のお手本を見せたのか。


(結婚してるんだ。そうだよね、当たり前か)


 思い出すのは、夕暮れの図書室。本に目を落としている、今よりも幼さの残る制服姿。貸し出し手続きの際に、ふと見せる笑み。

 国立サルートス上等学校の日々が、一瞬にして巻き戻ったかのように思い出される。

 決して目立つ人ではなかった。どちらかというと誰も気に留めないぐらいに埋没していた。清潔感はあってもおしゃれではなく、真面目でも不真面目でもなく、本を読みながらも時折は窓の外を眺めて微笑み、穏やかな時間を過ごしている人だった。

 女子生徒に人気な男子生徒はそれなりにいたけれど、彼に目をつける人はまずいなかっただろう。

 声をかけることもできないまま終わったけれど、同じ時間を同じ室内で共有している放課後のひとときが、・・・幸せだった。



― ◇ – ★ – ◇ ―



 私の少佐という地位は、もうそこで終わりというものでもあった。そこまで出世させてやったのだから、後はもう役に立ちそうな結婚相手を見つけろということだ。

 佐官以上の男を見繕って、結婚して家庭に入り、子供を産めという流れである。

 いいかげん、私も自宅での「そろそろ結婚しろ」という話題にうんざりしつつあった。

 

(ウェスギニー先輩。もう大尉になるんだ)


 たとえ若くして出世していたとしても、私の場合は「この若さで少佐にまでなっていた侯爵家令嬢」として売りつける為の地位でしかない。

 その点、彼は本物だった。

 ウェスギニー・ガイアロス・フェリルド。

 彼は自分の力だけで出世していく。

 あの後、さりげなくお喋り好きな人に聞いてみたら、ウェスギニー子爵家のことを教えてもらえた。よその事情に詳しい人はいるものだ。


『なんでもね、天涯孤独な身の上でカフェの給仕をしていた女性と結婚して、だから勘当されたって話よ。子爵家ではいずれ子爵夫人に相応しい貴族令嬢とのお見合いを考えていたみたいなんだけどね。その女性はどんなに(さかのぼ)っても貴族とかの血は入ってないみたいで、だからもう子供は樹にしかならないでしょ? それでもう次男が子爵家を継ぐってことになったらしいわ』

「・・・そんなの。貴族っていっても、今や樹ばかりじゃない。そうそう他の種なんて出ないのに」

「そりゃそうだろうけど、まだ貴族同士で結婚して樹の子が生まれるのは許せても、完全にその可能性を断たれるのは許せなかったんじゃない? それに兄は後妻とあまり折り合いがよくないらしいけど、弟はうまくやってるって話よ。色々とあったんじゃないのかしらね」


 言われて思い出したのは、放課後の図書室で夕日に照らされていた姿。

 思えば虎の種ならば、それなりに身体能力も優れていた筈だ。顔立ちだって悪くない。それなのに彼は常に目立たぬようにしていたように思う。

 青春時代、スポーツで皆の注目を浴びるでもなく、あの容姿を利用して女の子と遊び歩くでもなく、静かに過ごしていた彼は何を思っていたのか。


(あの頃、勇気を出して話しかけてみたら、私達は分かり合えたのかもしれない)


 家に居場所がない。そんな肩身の狭さは自分で噛み砕いて諦めるしかないけれど・・・。

 その寂しさを天涯孤独な女性と分け合って、彼は結婚を決めたのだろうか。その女性はどんな人だろうか。

 家から邪魔者のように追い出されても、それでも彼は後悔せずに彼女の手をひいて歩いていくのかもしれない。


(結婚を理由にしてるけど、それって、どう見ても邪魔な先妻の子を追い出しただけじゃないの? 後妻にしてみれば夫が亡くなっても尊重してくれる子供の方がいいもの。手を組んでしまえば兄なんて追い落とせるわよね)


