1
ある日暮れ、香坂直紀の安否が分からなくなった。彼の乗っていたスポーツカーは山道の急カーブで、向かいから走ってきたトラックに衝突されそうになり、ガードレールを突き破って、谷底へと落ちていった。
彼の乗る車は父親が運転していた。ふたりの遺体は回収もできない状況で、真相は一切、闇に葬られたのである。
直紀は、高校二年生の男子生徒で、彼は美術部に所属し、コンクールにも入選していて、画家としての将来が有望視されている生徒なのだった。
翌日、香坂直紀の通っていた白蓮院高校は、いつもより重苦しい雲の下にあった。それは今にも雨が降り出しそうな黒い雲で、地に覆いかぶさるように垂れ下がり、体育館は、真夏の、湿気を含んだ嫌な空気に包まれていた。
全校集会で、校長先生は直紀の事故のことを生徒に告げた。生徒たちはどよめいた。しかし、そのどよめきにも関わらず、直紀のことを知っている生徒は数少なかった。多くの生徒は、彼の不幸にわずかな好奇心を抱いただけであった。
そのなかに真実の涙を流す少女が混じっていた。
女子高校生、夕凪葵は、美術部とジャズ同好会に所属する一年生だった。彼女は、やさしげな眼差しをしていて、ショートカットの黒髪で、胸が大きめの、すらりとした色白の美少女だった。
(そんな、直紀君……)
香坂直紀が事故に巻き込まれたことを知り、雷に打たれたような衝撃を受けた。葵は香坂直紀の幼馴染で、ずっと好きだったのに、運命は彼女に優しくなかったのだ。
教室に帰ると、涙がこみ上げてきて、葵は親友の因幡紗江に励まされていた。
「ねえ、元気だしなよ。まだ死んだと決まったわけじゃないんだから。そりゃあ、すぐには難しいだろうけど……」
葵は紗江の必死の励ましの声をまともには聞いていられず、ただ、嗚咽するばかりであった。窓の外では、雨が降り出していた。
紗江は葵の様子が心配だった。どこかへ行ってしまう気がしたからだった。
それから一月が過ぎ、それまでと変わらぬ退屈な授業を受ける中で、葵は、少しずつ立ち直っていった。喉を通らなかったお弁当の玉子焼きも今では完食するようになっている。それでも周囲は、直紀の死を信じるようになり、彼女もそのことを認めざるを得なくなってきた。それはまさに、心にぽっかりと穴が空いたようで、時々、直紀の顔を思い出して、涙が込み上げてくることがあった。
(直紀君は、やっぱり、死んだんだ……)
ある日、紗江はバドミントン部の練習があったので、一緒には帰れず、葵はひとりで下校していた。
葵は少しずつ、心が安定してきていることも事実だったが、直紀のことを忘れてゆく気がして、悲しくもあった。
葵が、シャッターばかりの商店街を抜けて、通学路の十字路を右に曲がった時だった。
(あれ……?)
葵は首を傾げた。そこに見たことのない洋風な雑貨店が建っている。それはちょっとフランス風な小洒落た赤い洋館だった。いつの間にこんなものができたのだろう。ここは昨日まで確か、スポーツ用品店だったはずだ。
(不思議だな。ちょっと入ってみようかな)
葵は、直紀の喪失を埋め合わせる癒しをずっと求めていた。そうした気持ちでいたせいか、この雑貨屋に運命的なものを感じる。
葵がカランと音を立てて、扉の中に入ると、そこは棚が並び、玩具や雑貨が乱雑に積み上げられ、埃の臭いが漂い、いくつものランプが赤っぽく灯っている、夢のような店内だった。
うす汚れたランプが光り輝き、棚には機関車D51の模型、金色に塗られた電話機、白熊のぬいぐるみ、騎馬にのる兵隊や少女の人形などがぎっしりと並べられ、壁には本物の西洋の剣、高価な古時計がかけられ、台には、色鮮やかなお皿の数々が飾られている。
葵はぼんやりとしながら、その中をただ夢中で歩きまわった。
「何をお探しかな。お嬢さん」
しわがれた、それでいてひどく陽気な声がしたので、葵は驚いて、振り返った。
そこには、黒いローブを身にまとい、大きなつばの黒い三角帽子をかぶった白い髭の老人が立っていた。まるで魔法使いである。顔は皺だらけで体は痩せていて、どこかプードルを思わせる愛嬌が溢れている。
「いえ、あの、わたし、別に探しているものがあるわけじゃないんです」
「ほほう。それならば、なぜ、わしの店へ?」
「いえ、その……」
葵はただ面食らって、なんと答えてよいものか悩んだ。
「ただ、このお店の雰囲気に惹かれたんです。なんだか、とても、不思議な気持ちになって……」
「不思議な気持ちになった……。ふん。面白い答えじゃ。気に入った。まあ、そこのテーブル席にでも座りなさい。今、自慢の珈琲を入れてくるからの」
老人は上機嫌でそう言うと、鼻歌を歌いながら、店の奥へと入っていった。
葵は変てこな気持ちになって、老人の言ったテーブル席へ向った。雑貨の棚の裏側にスペースがあって、木造りのテーブルとふたつ椅子が用意されていた。そして、目の前の壁には、一枚の絵がかけられていた。
葵はその絵を見て、あっと声をあげた。
(あの時、直紀君が描いていた絵がどうして……)
半年前に美術室で直紀が夢中になってこの絵を描いているところを葵は覚えている。直紀の声が心の中で響く。
(葵。僕はこの絵に、自分の全てを描き出そうと思うんだ……)
その絵は、重苦しい雨雲の覆いかぶさった荒野の真ん中に小さな山があり、その山頂に西洋の城がそびえていて、その下に城下町が広がっているというものだった。
葵は時が経つのも忘れて、その絵に見入った。