後編
月魂には死んだ者たちが集まる。そこは、命ある者たちが最後にいくべき居場所である。そこは、皆が同じ一つの魂になるところ。一つになって、溶け合うところ。
子守唄を聞くように、何度も何度も聞かせられてきた言い伝えの場所。月魂。スズランが海の精霊ネーレーイスに導かれてやってきた場所は、けれど魂などというものは愚か、それまでたくさんの色の息吹きを感じさせてくれた生き物たちも、海藻という植物たちも、何もありません。まっさらなキャンパスのように無が広がるばかりの世界は無限が延々と続く寂しい場所のようにすら感じられました。
「ここが…月魂なの…?」
スズランはなにか重たいものが自分のお腹のなかに、ずどん。とのしかかってくるような重みに耐えながら言いました。
重々しいスズランとはうってかわって対照的な様子で軽やかにふわりと円を描きながら水中を舞うネーレーイスは、その見事に海と一体化する美貌の水の花を咲かせて言います。
「そう。ここが月魂」
「でも…ここにはなにもいないみたい」
スズランはまた顔をしょんぼりと俯かせてしまいます。せっかく月魂に来れたのに、そこはスズランが想像したよりもずっと寂しくて、殺風景で、なにもないのです。これでは会いたかったあの子にも会えません。
スズランは思わず目に涙をためてしまいました。月魂に来れば、あの子に、死んでしまったあの子に会えると思ったのです。
スズランは死んでしまったあの子、お友達のヒガンバナに会いたかったのです。
スズランの髪をキャラメルのようで美味しそうと笑ってくれた、火花のように眩しくて元気な笑顔が素敵だった、イチゴシロップのように鮮やかな赤髪をした、優しいスズランのお友達。けれど今はもう、陸の世界にはいないお友達。
(ここにくれば、またヒガンバナに会えると思ったのに…ここには、なんにもない)
月魂にくる道中の海の底の景色はとても賑やかで、鮮やかで、とても胸が踊るような世界が広がっていました。だからスズランはこんなに楽しそうな世界にヒガンバナがたどり着くことができたのなら、よかったと、安心したと、心から思っていたのです。けれど実際の月魂は伽藍堂のガラスの箱のように無色透明なばかりで、もしヒガンバナがここにいるのだとしたら、こんなに寂しい場所にいなくてはならないなんて、あんまりだとスズランは涙が流れてしまいました。
ネーレーイスの魔法で作られたシャボン玉のおかげで、スズランの涙が海に交ざることはありませんが、同時に誰もスズランが流した涙を掬いとってくれる人もいませんでした。スズランが悲しみで胸の奥がこわれてしまいそうになったその時です。
「ほら。顔をあげて。お嬢さんが会いたかったのは、見たかったのは、これでしょう?」
ネーレーイスは空っぽの海が広がる先を指差しながら言いました。
何もかもわかっているくせに、ネーレーイスが尚も自分に現実という理不尽な世界の光景を突きつけてくるような言葉を投げ掛けてくることに、スズランは悔しくて唇をきゅっとかみました。でも、スズランはこのまま下を向いてばかりいるのも嫌で、それこそ悔しい気持ちがふつふつとわいてくるような気がしたので、思い切りぐんと顔をあげてネーレーイスの指差す方を真っ直ぐ見ました。すると、先ほどまで透明な世界が広がるばかりだった海に、月魂に、ふわりと朧な光をやどした一匹の海月が、ふわふわと漂っていました。
その光は、色彩は、スズランが今までみたこともないほど淡く、柔らかく、今にも消えてしまいそうにもみえるほど仄かな灯を海中に灯しており、スズランは初めて目にした脆く儚い灯を一心にみつめました。
「あれが生きたものの魂。死して象を織り成すものの姿。最後に生き物が一つになる景色」
ネーレーイスの唱えた言葉を合図に、一匹しかいなかったはずの海月は、一匹、また一匹とどこからともなく姿を現し、各々が違う色を淡く灯しながら、月魂の地に丸く円を画くように身を寄せあいました。