 優秀でありながら廃嫡された悔しさを、彼は見返したいと思うこともなく受け入れるのか。

 もしも彼が恋に落ちたのが侯爵家の娘であったりしたならば、・・・きっと後妻とあまりうまくやれていない子であっても彼は爵位を継げただろうに。それが貴族社会だ。

 だけど過去はどうしようもできない。

 私と彼の人生は(まじ)わらなかった。


(あの時に勇気を出していれば・・・。ううん、私はあの頃、虎の種が出るかどうかで人生が変わるのだと、毎日のように言い聞かせられていた。恋愛なんて、・・・私には許されなかった)


 苦い思いを抱きながら、私はそんな感情を忘れることにした。

 たまに私を見つけて礼をとる彼に答礼することはあっても。

 それこそ混雑している食堂で、

「良かったら、・・・空いているからどうぞ」

と、彼に相席を勧めることはあっても。


「ありがとうございます、少佐。ですが尉官用の食堂においでだったのですね」

「友人がこっちにいるから。今日は時間が合わないみたいだけど」


 佐官用の食堂は、とても居心地が悪い。だから私は尉官用の食堂に来てばかりだった。

 ふと、自分の勘が合っているのか知りたくて、彼の種の印を尋ねれば虎だと言われる。

 やはりと、目を閉じた。


「そう。羨ましい。私は樹だから」

「普通はそうでしょう。うちも実家の家族、それに妻だって樹ですよ? いいですよね、樹って。虎なんて、脳みそまで筋肉なお前らは動くしか能がない奴らだって馬鹿にされてばかりじゃないですか。その点、樹はオールラウンダーです」

「それは虎だから言えるセリフだよ」

「はい。虎だから言えるんです。虎の種など、燃費の悪い武器にも劣る存在だと」


 卑屈(ひくつ)な私の意見を、彼は何でもないことのように一蹴する。

 きれいごとだ。だけど全く気負いがない彼の言葉に、心が軽くなった。私が年下でもきちんと敬語を使うよう心掛け、それでいて距離を置くこともなく普通に接してくれる彼は、その時にもいやみや皮肉を言わない。


(大抵は、その若さでその地位なんて・・・みたいな一言が来るのにね)


 人間を武器扱いしてどうするのかと思えば、彼の所属する部署ではそういう項目もあるのだと教えてくれた。

 武器ならばメンテナンスも簡単なのに人間はいろいろと大変なんですよと言ってのける彼に、そういえば彼は実戦部隊だと思い返す。

 彼にとっては自分達の身体能力ですら、数値化して判断するものなのか。いや、そうして結果を出していくのだろう。

 自分の力で切り拓く人生を選んだ彼は、子爵家の跡継ぎという配慮を排除して生きているのだ。

 妹の言葉を思い出す。


――― 別にね、虎の種を持ってたって、だからってどういうものでもないもの。私だって樹の種を持っていたら、ここまでみんなにちやほやされなかったと思うから、ラッキーだったってところね。


 どういうものでもないと言いながら、妹には持てる者の余裕があった。内心ではありふれた樹でしかない私を見下している。

 使用人だって、姉の私よりも侯爵家にとって価値のある妹の意向を優先するのだ。そこには祖父や父や兄の考え方が大きく影響していた。


(貴族の子女らしい言葉遣いをしなくても、彼は気にしないのね。ここは軍だから。・・・軍にいても、二人きりになればそれらしい礼儀作法を求める人もいるのに。そりゃ、彼の方が下位だけど)


 こういう虎がうちの一族にもいてくれたなら、私はもっと楽に息ができただろう。婚姻では普通に樹と結婚しておきながら、生まれてくる子には虎を期待するのか。

 どうせ彼はもう妻帯者だし、気のおけないお喋りを楽しんでもいいかもしれないと思い、私は尋ねる。


「奥さん、樹なんだ。どんな人? やっぱり多才なの?」

「え? うーん、才能・・・? 才能、才能・・・。そうですね、よく寝てます」

「え? 寝てるの?」

「ええ。うちの娘がまたぽーっとした子で、その子と一緒にぽーっとしていたらいつの間にかお昼寝していて、そして気づいたら夜になっていたと、そんな感じですね。だから休日になると、うちの食料は私が満杯にしています。買い出しに行くのを忘れてもいいように。才能は、・・・そうですね。私を脱力させてくれる天才ですよ。妻も娘も」

