4-X1
時に転機は訪れる。
人が望もうと望まざると。
まるで運命が定めたかのように、人生を大きく左右する出来事が。
母が死んだ時のことを彼女はあまり覚えていない。
よく分からないうちに、それが永劫の別れだと理解しないままに、とにかく泣き叫んだ記憶だけが微かに残るのみだった。
唯一の肉親を失った彼女に、母が奉公していた先のおじさんとおばさんは優しかった。
実の娘さんを早くに亡くしたせいもあったのか、まるで彼女を本当の娘のように可愛がってくれたのだ。
──この「まるで」が取り除かれたのは3年後のことだった。
彼女に物心がつき、他に頼れる親類もおらず独りぼっちなことが分かる、それくらいの年齢に達した時。
あの日、おじさんとおばさんは、おそるおそる彼女に尋ねたのだ。何かを失うことを怖がった顔で、
「おじさんとおばさんの子供にならないか?」と。
ふたりを好いていた彼女は二の句もなく同意し、親切なおじさんとおばさんは正式に養父母となった。
それに伴い、彼女の名前にも変化が生じる。
家名がついたのだ。
幼心には理解しきれなかったかもしれない。彼女の養父母は末席ながらもれっきとした貴族であり、ふたりの娘になるということは、家の名をも継ぐことを指していた。
この日より、彼女は身寄り無いただの少女から貴族の一門に名を置くこととなった。
ただのマリエットから。
貴族令嬢マリエット・ラノワールと名を改めて。
******
カッポカッポ。
街道を往く2頭立ての馬車にすれ違う人影はない。
時は朝、天気は晴れ。昨夜の雨がもたらした霧が理由なのか、この時間に他の行商や町間の行き来する者を見かけないのは珍しいことだった。それとも霧向こうには人の姿があるのだろうか。
「……」
何度目かのため息をつきながら、マリエット・ラノワールは霧の先に待ち受けるお屋敷の姿を幻視して暗澹たる気分になっていた。
10歳を迎えた貴族令嬢の登竜門、デビュタント。
今日この日、彼女は社交界デビューの儀式儀礼に参加する。大勢の貴族を前にして毅然と胸を張り、模範たる貴人の一員になる第一歩を踏み出す──と言えば大袈裟かもしれないが。
公衆を前に己が身の有り様を示す重要事なのは間違いではない。
「はぁ……」
「ソレほどに憂鬱ですかな、マリエット様」
「あ、ごめんなさいセバスチャン。憂鬱というか、うん……」
御者席から気遣う声に令嬢は弱い笑顔を返す。
己が胸のうちを上手く言葉に出来ず、幼少より面倒を見てくれた執事にも彼女は本音を語ることが難しい。
一番近い言葉を当てるなら「気後れ」なのだとマリエットは思っている。
本当に自分なんかがラノワール家の令嬢として挨拶してもいいのか、その座に相応しい血の一滴も受け継いでいないのに、自分などを引き取り育ててくれた義理の両親や老執事の期待に応えられるのか──そういった気持ちがない混ざった思いである。
(あたしなんかが貴族の一員に成れるのか、そもそもが成っていいものなのか)
生まれながらの貴族ならば迷うことのない、当たり前に享受しただろう「それ」が彼女の抱えた懊悩の根本。
彼女にはイメージが無かった。
どうなりたいか、どうあるべきか。
両親の期待に応えて立派でありたいと思う。貴族の令嬢だというなら貴族らしい有り方を心身に宿したいと思う。
だけど、どうすればいいのか。
到底大人の真似はできない、両親のような優しい包容力を持てるはずもない彼女には具体的な指針が、目指すべき心の柱が無かったのだ。
ガタンッ!!