赤。白。青。緑。黄。橙。桃。紫。色とりどりの灯のなかには黒や灰、それから茶や鉄錆色のような色も含まれておりますが、どれもが少しずつ違う光り方をしながら、異なる美しさを泡沫のように消え入りそうになりながらも、灯し続けております。
パレットに全部の絵の具を垂らしても足りないぐらいたくさんの色が集まる海月たちの光景に、スズランは息をのみこみ、圧巻されてしまいました。鮫にぶつかってしまいそうになったことなど大したことではなかったと思えるほど、本当に、息の仕方を忘れてしまいました。
すると、規則正しく水の道を進むように丸い円を画いて集まる海月たちの群れから、一匹。線香花火の火花をぱちぱちとさせたような赤色を帯びた海月が、スズランのそばへとやってきました。
スズランは、その火花のような海月を見た瞬間。わかりました。
(あ…ヒガンバナ…)
線香花火のようにみえるそれは、まるで彼岸に咲く曼殊沙華のように、凛と花びらを開いているようにもみえます。その花は、火花は、スズランのお友達の姿にとてもよく似ています。とても、美しく光っています。
スズランはそっとその海月に触れようと手を伸ばしましたが、シャボン玉の薄い水膜が障壁となって、それを叶えてはくれませんでした。それはまるで、二人のいるべき世界が別々の場所にあるのだと伝えているようにスズランには思えました。それでも、シャボン玉の壁越しから触れた赤い海月は、ほんのり、優しい温度をもっていたようにスズランは感じました。
赤い海月は暫くスズランの周りをふわふわと踊るように舞っていましたが、最後にゆらゆらと華麗に揺れる触手でふっとシャボン玉を撫でたあと、円を描く海月の仲間たちの方へと泳いでいきました。
たくさんの輝きが集まる方へと進んでいく赤い海月を見つめながら、スズランは流れた涙を手の平でごしごしと乱雑に拭うと、不格好な、けれどとても優しい笑顔を浮かべて言いました。
「ヒガンバナ、よかった。ひとりじゃなくて。ひとりぼっちで寂しそうじゃなくて、よかった。」
くしゃくしゃの笑顔を浮かべるスズランの側に、ふわり。ネーレーイスがいつの間にかやって来ていました。一体どうやって入ってきたのか、ネーレーイスはスズランの入っているシャボン玉のなかに、本当にスズランの隣にやって来ていたのです。
ネーレーイスは藍色の瞳に海月たちをとらえたまま、静かに話しはじめます。
「命あるものはどんなものでも、どんな大きさでも、どんなかたちでも、どんな色でも、最後はここに、魂が海月となって月魂に集まるの」
スズランは口を閉ざしたまま、こくりと一つ頷きます。間に口を挟んではいけないような気がしたからです。ネーレーイスの言葉は、それほど真摯で真面目な空気をまとっています。
「私たちの世界には暗い夜も光輝く月もないけれど、それでも、ここには、月魂にはずっと灯りを灯し続ける魂たちがいるの。たとえ、誰にもみえなくてもありつづける月のように」
ここではない別の世界には夜という暗い世界があり、そこには月という光輝く星があるのだと、スズランは本で読んだことがあります。だから、ネーレーイスの言うことがスズランにはちょっとだけ、本当に星の砂くらいちょっぴりだけど、わかるような気がしました。
「月は、魂は、見えなくてもどこかでずっとありつづけるんだね」
ネーレーイスの細くて繊細な手をとりながらスズランは言いました。ネーレーイスの手は冷たくて、それから、思ったよりも柔らかくて水のようでした。
ネーレーイスは伸ばされたスズランの小さな手を振り解くことなく、そっと包み込むように握ると言いました。
「そうね。そのとおり。どこかにありつづけるの」
「それから、皆一つになるんだね」
「そう。皆一つに、海の一部になるの」
「海月になって海を照らすの?」
「いいえ、海を照らすのではないの。ただ、海の月になるのよ」
ネーレーイスの言葉のとおり、月魂に集まった海月たちは大きな円を画いて、色彩豊かな一つの月になっていました。
海の月を、スズランはずっとずっと覚えていようと思います。
陸にあがってからも、ずっと、ずっと、淡い命の灯を忘れないように。