「そ、そうなんだ」


 先程の、何にでもなれる人(オールラウンダー)という言葉はどこからきたのか。本人も言っていて、あれ? といった顔になっている。

 そんな少し間が抜けたところも、彼は私をほっとさせてくれる。

 昼の休憩時間とあって、仕事用の言葉遣いよりも少しプライベート感を出してくれるところが居心地よかった。


(もしかして私を慰めてくれるつもりで言ってくれたのかしら。そうよね、佐官が尉官用の食堂に来ている時点で察するわよね。それに子爵家の人間が侯爵家の事情を知らない筈がないもの。ましてやうちは・・・)


 彼は分かっているのだろうか。虎である兄と妹に挟まれた、私の事情を。

 その同情すら、私は何も言えない。虎の種を持てなかった私はただの脱落者だ。

 だけど・・・。


(使用人を雇っていないのかしら。そうね、使用人がいない生活でも幸せなのね。ううん、それだからこそ幸せなのかもしれないわ)


 羨ましかった。何も彼にメリットをもたらさない妻でも愛されて大事にされていることが。

 子育てに忙しい妻の負担を軽減する為にも食事は全て外食ですませているという彼の言葉に、私はふと、彼の為にランチボックスを持たせて送り出す、・・・そんな夢を見た。



― ◇ – ★ – ◇ ―



 三兄妹でも、兄と妹は昔から見合いの話が尽きなかった。そして兄は王族の血を引く貴族令嬢と結婚して子供もいる。

 やはり貴族であれば、生まれてくる子には竜もしくは虎の種の印が欲しいからだ。

 国民全体の割合から考えて10人中8人もしくは9人が樹である以上、10人中2人か1人に、残りの竜、虎、魚、蝶のどれかが出る。尚、魚はあまり喜ばれない。変人が多いからだ。

 平民でも竜や虎、蝶を持っていたら貴族と結婚しやすくなる。蝶は美人が多く、妻として望まれやすい。生まれてくる娘も美人ならという思惑が働くのかもしれない。


「アンジェラディータとて、普通よりも子に虎が出やすかろう。だが、見合いするならばやはり姉より妹の方をと、そういう家ばかりだな」

「あなた。アンジェが可哀想ですわ。あの子はせめて好きな殿方と・・・」

「別に恋人なら職場でいい男を見繕(みつくろ)ってくればいい。その為にあそこまで出世させてあるのだ」


 そんな両親の会話を廊下で立ち聞きしてしまった私は、きゅっと奥歯を噛み締めて自室に戻った。

 職場で恋人を見つけろと言うのであれば、あんな出世などさせてくれない方がよかった。周囲はそれなりの年齢を重ねた男性ばかりだ。

 同じような世代がいるとしても、それは誰もが秋波を送る王侯貴族の竜や虎の種を持つ男性ばかりではないか。つまり、女性に不自由などしていないのだ。

 私のような貴族であってもつまらない樹をわざわざ口説かなくても、彼らはもっと美しい女性に囲まれている。

 何も軍で好みに合わない女性を恋人にしなくても、美しく装い、楽しませる会話術を身につけた恋人候補をつまみ食いし放題だ。我が家の兄とて独身時代には、週末毎に違う女性の腰を抱いて出かけていたように。

 そして平民出身でも順調に出世してきている竜や虎は、とっくに目をつけた貴族達が取りこんでいる。彼らは適当に浮名を流し、やがて自分の出世に役立ちそうな貴族と縁を結ぶのだろう。

 プライドが高いだけで平凡な樹の侯爵家令嬢など、そこまで価値はない。


(それは、・・・勿論、私を口説こうとしてくる人もいるけれど)


 最近は同じように貴族出身で出世してきた男性から、声を掛けられるようになった。恐らく私と同じ状況下にあるのだろう。

 そこにあるのは打算。せめて樹でもバイゲル侯爵家と縁を結んだ方がよいと、そう判断したのだ。

 人生などそんなものだ。

 それでも、自分よりも年上な彼らの穏やかさを好きになれたらよかっただろう。だけど彼らの根底にあるのは、やはり能力に見合わない出世による(いびつ)なコンプレックスばかりだった。