大きな音を立てて馬車が止まったのは、彼女の憂鬱が重かったせいか。
馬車が傾いだのは彼女の心が定まらないせいか──そのような夢想をする。
「マリエット様、申し訳ございません」
「何かあったの?」
「馬車の車輪、片側が破損してございます」
ただの事故、マリエットの迷いを図ったようなタイミングではあったが。
******
よりによって、どうしてこの日に。
思わぬ事故に恐縮することしきりのセバスチャンを慰撫するも、彼女自身の心にも暗いものが過ぎる。悪い事が続けば原因が全て自分にあるような後ろ向き思考に囚われることがある、まさにそのような状況だったのだ。
「日頃の行いが悪いから、かな」
ネガティブな思考からの脱却を果たすには、外部刺激が有効とされる。
風向きを変える何か、水の流れを変える何か。
頭の中を漂白する何か。
パッカパッカパッカ。
馬の蹄が街道を叩く音、馬車の近付く音に気を取り直し、マリエットは道の真ん中に歩み出た。仮に事故を無視する輩ならそのまま轢かれる危険を度外視した行為だが、幸い通りがかった相手は暗黙のルールを守る精神の持ち主だった。
「車輪の破損ですか?」
「はい。申し訳ありませんがこの先の村までお嬢様をお連れいただけませんでしょうか?」
停車してくれた先方と早速交渉に入るセバスチャンを横に、マリエットは目を見張る。
御者は、執事が交渉している相手は意外にも少女、マリエットとあまり変わらないくらいの年齢にしか見えない少女だったからだ。
埃避けのフードを被った下に覗くオレンジの髪、整った顔立ちには品を感じる。マリエットの不躾な視線に気付かないのか、一切彼女を気にせず飄々とした態度で執事との交渉事をまとめた御者の少女は、
「ありがとうございます、本当に助かりました!」
「ああ、うん、そういうのいいから早く乗って」
この程度のトラブルは慌てるほどのことでもない、全く気にした様子もなくマリエットを受け入れてくれたのだった。
「……」
見知らぬ誰かの馬車に知人もなく、黙り込んだ相手方のメイドと二人きり。
本当ならもっと緊張するだろう状況にもかかわらず、マリエットは少し興奮を覚えていた。
事故を起こした家紋入りの馬車、貴族の令嬢なのが明らかな相手に対しても何ら特別な配慮をするでもなく、粗雑に扱うでもない。
どこまでも自然体、己の身の置き所を確信したような振る舞い。
自分に欠けている心のあり方を、同じ年頃の少女が備えているように見えた。貴族と御者、立ち位置は大きく異なるけれど、
(どうすれば、あんな風になれるんだろう?)
僅か20分の同道で見出せるものが無いのは残念だった。
結局ラノワール家の窮状を救った何者かは恩に着せず、余計な言葉も発せず、ただやるべき勤めを果たして颯爽と去っていく。
「もう少し、知りたかったな」
『果たしてあの子は誰だろう?』。
この時既にマリエットの心には、ひとつの火種が宿っていた。
******
お花を摘んできますと口実を設け、マリエットは会場に向かった。
修理を請け負ってくれた馬宿に話を聞き、あの親切な人が駆っていたのはチュートル男爵家の馬車なのは判明していた。
あの場所を通りがかった男爵家の人なら、きっと今日の社交界にも出席するに違いない、そう当たりをつけて飛び出したのだ。もう一度会ってみたい、何を話せるかもわからないけれど、とにかく会ってみたい。そんな感情の赴くままに動き出したのだ。
確たる当てのない、心の火種或いは衝動が背中を押した、子供らしい盲目的な行動だったと言える。
しかし、時に転機は訪れる。
人が望もうと望まざると。
それでも、望んだ者の方がずっと掴む機会が多いのだろう。
「お、お前は何者だ!?」
「これは失礼を。チュートル家のアルリーと申します。お見知りおきを」
偶然であろうと、必然であろうと。
彼女は一連の騒ぎを目の当たりにしたのだ。
******
知らず不安にさせていたのだろう、彼女が控え室に戻った時に出迎えたセバスチャンは大きく安堵の息を漏らす。
「マリエット様、なかなかお戻りにならず心配しましたぞ」
「ごめんなさい、セバスチャン。でも大丈夫!」
「……マリエット様?」
執事の目に宿っていた不安の影は不審の色に塗り替えられる。
老紳士の耳に届いたのは、いつもならざる力強い返事。デビュタントが近付くにつれ、日々不安に揺れていた彼女の声に響いた生気の篭った意思の存在。
はて、この僅かな時間に何があったのか──有能な執事とても答えは見つけられなかった。
「うん、あたし──ワタシはもう大丈夫だから!」
彼女には心の柱が無かった。
礼儀作法を習おうとも、修めようとも、何をどうすれば両親の期待の応えられる貴族の子供らしいのか、心の根っこたる部分、明確なビジョンが無かったからだ。
しかしデビュタントを前にして、彼女はひとつの天啓を得た。
目指すべき似姿を得た。
姿は違った、格好は違った、だけど燃えるようなオレンジの髪と凛々しきかんばせを見間違うはずもない。
(強く、雄々しく、正しさを曲げず、誰よりも格好いい、貴族令嬢の姿を見ることが出来たから……ッ!)
幼き彼女にとって、あれこそが貴族だった。貴族らしく見えた。
媚びず、退かず、信じる者を信じる。守るべきを守る。
あれこそが。
「セバスチャン」
「はい」
「アームロックって格好いいよね」
「はい……はい?」
かくしてマリエット・ラノワールは目標を定め、心に欠いた大黒柱を備え付け。
己に自信のない心持ちで学園に入学するはずだった少女は、たとえ格上の貴族相手でも毅然と言葉を交わせるよう自身を磨き上げ、憧憬の対象と再会した時に恥じぬ姿を見せられるべく進化を果たすこととなる。
──昔の人は言ったものである。
青は藍より出でて藍より青し、と。
ステータスオール7+αで入学してくるはずだったヒロインがオール12で入学してくる恐怖。
得意武器:手甲(無手技使い)。