(私は、こういう人達と傷を舐め合い、卑屈になって生きなくちゃいけないのね)


 バイゲル侯爵家のハズレな娘として生きてきて、そしてそんな家のおこぼれを与えることを持参金代わりに嫁ぎ、そして子供に虎の種が出なければ軽蔑されるのか。

 いずれ兄や妹のおこぼれを、あさましく自分の子供の為にねだらなくてはならないのか。

 私の幸せはどこにあるのだろう。


――― なんでもね、天涯孤独な身の上でカフェの給仕をしていた女性と結婚して、だから勘当されたって話よ。子爵家ではいずれ子爵夫人に相応しい貴族令嬢とのお見合いを考えていたみたいなんだけどね。


 ウェスギニー・ガイアロス・フェリルド。自分の力だけで、中尉から大尉になろうとしている人。

 彼ならばきっと、結婚相手のおこぼれを期待など考えもしなかっただろう。


――― だから休日になると、うちのストックは私が満杯にしています。買い出しに行くのを忘れてもいいように。


 子爵家の長男でありながら勘当され、それでも彼は屈託(くったく)なく笑う。貴族としての礼儀正しさを忘れることなく誰にでも親切でありながら任務となれば非情さと苛烈さをもって結果を出す。

 虎の種の問題児ばかりを押しつけられて迷惑だとぼやく彼は、種の印なら魚がいいですねと言ってのけるのだ。魚の種の印を持つ者は好みがはっきりしているから、それさえ与えておけばコントロール可能だとかで。

 本気のぼやきに、つい笑ってしまった。

 うちの父や兄がああいった人だったなら、私も救われただろうに。

 聞いた話では、腹違いの弟は樹らしく、兄と違って凡才だとか。子爵そのものになれば出世もできるだろうが、ウェスギニー子爵は息子にその地位を譲ってはいない為、まだ子爵家の次男でしかない。


――― ウェスギニー子爵も大変よね。勘当した長男より、家に残した次男に出世してもらわなきゃいけないんだもの。


 結婚が決まった彼女は、そんなことを言っていた。

 令嬢目線で作成した独身貴族リストというものの存在を、私は彼女から教えてもらった。

 最初に作成した人は凄い。・・・そうとしか言えない具体的な内容だった。

 彼女はかなり高いお金を払って買ったそうだが、もう不要だからと、半額を払うことで譲ってもらえた。噂話だけであろうと、あそこまで色々な家の事情を調べてあるところに感心したが、恐らく我が家はそんなものを買おうとは思わないだろう。存在すら知らないかもしれない。


(ウェスギニー先輩も数年前でバツ印がついていた。だけどあの人は貴族社会からどう見られようとも気にしないんでしょうね)


 たとえ子爵家から勘当されていても、もしも私と結婚したなら即座に取り消されただろう。

 彼ならきっと子供に樹の種しか出なくても、気にせず愛してくれる。私に声をかけてくる人のように、私の後ろにあるバイゲル侯爵家の援助を期待などしない。

 できることならば・・・。

 彼の隣で寄り添い、彼の子供を一緒に抱いて、私も笑ってみたかった。

 ずっとあの人が好きだった。出世なんて関係なく、あの夕日に照らされていた少年時代から。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 軍関係者しか入れない軍事基地だが、時に一般開放される日がある。

 といっても、入れるのは軍に所属する者の関係者だけだ。つまり家族か、身内として連れてきてもらえる程度に親しい者だけ。

 一種のお祭りなので簡単な出店もあるし、色々な体験コーナーも設置される。

 

(逃げてきちゃった。怒ってるでしょうね、お父様。叔父様も)


 まさか見合いを企画されているとは思わず、しかもその相手があまりにも、・・・・・・そう、お世辞にもいい人とは言い難かった為、私はお手洗いに立つフリをして尉官の家族用ラウンジに逃げてきてしまった。

 あり得るだろうか。

 この見合い話を確実な婚約にさせる為、ほとんど初対面の、レフィロー侯爵家とエスタリオン伯爵家の縁戚にあるという私よりも8才程年上のその人は、本日の一夜を共にしようと(うなが)してきたのだ。

 それも誰にも気づかれないところで、要求してきた。

 まるで私から彼に惚れこんだように振る舞えと、具体的な指示まで。


(お父様の前ではいい人のように見せかけて、なんて人なの)


 録音装置など持ち歩いていなかったのが悔やまれる。

 だけど父に訴えたところで、「お前も実家を離れればその家の女主人になるのだ。いつまでもお嬢様気分でいるものではない。多少のことは我慢しろ」とでも言われそうだ。

 だからってあんな風に、

「私で手を打っておいた方がいいでしょう」

などと、馬鹿にされる覚えなどない。何故、あそこまで下品な目つきで値踏みされなくてはならないのか。

 どうせその顔と体しか価値はないでしょうと、彼は言った。


(あんな人と結婚するぐらいなら・・・。いいえ、どこにも逃げ場所なんてない)


 目の奥が熱い。

 惨めだった。よりによってバイゲル侯爵家に生まれたばかりに。

 私は普通の女性のように、誰でもいいから好きになった人と恋などできない。家格を考えねばならない時点で、自由などほとんどないのだ。

 そして家格に相応しい男性は、着飾って機嫌を取り結んでくる貴族令嬢に囲まれている。プライドを捨てることなどできない私は、誰にもこの手を伸ばせない。

 

(お笑いね。結局、私は惨めな結婚をするしかないんだわ)


 思い出すのは、夕焼けの光を浴びながら本に目を落としていた制服姿の少年。

 あの時、勇気を出していたら・・・。いいえ、私にそんな自由はなかった。私の心など、誰にも何の価値も認めてもらえない。

 だからと言って私からあんな男に身を捧げなくてはならないのか。

 その屈辱に、もう消えてしまいたかった。だけど行く場所なんてない。私はどこまでもバイゲル侯爵家のハズレな娘だった。

 ラウンジのソファに座りながら気持ち悪さに耐えていると、耳にその会話が飛び込んでくる。


「ママー。パパとルード、いない」

「あなたがパパのシャツを駄目にしちゃったから着替えに行ったんでしょ。もうっ、だからミニタオルを出したのに」

「パパがいー」


 子供の甲高い声と、母親らしき女性のやりとり。

 視線を向ければ、その女の子の鼻や目尻、ほっぺは赤くなっていて、泣いた後だとすぐ分かった。


「あの、よかったらどうぞ。空いてますから」

「ありがとうございます。どこに座ればいいか分からなかったので助かりました」


 微笑む母親は私と同じくらいの年だろうか。淡い紫色の髪が、とても優し気に笑う彼女に似合っていた。サーモンピンクの髪が男に()びているかのようだと言われる私と違って、上品な色で羨ましい。


(私の髪なんて、女を武器にしているお前にぴったりだ、なんて言われたこともあったわね。思い出すとムカつくけれど)


 私の外見は、男性に()(にじ)りたいという感情を抱かせるそうだ。

 淡い青の瞳も、私を従順な娘に見せる効果があるらしい。

 意味が分からない。何色でも、人は人だろうに。髪や瞳の色や顔立ちだけで値踏みされる為に生まれてきたわけじゃない。だけどその為にしか存在を認めてもらえない。


(少佐と呼ばれても、私はただの陳列された商品に過ぎない)


 人見知りをしているのか、母親に抱きついている子供はピンクのワンピースでおしゃれしていた。熟した玉蜀黍(とうもろこし)の粒を連想させる橙混じりの黄色い髪に、濃い緑の瞳。

 色合いは全く母親に似ていない。だけど顔立ちはよく似ていた。

 一般にも開放されている為、今日はとても混んでいる。円形のテーブルを馬蹄形のソファで囲むように設置してある休憩ラウンジのテーブルは、ほとんどが埋まっていた。

 一人しか座っていないテーブルに、それでも誰も相席を言い出さなかったのは、私の軍服が原因だろう。

 尉官用の休憩室に佐官が座っているとなれば、普通は誰だって遠慮する。

 彼女は階級章の見分けがつかず、似たような年頃で同性の私だから安心して座ったのだ。


「ご家族の働いているところを見に来られたんですね。どうでしたか?」

「はい。それでこの子が怯えちゃって泣き出したんです。それで夫のシャツを鼻水で駄目にしたものだから・・・」

「だって、こわいぃー」

「ああ、ほら、泣かないの。パパはいないのよ」

「じゃあ、パパがきたらなくの。パパのシャツ・・・」

「パパのシャツはあなたが鼻をかむ為にあるんじゃないのよ。パパ、フィルがシャツで鼻をかむのをやめさせる方法はないかって、本気で困ってたじゃない」

「だって、パパのシャツがいい」

「着替えてきたシャツをまた鼻水で駄目にされたら、今度はパパが泣くわよ」

「パパもいっしょになくのぉ」

「ほら、泣かない泣かない。パパはまだ来てないのよ。泣いたら、お気に入りのピンクのお洋服がぐちゃぐちゃよ」

「ふぇっ、・・・うっ」


 思い出したらまた怖くなったのか、ふぇっと目を潤ませた女の子は、玉蜀黍の黄熟色(メイズイエロー)の髪を二つに分けて、赤いリボンで結んでいる。

 小さい子供の理屈はよく分からないが、ぎゅっとしかめっつらになって泣くのを我慢している様子は可愛かった。母親はミニタオルでその顔をゴシゴシ拭いている。見かけのわりに乱暴だ。

 父親は着替えに行ったらしいが、戻ってきたらまた鼻水をつけられる運命なのか。


「お嬢さん、パパが大好きなのね」

「この子は怖がりで泣き虫なんです。だからいつも涙を拭くタオルを持ち歩いているんですけど、一度、パパのシャツで鼻をかんだらとってもすっきりしたらしくて、それからもうクセになっているようで・・・」

「大変ですね」


 私は父親に同情した。子供を抱き上げて涙を拭いてあげようとしたらシャツで鼻をかまれるのだ。

 それこそ上着に鼻水がつかないように、そーっと脱がなくてはならないだろう。いくら可愛い娘相手でも、大好きのキスじゃなく、大好きの鼻水。

 きっと情けなさそうな顔になるんだろうなと、つい笑い出しそうになった。


「お幾つですか?」

「4才です。周囲の子はもっと元気に遊んでいるんですけど、この子はとてもおとなしくて、気づくとえぐえぐ泣いているものだから、周囲は2才扱いしていますけど」

「ご結婚、早かったんですか?」

「はい。いい男を見つけたので、結婚に持ちこみました。おかげで今や可愛い子供達もいて、幸せです」

「そ、それは凄いですね」


 見た目は可愛らしく、放っておいても男性に好かれやすそうな人なのに、実は肉食魚(ピラニア)系なのか。自分から迫らなくても、普通に男の人は彼女みたいな人を自分こそが守ってあげたいと思うだろうに。

 

「あら、普通ですよ。いい男もいい女も売り切れ御免(ごめん)でしょう? あなたもそれだけ綺麗なんですもの。恋人との待ち合わせじゃないんですか? 軍はどうしても男の人が多いから、女の人は入れ食いって聞きました」

「・・・・・・えっと」


 入れ食いってなんだろう。

 自分はこの世界に長くいすぎて、一般人の言葉から遠ざかってしまったのかもしれないと、私は悩んだ。だけど、どうして恋愛話となると、誰もが一気に前のめりになるのか。

 そんな私の表情から察したのだろうか。


「ああ、入れ食いっていうのは、釣り糸を投げ入れたら次から次へと魚が食いつくことです。要は、女の人がちょっと声をかけるだけで、男の人なんてすぐのぼせあがって、わんさか釣り上げられるってことですよ」

「・・・そういう風紀の乱れは禁止されています」

「別に、お付き合いするのが時間外ならいいじゃないですか。あなた、清楚系で素敵だもの。そんな堅苦しい表情浮かべてないで、男性には気を持たせるような笑顔を見せればいいのに。その方がとっても可愛いわ。男なんて単純なの。あなたが笑顔を見せるだけで、毎日が告白タイムよ」

「・・・・・・」


 自分には理解できない世界だ。いや、彼女そのものが理解できない。

 任務中にへらへら笑っていたら、ここをどこだと思っていると怒鳴り声が飛んでくるだろう。

 ちょっと丸みを帯びた、実年齢よりも幼く見えるであろう顔立ち。可愛い顔をして、中身はかなり(したた)かな女だ。


「大体、こんな美人が一人で座っているのに誰も声をかけてこなかった時点で、あなたちょっと気を張り過ぎよ。普通なら男待ちをしてると思って、次から次へと男の人が回転してるところじゃない」

「男待ち・・・とは?」

「男の人が声をかけてくるのを待って、恋愛相手を物色してること」

「・・・・・・そういうつもりは全くなかったのだが」


 いささか声が固くなってしまったのは仕方ないだろう。

 いくら引き合わされた人が気に入らなかろうと、そんなみっともない真似はしない。ただ、一人になりたかっただけだ。

 さっきから言葉遣いも崩れていることに彼女は気づいているのだろうか。

 その夫とやらが妻の失礼に気づいたら、まさにとんでもないことになる。いや、分かってないからコレなのだろう。


「そうね。おかげで座れて助かったわ。だけどね、人には向きと不向きがあると思うの。あなた、軍服を着て固い口調で話していても、やっぱり清楚なお嬢様にしか見えないんだもの。カップの持ち方も優雅だわ。武器を持って戦うことなんて向いてないんじゃないかしら。そんな人が思いつめた顔で座っていたら、誰だっていい男を捕まえてここから逃げちゃえばいいのにって、あなたに勧めると思うの」

「・・・・・・」


 それができれば誰も苦労しない。

 

「あ、ごめんなさい。ちょっとこの子、見ててください。私、ちょっと飲み物買ってきます。フィル、ここにいてね」

「え? あ、ああ」


 飲み物や軽食は前払いで買ってくるようになっている。その慌てようは、もしかしたら誰か知人を見つけたのかもしれないと思えた。

 肝心の子供は返事もせずに、じーっと天井のライトを見上げている。

 もしかしたらライトの中で回転している反射鏡が気になるのか。むーっと、何か(うな)っていた。


「もーいーよ?」

「何がもういいの?」

「おにごっこ。おいかけるの」

「・・・は?」


 いきなりソファから滑り落ちるようにして床に立つと、「ママー」と、女の子は追いかけ始める。


「ちょっ、待ちなさいっ。こらっ」


 慌てて私は追いかけたが、そもそも彼女が行った方向と違う方向へ駆けだしている時点でどうしようもない。

 前しか見ていない女の子は、てけてけと脚の隙間を縫うように駆けていった。子供はそれでいいが、混雑している中、大人はそうもいかない。


「す、すみません。その子を捕まえてっ」

「ぅわっ。こら、危ないぞっ」

「何? きゃあっ」

「パパー。パパ、どこぉ」


 こんな生き物を置いていかれるぐらいなら、私が飲み物ぐらい買ってきてあげたものを。

 テーブルの下に駆けこんだり、人の鞄にぶつかったり、かと思えばいきなり方向転換したりする姿はもうパニックになったウサギかと言いたい。


「パパー、ママー」

「ママはそんなとこいないでしょっ。怪我しちゃうから、ほら、いらっしゃい」


 ちょこまかちょこまかと、あちこちのスカートの下を走り回る子供をどうにか確保した時、私は自分の姪をこんな混雑しているところで走り回らせた非常識な保護者といった視線を浴びていた。

 娘にしては大きすぎて、妹にしては小さすぎるというところだ。


「やー」

「こら、大人しく抱っこされていなさいっ。えーっと、フィルちゃん?」

「ウェスギニー・インドウェー・アレナフィル。4さいですっ」


 びしっと名乗られても・・・。え?

 私は自分が抱き上げたピンクの生き物をよく見た。()れた玉蜀黍(とうもろこし)の粒を思わせる橙色の髪を赤いリボンで結んでいる。その顔には濃い緑の瞳。

 顔立ちは全く似ていない。だけどその色合いは・・・。

 

「パ、パパのお名前は分かる?」

「パパはぁ、ウェスギニー・ガイアロー・フェリルー。フィルとルードたして20さいよりいっぱいっ」

「そう。20まで数えられるの。賢いのね、フィルちゃん」


 では、彼女がそうなのか。

 淡い紫の髪にオレンジの瞳をした彼女。上品な色合いに可愛らしい顔立ちをした、男性なら誰でも守ってあげたくなるような人。

 彼女を、彼は愛したのか。


(この子を返して、もう立ち去ろう)


 見ているのが辛くなるのは、自分と彼女の置かれた立場の違いだ。彼女は愛されていた。私は利用されていた。

 まだテーブルの所に戻ってきていない彼女を捜せば、誰かと立ち話をしていた。


「ママー」


 腕の中で暴れる子供を床に下ろせば、てくてくとピンクのワンピースを着た女の子は近寄っていく。

 子供がスカートに抱きついてきたことから、彼女は私の姿に気づき、娘が追いかけてきたのだと察したらしい。軽く手を振ってきたので、私も軽く手を挙げて、もうそこを去ろうとした。

 話し相手は男性だったが、私には気づいていなかったようだ。

 そんな私の耳に飛び込んできた会話は・・・。


「この子が、ウェスギニー中尉のお子さんですか。いや、大尉になられたそうですね。おめでとうございます」

「よく分からないけど、出世なのよね。おかげで嫉妬が心地よくて困っちゃうわ。ほら、私の為に全てを捨ててくれた人じゃない? そろそろ次の子も欲しいのよねーって、今日は牽制(けんせい)するつもりで来たの」

「別にもう子供がいるんだし、そこまでしなくても・・・」

「あら。だって、ルードにちょっかい出されるなんて冗談じゃないもの。それをあの人ってば分かってないんだから」


 ウェスギニー・ガイアロス・フェリルド。

 彼女は彼をルードと呼ぶのか。だけど、何を彼が分かっていないというのだろう。


(あんなにも愛されているくせに。それを、売り切れ御免だとかって、そんな気持ちで・・・!)


 さっきの会話を思い出し、彼の全てを汚されたような気がした。

 嫉妬が心地よい?

 爵位を継げる筈だった人を、勘当にまで追い込んでおいてそれを言うのか。

 どれだけのものを彼女の為に、彼は手放したと思っているのか。

 貴族でない彼女には分からないのか、彼が手放した価値を。

 出世? それこそ結婚相手が彼女でなければもっと彼は出世していた。


――― あなたも私で決めておいたらどうですか? 手っ取り早くいきましょう。今夜、・・・意味は分かりますよね?


 そんな汚らわしい言葉が思い出され、あの時の悪寒と共に私は身を震わせる。

 私は、あんな男と結婚を考えなくてはならないというのに。初対面から私を隷属させようとしてきた彼と結婚しても、この後の日々に幸せなどない。

 侯爵家に生まれ、それでも樹だというので期待外れとされた私より、どれ程多くのものを彼女は手にしているだろう。


――― そんな堅苦しい表情浮かべてないで、男性には気を持たせるような笑顔を見せればいいのに。その方がとっても可愛いわ。男なんて単純なの。


 そんな軽薄な女に、私は負けたのか。

 いいや、最初から彼に声をかけられずにいた時点で私は負けていた。


(許せない・・・。どうして、あの人を・・・!)


 遠い、見るだけの夕日に包まれた恋。忘れていた過去を思い出させた笑顔。

 その優しさが誰よりも強い彼は、私を慰めてくれた。


――― いいですよね、樹って。虎なんて、脳みそまで筋肉なお前らは動くしか能がない奴らだって馬鹿にされてばかりじゃないですか。


 その言葉にどれだけ救われただろう。彼だけが私をハズレだと思わないでくれた。口先だけの慰めではなく、樹の種の印を持つ女性と結婚した彼は、本気でそう思っていたのだ。

 

(あの人に愛されているくせに・・・!)


 遠く、カチャリと音がしたような気がした。慣れた動作が腰の安全ベルトを外したのだ。


「え? ・・・逃げろっ」


 自分が何をしたのか、覚えていない。


「きゃああああーっ」

「フィルーッ」

「誰かっ、・・・捕縛しろっ」


 だけど気づいた時、持っていたナイフで私は彼女を切りつけていて、手は赤い血に染まっていた。




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